2012年02月04日

奇跡を起こす「老無太霊」の真言

真言はサンスクリット語のマントラで、
大日経などの密教経典に由来し、真実の言葉という意味で、
音が重要であることから翻訳せず音写を用られている。
要は、音が重要なので意味は知らなくて良いという事である。

だが、意味を知らないよりも知っていた方が良いのではないか……
と思うのが普通である。
普通のお経にしても、訳も分からずに唱えるよりも、
現代語で和訳されたものを読む方が良いのではないか。
先祖供養で読経しても、意味の分からないお経を聞いて、
霊が理解して成仏するとは思えない。
そもそも、お経を唱えている人間が意味を分かっていないのである。

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だが、霊は波動で理解すると説明する人もいる。
しかし、お経はサンスクリット語の音を漢文にしたものを
日本語読みで発音しているだけなので、
原音とはかなり違っていて言霊の力もなくなっている。

お経が説いているような内容を現代語で唱えるのが、
生長の家の聖経『甘露の法雨』である。
『日月神示』の第一仮訳も一応現代語だが、
「声に出して読め」と示されている。
だが、祝詞や真言は基本的に意味が分からない。
果たして、本当にそれで良いのだろうか。

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サイババも「マントラを唱える事で確実にカルマを解消できる」
と説いていたが、世界中の人々はサンスクリット語を知らないので、
マントラの意味を知る由もない。

マントラは「神を讃える言葉」であり、唱える事が重要だという。
祝詞も字義からして神を讃える言葉であり、
空間に遍満する神(電磁波=言霊波動)に共鳴する宇宙言語なのだろう。
だが、本当に意味が分かっていなくて良いのだろうか。

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七田眞氏によると、お経を暗誦する事によって右脳が開き、
様々な奇跡が起こるという。
そして、暗誦であれば、お経ではなくてもいいという。
その意味を踏まえて、普通のお経には言霊の力はないと考えられる。
だが、関英男氏によると、般若心経の波動は高いという。
その原因は、般若心経には「真言」が含まれているからだろう。

般若心経の核心は「色即是空」であり、量子力学が発見した真理である。
オコツトが言うように、「思考が悟りに導く」のが今の変革期だとすると、
やはり真言の意味は分かっていた方が良いのではないだろうか。
先日も、「ひふみ祝詞」の意味を紹介したが、
「ひふみ祝詞」を作った古代人は当然ながら意味を分かっていたはずだ。

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それは、真言の元であるマントラにしても同様であり、
言わずもがな真言も然りである。
だが、数年前、ありがとう仙人のメルマガを読んで、
「なるほど!」と思った記事があった。
思い出せるキーワードで検索すると出てきたので転載しておきたい左斜め下

言葉は人生を支配する

みなさん、こんにちは!

人生をより良く向上させる秘訣は、自我を沈静化することにあります。
なぜなら、苦しみのほとんどは自我によってもたらされるからです。
例をあげると、「私が…」、「私の…」、「私のもの…」
という「私」を本位とした思考によって、苦しみが起きるのです。
つまり、「私」という自我(エゴ)が活性化している人ほど、
人生を苦しみながら生きることになるのです。
反対に、自我が沈静化している人(無私な人)ほど、
人生を楽に生きることが出来るのです。

「自我」こそ苦しみの原因なのです。
最近、お尻が痛くありません?

「痔が…」(笑)

がはははは…っ!

あっ、冗談です。
自我を沈静化させるには、心を浄化することです。
なぜなら、心を浄化すれば、エネルギーの流れが良くなり、
ハートのセンターが開くからです。
ハートのセンターが開くと、人は何の努力なしに親切になります。
親切や奉仕などの愛(無私)の行為は、
自我が沈静化している時にのみ出来る行為です。

例えば、気分が良い時は、誰でも他人に親切になりますよね?
反対に、気分が良くない時、他人に親切なんか出来ませんよね?
つい意地悪をしてしまいます。
自分の気分が良くない時、
ハートが閉じてしまうため、自我が活性化するのです。

気分が良い時は、ハートが開いていますので、自我は沈静化します。
だからこそ、光明(悟り)を得たマスターらは、
浄化の必要性を強調しているのです。

がはははは…っ!

