2012年02月12日

汝、不動明王になれ!(不動明王真言)

不動明王の梵名は「アチャラ・ナータ」で、
「不動の守護者」を意味する。
獣の誕生日は不動明王の縁日(28日)だが、
何かと不動明王と縁が深く、昔から不動明王が好きだった。

また、徳川家康が守護神として首から掛けていた
不動明王の絵の御札を持っている。
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不動明王は見た通り「厳霊」であり、
「国常立尊=ルシファー」と言って良いが、様々な解釈がある。

釈迦が修業の末、「悟りを開くまではこの場を立たず」
と決心して菩提樹の下に座した時、
世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せた。
その時、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、
魔王たちを降伏したという。
不動明王は、その際の釈迦の内証を表現した姿だという。

ここで言う魔王と不動明王は、釈迦の心の働きの擬人化である。

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日蓮の曼荼羅に書かれている不動明王は、
「生死即涅槃」を表しているという。

生死即涅槃とは聞き慣れない言葉だが、Wikipediaによると、
迷界にいる衆生から見ると、生死(生死=迷い)と涅槃には隔たりがあるが、
それは煩悩に執着して迷っているからそのように思うだけで、
仏の智慧の眼から見れば、物質世界は不生不滅であり不増不減である。
したがって、衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、
また反対に涅槃を求める必要もないという。
言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。
煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、
どちらも相即して対として成り立っている。

それと不動明王(不動の守護者)がどのような関係があるのか不明だ。

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また、密教の根本尊である大日如来の化身、或いはその内証
(内心の決意)を表現したものだという説もある。
大日如来は阿弥陀仏と同一仏であり、宇宙の根源仏である。
不動明王は「諸仏の主」とも呼ばれているので話は一致する。

また、不動明王は『仁王経』の本尊「五大明王」の最高尊で、
そのルーツはヒンドゥー教の破壊神「シヴァ」であり、
大日如来(ブラフマー)と一体である事とも符合する。

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また、不動明王は人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないように
烈火で焼き尽くす炎の世界に住んでいるという説もある。
忿怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ、
外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものとも言われる。

要は厳霊であり、「不動明王=シヴァ=ルシファー=国常立尊」
と定義しても間違いではないだろう。
更に言えば、閻魔大王や地蔵菩薩とも繋がってくる。

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アリオンによると、サナト・クマーラの体は強力なオーラによって、
炎にしか見えないそうだが、炎のオーラは不動明王を連想させる。
サナト・クマーラは金星から飛来した魔王尊(ルシファーの化身)で、
不動明王の正体はサナト・クマーラではないかとも考えられる。

魔王「イエス・キリスト」と不動明王の再臨の謎
http://ssg2.seesaa.net/article/151566811.html

だが、不動明王の姿は人間の空想で、逸話も実話ではなく、
不動明王の原点はあくまでもアチャラ・ナータ(不動の守護者)である。
不動とは「動かない」という意味ではなく、
「揺るぎない」という意味合いだそうだが、
「揺るぎない守護者」とは何者なのか。

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人類共通の揺るぎない守護者は、
ガイア意識の厳霊である国常立尊(ルシファー)である。
逸話では、釈迦の悟りを守護していたのはアナンタだとされている。
アナンタは7つ頭の蛇で「ルシファー」という事になる。

だが、前述の釈迦の逸話のように、
不動明王は悪心を浄化する「真我」と捉える事もできる。
故に、不動明王は大日如来(ブラフマン=アートマン)であり、
「真我」という事が出来る。

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だが、釈迦はまだ悟りを開く前だった事を考えると、
直接的な真我である「ハイヤーセルフ」という事になるだろう。
いずれにしても、炎のオーラを発して憤怒の表情をした、
不動明王という名前の仏が何処かに居ると考えるのは迷信である。
不動明王(揺るぎない守護者)の正体は、
ハイヤーセルフと考えるのがストレートであろう。

