2012年03月28日

汝、言葉を漏らすべからず!

アリオンによると、古代日本に渡来したアマ族(出雲族と日向族)は、
優れた精神性と以心伝心のテレパシックな能力を持っていたという。
『万葉集』にも「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」と記され、
古代日本では言挙げしないことが美徳とされていた。

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昔から、「大食いや口数の多い人間は長生きしない」と言われているが、
『日月神示』には次のように示されている。

「運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。
腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。
この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ」

「口上手、身振り上手で誠ないもの、この方嫌いぢゃぞ」


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中矢伸一氏は『日月神示 弥栄への道標』の中で、次のように述べている。

今の時代の日本人は、言葉の乱れもさることながら、
使う言葉の量も多過ぎ、表現形態もあからさまに過ぎるように思われる。
本来であれば、余計な言葉を要さずとも、お互いに十分に分かり合え、
争いごとや訴訟騒ぎなども一切起こらないというのが神の臣民である。
戦後からこれまでは、誠の心がなくとも口八丁、
手八丁の者が世にのしあがり、良い目見ていた時代であったかも知れない。

ビジネスの世界でも、交渉上手の者、タフ・ネゴシエーターが尊重されたし、
今後もそういう人が成功すると思われている。
だがこれからは、単に言葉だけ巧みであっても、いかに交渉上手であっても、
けっして道は開けない時代に入っていくことだろう。
肝要なのはただ「至誠の心」一つである。
われわれは、もっともっと言葉を慎まねばならない。
「食」を慎むことと「言」を慎むことで、運は開けると神示にはある。

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拙著『日月神示・死者の書』(徳間書店)でも述べたように、
高級な霊界に行くほど、言葉は少なくなっていくことが知られている。
そのことは、日月神示のみならず、スエーデンボルグの霊界論や、
大谷司完の霊界探訪録(『天使の声』)にも共通して示されている真理である。
人間においても、霊格が高くなると、もの静かになり、
あまり言葉を多く用いなくなるもののようである。
霊性が高まるごとに、一つひとつの言葉が清らかで美しく、
丁寧で、重要な意味を持っているという姿に、段々と近づいていくのだ。

ゆえに「おしゃべり」には霊格の高い人はいない。交渉に長けていることは、
外国では都合がいいかも知れないが、真正なる日本では通用しないのである。
今の日本は外国並みになってきているが、
これからは言葉が”宝”として慎まれ、尊ばれる時代になっていき、
やがては再び「言霊の幸わう国」と呼ばれるようになるであろう。


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「ITスペシャリストが語る芸術」というブログに、
種観霊を実践している人が次のようなことを書いている。

最近、私はなるべく話さないことにしている。
電車の中で、大学生と思える2人の男子が、大きな声で話をしていた。
ひどく下らない内容で、以前なら、私はひどく不快に思ったはずだが、
長く種観霊という行をしているせいで、さほどの感情は出てこない。
種観霊とは、自分が作り出している外部世界の意味を感じる行である。

その時思ったものだ。
言葉というものは、我々が思っているどころではない重要なものだ。
悪い言葉を使うと、どれほどの害があるのかは予想もつかない。
最近は若者の言葉が乱れていると言われるが、乱れているなんてものではない。
それがどんな影響を生み出しているか、考えるのも恐ろしい。
しかし、私だって、人と話せば、決して良い言葉を使わず、
むしろ、後で後悔するような言葉を多く使っているものだ。

それなら、必要がない限り、話さない方が良い。
そして、心が整ってくると、話す必要もなくなってくる。
「話せば分る」という有名なセリフがあるが、人間は話しても分らないのだ。
なぜなら、人が理解できるのは、自分が持っている概念の中、
言い換えれば、個人や集団の偏見、あるいは、幻想だけであるからだ。
普通の言葉は、偏見や幻想を強化するために働く。
それは、心の中の言葉でも同じではあるが、話された言葉の効果は大きいのだ。
それならば、私はなるべく話すのをやめようと思う。

ラマナ・マハリシは、相互理解は、一緒にいる時に沈黙の中で訪れると言った。
アニメ「ちょびっツ」で、秀樹は「幸せってのが分った。
それは一緒にいるってことだ」と言った。
イツァク・ベントフの「ベントフ氏の超意識の物理学入門」に、
一緒にいることで、波動的共鳴が起こり、一体化するという話がある。
そして、一度、波動的関係を持つと、離れても相手に影響を及ぼす。


