2011年12月21日

大乗仏教から小乗仏教へ=宗教破壊

ヴィパッサナーは、上座部仏教(テーラワーダ仏教)の瞑想法である。
端的に言えば、ヴィパッサナー瞑想は釈迦が悟りを開いた瞑想法である。
そして、釈迦は真理を説き、人間として正しい生き方を説いた。

だが、極論言えば、そんなものは全く意味がない。
真理を知識として知っても認識できる訳ではなく、
正しい生き方を心掛けても内面が変わる訳ではなく、
ストレスが溜まるだけである。

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また、八正道にしても、一番目の「正見」からして、
これはニュートラルな視点を獲得した人間にしか出来ない事である。
故に、教えを学んでも意味がなく、単なる道徳的なものに過ぎない。
キリスト教や他の宗教にしても同じ事である。
善人になる為の努力が如何に無駄かは、今の世の中を見ればよく分かる。

教えを学んで知識を吸収し、表面的に変わっても、
それは単なる仮面であり、「自己発見」から遠ざかる行為でもあるのだ。
釈迦が説いた教えを「上座部仏教」というが、
その大半は悟りを開いた釈迦の御託である。

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理論も必要なので無駄とは言えないが、
重要な事はヴィパッサナー瞑想の実践である。
それによって、釈迦が説いた真理を「認識」する事が仏教の目的なのだ。

上座部仏教の立場からすると、大乗経典は後世に勝手に創作されたもので、
正統な仏教ではないと批判されている。
逆に大乗仏教では、上座部仏教を蔑視して「小乗仏教」と呼ばれている。
どっちもどっちだが、大乗仏教が釈迦の直接的な教えではない事は確かだ。

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「小乗」とは小さな乗り物のことで、「大乗」は大きな乗り物を意味する。
つまり、小乗仏教は自分だけが悟りを開いて解脱するのに対して、
大乗仏教は一切衆生を救済する思想を持っている。
故に、小乗仏教は独善的で、大乗仏教は利他行を目的とし、
日本に伝わる仏教は全て大乗仏教である。

禅宗も大乗仏教だが、これだけは小乗仏教的である。
禅宗から派生した臨済宗や曹洞宗も同様である。
大乗仏教は釈迦の教えではないが、
釈迦の教えを解説したものも含まれていると思う。
その解釈の仕方によって宗教は枝分かれしていくのだが、
中には釈迦と同じく悟りを開いた仏陀の教えも含まれている。
また、幽界や神界などから得た啓示もあると思われる。

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ただ、禅宗系だけは体験主義に徹し、教義を持っていない。
いずれにしても、大乗仏教が「人類救済」の教えだとされている。
果たして、大乗仏教に人類を救うことが出来るのだろうか。
出来るというなら、その根拠は何だろうか。
また、小乗仏教には人類を救う力はないのだろうか……。

獣の見解では、どっちもどっちで、しかし、どちらも重視している。
だが、小乗仏教を軽視するなら大乗仏教は無意味である。
まず、大乗仏教で悟りを開いたという話を聞いた事がない。
悟りを開くというのは「真の自己発見」、即ち「自己救済」である。

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真の自己発見をすれば、他者が自己の投影であることが分かり、
「自他一体」の認識が生まれ、
そこに真の意味での「他者救済」の慈悲が芽生える。
他者救済というのは、他者にも解脱(真我覚醒)を導く事である。
即ち、自ら解脱していない段階で他者救済は出来ない。
その観点からすると、大乗仏教には人類を救済する力は存在しない。

しかし、そのように決めつけるのも程度の低い発想である。
発想というよりも、大乗仏教を否定する上座部仏教の人間は、
上座部仏教を蔑視する大乗仏教の人間と同じく、
何も分かっていないと言わざるを得ない。

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まず、大乗仏教と言っても様々な宗派があるが、禅宗系を除いて、
「読経」と「利他行」は共通する基本である。
では、何の為にお経を唱えるのだろうか。
世界平和の為に読経する人もいるだろうが、
多くの場合は先祖供養や家内安全など家庭の平安や幸福の為だろう。