そして、心を浄化するための手段として、
最高の贈り物を宇宙は人間に与えてくれています。
その最高の贈り物とは「言葉」です。
この言葉を上手く活用すれば、心を浄化することが容易に出来るのです。
そこで、今日は「言葉」を使った浄化法を紹介します。

がはははは…っ!

自我とは(自分本位な)思考のことです。
もし、思考がなかったら、自我も存在しないのです。
思考がなかったら、どうやって自己本位になれるのでしょう?

思考がない?

「試行してみて!」(笑)

がはははは…っ!

そして、思考というのは言葉によって構成されています。
そうでしょ?
言葉の組み合わせが思考です。
さらに、言葉は「音」によって生み出されています。
つまり、言葉とは単なる音が現象化したものなのです。
音の組み合わせに「意味」を付けたとき初めて、言葉になるのです。

音の組み合わせに意味を付けなれば、それは言葉ではありません。
単なる音であり、単なる振動にすぎません。
実際、自分の知らない外国語を聞いても、
単なる音声を発しているようにしか聞こえませんよね?

思考の基本は言葉です。
そして、言葉の基本は「音」なのです。

「音を出す大人!」(笑)

がはははは…っ!

音なくして言葉はないのです。
だから、聖書の「初めに言葉があった」という文句は、
「初めに音(振動)があった」ということなのです。
しかし、その音に意味を付けると言葉になり、
思考となり、自我を養うことになります。
だから、意味のある言葉よりも意味のない言葉を用いれば、
深い浄化が起こるのです。

インドの覚者・OSHO曰く、

「音声に意味があってはならない。
ただの無意味の言葉であるべきだ。
何かが言い表されるや否や、
それはマインド(自我)を養うことになるからだ。
マインドは、言葉ではなく意味によって養われる。」

言葉に意味を付けた途端、思考が働きます。
その思考が、やがて自己本位な思考に発展します。
そうやって自我が養われるのです。

例えば、
「それは私がやったんだよ」「それは私の物だよ」「私は部長だ」
という「私」を主張する思考は、全て言葉によって構成されています。
「私」という思考こそ、自我なのです。
これが苦しみの原因なのです。

聖者・ラマナマハリシは言っています。

「私という思考こそが邪魔者なのである」

ははははっ!

もし、言葉ではなく単なる音声なら、
思考にはならず、従って、自我も養われないのです。
音に意味を付けなければ、自我は養われないのです。
だから、言葉というより「音」を使えば、自我は養われず、
その音声の響き(振動)によって、奥深くからの浄化が起こるのです。

OSHO曰く、

「言葉に意味があってはならない。
それは言葉というより音声であるべきだ」

つまり、意味のない言葉を発すると、深い浄化が起こるのです。
音を発するという点では、カラオケは浄化に有効な方法です。
カラオケが終わった後、ハイテンションになるのは、浄化したからですが、
カラオケは意味のある言葉を発するため、奥深い浄化までは起こりません。
それでもカラオケは浄化にかなり有効であることに間違いありません。
カラオケは音を活用した手軽な浄化法の1つです。

「カラオケ、何人からOK?」(笑)

がはははは…っ!

合気道の開祖・植芝先生は、「合気とは言霊の妙用である」と言って、
言霊(音)を重要視していました。
植芝先生は、『ス〜〜〜〜ウ〜〜〜〜ア〜〜』と言霊を発し、

「これからアオウエイの親音が発生し、
このアオウエイの親音こそ八力の現われである」

と説明してくれています。

このアオウエイの親音は、武術稽古で、
「ィエイ」「ィアー」などの気合として活用しています。
「ィエイ」「ィアー」などの気合(言霊)には、何の意味もありません。
ただの音声です。
しかし、ほとんどの人は、
「意味のない音を発して何の効果がある?」と疑問を抱きます。
が、本当は意味のない音を発した方が効果はあるのです。

OSHO曰く、

「どんな音にも、それに対応する感覚がある。
そして、ある音を発すると、その感覚に満たされた空間が現れる」

「ィエイ」、「ィアー」の響きを発すると、
その響きに対応して全身が洗われるのです。
OSHOは、「フー(hoo!)」
という意味のない言葉による技法を使っています。
また、「アー瞑想」のように、
「アー」の言葉を活用しているものもあります。