言葉は注意深く、慎重に使わないといけない。
自然に聞こえ、美しい言葉を使うのが良い。
醜い言葉、無駄な話、不要な褒め言葉
(良からぬ意図があるのが普通だ)を言う者は不幸である。
シャープという会社の液晶テレビのCMで、
吉永小百合さんが「アクオスしましょう」と言う。
あんな素晴らしい人に、こんな言葉を使わせることが、
日本をいかに汚しているかと思うと、私は悲しみに耐えない。


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あんな素晴らしい人に、こんな言葉を使わせることが、
日本をいかに汚しているか……とのことだ、
それもこの人が映し出していることなのである。
それを獣が読んだということは、
獣の世界では獣が映し出しているということになる^^;

人々の会話を聞いていると9割は無駄口である。
では、喋らなければ良いのかというと、
ただ喋らなければ良いという問題ではない。
喋る原因である想念(思考や感情)を出さないことが重要なのだ。

口枷
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だからと言って、思考停止の無我の境地で生活することは不可能なので、
ネオデジタル思考で常に種観霊して生活することが重要となる。
特に種観霊することがなければ、
心の中で祝詞や真言を唱えて自我を沈静化させることである。

親鸞が「常に念仏を唱えて生活すれば極楽浄土」に行けると説いたのは、
そのような意味である。
また、何か用事をする時などは、
自分の体の動きを実況中継する「ヴィパッサナー瞑想」も良いだろう。

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もちろん、仕事や必要な会話の時に全く話さなければ、
文字通り、話にならないということになってしまうが、
無駄な言葉を発さないことが大切である。
ガンジーも週に1日は「沈黙の行」をしていたという。

獣は小4までは結構お喋りだったが、5年から「沈黙の行」を始めた。
学校で喋らないことに徹したのだが、最初は辛かったことを覚えている。
話したいことや意見を主張したいことがあっても、
それを押し殺して喋らないことを貫いてきた。
それは抑えているだけなので良いことではないが、
最初はそのような苦行になるのは仕方ない。

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よく喋る人は自分の想念に全く気づかないまま、自動的に話し続けている。
それを抑えることによって、自分の想念に気づくことができるはずである。
そうやって、徐々に想念を出さないようにしていく訓練をするのだ。
そうすることにより、自分がいつもどのような想念を出しているのかが分かり、
自分の思考パターンや想念界というものが観えてくるようになる。

当然ながら、どのような先入観や固定観念、囚われなどがあるかが分かり、
それを刈り取ることで潜在意識(想念界)が浄化され、
霊体意識(超自我)に目覚めてくるのである。
そうなると、自我を保ったままの瞑想状態で生活できるようになり、
いつしか真我(魂)の意識で生活することができるようになるのだ。

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自我で生きていると、自我の自分の意識しか認識できない。
真我に目覚めていると、自分の意識は真我にありながら、
自我を客観的に監視しながら生きるようになるので、
自我が出す想念は基本的に全て把握している為、
言葉が勝手に口から出てくることもなくなる。

また、何かを話す時も言葉を選んで、
適切な言葉で出来るだけ短くまとめて話すようになる。
その為、「反応(言葉の返し)が遅い」とよく言われるが、
卓球のような会話をしているようでは「沈黙の行」は出来ない。

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久しぶりに友人と遊ぶ時はある程度は話もするが、
それでも基本的にはマナーモードである。
家では殆ど言葉を発さないが、
話すのを抑えて「沈黙の行」をしているのではなく、
自然に無口な状態なのだ。

少し前に何かの本でたまたま読んだが、
「お喋りな人はエネルギーを無駄に消耗するから腹が減る」
というようなことが書かれていた。

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冒頭で「大食いや口数の多い人は早死にするという話がある」と書いたが、
言葉を発することは精を漏らすことと同じで、生命力を浪費するのだ。
しかも、それを補う為に高エネルギーの食事や間食を求めるようになって、
寿命を縮めていくということだろう。
それすらも最初から完全に決まっていることなのだが、
自分に思い当たる人がいたら「理解」に繋げることが重要である。

以前、知人からこのようなメールが届いた。

閣下は 言葉を よく理解しています。そう感じます。

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『日月神示』には次のように示されている。

「神は言葉ぞ、言葉とはマコトぞ、息吹ぞ、道ぞ、
マコトとはまつり合はした息吹ぞ、
言葉で天地濁るぞ、言葉で天地澄むぞ、戦なくなるぞ、神国になるぞ、
言葉ほど結構な怖いものはないぞ」


「ヨハネによる福音書」には次のように示されている。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」


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言葉(光透波)は神であり、龍神ルシファー(電磁波)である。
仏教でも「神仏は音声(おんじょう)に動く」と説かれているが、
言葉は宇宙を浄化し、宇宙を創造する「神」そのものなのだ。
無駄な言葉を発する人は、神を粗末にしているのと同じである。
否、神を捨てているのと同じだと言っても過言ではない。

