神とは何かを説明することなので容易ではない。
言葉の重要性については今後も定期的に書く必要があるが、
前回の続きを少し書いておきたい。
現代社会に於いて、口数が少ないと
損をするように見えることは決して少なくはない。
だが、「損して得取れ」という言葉がある通り、
それは決して損などではない。
例えば、昔の話だが、獣は女子に困ったことはなかった。
毎日ナンパばかりしていたのだが、獣はいつも泥酔していたので、
その時は確かによく喋るかも知れない。
だが、普段はかなり無口で、改めて会っても殆ど会話はなかった。
遊びに行ったり、電話が掛かってきたりして沈黙が続いて、
「無口やなぁ」とよく言われた。
何か話しかけられたら一応は何か言葉を返すので、
獣からすると「お前も喋らんから会話がないんやろ」という感じだが、
とりあえず獣から会話を盛り上げたりすることはなかった。
獣の友人たちには口八丁で場を盛り上げて女子を楽しませる奴らも多く、
女子を口説きまくっていたようだが、獣が一番モテていたと思う。
そもそも、女子の方から交際や交尾を求められることが多かった。
獣はそれらの女子は全て浮気相手だったが、獣的には自分なりに、
女子に対する考え方は真面目だったので、
誠実性を感じ取っていたのかも知れない。
また、当時の獣は極悪だったが、そのような話は当然しなかった。
誠実ながら悪そうな影に惹かれた女子も多かったのかも知れない。
「何を考えてるか分からない」とか「得体が知れない」と、
よく言われたものである(笑)
また、ビジネスの面では、獣は訪販とネットワークを体験した。
どちらも営業トークが上手くて、口八丁な人間が成功する世界である。
ところが、訪販は1ヶ月程度だったが、アポ率はダントツのNo.1だった。
ネットワークでも人に説明する時に、
無口ながら重要なポイントだけを話していただけである。
ただ、プライベートは極悪だったが、ビジネスは誠実に行なっていた。
口八丁ではないから誠実さが伝わったのかも知れないし、
また、実績に伴って信用度や知名度も広まっていった。
そして数々のビジネスで、奇跡的な成功を修め続けてきた。
ホスクラでは実績を上げられなかったが、皆が盛り上がって話している時に、
獣がたった一言、横から何かを言っただけで
「その一言で今までの会話を全部持っていかれた」と、よく言われた。
結局、一生懸命トークをしていた連中よりも、たった一言、
獣が話したことのインパクトが大きくて指名を貰えたこともあった。
そして、喋らないことのメリットは生命力を浪費しないので寿命が延び、
食事もしなくて済むようになって仙人に近づくのだ。
「ムニ」には、「聖者」や「沈黙行者」以外に、
「仙人」という意味もあるそうだ。
結局、「聖者=沈黙行者=仙人」ということになる。
また、前回の説明でもあったように、本当の「沈黙行」は内観であり、
自己発見(真我覚醒)の修行でもあるのだ。
「会話がないと、生活に潤いも何もない」
という人がいるが、それは根本的に間違っている。
会話がないと潤いがないのではなく、潤いがないから会話を求めるのだ。
なぜ潤いがないかというと、自我の意識で生きているからである。
魂の意識(真我)で生きていれば、それだけで潤った状態であり、
必要な話以外は何も喋る必要がなく、
本質的な人とのコミュニケーションに何も不自由はない。
人々の会話は往々にして自我と自我のコミュニケーションに過ぎず、
魂と魂の会話には口から発する言葉は不要なのだ。
そうなっていく為にも、人々が「沈黙行」や「種観霊」を実践して、
必要なこと以外の言葉を発さないということが求められる。
もちろん、獣も完全なる沈黙を守っているわけではなく、
時には冗談を言ったり、無駄な雑談をしたりもする。
だが、日常的には基本的に言葉を発することは少なく、
それは何も発する言葉がないからである。
ちなみに、ブログでは長々と書いているが、
それに対して矛盾を感じるかも知れないので、一言だけ言っておく。
まず、文字は音声とは異なる。
また、直感や魂のコミュニケーションは、
ほんの一瞬の出来事にして、膨大な情報量でもある。
例えば、種観霊で一瞬で感じたことでも本1冊になる程なのだ。
それを一言で書いたり話したりしても伝わらないので、
文章が長くなってしまうのである。
どのように説明すればいいのか分からないが、
何となくお分かり頂けただろうか。
ヨガや仏教に沈黙行があるのは知らなかったが、獣はそれを体得していた。
体得というと大袈裟かも知れないが、想念が出なければ言葉は出ないので、
無駄な言葉を発するということは、
雑念や感情や思考で頭が一杯なのは分かりきったことである。
それはベータ波の自我全開の状態であり、
瞑想とは程遠い意識状態であることは言うまでもない。
もちろん、無口だったら意識レベルが高いとも限らないし、
意識レベルが高くて会話力のある人もいる。
必要があれば、社交辞令的にねぎらいの言葉を使ったりすることもあるが、
それに対しても自分に反省と謝罪が必要である。
中矢氏によると、「高級な霊界に行くほど言葉は少なくなっていく」という。
だが、たった一言、たった一文字に膨大な量の意味が含まれているという。