スーフィーの神秘・ジャバールは、
意味のない言葉を発することによって、光明(悟り)を得ました。
意味のない言葉を発することは、狂気じみた行為のように思えます。
しかし、一見、正気に見える人も、内側には多くの狂気を抱えています。
「狂気」とは、内側に蓄積した未消化の感情エネルギーです。
その狂気は、いつ爆発するか分りません。
爆発する準備は出来ています。
だから、ちょっとした刺激を与えられるだけで、狂気が現れるのです。

OSHO曰く、

「あなたがたは、いつ狂人になってもおかしくない。
なぜなら、狂人になる要素を内側に溜め込んで来たからだ」

例えば、誰かの「お前はダメな人間だ!」と侮辱されたとします。
すると、内側の狂気が反応して、カッーとなって怒り出します。

「反応」

これこそ、内側に狂気を抱えている証拠なのです。
もし、内側に狂気がなかったら、
「お前はダメな人間だ!」と言われても反応しません。
ただ、相手の言葉に「応答」するだけです。
「反応」と「応答」は似ていますが、全く違います。
「反応」は、相手の言葉に自動的に呼応することを言います。
「応答」は、相手の言葉を聞いた後に、自分の意見を答えることです。

先の例で言えば、「お前はダメな人間だ!」と言われたら、
それが正しければ、「そうだね」と答え、
間違っていれば、「いや、私はそう思わない」と答えるだけです。
内側に狂気がある人は、すぐに反応して感情的になります。
よく、飲み会で、酒を飲むと人格が変わる人がいますよね?

「酒は避けろ!」(笑)

わはははは…っ!

それは人格が変わったのでなく、酒で自制力が弱まったため、
単に抑圧していた内側の狂気が飛び出して来ただけなのです。
このように、どんな人も狂人になる要素を溜め込んでいるのです。
狂人になる要素を意図的に吐き出せば、正気な人になれるのです。
自分の中の狂気を吐き出した人が、普段、正気でいられるのです。
ホント、この世界はパラドックス(逆説的)ですね!

試しに、部屋を閉じて一人になって、
15分間、意味のない言葉を発してみて下さい。
その後、何とも言えない静けさを体験するでしょう!
その静けさこそ、深い浄化が起きた証しであり、
自我が沈静化した証しなのです。

OSHOは言っています。

「眼を閉じて、ナンセンスな音声(ジベリッシュ)を口に出して言いなさい。
15分間、そのジベリッシュのなかに、すっかり入っていきなさい。
エゴはいつも言葉でものを考える。
ジベリッシュは、その連続的な言語化というパターンを粉砕するのを助ける。
ジベリッシュは、浄化作用の高い技法だ。」

今日の話はこれで終わりです。


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お分かり頂けただろうか。
自分の中の狂気を吐き出した人が、普段、正気でいられる……
つまり、「真のポジティブ」を保てるという事である。
意味のない言葉……
その理論からすると、意味不明なお経も捨てたものではない。

真言や祝詞の場合は、意味が分からない上に、
言霊の力があるから優れていると言えるだろう。
意味のない言葉は唱えるのが良いからと言って、
本当に意味のない祝詞を唱える事を『日月神示』が教えるはずがない。
現代人に意味が分からないだけであり、
祝詞は「祓い」や「宇宙創造」の言語(音の配列)なのだ。

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その事についても説明が必要だと思うので、須藤アキオ著
『王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける』から引用したい。

日本語が生み出した言霊観に、仏教という論理的な哲学を
中国から導入して最初に言語化を試みたのが空海である。
ここで初めて言霊思想が言語化・論理化されるに至る。
仏教の言霊観というと訝しく思う人もいるだろうが、
そもそも空海の唱導した真言密教の「真言」とは、
インドでは「マントラ」といい、「言霊」と同じ概念なのである。
いや、空海の思想は厳密には仏教ではなく、
インドの言霊観を導入し、本場よりも緻密に再編成したものである。

そして、「真言は一切の法の母たり」(『秘密曼荼羅十住心論』)
として、他の仏教と差別化した。

「はじめに言葉があり、言葉は神とともにあった。
言葉は神であり、万物はこの言葉によってなった」

という『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」とも相通じる。

…………(中略)…………

さて、その言霊論の集大成ともいうべき『声字実相義』で、
地水火風空(大自然)が声の本体であり、音響はその活用であること、
そして、声は響きの本で、必ず物を表す時には名があり、
名は必ず体を招くことを強調している。
これはすでに言霊論である。