しかし、いつまでもハイヤーセルフの直接的な守護を
受けているようでは人間失格である。
自らの魂を神(5次元)のレベルに向上させ、現世の自己の魂を
「揺るぎない守護神」とする事が人間の務めだからだ。
つまり、「自分の魂を不動明王にする」という事である。

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知花敏彦氏は、『釈迦とイエス 宇宙法則を語る』
の中で次のように教えている。

不動明王になるには

私達が不動心になるということは、不動明王になるということです。
日本人は大変、不動明王が好きです。
人間は、善悪の心で揺れ動いています。
悪の心というものは、人間が創り出したもので、本来は存在しないものであす。
神というのは絶対善そのものなのです。
人間は、本心と偽心があると思っていますが、人間には本心があるのみなのです。
偽我という自分が勝手に創り出した個人意識と、
本当の我である真我が一つになると、偽心があるはずがないのです。
人間は善悪の木の実を食べています。
善い心もあって、悪い心もあると考えているからです。

「心を一つにしなさい」ということは、悪い心をなくして、
善い心だけにして、一心集中、絶対善の心で生きるということです。
そうすると不動心となり、これが本心、良心と言っているものなのです。
善なる心のみ、本心のみが本来あるのであって、
悪いことをすると良心が咎めるのです。
悪い心があると思っている人は、時計の振り子のように善悪に心が振れます。
憎しみ、怒り、嫉妬のような悪い心を持ってはいけないのです。

不動心は不動明王のことです。
闇がない光一元の状態を、明王と言い、
それが不動不変の状態にあることを意味します。
悪いことをしている時は闇です。
人間の心は善悪に揺れますから、晴れたり、曇ったりしています。
太陽は曇ったことがないのです。
心に本来曇りはないのです。
これを清き心と言います。
清き心と言い、「心清き者は幸なれ」。
その人は不動心であり、光明であるからです。
人の悪口を言う人の心は曇っています。
心のスモッグがかかっていますから、明るくないのです。
スモッグを創る、創らないは、自分の心次第です。

一心集中、絶対善の心にすることです。
これが日常生活に必要なことです。
善なる心だけにしなさいという意味なのです。
どんな迫害を受けても、罵られても、心を平穏にして、
憎んでも、謗ってもならない、怒ってもならない。
怒り狂っている時、みなさんの心は曇っています。
誰かに命令されてやっているのではない。
悪しき心で、大欠損をして、平気でいるのです。
心よりもお金を大切にしているから、
お金のために心を売り飛ばすことが多いのです。
心はお金で買えないものです。

お金を一万円貸して、その人が返さないと、怒り狂う人がいます。
私は人にお金を騙されても、怒ることはしません。
馬鹿だと言われましたが、お金で怒る人は不動明王になれないのです。
人を憎んでいる時、嫌な気持ちのはずです。
自分の心が曇りますから損です。
不動心、絶対善の心でいたいものです。
お寺にある、剣を持ち、怒りの炎を燃やす不動明王の姿ではないはずです。
本来は仏の姿で、怒りの姿に造り間違えているのです。
愛光が燦然と発する姿です。顔に現れているのは心です。
心の状態を映し出すのが顔。怒りは怖い顔です。
嬉しい、楽しい時、ニコニコと仏の顔となります。


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『「心を一つにしなさい」ということは、悪い心をなくして、
善い心だけにして、一心集中、絶対善の心で生きるということです』


という説明は少し誤解を招くと思うので、順番を入れ替えて載せておく。

『「悪い心をなくして、善い心だけにしなさい」というのは、
心を一つにして一心集中、絶対善の心で生きるということです』


善悪の心で揺れ動かない絶対善(善一元)の不動心……
まさに中真感覚の事である。
その視点で善悪を統合して悪を浄化するという事なのだ。
『日月神示』は「高い段階から見れば善も悪もない」
「善悪なき世となる」と説いているが、次のように示している。

