内海康満氏は「よい想念も持たないほうがいい」と言っている。
よい想念も持たないほうがいい
悪い想念の話ばかりしたが、では、よい想念を持てばいいかというと、
そういうことではない。
よい想念も持たないほうがいいのである。
不思議に思うかも知れないが、こういうことだ。
たとえば、「戦争のない世の中になってほしい。平和になってほしい」
と強く思っている人がいる。
一見よい想念に思えるが、一方で、戦争や争い事を意識しているのである。
「戦争のない世の中になってほしい」という強い願いは、
「いまは平和ではない」という想いと、戦争や争いを憎む想念を
同時に持ってしまっているから、さらに強く出てくるものである。
その「平和ではない」という想いと、戦争や争いを憎む想念は
必ず現象化するのだ――戦争や争いとなって。
皮肉なことだが、平和を強く祈れば祈るほど、
戦争や争いを創ってしまうということである。
ただし、平和を願う人にもレベルがある。
私のよく識っている非常に意識の高い宗教家は、
戦争と平和という二元の世界を超えて、
高い次元から世界平和を祈念されていた。
それは「大調和意識体」というものであった。
そのような例もあるが、一般的な次元で戦争を憎み
平和を望む人の想念は、よい結果をもたらさないということである。
分銅などを載せたりする天秤を思い浮かべてほしい。
棒の真ん中に支点があって、棒の両側には皿が載っている。
理科の実験などで使ったことがあるはずだ。
どちらの皿にも何も載っていない状態がゼロである。
左の皿に10グラムの分銅を載せたら、左に傾いたままになってしまう。
右に10グラムの分銅を置くと、バランスがとれるだろう。
このようにして人間は、肉体的にも精神的にも
いつもバランスを保つようにして生きているのである。
右足に怪我をしたら、左足に重心をかけてバランスをとって歩く。
精神的ストレスが多いと、うつ症状などを出して精神のバランスを保つ。
喜びを大きく表現する人は、悲しみも大きく表現する。
人前で無理に明るく見せる人は、一人になると暗い。
おそらくそんな人があなたの周りにもいるだろう。
これもバランスをとっていることを表しているのだ。
感情的なものも同じで、たとえば左の皿に「大好きなもの」を載せると、
右の皿には必ずそれと同じ重さの「大嫌いなもの」を載せてしまうのである。
このように捉えると、よい想念を持つことが
悪い想念を生むというメカニズムを理解することができるはずだ。
左の皿によい想念を載せたら、
バランスを取るために右の皿にも同じ重さの想念を載せなければならない。
結局、よい想念であれ悪い想念であれ、
想念そのものを出さないほうがいいということである。
「人に対して感謝の念を抱くのも悪いことですか」
そんな質問を受けたこともある。
人に親切にしてもらって感謝の念を抱くということはあるだろう。
その場で発しただけで終われば問題はないが、
それをずっと持ち続けていると、感謝とは反対の想いも作ることになる。
親切にしてくれる人には感謝を、
親切にしてくれない人には嫌悪を抱くかも知れない。
そもそも、自分が映し出している人間は、親切な人であれ不親切な人であれ、
自分を中真の意識へと導くために存在しているのである。大事な存在なのだ。
とすれば、すべての人が感謝に値するということになる。
すべての人に感謝すべきだとしたら、
特定の人にだけ感謝の念を持つのはバランスが悪い。
こうして、もう一つの皿にまた何かを載せることになるのである。
人が内なる神の意識に到達できないのは、想念が魂を曇らせているからである。
人生で待ち受ける現象を深い理解に繋げることができないのも、
過去の想念が邪魔をしているからだ。
過去の想念が出てくるのは仕方ないが、それに囚われ、また新たな想念を出すと、
結局は想念の山を築くことになり、迷いの道から抜けられなくなるのである。
多くの人は、想念を発していても、それに力があることを識らない。
自分に関わる出来事も、世界の出来事も、
すべては想念が生み出したものであることを識らない。
それに気づくことができないために、自ら発したもので苦しみを味わい、
人生の意味も理解できないのである。
最終的には、良し悪しに関係なくすべての想念を捨て、
新たな想念を作らないようにするのが理想である。
魂を曇らせている想念がなくなったときに、黄金の光が輝き出す。