それが悪いとは言わないが、商売繁盛や病気治癒などの
欲望を叶える為だという人も、決して少なくはない。
それのどこが「人類救済」なのだろうか……。

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読経によって、自分が救われたり、願いが叶ったりする事を「自己救済」
とするなら、それを人に伝える事が「他者救済」となって自分の功徳にもなり、
その輪を広げていく事が「人類救済」なのだろうか……。
これはどう考えても欲望の世界であり、人類滅亡を助長しているとさえ言える。
それはちょっと言い過ぎだが、人類救済の思想とは言い難く、
仏教本来の目的から外れている事は確かである。

『日月神示』には次のように示されている。

「自分よくしてくれと申しているが、それは神を小遣いに思うているのぞ」

「奇蹟を求めたり、我れ善しのお陰求めたり、
下級な動物のイレモノとなっているから、囚われているからだまされるのぢゃ」

「世界の平和を願い、隣人と喧嘩致す人民多いのう。
あべこべ御自分主義、神も閉口じゃ。何ゆえ己のみの神と致すのか。
そのこと気付かん人民いずれも神を小遣いに思うて居るに判らんか」


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では、読経にはどのような意味があるのだろうか。
日本のお経は、本来のサンスクリット語の原音とは全く異なる為、
言霊の力は期待できない。
だが、七田眞氏によると、どのようなお経でも唱え続ける事によって
右脳が開けて様々な奇跡が起きるという。

別にお経ではなくても、長文でも短文でも良くて、
何かを暗誦する事で同様の効果があるという。
もちろん、全く意味のない言葉でも良いのだが、
「ばかやろう」などのマイナス言語は逆効果となる。

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毎日読経していても変化を感じない人は、
面倒くさいと思いながら義務的にやっているからだろう。
また、読経の時に正座しなければならないという観念があるが、
正座の苦痛も集中力を妨げる要因となっている。
真向法の理論からすると、正座は骨格を歪ませる原因となる。

親鸞は「念仏を唱え続けていれば極楽浄土に往ける」と説いた。
更には、「四六時中、念仏を唱えなさい」と説いていた。
念仏を唱えれば極楽浄土に往けるという根拠は何だろうか。
南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏に帰依します」という意味である。

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つまり、阿弥陀仏は極楽浄土にいる仏なので、
念仏を唱えると極楽に往けるという思想である。
しかも、念仏さえ唱えていたら、どんな悪人でも罪が許されるという。
果たして、そんなウマい話があるのだろうか……。

念仏を唱え続ける目的は、雑念を消して無心になる事である。
つまり、アプローチが異なるだけで、読経と坐禅は同じ目的なのだ。
今風に言えば、脳波をシータ波にするという事である。
心の中で唱えても良いが、
声に出す事によって腹式呼吸の相乗効果も得られるという訳だ。

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だが、坐禅でも簡単にはシータ波にならないように、
読経でも簡単にはシータ波にはならないだろう。
しかし、アルファコイルの発明者である橋本健氏によれば、
アルファ波になるだけでも円滑現象が起こるという。
従って、読経を習慣にしている人は、していない人に比べて
幸福な人生を歩めるという理論が成り立つ。

楽な姿勢で、何も願わず、ただ唱えるだけが望ましい。
重要な事は、仏壇の前で一定時間の読経をする事よりも、
日常的に心の中で唱えてアルファ波状態で生活する事である。
そのような生活をしていると、
雑念が少なくなり、ネガティブな感情に支配されなくなる。

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潜在意識が浄化されていくので、極楽に往けるという事である。
ここで言う極楽とは、六道輪廻の天道(フォーカス27)を指す。
輪廻を解脱して5次元(涅槃)に入る為には、悟りを開く必要がある。
仏教の概念では、天道には神々が住んでいるが、
神々はまだ悟りを開いていない為に人間界に転生するという。

それはモンロー研究所の定義と同じなので、事実だと思って良いだろう。
そして、悟りを開いて輪廻を解脱すると、仏になるという。
ところが、後世の仏教では、幽界から脱却を「成仏」と呼ぶようになった。
六道の定義からすると、それは成仏ではなく、天道の神になるという事である。