「神の世にするのざぞ。善一筋にするのざぞ」

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引き続き、知花氏の話を紹介しよう。

心清き者は幸いなり

心が安らいでいる時は、自ずと緊張感がとけて、肉体がリラックスします。
心が緊張していると、肉体はリラックスしません。
悪の心がない状態になると、肉体はリラックスするのです。
精神統一はリラックス状態で、平安の心です。
そのためには、人に何を言われても平気でなければならない。
外なるものの影響を受けないで、常に清い心、
安らぐ心でいられることが不動心です。
不動心なら心の修行が終わった状態です。

心がいくつあるかを知るべきです。
心がいくつあるべきかを知るべきです。
み心、真心しかありません。
これが神の心で、実在の心なのです。
偽我は、偽りの心となり、上辺の心です。
これは実在していません。
あなたが、個人意識で、勝手に創り出したものに過ぎません。
肉を己として生きる限り、偽心です。
心を一つにすると悪の心は生まれてこないのです。
心のことを心霊(または神霊)と言います。
大霊は寛大な心、神の心です。
心は光で、闇ではありません。
心の光を霊光と言います。
これを曇らしてはいけません。

イエスが「心清き者よ幸なり、その者は神の国を見るであろう」
と言われているのは、この意味です。
善悪の心に、揺れ動いている所に、神が映るでしょうか。
波打っている水面には、お月様はきれいに映りません。
鏡のように揺れ動かないものに神は映るのです。
今のあなた方の心では、とうてい神は映らないのです。
神を見るためには、平坦な心でなければなりません。
これを静寂な心と言います。


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外なるものの影響を受けないで、
常に清い心、安らぐ心でいられることが不動心……。
それは、中真感覚(ニュートラル思考)を養った上で、
感情に支配されないデジタル思考を体得する事である。
ネオデジタル内観は、心を不動明王にするメソッドなのだ。

やすらぎと穏やかさに満たされた空間……。
安定がそこにあり、よろこびが感じられる時間……。
そうした時間をあなたは得たいと思うでしょうか。
何事が起きても冷静さを失わない平常心と中道の心……。
しかも迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……。
そうしたさまざまなものを身につけたいと思うでしょうか。


自己発見の真の意味を問う
http://world888.seesaa.net/article/144945270.html
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「一切に向って涙せよ。懺悔せよ。
一切を受け入れ、一切を感謝せよ。
一切が自分であるぞ。一切が喜びであるぞ」

(日月神示)

あらゆる出来事に反省と感謝をし、過去を全肯定して
根本的改心を実現するのがネオデジタル内観である。
一切が自分で、一切が喜びというのは、真我に目覚めた結果である。

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ラスト、知花氏の話を転載しておきたい。

誰でも不動明王になれる

みなさんは、善悪に支配されていて、絶対善になっていないのです。
神は中心です。
その中心から振り子があって、善と悪とがあると思い込んでいます。
本心、中心は動かないのです。本心のことを中心といいます。
中心は揺れることはありません。中心は狂いません。
人間の自我の心で見ると、振り子のように揺れますが、
神の心である中心から見ると、絶対に動きません。不動心です。
不動心になると、不動明王になるのは当たり前です。
不動明王ということは、光一元、曇ることがない状態です。

太陽は全く曇りません。
本心、良心は曇ったことがないのです。
あなたがスモッグを造っているのです。
あなたは太陽を見ないで、曇った部分を見るから曇っているのです。
この世も同じで、太陽は燦然と、曇りの日も雨の日も輝き続けています。
あなたは、そのスモッグを見ているだけで、
太陽そのものになれば、燦然と輝く自分を見ることが可能です。
神のこと、霊のことを霊太陽と言って、霊は太陽なのです。
これが宇宙の中心太陽なのです。

この霊太陽が全世界、全宇宙を照らしているわけです。
太陽はなぜ光り輝き続けているのかと言いますと、放出するからです。
太陽がケチで光を出し続けなかったら、その光は曇ってなくなります。
与えるから、与えられるのです。循環の法則を守っているのです。
放出しなかったら、太陽は光を得ることはないのです。
出すことと入れることは、循環の法則、
バランスを守っているから、太陽は光っているのです。