「平和になってほしい」という思いは「いま平和ではない」と認識している為に、
逆の出来事が起こるという事は、潜在意識の法則である。
その事は「汝は無限億万長者である」をお読み頂ければ、よく理解できると思う。
http://messiah666.seesaa.net/article/234100636.html
従って、そこら中に立てられている「世界人類が平和でありますように」
の碑を破壊するのが反キリストの使命である。
その事は、2009年2月か3月に携帯ブログでも書いた記憶がある。
「好き嫌い」はあってもいい。
先ほど「大好きなもの」と「大嫌いなもの」の話が出たので、
これについて少し述べておこう。
多くの人は、物事を無意識に「好き嫌い」という袋に投げ込んでいる。
日常生活の中で「これは好き」「これは嫌い」というようにより分けて、
自分の中にしまい込んでいるということだ。
他人に対してもそれをやっているはずだ。
これをずっとやっていくとどうなるかというと、今度は自分自身が
他人から見てどちらの袋に入っているかを気にし始めるのである。
そうなると、自分の好きな人に対しては、
気に入られるような態度や行動をしたりするようになり、
嫌いな人に対しては、逆の態度をとるようになる。
いずれにしても、相手本位で動くようになるということだ。
好きな相手に振り回されてボロボロになるのもこのパターンである。
相手が代わっても、本人が理解しない限りはいつまでも同じ事を繰り返す。
また、嫌な人から逃げても、
必ず似たような嫌いなタイプの人が登場して不自由な状態になる。
逃げようとしても必ず追いかけてくる。
決して逃げられない。
なぜこんなことになるかというと、自分の中真に気づかせるためである。
状況を作り上げるのはもちろん自分の本体だ。
勘違いしないで欲しいが、好き嫌いをなくせと言っているわけではない。
好き嫌いはあってもいいのだが、自分本位になっているか、
自分が中真になっているか、ということが問題なのである。
自分本位であれば、好き嫌いがあっても、
対象を同じように見ることができ、同じように振る舞えるはずだ。
好きだから、嫌いだからという理由で動かされることはない。
それは、「好き嫌い」から自由になっているということである。
自分が自由であるかどうかというのは非常に重要なポイントである。
なぜなら本当の自分、神なる意識はもともと自由自在だからである。
自由性がなくなると、我々は苦を感じる。
それは自由を求める魂の声でもある。
苦しみが生じているということは、
自分を不自由にする何かを持っているということである。
どちらにも傾かないということだ。
それがゼロの地点であり、中真なのである。
好き嫌いはあってもいい。
好き嫌いがあるからこそ、真ん中が見えてくる。
しかし、好き嫌いに囚われてはならないということである。
「大嫌い」をなくす方法とは
今の話に付け加えておくが、大嫌いな人がいて、
その人の存在によって自分が不自由な状態になっているとしたら、
その不自由な状態から自分を解放するために、
天秤のシステムを利用するのもいい方法である。
具体的に言うと、大好きな人に対する接し方や態度を、
好きでも嫌いでもない人に対する接し方や態度に近づけていくのである。
天秤皿の片方に載っている「大好き」の量を減らすということだ。
そうすると、天秤はバランスを取るために、
もう一つの皿に載っている「大嫌い」の量を自然と減らすのである。
つまり、「大好き」を「好き」にすると、「大嫌い」が「嫌い」程度になり、
「好き」を「ちょっと好き」にすると、
「嫌い」が「ちょっと嫌い」というふうになっていくということである。
こうして自分の思いが変わってくると、実際に現象も変わってくる。
想念は現象化するからだ。
また、「大嫌い」という想いの方を
皿の上から取ってしまうというダイレクトな方法もある。
つまり、想いを吐き出してしまうのである。
面と向かって「実はあなたのことが大嫌いでした。ごめんなさい。
でも、その想いを捨てます」と言ってもいいだろう。
もしくは、相手に対する自分の想いを紙に書きなぐってから燃やして、
スッキリさせるという方法もある。
「想い」とは「重い」に通じるものである。
それを吐き出して小さくすれば軽くなる。
自己を苦しめている現象も、小さくなっていくということである。
嫌い合っている者同士が互いに想いのたけをぶつけ合って、