この事を出口王仁三郎は、

「本当の言霊学を用いたのは空海くらいなもの」
「真言宗は大本国の高天原から出でた教義の末である」

と言い切っている。
真言密教は、仏教をもとに日本古来の言霊観を論理化した教義だろう。


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さて、前回の記事「UFOによる空中携挙の検証」
http://kemono666.seesaa.net/article/250185093.html
の続きだが、竹内満朋を通して老無太霊が授けてくれた真言とは……。

まず、真言や祝詞だからと言って、安易に唱えてはならない。
我々には意味が分からないだけに、
どのような悪い意味が込められた呪文か分からないからだ。
例えば、安倍晴明の時代から「アイウエオ」と言われるようになったが、
これは順天宇宙律を掻き乱す言霊配列だという。
獣は、これは陰陽師の仕業だと睨んでいる。

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このように言うと多くの人が誤解すると思う。
世の中に善悪あれば、獣は善の立場で悪を攻撃する発言をする。
従って、人は獣は悪を否定する人間だと思うだろう。
世界ではユダヤ勢力、日本では秦氏勢力について、
今まで辛口な発言をしてきた。

悪を善だと思い込んでいる人は、
尚更、獣の意見に対して反感を持つはずである。
だが、獣は、悪を否定して善を説く者にも厳しい。
お分かり頂けるだろうか……。
「善が良い」とか「悪が良い」、或いは「悪は悪い」とか、
そのような善悪二元論的感性では生きていない。

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善には「善の御用」があり、悪には「悪の御用」があり、
両輪揃って大神の仕組(宇宙進化のシナリオ)が成就するのである。
獣が説いているのは、両者を統合した中心点の視点から観た話である。
そして、「善の御用」も「悪の御用」も必要な為、
本質的にはどちらも否定していない。
さもなくば、神の経綸が成就しないからである。
故に、ユダヤ財閥や秦氏も、ミロクの世の建設者(救世主)なのだ。

また、藤原氏や池田大作を罵倒するような事も書いてきたが、
その真意を理解できる人はいなかった。
王仁三郎は「国常立尊も天照大神も実は悪神である」と罵倒し、
ナオ派と対立構造を作ったが、それは正神と悪神の共同作業によって
「ミロクの世」が実現する事を理解しての上である。
それは、王仁三郎自身が正神でも悪神でもない視点から
全体像を把握していたからに他ならない。

だが、皆が一斉に中道になると、これもまた神の経綸が成就しない。
故に、中道(悪抱き参らせた真の善)を説きつつ、
時に、善と悪のそれぞれに厳しい発言をする事があるのだ。
それも「他者救済」だが、その本質は「自己救済」なのだ。

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獣的には、善と悪はあくまでも同等で中立だが、
変革の前段階として善の視点から悪を斬る事が多いだけである。
「斬る」というのも一表現であって、
中道に導く為の「覚醒の雷(厳霊)」のようなものだろうか。

何故なら、悪(体主霊従)の支配社会が崩壊に向かい、
善(霊主体従)が復活する時期だからである。
それが「善悪逆転」だが、だからと言って、善の時代になる訳ではない。

両者が統合して、中心(霊体一致=善悪統合)に還った視点から、
経綸上、善の立場から真理を伝えようとしているのである。
これは分かる人だけが分かれば良いのだが、
『日月神示』も同じスタンスで書かれている。

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要は、例えば、獣が「闇の権力」を敵視していると思うのは、
根本的に大間違いだという事である。
大神は自らの中で、善と悪を戦わせているという。
もちろん、それは片方を滅ぼす為ではなく全体の発展の為である。

通常、人間は善か悪かどちらかの視点からしか物事を観れない。
獣は大神(真我)の視点から、世界の善悪を自らの中に観て戦わせ、
その時々によって、どちらかの立場から片方に加勢するのである。
それは中和の為の攻撃(自己調整)だが、なかなか人には分からない。

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例えば、マイナスイオンは体に良くて、
プラスイオンは体に悪いと言われている。
定義上、「マイナスイオン=善」で「プラスイオン=悪」である。
だが、理想の比率は6:4で、その時にゼロ磁場が発生する。
それが中道であり、真の善なのである。

