婚姻制度が男女の自由を奪っている―― 一夫多妻の社会が理想的だ
「汝、性なる覇道を極めよC」で紹介した
隈本確が神界の神霊から聞いた話も同じような内容だった。
http://kemono666.seesaa.net/article/260205166.html
獣も全く同感だが、ネオデジタル内観や種観霊をすれば、
それが自然の摂理であることが分かってくる。
獣に結婚願望がなく、「交際」という形で
特定の彼女を作りたくないのも、自由自在から遠ざかるからだ。
「ポジティブな世界」に移行すれば、内海氏の言う通り、
現在の常識や悪法は消滅せざるを得なくなるだろう。
つまり、「ミロクの世」は一夫多妻制なのだ(笑)
と言っても、その多妻も自分自身の投影なのだが……。
性なる覇道(聖なる波動)を極めて「ミロクの世」の住人となる為には、
先入観や固定観念を捨てて、この真理を理解して悟る必要があるだろう。
念の為に言っておくが、獣は別に一夫多妻を望んでいるわけではない。
また、一夫多妻制が婚姻制度という法律で縛られてはならない。
当然ながら、必ず複数の妻を持たなければならないという強制もない。
「汝、性なる覇道を極めよ!」は一話で終わるはずだったのだが、
九話まで続いたのも何か深い意味があるのだろう。
「汝、守護神を捨てよ!」も一話で終わるはずが九話まで続いた。
九はニギハヤヒの数字で、9+9=18=「6+6+6」となる(笑)
さて、隈本確が霊界人や神霊から聞いた話でも、
人間界の婚姻制度は悪法ということだが、隈本氏自身の見解は異なる。
制限のあるゆえに意味のある現象界
婚姻という法――つまり、ひとつの制限の中で、たとえ悪夫、
悪妻と生涯をともに過ごさなければならない状況があったにしても
そのことから逃れようとすることだけが道ではない。
縁あって夫婦となった男女であれば、悪夫、悪妻といえども、
あえて一生をそいとげることで、霊界の理をも超えた、
人間の真理を己の精神世界に創り出すことも可能なのである。
心の苦の学びが、人間界においても、また霊界入りした暁においても、
自己の魂にどれ程の真理の輝きを増すかは、図り知れないものがある。
つまり、運命を受け入れ、苦や制限というカルマを体験することにより、
魂が切磋琢磨されて自由自在性を発揮していくことに意義がある……
という捉え方もできる。
丹波哲郎も同じことを述べている。
「霊界で大いなる存在が、すなわち高級霊が、全く性格の違う者同士が
人間界で一つ屋根の下で長丁場がまんしあえということだ。
魂の修業場としては、これ以上のものはあるまい」
また、重要なことだが、丹波氏は次のように述べている。
人間界にいたときに身についた道徳、法律、礼儀、他人への考慮、習慣、
それらを網の目のように綴っている外面的な打算は、
霊界では全く不要な邪魔物にすぎない。
したがってそれらを捨て去って、本来の霊そのものの姿に帰るのだ。
霊界で永遠の生を送る霊人達は、
自分を偽らず、本来の性格に戻らなければ生き続けられない。
人間界に生きている以上、法律を無視することはできず、
最低限の道徳性も要求されるだろう。
また、礼儀や他人への考慮も必要なものである。
それが、人間界で生きていく為の「調和」というものだ。
そもそも法律や道徳も自分が作って映し出しているものである。
もちろん、他者も自分自身の投影である。
それらを認識した上で、道徳や法律などによる固定観念や
外面的な打算を外して生きる必要がある。
固定観念や外面的な打算を外すのが内観(種観霊)であり、
それによって「自己発見」に至るのだ。
その意味で、人間界の総ては「自己(神)を知る為」に存在している。
但し、人間界(外側の世界)の人々や出来事の一切を、
自分の想念界(内側の世界)の鏡として観て生きる必要がある。
そう考えると、隈本確や丹波哲郎の話もまんざらではない。
そのようにして、内海氏が言うような、
自然の摂理に従った自由自在な世界に変容していくことになる。
何故なら、外側の世界は内側の世界の投影だからである。
『日月神示』には次のように示されている。
「夫婦けんかするでない。
夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。
お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ」
「親子、夫婦、兄弟姉妹と生れても逆縁あるぞ。
カタキ同士 結ばれることあるぞ。それは神の大き恵みぞ。
それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ」
隈本確や丹波哲郎の話に通じるものがある。
「出足の港は二二(夫婦)の理からぢゃと申してあろう。
真理と申してあろう。これが乱れると世が乱れるぞ。
神界の乱れイロからぢゃと申してあろう。
男女の道、正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。
今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。和は力ぞ」
「色はにほへど散るものぞ、世の乱れ神界の色からであるぞ、気つけておくぞ」
イロの乱れや男女の道について説かれているが、これを読むと、
やはり内海氏の主張は間違っていると思う人もいるかも知れないが、
それこそ固定観念のフィルターを通して外面だけを見ているからだろう。
『日月神示』は、男女ともに、肉体感覚だけを求めた動物的で
理智のない無責任なフリーセックスを戒めているのである。
そして、もう1つ別の意味があるが、順を追って見ていこう。
「天が主であり地が従でなければならん。
男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。
さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ」