あなたも世の太陽となるには、与え切りなさい。
「与えよ、さらば与えられん」の意味は何かと言いますと、
「空」は光の粒子ですから、その光を放射することによって、
常に空の光の粒子と入れ替わり、私達はこの世の太陽となります。
それは循環の法則です。与え切りなさい。
私達が本当に与えて、与えてやれば、次から次から得られるのです。
太陽は与え切りですから、次から次から出しても、その光は減ることがない。
それは霊太陽から光が与えられるからです。

みなさん方も、世の太陽となる為には、多くの宇宙エネルギー、
神聖エネルギーを放流、放射してゆくことが必要です。
得ようとする者は失うということは、その意味です。
あなた方は出すことは嫌いで、得よう得ようとしています。
「命を得ようとする者は命を失い、命を捨てる者は命を得る」
それは「光を得ようとする者は光を失い、光を放つ者は光を得る」という意味です。
与える者は、その与えた人が輝くのです。
もらおう、もらおうとする人は、自分が光ではないと思っているからです。
与えて光るのか、もらって光るのか、もらおうとすることは破滅です。
与えることは得ることです。

これは循環の法則ですから、与えて、与えてゆきなさいということです。
水車も水の流れをせき止めないで、流れに任せているから、力が出るのです。
あなた方も、この肉体という媒体を、神の媒体となって与え切ってゆけば、
その偉大なる力、偉大なる輝きを出してくれると思います。
「先生、エネルギーを下さい」と言う人は、感心しません。
あなたは、乞食になりたいのか、与える者になりたいのか、どちらでしょうか。
欲しい、欲しいは乞食です。貧乏です。
金持ちは与えます。与える者になりなさい。

与えるものは、物ではないのです。
あなたの善意なる心です。エネルギーです。
私には何も与えるものはありませんと言いますが、エネルギーはあるはずです。
あなたが善意な心になれば、光そのものを放射します。
その光を世の人々に注ぎ続けることです。
このことが、イエスの言われた「我れは世の光なり」ということです。

太陽は与え続けているがゆえに、みなさんは太陽が照り続けると、
カンカン照りで暑いと文句を言いますが、曇ると曇っていると文句を言います。
しかし太陽は一切文句は言いません。
太陽はいくら文句を言われ続けても、光を与え続けています。
あなた方も、この世の人間同士も同じことだと思います。
与えられても、文句を言う人がいっぱいいます。
この知花の話を聞いて、知花に敵対する人も多いのですから。
人から盛られた毒は食べてはなりません。
夫婦でも毒の盛り合いをしています。サタンの誘惑です。

憎しみ、怒り、嫉妬とかを行います。
親子でも、夫婦でも、お互いの毒を食べないことです。
サタンの誘惑に負けるということは、
人から盛られた毒を食べてしまい、あなたも怒ることです。
悪の心は、あなたが勝手に創らない限り、存在していないのです。
この世にあるのは、実在しているのは、絶対善のみなのです。
悪の心は人のものです。
悪という心は、神という本心を知らない人にのみあるのです。
心を一つにしなさいということは、善なる心のみにしなさいという意味です。

心が一つになったら、みなさんには不幸というものがなくなります。
不幸になったり、幸せになったりするのは、善悪の心で生きているからです。
善なる心であるならば、幸せがあるはずです。
いい心であるなら、毎日が幸せです。神は幸せそのものです。
本当は、不幸な人間を、神は創り出していないのですが、
あなたの自由意志でもって、あなたが自分を不幸にしているだけなのです。
誰があなたを不幸にしているでしょうか。
他人ではなく、自分です。ですから最大の敵は自分です。
その善悪の自分に徹底して打ち勝つことが大切かと思います。
これが自己の克服です。