スッキリして仲良くなってしまうことがあるが、
それはこういう理屈からなのだ。
もっとも、口げんかをしてさらに状況が悪化することがあるが、
それは互いに相手のせいにして想いを更に重い物にしてしまうからである。
さて、「よい想念も持たないほうがいい」という事だが、
それをいくら人に説いても無駄で、自分で意識しても無駄である。
想念は勝手に湧いてくるものだからだ。
想念を出さないようにする為にはどうすれば良いのか……。
最近発見した優良サイトに以下の記事があった。
http://www.geocities.co.jp/milkyway/4017/ikikata/v4/kanjyou.html
感情はリトマス試験紙
感情をコントロールすることは難しいです。
実際のところ沸いてくる感情をコントロールすることは不可能だと私は思います。
なぜなら、「感情は、観念を基準とした出来事に対する反応」だからです。
それは、ある基準に対し、正解なら+1、間違っていたら−1を加点する
コンピュータのプログラムのようなものです。
例えば「親からもらった身体に傷をつけてはいけない」
という観念を持っている人の子どもが、ピアスをしたら、
怒りや悲しみというネガティブ感情が湧いてくることでしょう。
まるでプログラムどおりに反応するコンピュータのように律儀に反応します。
きっちり−1点を加算します。+1とか0とかいうことはありません。
表面上は冷静を装っても心の奥では、しっかり−1点になっています。(笑)
何かを肯定しているときにはポジティブ感情として反応し、
否定しているときにはネガティブ感情として反応します。
ですから、感情は自分の意識が、今肯定しているか
否定しているかを示してくれるリトマス試験紙の酔うものです。
決してネガティブ感情が悪いわけではありません。
エリザベス・キューブラー・ロス博士は
自然な感情としての嫉妬があるから向上心があると言っています。
でもネガティブ感情は、楽しくないし、幸せではありません。
だって楽しいや嬉しいはポジティブ感情だし、
幸せとは肯定している時の心の状態ですから。
ですから、感情というリトマス試験紙をうまく使って、
観念への囚われをチェックして、不要なら手放し、
必要なら絶対視しないようしていけば、
どんどん安らいだ穏やかな心でいられることが多くなっています。
バシャールの話と全く同じだが、
ネオデジタル内観のプロセスにも似ている。
先入観や価値観をニュートラルにするのが内観
http://world888.seesaa.net/article/148551590.html
ネオデジタル内観を進めていくと、
感情をコントロールすることが出来るようになり、
必要最小限の想念しか出さないようになってくる。
「中心軸を自覚するとココロがなくなる」
という老師の教えとも通底する。
だからと言って、感情や思考がなくなる事はないが、
ネオデジタル思考が習慣になると感情が希薄になり、
左脳に偏った思考習慣がなくなっていく。
実際に獣は、3〜4年位前からそのようになっている。
その意識状態が、真の安寧であり、真の平和であり、
真の至福であり、真のポジティブなのだ。
まるで、サイボーグかアンドロイドのようで、
冷血なイメージを持つかも知れないが、断じてそうではない。
涅槃の境地とはそのようなものなのだ。
デジタル思考は合理的に物事を捉え、本質を浮き彫りにする
http://world888.seesaa.net/article/150692508.html
釈迦やサイババは「花を見て美しいと思うのも心の汚れとなる」と戒めた。
無色透明の心に感情の色が付くからである。
理屈では分かるが、流石にそこまで徹底すると、
感動も歓喜もない人生となってしまう。
花を見て美しいと思うのは構わないし、夕陽を見て感動しても構わない。
問題はそれに執着せず、一緒一緒の感情を冷静に味わって、
蓄積せずに手放して流していく事が大切なのだ。
だが、そのような難しい説明をしても意味がない。
ネオデジタル思考を習慣にすれば自然にそのようになり、
理屈抜きに実践こそが全てである。
好き嫌いを中和してニュートラルに導くのが、
ネオデジタル内観の「好き嫌いゲーム」である。
◆実践4 認識のスピードアップをはかる
http://world888.seesaa.net/article/170871263.html