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さて、坐禅の目的は、悟りを開いて輪廻を解脱し、
生きながら涅槃の境地に入る事である。
つまり、魂を5次元のレベルにする事である。
だが、シータ波になっただけでは悟りは開けない。
悟りとは「真の自己発見」、いわゆる真我に目覚める事だが、
一般的に言われる「真我覚醒」は、幽界から脱却したレベルである。

それはともかく、無想無念の坐禅では、
「今ココ」「私はある」という境地は体験できても、そこから先は難しい。
「真の自己発見」はシータ波になる事がスタート地点なので、
シータ波状態の境地で遊んでいるだけでは先に進まない。

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伝説では、禅宗の開祖である達磨大師は、
9年間坐禅を続けて手足が腐ったが、それでも悟れなかったという。
坐禅で悟りを開く人は、何十年も坐禅を続けて来たような人である。

読経にも同じ事が言える。
毎日何時間も大声で読経を続けていたら、いずれシータ波になるだろう。
そこから自己発見に繋げるのは難しいが、
親鸞の教えを検証すると、やはり読経は坐禅と同じ目的である。

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親鸞は、常に念仏を唱えて無心で生きる事を説いた。
ここで言う無心は、雑念や妄念を働かせない事だが、
シータ波に到達すれば「無我」の境地となる。
無我の境地とは、思考が停止して肉体意識が消滅し、霊的意識だけが残って
「今ココに私はある」という事だけが認識できる状態である。

無我の境地なのに「私はある」というのは矛盾しているようだが、
自我(左脳の働きというか顕在意識)が消滅し、
起きている時とは別の霊的な意識の「私」である。
それはまだ「個」としての自分の意識だが、
意識が拡大すると「無我=無限我」となり、宇宙即我の感覚が生まれる。

江戸前期の曹洞宗の僧曹・月舟宗胡が、
死ぬ間際にマルチョンの自画像を描き遺したのは興味深い。
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阿弥陀仏が「西方極楽浄土に存在する」というのは比喩であり、
本来は宇宙そのものを意味する名前である。
この宇宙即我の体験を「天人合一」と言うが、
それによって業想念のカルマが消滅する。
即ち、念仏を唱えていれば、どのような悪人でも救われるという事なのだ。

悪事を働くのは、業想念のカルマの結果であり、
結果の世界である人間界に生きている人間が悪い訳ではない。
犯罪者が犯罪を犯すのは、生まれる前から決定していた事なのだ。
人間界は映画のスクリーンのようなもので、
登場人物である人間は与えられた役を演じているに過ぎない。

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『日月神示』でも「人間は罪の子ではないぞ」と示されている通りだが、
人間には、反省する事によって、
そのカルマ(行為)の根源である業想念を浄化するという使命がある。
原因である潜在意識を浄化する為には、
顕在意識(自我)を消した状態で自己の内部にアクセスする必要がある。

内観のイメージとしては、雨雲を消す事によって太陽が姿を現すように、
潜在意識を浄化する事によって真我に目覚めるというものだが、
心の学校の説明では、部屋の電気を付けると一瞬で明るくなるように、
真我に目覚める事によって潜在意識が浄化されるという。
これはどちらが正しいというよりも、どちらも正しい。

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また、心の学校の説明は親鸞の教えと似ている。
異なる点は、心の学校が「真我」を対象としているのに対し、
親鸞は「阿弥陀仏」を対象としている事である。
前者は「内側の自力」であり、
後者は「外側の他力」でキリスト教の思想と通底する。

だが、実は両者は全く同じ事を説いているのだ。
外側は内側の投影であり、宇宙仏である「阿弥陀仏」とは、
人間の「真我」そのものだからである。
故に、日蓮の思想や題目も、究極的には親鸞と一致しているのだ。