更に、新たな宇宙創造の妨害をして破壊活動をしている人も多い。
例えば、河野薬品の河野貴希氏は、
「取り越し苦労は一家を破滅に導くので銀行強盗より悪い」
と言っているが、エネルギーのベクトル的に見れば事実である。
同様の事は、『日月神示』や橋本健氏、獣の師匠も説いている。

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人が日常的にどれだけの重罪を犯し続けているかがよく分かるだろう。
だが、獣が認識するその現実も、獣の世界では獣の投影ということになる。
故に、前述のITスペシャリストのように、
不快を感じる感じないというレベルの問題ではない。

不快に感じないという事はニュートラル(中真)ということだが、
本来的には不快なことである為、ひたすら謝罪することが大切なのだ。
誰かの無駄話や悪しき言葉を耳にしたら、それは自分の投影なので、
それに気付く度に「ホ・オポノポノ」を実践することが大切である。
また、その耳にした話の内容を種観霊することも忘れてはならない。

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シーターラーマというブログに、
ヨーガの沈黙の行について書かれていたので紹介したい。
http://blog.sitarama.jp/?eid=829364

スピリチュアルな意識を高めていくための修行とも言える
ヨーガの行いの中には、モウナと呼ばれる沈黙の行があります。
それは、単に言葉を発しないだけではなく、自分自身の本質に出会う、
大切な行いの一つであると言われています。

言葉を発しないということは、決して容易いことではありません。
愛を伝えること、感謝をすること、謝ること、言い訳をすること、不満を言うこと。
言葉というものは、自分の中にある思考や感情を表現するために次々と出てきます。
湧き出る感情や思考が「自分」であると、感じることは少なくありません。
そして、その感情や思考が言葉となり、自分自身を重ね合わせる過程の中で、
私たちは自己の本質を見失っていきます。スピリチュアルな行いの中で、
それは無意識、エゴに満ちた状態であると言われています。

エゴはいつも、自分という存在が小さくなることを危惧しているために、
自分を守ろうと沈黙を破り、言葉やしぐさで自分を表現することによって、
自分の存在を証明し続けます。
それ故、沈黙を守ることは決して容易い行いではないのです。
しかし、自己というその本質は、何があっても小さくなることはありません。
大きくなることも、なくなることもありません。

何かを感じる時、沈黙は、その感情や思考の正体、
湧き出てくる声の主であるエゴに気づきを与えます。
そして、気づきと共にある沈黙、その研ぎ澄まされた静寂の中で、
いつも変わらずにある自己の本質を経験することができるのだと、
モウナの行いの中では伝えられています。

「花がその存在だけで美しいように、自分を飾るために言葉は必要ありません」
自己の本質に気づくこと、そのための静寂は本当に美しいものです。
また、この社会においても、時に沈黙は大切な役割を果たします。
言葉が多すぎると真実が見えなくなるように、沈黙は嘘をつくことがありません。
社会の中で、沈黙を守ることはとても難しいことです。
しかし、一瞬でも言葉に出ようとするその感情や思考を観察すること、
その奥深くにある自己の本質に気づく少しの時間を持つことは、自分自身にも、
そしてこの社会にも、シャンティな空間を生みだしてくれるに違いありません。


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また、テーラワーダ仏教協会のA・スマナサーラ長老によると、
「仏道は聖なる沈黙行」であり、
釈迦牟尼の牟尼(muni)は「沈黙行者」という意味だという。
http://www.j-theravada.net/howa/howa156.html

厳密に沈黙行を守ることは、とても厳しい苦行になることであると、
理解できると思います。
宗教家たちにとっても、これはかなり不便なので、
いくらかの条件をつけて修行を緩やかにしています。
たとえば、音を使わず手で指し示すことぐらいはする。
または、いくつかの決まり文句だけ言う。
その場合は、自分が頭の中で呪文や聖典文句などを唱えているならば、
それだけ人々にあいさつの代わりに言う。

これは日本の習慣から考えると解りやすいでしょう。
日本で托鉢する僧侶は、お布施を入れても「ありがとう」とは言わないのです。
代わりにずうっと真言かお経文句を唱えるのです。
熱心に法華経を信じる方々の中には、人に会う時も別れる時も、
披露宴のあいさつの時も、葬式でお悔やみを言う時も、
「南無妙法……」だけ唱える人もいる。
お経文句の代わりに、沈黙行者たちが祝福の決まり文句を言う場合もあります。