内海氏は「肉は陽」、「霊は陰」と述べているが、
以前、獣は「それは逆である」と指摘した。
この神示を見れば、獣の話の正しさが理解できるだろう。
天が主で地が従、男が上で女が下ということは、
「天と男は陽」で「地と女は陰」ということになり、
霊主体従の法則から、「霊が陽」で「肉が陰」ということになる。
獣は以前から、愛はもともと内在するものであり、
作り出すものではないと言っている。
内海氏も全く同じことを説いているが、
『日月神示』には次のように示されている。
「愛は養はねばならん。
夫婦はいのちがけで、お互いにきづき合はねばならんぞ。
夫婦愛はあるのではない。
築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。
つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ」
話を比較すると矛盾しているように思うかも知れないが、
全く矛盾はしていない。
愛を養って築き上げる、生み出す、つくり出すというのは、
内海氏が説く陰陽合一(太極)を意味している。
また、もっと根本的な部分を見ると、
「イロの乱れ」「男女の道」を正すというところに行き着く。
その真意は、以下の通りである。
「今の世は逆様ぢゃ」
「男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。
さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ」
内海氏が説いている通り、世の中の男が陰になり、
女が陽になっているというところに問題があるのだ。
つまり、男が逝くのは陰になるということであり、
女が複数の男に走ることは陽になるということである。
また、夫婦愛を築き上げる、生み出す、つくり出すというのは、
次のような意味もある。
「気の合う者のみで和して御座るなれど、
それでは和にならんと知らしてあろうがな。
今度は合わんものと合せるのぢゃ。
岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ。
この行、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ。
マコトの神さえ魔神のワナにかかって御座るのぢゃ。
人民がだまされるのも無理ないようなれど、
だまされてゐては今度の御用は成就せんぞ。
自分自身にだまされてゐる人民も多いのであるが、ついて御座れよ。
少しは苦しき行もあるなれど見事なことを致して御目にかけるぞ。
自分でもビックリぢゃ、はじめからの神示よく読んで下されよ」
隈本確や丹波哲郎の話を考えると、
やはりそれは苦から愛を生み出す為の大きな修行であり、
一対の雌雄から新たな太陽(世界)が創造されるという事なのだ。
それが、前述の下記神示にも繋がってくる。
「それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ」
そもそも、自らのカルマによって設定した人生設計し、
自分で映し出している人生を体験することで理解に繋げ、
意識進化を図る為に生まれてきているのである。
「プラスとマイナスと和合せねばならん。
只の和合ではムになって力出んぞ。
今迄の和合のやり方ではならん。
喜びの和合。融け合ふ和合。
ある和合でないと、少しでも曇りありたら和合でないぞ。
こらへこらへてゐるのでは和合でないぞ。
今迄の和合の仕方ではカスあるであらうがな。
悪の和合であるぞ。
神示肚に入れないで御用六ヶ敷いぞ」
プラスとマイナスを足すと「ゼロ」である。
ゼロ磁場は+と−の力が押し合い、
互いの力を打ち消し合っている地点に生じている。
「夫婦けんかするでない。
夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。
お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ」
だが、喧嘩を避ける為に、こらえたり我慢したりするのは、
ネガティブな感情を抑圧しているだけなので、余計に悪くなる。
生長の家の「七つの灯台の点灯者の神示」には、次のように示されている。
「天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。
本当の和解は互いにこらえ合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢しているのでは 心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する」
『日月神示』に示されている通り、
相手が自分の投影であることを認識した上で反省と感謝をする。
結局、ネオデジタル内観の実践ということなのだ。
アリオンは言う。
「相手を愛するが故に攻撃せねばならない、しかも心から。
あなたは、あなたの構築した世界で命を引き換えに、
これを学ばねばならない。真の愛とは?真の戦いとは?」
「臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、
神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、
今やめたらまだまだわるくなるのぞ」
「己の心を見よ、戦が済んでいないであろ。
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ。
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」
ちなみに、「七つの灯台」とはメノラー(七枝燭台)のことで
7つ頭のルシファーを象徴し、その点灯者とは「反キリスト」である。


真我の覚醒なくして「所有」という観念を超越する事は不可能でしょう。