誰もあなたを苦しめてはいないのです。
あなたの心があなた自身を苦しめているのです。
自分との闘いということに、気づいてほしいと思います。
平気で人を憎む自分、悪口を言う自分に打ち勝って下さい。
悪の心を自分に住み着かせてはなりません。
清い心とする為には、憎しみの心、怒りの心、
嫉妬の心をあなたの心から追い払わなければなりません。
これがキリストの帯でムチを造り、
神殿を汚す者を追い払ったという象徴的なものです。
あなたの心が神殿そのものなのです。

「心を神のみに与えきりなさい」ということです。
あなたの心を、善悪の住処にするのですか。
清い心にして下さい。神のみの住処にしなさい。
これが、「心を一つにしなさい」という意味なのです。
一時でも、サタンをあなたの心に住まわせてはならないのです。
あなたは、あなたの造ったムチで、サタンを追い払わねばなりません。
平気で、怒りの心、嫉妬の心を住まわせてはならないということです。
そのサタンが心に入り込んだ時、みなさんはサタンにやられています。
悪に取り憑かれていることになります。
それを憑依霊とも言います。みなさんはよくやられています。

あなたが誰かの悪口を言っている時は、
神憑りではなく、憑依霊を受けているのです。
それは自分で呼び込んでいるのです。
その憑依している憑依霊を追い払う時、
必ず憑依霊は、この者が私を呼んだのであると言います。
あの人を憎みたいと、憎しみの心をもったわけですから、
憑依霊を招待したことになりますから、入ります。

心を一つにしなさいということは、善悪の心で生きることではなく、
絶対善の心を統一してゆくことです。
これが精神集中、一心集中です。
善なる心のみにしなさいということです。
それができたら、あなたは不動明王になっていることになります。


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以前、愛を太陽に喩えて「循環の法則」を説いたが、
知花氏が言っている事と全く同じである。

さて、内観によって不動明王となり、魔王に打ち勝つ……。
獣は30歳の時、内観と連動しているのどうかは不明だが、
毎晩、体脱して魔界で闘争するという異常な体験を続けてきた。
獣の霊力(念力)も非常に強くなってきて、
1年近くに及ぶ死闘の末に、
大日如来真言(オンアビラウンケンソワカ)で魔王を倒した。

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魔界の上空で魔王を倒し、獣は肉体に戻った。
その直後、魔王が獣の肉体に落下してきて「ウッ!ゥ〜ッ」となり、
しかも、魔王に掛けた技を獣が食らっていた。
それはピッコロ大魔王が封印された時の魔封波と同じ技である。

意識は肉体に戻っているので、肉体が高速回転しているのは錯覚だが、
巨大な扇風機に磔にされて強で回されているようなリアルな感覚で、
魔王に憑依されたと思ったが、魔王の正体は自分自身だったのだ。

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不動明王は「悪を焼き尽くす炎の鬼神」というイメージだが、
善悪を抱き参らせる不動の中心点(ゼロポイント)に位置する
明王(日月の王=光=真我)という解釈が出来る。

その「日月の王=光=真我」の直接的な存在は、
やはりハイヤーセルフという事になるが、
自分の心を不動明王にする事で、魂を不動明王にするという事なのだ。
不動明王は、ヤマタノオロチを退治したスサノオである。
だが、悪を斬り殺すのではなく、光で浄化するという事なのだ。

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須藤アキオ氏は『王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける』の中で、
次のように述べている。

人類の総体的な意識は暗黒面を抑圧してきた。
この無意識界へと無理矢理押し込んだ反面を心理学では「影」といい、
自己実現に際して、まず最初に夢に登場する象徴人格だとする。
この人類の意識こそ、出口王仁三郎が型役を演じた救世主スサノオであり、
「影」こそが八岐大蛇だろう。
スサノオは自らの影、八岐大蛇の尻尾から剣を取り出して、これを克服する。
『古事記』はそう記しているが、
出口王仁三郎は、言霊で言向和すのだと訴えているのだ。
けっして否定してこれを押し込めるのではない。
まさに霊体一致の霊主体従を地で行く姿ではないか。