直感、或いはテレパシーというものは、それを一瞬で感じ取るものであり、
それを人間界の言語に変換すると、文字通り、膨大な量になるのである。
当然ながら、獣が書いている記事も本当はこの何十倍もある量だが、
要点をまとめて言語化しているだけなのだ。
頭で考えながら文章を作っているのではなく、
一瞬で膨大な情報量が降りてくるので、文章を作るのに困ることはない。
ただ、それをどのようにまとめて、
どのように表現すれば良いのか左脳思考をすることもあるが、
大体は意識が虚ろな状態で自動書記的に書いていることが多い。
もちろん、記事のネタや参考文献なども本当は一切不要なのだが、
特に六六六神示(獣神示)の場合、
名も無き獣が常識外れのことを書いても誰も信用しない。
だから、裏づけとなる様々な情報を引用しているのだが、
その過程でシンクロ的に裏づけとなる記事を発見することも多い。
結局のところ、言葉を発するのは想念の結果であり、
「沈黙行」によって想念観察(自己凝視)するのも1つの方法だが、
想念の原因である潜在意識を浄化して霊体意識(超自我)に目覚めれば、
想念や言葉を発することはなくなる。
言葉を発する必要がある時は、言葉を発する前に想念を把握した上で、
適切な言葉をセレクトして言葉を発するようになる。
基本的には調和的な言葉しか発さないが、
一見、調和的ではない言葉を発する場合も、
相手が自分の投影だという認識の上で、調和の為の愛の攻撃なので
「不調和」というものとは全く次元が異なるのである。
脳波が語る調和状態
http://world888.seesaa.net/article/152551808.html
調和的な状態が確認できる「調和測定」
http://world888.seesaa.net/article/152656628.html
ネオデジタル内観の効果を「調和測定」で検証する
http://world888.seesaa.net/article/152847546.html
言葉は神(電磁波)だが、地震や雷などの電磁気エネルギー(神)が、
地球や人体の不調を調整するのと似たようなものだと言える。
言葉は神聖なるものであり、雑念や悪想念を表現する為のものではない。
「言葉が神である」ということを理解していれば、
人は簡単に言葉を出さないようになるものなのだ。
それを知る為には結局、ネオデジタル内観や種観霊で
真我に目覚めるということに行き着くのである。
「真我に目覚める」というのがイメージできない人や、
誤ったイメージを持っている人も多いと思うので、一つ言っておこう。
自我(今の自分)の意識で、
別の自分(本当の自分)の存在に気づくというものではない。
自分の意識が「自我」から「真我」にシフトするのである。
本守護神である魂の意識と一体化し、
自我(今までの肉体意識)を客観的に見るようになるのだ。
但し、獣の見解ではいきなり真我(魂の意識)に到達する人はいない。
まず、魂を取り巻く霊体意識(超自我=正守護神)に目覚めるのだが、
多くの人はそれを「真我に目覚めた」と認識するようである。
自我を自分だと思って生きている間は、魂や超自我の存在には気付かず、
インスピレーションを送ってくれる内なる自分である。
ある意味、今の自分(自我)とは全く別の意識体だと言える。
だが、「汝、守護神を捨てよ」で紹介した桑田二郎氏の「精神」の概念で、
この不可解な謎が氷解して明確に解説出来るようになった。
おさらいだが、人間は四重構造になっている。
@魂=自己=真我=本守護神
A霊体意識=超自我=正守護神
B幽体意識=想念界=潜在意識=副守護神
C肉体意識=自我(感情や思考)
それぞれ「異なる意識体」だと思って間違いない。
だが、この4つの意識以外に「精神」というものが備わっている。
恐らく、この精神が「自分を自分だと認識する意識」なのだ。
多くの人は、精神が「自我」の意識と結び付き、
自我を「自分」だと錯覚しているのだ。
だが、肉体意識である自我は、肉体が死ねば消滅するものである。
しかし、死後も意識が残るということは、
精神が「幽体意識」にシフトするということなのだ。
瞑想時に肉体意識(自我)が完全に消滅し、
肉体意識(自我)とは別の感覚の意識に目覚めるのも、
それは幽体意識だと言えるだろう。
内観の過程で、自分の醜悪な暗黒面が観えてくる時も、
精神が「霊体意識」にシフトしていると思って間違いない。
肉体意識(自我)が消滅して霊体意識だけになると、
その醜悪な暗黒面には気づかないが、
自我を保った状態で幽体意識にシフトすると、
自我の源である幽体意識(想念界)の醜悪さがよく観えるのだ。
その幽体意識(想念界=副守護神)が浄化されてくると、
更にクリアーで純粋な至福の意識に目覚めるが、
それは精神が霊体意識(超自我=正守護神)にシフトしたのだ。
今まで自我に聖なる直感を与えてくれていた内なる自分との融合である。
つまり、幽体意識の悪想念を浄化して「幽界を解脱した」という状態だが、
その時、人は「真我に目覚めた!」と思うのである。
だが、それはまだ真我(魂)の意識には到達していないのである。