今はマイナスイオン(善)が少ない時代なので、
マイナスイオン(善)の立場からプラスイオン(悪)を攻撃する。
局所的に(誰かが)マイナスイオン(善)が強すぎれば、
それを中和するべく攻撃せざるを得なくなる。
イオンで喩えるのも微妙な表現になってしまったが、
獣は自分の世界の全体像を観て、
善悪のない中和・調和を図っているだけである。

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話が逸れてきたので元に戻そう。
さて、内海康満氏が師と仰ぐ竹内満朋とは何者か……。
内海氏も霊能者を否定しているが、竹内満朋氏は霊能者である。
矛盾しているように思うかも知れないが、
霊能者には本物と偽物があるという事である。

偽物とはインチキという意味ではなく、低級という意味である。
低級というのは能力が低いという意味ではなく、
人間性が完成していない為に
憑依霊の作用によって霊能力が発現している人を指す。

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世の中の霊能者の99.9%が幽界次元のだと思って丁度よい。
だが、イエスやサイババ、ヒマラヤの聖者たちは本物である。
竹内満朋氏も空間から物を取り出したり、
ガラスをすり抜けて物を取ったりという超能力を持ち、
内海氏はそれを目の前で目撃しているという。

だが、それは決して見せびらかす為ではなく、
ましてやショーでも何でもない。
そして、竹内満朋は老無太霊から「聖なる真言」を授かったという。
では、「老無太霊」とは一体何者なのか……。

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若山敏弘氏の著書『邪気よさらば』に、
老中(ローム)太霊という天道の神が登場するが、同一神だろう。
若山さんは、台湾にある道教の忠恕道院に訪れた際、
最高超能力者でありスピリチュアル・マスターである簡清華師から、
「老中太霊の真言」を授かったという。

それから数時間に及ぶ求道の祈りで、祭壇のロウソクの火が
1メートルも高々と燃え上がった瞬間を見たという。
そして、教わった真言を3回唱えると、
眉間に虹色をした光がブーンと回り出したそうだ。

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聖母が法華経の行をしていた時も、唱題するといつも
ロウソクの火が5センチ程伸びて激しくポッポポッポして、
線香がお辞儀をするように前に倒れてきていたという。
ロウソク瞑想をしていると、ロウソクの火はある程度、
意のままに伸びたり横に揺れたりするようになるが、
線香が直角に曲がるのは物理的に有り得ない不思議な現象である。

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前置きが長くなったが、内海氏が勧める真言を紹介しよう。

きくうむこうしんきりきぞん
炁空無光眞奇力存

これがその眞言である。
眞言というのは聖なるバイブレーションであり、言霊である。
その言葉の意味に何かを求めるのではなく、
言葉そのものの波動にこそ聖なる力が込められていると識るべきである。
そもそも言葉には力がある。
そして、言葉は生きている。
生きているがゆえに、物質世界にも影響を及ぼす。
物質はバイブレーションで成り立っているが、
言葉そのものもバイブレーションであることに気づけば、
言わんとすることが理解できるはずだ。
聖なる言葉は聖なる生き物であり、神聖なる生命そのものである。
すなわち、眞言は神そのものと言ってよい。
それゆえに、眞言を唱えるところに神の聖なる力、
神秘的な力が注がれるのである。
ここで言う神とは、大宇宙の中真の神である。
すなわち、この眞言を唱えることによって、
老無太霊を通して、大宇宙の中真の神の波動が魂に流れ込むのである。

眞言の力というのは、生きている聖なる力である。
「危険が迫ったときに眞言を唱えればいいんだな」
と、安易なことを考える人もいるかも知れないが、脳に記憶しただけでは、
いざという時に眞言は出てこないし、眞言の波動に包まれることもない。
とっさの時に、眞言が自然と口をついて出るようにするには、
日々信じて唱える必要がある。
毎日毎日、ことあるごとに眞言を唱えることによって、
眞言のバイブレーションが自分の中に入ってくる。
そして、魂が眞言のバイブレーションと一体化し、魂に刻まれる。
そうなって初めて、いざという時に眞言の威力が発揮されるのである。


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内海氏は、高速道路で大惨事になるような交通事故を起こしたが、
その瞬間に「老無太霊の真言」が口から飛び出し、
奇跡的にかすり傷一つ追わなかったという。