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ヴィパッサナー瞑想は、釈迦によって体系化された自己発見法である。
読経は、釈迦や後世の仏陀が悟った真理の経典を繰り返し唱え、
アルファ波〜シータ波の変性意識状態で潜在意識に擦り込み、
波動的に真理を体得するという試みだろう。
両者の目的は同じだが、瞑想で悟りを開くには長い年月と根気が必要で、
万人向けではない。

しかし、読経なら誰にでも出来るという事で、
仏教の形態が変容していったようだ。
それで悟りは開けなくても、カルマを断ち切る事が出来る。
その思想はもともとインドのマントラにあったが、
現代人に簡単なのは、ホ・オポノポノや「洗心」を唱える事である。

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話が長くなったが、大乗仏教はそのようにして衆生済度に乗り出した。
また、大乗仏教の主張では、小乗仏教が自分の解脱を優先するのに対し、
大乗仏教は利他行を優先する。
これについても、獣の見解ではどっちもどっちである。

まず、釈迦は、悟りを開いていない弟子や人々にも「慈悲」を説いた。
慈悲の行為が「奉仕」であり、これは利他行以外の何ものでもない。
釈迦はヴィパッサナー瞑想を教えると同時に、利他行の大切さを説いた。
それは間違いないだろう。

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サイババも、「瞑想などの霊性修行よりも奉仕の方が大切だ」と説いている。
ババジは言葉では「奉仕」を説いていないが、自ら行動で示し、
それが真我の覚醒に繋がるという事を教えている。

だが、真我に目覚めなければ、本当の「慈悲」の心は持てない。
そう言い切る事は出来ないが、奉仕には「人の為」という思いがあるからだ。
「善行をした」という自己満足や、「いつか自分に返ってくる」
という欲望が少しでもある限り、それは真の利他行とは言えない。
福沢諭吉が言った通り「情けは人の為ならず」で、全ては「自分の為」なのだ。

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「究極の自己中心主義」について度々書いているが、
自分を中心とした奉仕なければ偽善である。
そして、他者は自分の側面の投影であり、
「自分以外の人間は存在しない」というバシャールの言葉通り、全ては自分の為なのだ。

肉体に閉じ込められた自我意識を「自分」だと錯覚している限り、
自他一体を認識する事は出来ない。
故に、真の自己発見なくして「真の慈悲」に目覚める事は難しく、
「真の奉仕」「利他行」の実践は無理だと思って良いと思う。

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晩年の親鸞は、阿弥陀仏の本願力について
「親鸞ただ一人を救う為だった」と語っている。
それは、「この世には自分以外は存在しない」という事を悟ったからだ。
「他力本願」とは、阿弥陀仏が衆生を救済する本願の働きを指すが、
それは「真我」の働き(慈悲)の事である。

故に、「自己究明」と「他者救済」はワンセットであり、
真我覚醒なくして慈悲の発露は有り得ないのだ。
もちろん、真我は常に人間に働きかけている為、
「真の自己発見」という悟りを得なくても、慈悲が湧き出てくる事もある。
それが「阿弥陀仏の本願力」であり、大乗仏教の根本思想なのだ。

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つまり、一切衆生を救いたいという想いが
「真我の働き=慈悲=阿弥陀仏の本願力」という事である。
よって、他力本願を否定する宗派は、
親鸞の教えの真意が分かっていないだけなのだ。

自力主義を説きながら、他者救済や奉仕活動をするのは大きな矛盾である。
相手にとっては、他力によって救済や奉仕をされる事になるからだ。
だが、実際には他力によって救われる事はない。
他力によって救われたように見えても、自分で自分を救っているのである。
実際に他者に救われたとしても、その他者は自分の投影なのだ。

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同様に、他者を救う事は出来ない。
何故なら、他者は存在しないからである。
他者を救ったように見えても、実際には自分で自分を救っているのだ。

だが、ややこしい話になるが、人間にとって自力も非実在の幻影である。
自力で何かをやったとしても、それは阿弥陀仏の本願力(他力)なのだ。
人間は生かされている存在であり、自力と思っているものは全て他力であり、
しかし、その他力は真の自己の自力であり、要は「自力=他力」という事だ。