ちなみに、自我で生きている間は、
幽体意識(憑依霊を含む副守護神)からの直感も多く受けており、
感情や思考、そして言葉も支配されている状態なのだ。
超自我(霊体意識)や自己(真我=魂)に精神がシフトすると、
「自分」という意識が下図の「源の光」になるということである。
それは内側でもあり、外側でもあり、
意識は肉体にもありながら、
体外離脱しているような感覚や視覚を伴うこともある。
不食とは、ただ食べないという意味ではない。
睡眠も、ただ寝るという行為ではない。
内海氏の無射精も、禁欲とは全く異なる行為である。
同様に、沈黙行とは、ただ単に黙るということではない。
その極意は、以下の記事を参照して頂きたい。
よい想念も持たないほうがいい
http://kemono666.seesaa.net/article/250013909.html


時間足りねーよこりゃ。
男は無口な方がいいよね。 色々喋りたい事があっても。
自分も獣さんとは違うルートでこの事に辿り着きました。
「頂上は一緒なんだ!」と身震いしながら。
過去スレ読んでいて何回うんうん肯いたかわからん。
お気に入りのてっぺんに入れときました。
これから自分の持論も織り交ぜて、獣さんの真意を確認していこうかと
( ^ω^)ワクワクしております。
あーもう何から話していいかわからんwやったよーw
たくさんの女性を振ってきただろうと予測が付くのですが。
そこでいわゆるその別れの際の心の葛藤とか罪悪感とか
相手の心の傷付くさまとかの究極を獣さんは必ず夢想すると思われます。
その時の対処はいかがなされてますでしょうか。
そういう「相手を振る」という境遇を自分も味わったのですが、
あまりの己の非道さに驚愕してぷるぷると無間地獄のはざまに陥り
身悶えておりました。
「うわああ、もう恋なんてしない!」、固く決心するほどに。
獣さんはその名の如く「ふははは、騙されたお前が悪い!」とか
「うまいごちそうだったぜ、シーシー」みたいな感じでしょうか?
過去ログに答えを見つけました。
獣さんに私がずっと前にどこかで書いた詩を贈る。
03/25 11:06
末裔 URL
下品結構。お下劣結構。
良い塩梅で廻ればね。
堪忍袋はナゼ切れる
苦過ぎると切れる、辛過ぎると切れる
塩辛すぎるウメボシは捨てるしかない?
いいや。水をたくさん飲んで薄めようかな。
それともご飯をたくさんほおばって少しずつ食べようかな。
水は真ん中の飲み物。(主飲)
ご飯は真ん中の食べ物。(主食)
主なるものには味が無い。
だけど、どっかり真ん中で“いいあんばい”にしてくれる。
真理を突いた素晴らしい詩だと思います!
例えばAがBにおいしいものを食べた話の場合、
まず(おいしい)という言葉自体が無限の意味を含んでしまっている。
(お菓子がおいしい。カレーがおいしい、メロンがおいしいと同じおいしいという言葉を使う。)
AのおいしいがBがそれまでにたべてBがおいしいと感じたもの(さらにAの話の全容、Aの性格、口調、それまでのAに対するすべての感想からそのAがいうおいしさはBが食べたあの感じの味だろうという予測的答え。)おいしい。に変換される。
この答えを一瞬で出し、会話はこういう風に成り立っている為、結局のところは、会話というのは予測の連続で成り立っている。そのため認識共有ツールという名前をつけているが、認識を共有しているかというとしていない割合のほうが高いように感じる。
なので言葉ではその人の経験に依存するため、あまり共有はできていない。関係性も重要で、どれだけ同じ時間を共有したかも。男女間だと割りと共有できる気がする。
普通の会話だと問題ないが、仕事にこれだと問題、誤解が生じ、争いが起こる可能性がでてくる。言った言わない等。同じ会話を聞いているにもかかわらず、結局その人の中で言葉を変換していることから起こる。
(左脳的頭の使い方が争いを起こすというたとえ)
さらにたとえばデザインとはこうだと考えている人のすべてを合わせたものがデザインの意味になります。
すべての言葉がそうなります。(辞書にある程度は意味が書いてありますが、主観がない考え観測者目線で辞書はできています。)
ちなみにマントラとは梵字で仏の言葉で一文字に数百万の意味があるといわれています。
それを唱えることで自分を浄化するのですが、ありがとうもマントラで、うれしいもマントラの理由はここからわかると思います。それが言葉の本来の意味。
補足ですが、
ちなみに否定的意味というのはこの世界に存在しないので、否定的な言葉も存在しません。否定は視点が低すぎる概念、なにかを否定するのは自分否定に直結する。のでみなさんすべてを否定するのをやめましょう。
否定には、自我による無意味な否定と、真我による有意味な否定があります。
釈迦はバラモン教のカースト制度を否定し、イエスはユダヤ教のタルムードを否定しました。
あなたも、このブログのコメントの中で、肉食や様々なことを否定しておられます。
否定そのものを否定する態度こそが否定的なのではないですか?
それはあなたの言葉通り、「自分否定に直結するので全てを否定するのをやめましょう」ということになります。