沈黙行者も、長老格の修行者から学ぶ時は、その師匠と言葉を交わすのです。
その場合も日常のことではなく、教えの中身の話に限ります。
お釈迦様の弟子たちの中でも、たった一人、沈黙行者がいたのです。
お釈迦様がお生まれになってから間もなく、
スッドーダナ王の元師匠であったアシタ仙人が訪ねてきました。
修行して禅定に達していたこの仙人は、王子の将来を観たところで、
悟りに達して仏陀になることが解ったのですが、
同時に自分の命がまもなく尽きるのだいうことも知っていたのです。
ですから、王子を見てまず穏やかに微笑んで、
それから自分が仏陀から教えを仰ぐことができないことに涙をこぼしたのです。

この仙人はその日、自分の甥っ子(ナーラカ)にこの旨を伝えて、
仏陀の弟子になりなさいと言ったのです。
ナーラカはその日に、将来の仏陀を師匠として出家しました。
それから三十五年以上、彼は誰とも話すことなく、一人で生活したのです。
また一箇所に一晩しか泊らないということにしていたのです。
その方が、執着なく、人と関わりもなく、いられるからです。
三十五年が過ぎて、仏陀が説法しているという話が耳に入ってから、
ナーラカはお釈迦様に会ったのです。会って、話したのです。

決して自分が、お釈迦様が生まれて一週間も経たないうちに、
仏陀の為に出家して修行してきた者であるなどと自己紹介する言は一切なし。
訊いたのは、「正しい沈黙行とは何か」だけです。
それに対する仏陀の説法を聴いて悟りに達したナーラカ聖者は、
それっきりお釈迦様にさえも会わなかったのです。
本格的な沈黙行を実践したのは、仏弟子たちの中でたった一人でしたが、
仏陀は一貫して、沈黙を守ることは尊い生き方であると説かれたのです。

きりがなくしゃべること、場を盛り上げるためにしゃべること、
話術を広めるためにしゃべることなど品格に欠けている生き方であるので、
仏弟子たちは言葉で伝えなくてはならない用がない限り、
聖なる沈黙を守るべき(ariyo tunh bhâvo)と戒めたのです。
在家仏弟子たちにも、嘘と粗悪語、無駄話と両舌を禁止しているのです。
一般的に言えば、仏教では言葉の数が少ない方が、
言っている言葉が意味に富んでいる方が品格があるということになるのです。

お釈迦様は中正の立場で、muniという語を理解して解説していたのです。
Muniとは聖者のことです。Moneyyaは聖者に達する修行方法です。
しかし何もしゃべらず黙っているだけで、聖者になれるはずもないのです。
なぜ我々は話したくなるのか、ということを発見して、
話したくなる原因をこころの中から取り除くことが、
本格的なmoneyyaという修行なのです。
それで、言葉とは何か、と知る必要が生じる。
まず人間の間で、日常生活の上で互いに伝えなくてはいけない言葉がある。
経験豊かな先輩たちが後輩たちにその経験を教えてあげなくてはいけないので、
言葉を使うことになる。

この二つのはたらきは、人間にとって欠かせないものなので、
言葉を使って話さなければいけなくなるのです。
この程度の言葉を禁止することは不可能です。
それから人々は、情報交換のために話すのです。
対話を行ったり、哲学者や宗教家のあいだで互いの意見に対して論争したり、
話し合ったりすることも、情報交換なのです。
この場合は、何をしゃべってもいい、ということにはならないのです。
相手の役に立つ、悪行為をなくす、善行を行う為の励みになる言葉でないと、
修行の世界の人にはふさわしくないのです。

要するに、情報交換の目的で話す場合は、
慈しみによる言論統制を敷かなければならないのです。
また人は、楽しむ目的で話す。感情を引き起こす目的で話す(歌、文学など)。
俗世間では、余った時間をこのような言葉を話すのに費やす事は避けられないが、
修行としては、こころが汚れるので、成り立たないのです。
ですから、修行する人にとっては、禁止なのです。

また人は、相手を騙して利益を得るために、
気に入らない人々を攻撃する手段として、自分のエゴを強調する為にしゃべる。
物事をよく理解できない無知な人々も、
言葉の意味に対して何の躊躇もなくしゃべりまくる。
これらの言葉は、たとえ修行しない在家生活する人々に対しても、
たいへんな迷惑が掛かります。不幸をもたらします。
従って、悪業なのです。修行者だけではなく、在家の人々も止めるべき言葉です。