自叙伝にも書いたエピソードだが、獣も25歳の頃、
虚空蔵菩薩真言を四六時中唱え、夢の中でも唱えていた時期があった。
当時の獣は、物凄い悪業のカルマを背負っていた。

その2年前にも大怪我をし、普通なら頭蓋骨が割れる程の衝撃を受けたが、
奇跡的に表面的な怪我で済んだ。
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川に落とされる瞬間、「終わった!」と死を覚悟した。
そして川底の岩に頭を叩き付けられて死を自覚した。
反射的に立ち上がったが、そのまま意識を失って倒れたそうだ。
救急車で搬送されて額と首と耳の中を縫われ、
頭部の精密検査が必要と言われたが、
強引に退院して翌日には予定のハワイに行った(笑)
そして、メラルーカオイルのお陰で3日後にはほぼ完治していた。

これも「ヨハネの黙示録」を彷彿させる。

「この獣の頭の一つが傷つけられ、死んだと思われたが、
この致命的な傷も治ってしまった。
そこで全地は驚いてこの獣に服従した」


当時、この怪我と治癒報告を公表し、
全国の数万人のネットワーカーたちが獣に服従していた(笑)
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その後もプライベートで悪いカルマを蓄積し、
25歳の時にも総決算の時期が訪れた。
友人の車の助手席に乗っていて、信号無視で交差点に突入し、
トラックが助手席に突っ込んできた。
もちろん車は大破し、
乗っていた車は右側に数メートル動いた程の衝撃だった。

助手席のドアはグチャグチャに凹み、
当然ガラスも割れて獣はガラスの破片まみれになった。
そして、トラックが獣の顔に当たって止まった。
つまり、獣が顔でトラックを止めたのである(笑)

事故った瞬間、獣は死を覚悟した。
覚悟したというよりも、「死んだ!」と自覚した。
真言どころの話ではない(笑)
「死んだ!」という言葉しか頭に浮かばなかった。
実際に、死んでいてもおかしくない事故だったが、
打撲もかすり傷も全くなく無事だったのである。

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救われた事に心から感謝だが、このような奇跡は低い段階の守護なのだ。
高い段階の守護は、最初から事故が回避されて何事もないものだからだ。
だが、必ずしもそうとは言えない部分もある。
そもそも、高い段階と繋がる程の意識レベルで生活していなかった。
ただ、ビジネス発展の為に「虚空蔵菩薩真言」を唱え続けていた。

それによって、ビジネスでも奇跡的な事が起きたりしたが、
それも方便として「見せられた」と考えるべきであり、
そもそも金儲けの為に真言を唱えるのは間違っている。
だが、真言を唱える事でカルマが解消されていたとしか思えない。

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また、大事故は避けられないカルマの結果だったのだと思っている。
無くす事は出来ないが、大難が小難になり、小難が無難になったのだ。
無難で済んだが、その奇跡によって「気づき」を得る。
『日月神示』には「奇跡を見ても改心できない」と示されているが、
本来は死んでいてもおかしくない事故であるにも関わらず、
全くの無傷で済んだという体験は、深い内省のキッカケになった。
その為にも、事故という「型」は不可欠な通過儀礼だったのだろう。

だが、前もって大事故が起きる事が分かっていれば、
心の浄化に努めて事故そのものを起こさずに済んでいたはずである。
天変地異や戦争も、今の我々の想念次第だということだ。
ここのところを、よく理解して認識する事が重要である。

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その身魂磨きに於いて、祝詞や真言を唱える習慣は非常に重要である。
だが、獣は真言を唱える事を強要している訳ではない。
念仏を信じている人は念仏を唱えれば良いし、
題目を信じている人は題目を唱えれば良い。

獣の誕生日は親鸞の命日(11月28日)と同じで、
記事でも親鸞の教えをよく解説しているが、
別に親鸞を尊敬している訳でもなく、念仏も軽視している。
ただ、獣の家系は天台宗なので「朝題目夕念仏」なので、
朝に題目10回、夕に念仏10回を唱えているだけである。

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獣は各種祝詞と真言をメインとして唱えているが、
日常生活の中でも心の中で唱え続けている。
宗教に囚われていない人は、
是非とも祝詞や真言を暗誦してみてもらいたいと思う。
それが嫌なら、ミニロゴストロンを持つべきである(笑)
posted by ZERO at 17:38| Comment(0) | 瞑想と祝詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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