神(本体)と悪魔(影)の葛藤とヤマタノオロチの正体
http://ssg2.seesaa.net/article/151664651.html
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『日月神示』にも同じ事が説かれている。

「プラスとマイナスと和合せねばならん。
只の和合ではムになって力出んぞ。
今迄の和合のやり方ではならん。
喜びの和合。融け合ふ和合。
ある和合でないと、少しでも曇りありたら和合でないぞ。
こらへこらへてゐるのでは和合でないぞ。
今迄の和合の仕方ではカスあるであらうがな。
悪の和合であるぞ」

「人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。
人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、
善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。
内が神に居りて外が人に和し、
内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。
其処に喜び生れるのぢゃ」

「先づそなたの中にいる獣を言向け合わさねばならんぞ。
よく話し、教え、導かねばならん。
獣を人間と同じにしようとしてはならん。
獣は獣として導かねばならん」


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聖書にも書かれている通り、光は言葉(言霊)である。
揺るぎない不動のゼロポイントになるには内観も必要だが、
言霊によって善悪を抱き参らせる事を『日月神示』は説いている。
獣の魔界戦争は特殊な強制内観だったと認識しているが、
それによって魔王を倒した……と言っても、
真言によって改心させて獣と同化したと言える現象だった。

獣が使ったのは「悪霊退散」の真言ではあったが、
結果的には魔王を抱き参らせたという事になる。
『日月神示』が説いているのは祝詞だが、真言でも構わない。
出来れば、不動明王真言がベストである。
獣も去年、成田山新勝寺で不動明王真言のカードを貰ってから、
不動明王真言を唱えるようになった。

成田山新勝寺 in 千葉
http://messiah666.seesaa.net/article/215013693.html
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それによって何か変化があったかと言うと、特に何もない(笑)
ただ、去年の抱負だった「5次元突破」……
年末の最後の最後に不思議な体験をした。
宇宙空間を漂ったり飛行するのは日常的な出来事だが、
その時は幾何学的な感じの不思議な宇宙空間
(上下左右の感覚が全くなく複雑な立体構造を感じる空間)を漂った。

それが5次元突破だったのかどうか分からないが、
聖母の身代わりで受けた病気(脳梗塞?かどうか分からないが)が、
瞑想から覚めると完治していた。
真言を唱えると不思議なことが起こるかもしれないが、
奇跡を求めて唱えたりするのは本末転倒である。

高1の時の獣(笑)
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不動明王(ハイヤーセルフ)の波動と一体化し、
自らの心と魂も善悪の中真である不動明王となり、
善悪を抱き参らせる為の言霊が「不動明王真言」という事になるだろう。
数ある真言の中でも、獣は「不動明王真言」が一番気に入っているので、
ここに紹介しておきたい。

http://www.naritasan.or.jp/images/syoukai/shingonswf.html
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日常的に何十回でも唱えると良いが、
それよりも「ミニロゴストロン」を持っている方が良いと思う(笑)
posted by ZERO at 22:33| Comment(2) | 瞑想と祝詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
勉強になりました。私も不動明王慈救咒としてこの真言をいつもお唱えし、親しんでおります。真如苑と言うお寺で修行させていただいておりますが、運慶作不動明王をお祀りしてありますのでブログに親しみが湧きました。大般涅槃経が処依の経典になっており、その実践によってこのブログにかかれてあることも体で理解できます。これからの世の中は、善なる行いの実践者を中心とした世界が展開されることを確信して疑いません。ありがとうございました。合掌
Posted by 海堂 at 2012年02月24日 02:04
海堂さん、初めまして。
私は幼少の頃、真如苑という宗教団体に通わされていました(笑)
悪を排除する善ではなく、悪を包み込む絶対善・・・
海堂さんの御活動に感謝します。合掌
Posted by 獣 at 2012年02月24日 03:33
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