このように、お釈迦様の教えをまとめてみると、言葉は三種類になります。
第一は、生活の上で話す必要がある言葉。第二は、
慈しみによる統制された情報交換のための言葉。
第三は、話してはいけない禁止すべき言葉。
中部経典の五十八、abhayarâjakumâra-sutta無畏王子経で、
お釈迦様がご自分の言葉の管理について、語られています。
経典の中身を一行にまとめると、
「聞く相手に好まれるか否かに関わらず、相手の役に立つ事で、
また真実のみであるならば、時と場を考慮して話す」ということです。

仏教はmoneyyaは聖者に達する道であるとしつつ、
「ただ形だけの沈黙行ではない」とするのです。
お釈迦様も、出家仏弟子たちも、よく人に説法をなさったものです。
しかし、自分たちがmoneyyaの人々であると公言するのです。
当然、moneyyaを修行する他宗教の方々から、
「よくしゃべっているくせに何が沈黙行だ」と批判されることになる。
ですから、仏教の沈黙行にariya聖なる、という形容詞を付けたのです。
形だけの沈黙ではなく、理性に基づいた分析の上で成り立った、
無駄話を完全に止める行為、という意味で「聖なる沈黙行」です。

仏教の沈黙行を実践すると、必ず智慧が開発されるのです。
ただ黙っているだけでは、何も得られません。
Moneyya沈黙行を完成して聖者になるとは、どういうことでしょうか。
眼耳鼻舌身意で色声香味触法という情報を取り入れる人間は、
そのままそれを認識しないで、データを捏造して認識する。
実在しないものが実在するような錯覚が起る。

起こる順番で言えば、データが触れて感じる →
感じたデータをまとめて捏造して知る → 知ったものが概念になる
→ 概念に言葉というラベルを張っておく、です。

話すとは、言葉というラベルを音にして外へ出すことですが、
頭の中ででも外に音を出さず自分一人でしゃべることもできます。
データを捏造するために、いままであった好き嫌いなどの感情を使用するし、
「きれいな花だ」など捏造した概念を作った時点で、
新たに感情が生まれてこころが汚れるのです。

仏弟子たちは、ありのままに観察するという修行をして、
色声香味触法のデータが捏造に変わってしまうプロセスを発見して、
それからありのままの事実は何なのかと知るのです。
貪瞋痴などの煩悩が、捏造が作り出した幻覚の結果であると発見すると同時に、
修行者に幻覚が消えるので、煩悩も二度と生まれないように消えてしまうのです。
それが悟りです。悟りに達した聖者の頭の中で、概念の竜巻も荒波もないのです。

必要性が生じない限り、こころの中に言葉は現れないのです。
強いて言えば、こころが沈黙、という状態に達するのです。それでmuniなのです。
無知な人にさえ簡単にできる、黙っていることだけでは、muniになりません。
天秤を持って精密に計るように悪を捨てて、善を取る。
智慧のある人こそがmuniなのです。
存在を知りつくした人がmuniであると、仏陀が説かれたのです。

● 今回のポイント

形の沈黙行は苦行になる
沈黙だけでは何も得られない
人には話すべき時も黙るべき時もある
言葉は慈しみにより統制するべきである
こころの中の感情が滅することが沈黙行の完成である



posted by ZERO at 22:55| Comment(5) | 六六六神示 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めてコメントします。

ああ、久々にネット上で落ち着くことが出来たよ。ありがとう。
自分の考えにこれ程似通っている人が居ようとは。よかった。
殺伐としたネット空間にもたらされた「癒し」のようだ。

まさか「獣」に救われるとは思いもしなかった
Posted by 末裔 at 2012年04月01日 20:09
末裔さん、初めまして^^
有り難う御座います。
トンデモな話が多いですが宜しくお願いします^^;
今日は沈黙を破って妖怪退治に行ってきます(笑)
Posted by 獣 at 2012年04月02日 10:11
自己紹介を忘れておりました。すいません。
わたくし「末裔」は琉球王国、ひいてはムー大陸のヤップ
遺伝子の血を引く、沖縄のおっさんです。 42歳です。
私しか知らない極秘の情報を獣さんにだけ特別にこれから
開示して行きたいと思います。 お役に立てればと思っております。
ブログは持っておりません。 しかし、超マル秘の極意は
あると自負しております。 どうぞ宜しくお願いいたします。
Posted by 末裔 at 2012年04月02日 19:35
末裔さんは沖縄ですか〜。
獣の父親の家系は長崎ですが、南方系(沖縄?)の血も入っているという話を聞いたことがあります。
そのせいか、昔は「顔もくどけりゃ話もクドイ」と、よく言われていました(笑)
Posted by 獣 at 2012年04月04日 00:08
ありがとうございます。また参ります。心の調律に。
Posted by 凸蓮 at 2019年02月13日 23:19
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