この自力の本質も他力だが、それは本当の意味での「自力」なのだ。
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「良い事をしたら良い事が返ってくる」という因果律も、
肉体次元に囚われた錯覚に過ぎない。
本質論を語れば、全ては自分(宇宙)の中での出来事だからである。
結局、大乗仏教も小乗仏教も基本は同じスタンスだという事になるが、
大乗仏教の思想は「自分の解脱よりも利他行を優先する」というものである。

実際には、利己的な御利益を求めて信仰に入る人が多いようだが、
「自己究明」と「他者救済」がワンセットである事をよく理解して頂きたい。
換言すれば、「解脱」と「利他行」はワンセットであり、
解脱しなければ「真の利他行」は出来ないという事である。
大乗以前の仏教には「利他行」はなかったと言われているが、
的確に言えば、利他行という「概念」がなかったと言えるだろう。

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テーラワーダ仏教協会の創設者・鈴木一生氏は、その昔、
法華経の仏門に入って何十年も修行を積み、人々に教えを説いていたという。
もちろん、自らも心の浄化に努め、社会貢献活動にも熱心だったそうだ。
いわゆる善人で、社会的にも名僧として評価されていたらしい。

ある日、テーラワーダ仏教(小乗仏教)に出会ったが、
心の中で馬鹿にして相手にしなかったという。
ところが、何か気になるものがあり、ミャンマーやスリランカに長期滞在し、
毎日朝から晩までヴィパッサナー瞑想を行なったそうだ。

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やがて、今まで自分では気づかなかった慢心や怒りなどの醜い感情が見え、
自己嫌悪に堪えられなくなって発狂しそうになったという。
その深層意識が人間の本性で、「素」の状態と呼ばれている。
人間は死後、エンマの鏡によって仮面が剥がされ、
「素」の状態となり、自分に相応しい世界に行くという。

つまり、鈴木一生氏のような素晴らしい高僧でも、
ヴィパッサナー瞑想に出会わなければ、
死後は地獄・魔界に行く可能性があったという事だ。

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結論として、大乗仏教では人類を救う事は出来ないと言えるだろう。
しかし、小乗仏教(テーラワーダ仏教)は、
悟りを開いた僅かな人間しか救われないではないか……
もっと言えば、自分しか救う事が出来ないではないか……。
という反論があるかも知れないが、
自分を救えない大乗仏教に他者救済は不可能である。

また、自己発見は他者救済と一体である事を忘れてはならない。
人類が自己の側面の投影であるなら、自己救済は人類救済に直結している。
別の表現をすれば、人類は集合無意識で繋がっている為、
自分の想念の浄化は人類の集合無意識の浄化でもあるのだ。

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心の学校の佐藤氏は、
「一人が真我に目覚めれば、同時に世界の誰かが真我に目覚める」
と述べているが、『日月神示』にも次のように示されている。

「一人改心すれば千人助かるのぞ」

真我に目覚めた人間が一定の数に達すると、
百匹目の猿現象によって「人類の覚醒」が起こる可能性がある。
それが「人類救済」でなくて何であろうか。
聖者カルキによると、日本人の6万4000人が悟れば、
自動的に全人類が悟る事になるという。

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だが、私は大乗仏教を否定している訳ではない。
渡部勇王氏曰く、「法華経」は日本人の覚醒の為に書かれた書物だという。
「法華経」が「ヨハネの黙示録」に対応している事はよく知られているが、
実際に「虚空会」と「空中携挙」など類似の記述も多い。

だからと言って、「法華経」や「ヨハネの黙示録」の教えを理解したり、
題目を唱えたりしても、それが自己発見や人類救済に直結するとは思えない。
また、仏教の使命期間は世界的にも日本的にも既に終了しているという。
という事は、「法華経」は既に日本人を覚醒していなければならないが、
それが実現しているようには見えない。
「12年遅れている」という『日月神示』の予言に従えば、
これから現実化するのだろうか……。
posted by ZERO at 20:17| Comment(2) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Posted by at 2012年01月12日 19:14
「真の利他主義=真の利己主義」ですね。
Posted by 獣 at 2012年01月13日 05:53
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