大切にしているとは言えないし、大切にしていないものに対して拘りや執着、
余計な責任感を持っているということになる。
それは明らかに心のゴミであり、
物質と共に断捨離した方が良いということである。
先祖が遺した物を大切にしなければならないのなら、
子々孫々に伝わる度に先祖の遺品が増え続けることになる。
だが、実際にはそんな事は有り得ないので、何も気にする必要はないのだ。

また、自分が死ぬ時も、何も残さないで死ぬのが正しい。
もちろん、子孫の為に何かを残すということはあるだろう。
しかし、子孫がそれをどのようにしようと子孫の勝手である。
先祖の遺品などに拘るよりも、先祖供養をすることの方が大切である。
釈迦やイエスは先祖供養を説いておらず、
獣が知る限り、内海氏も先祖供養を説いていない。
その理由は獣理論を読んでもらえれば理解できると思うが、
先祖供養は大切なことでもある。
内海康満氏は『生命を支配する陰陽の法則』という本を出しているが、
谷口雅春氏は『人生を支配する先祖供養』という本を出している。
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN4-531-05241-2.html

谷口雅春は次のように述べている。
「大地は神、根は祖先、幹は父母、自分は枝であって、
その枝に繁昌の花が咲くには根となるべき先祖を培かわねばなりません」
『日月神示』にも同じ事が説かれている。
「そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ。
先祖はそなたではないか。
地下にあるそなたの根が先祖でないか。
根のない草木はすぐ枯れる道理ぢゃ。
先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、
分家した自分は先祖はまつらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、
よく考へて下されよ。
根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。
枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。
分家しても先祖まつらねばならん。
先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか」
![tree3[1].jpg](https://kemono666.up.seesaa.net/js/tree35B15D-55637-thumbnail2.jpg)
だが、よく考えてみてもらいたい。
子孫が先祖を養うということは、枝葉が根っ子を養うようなものであり、
そんなことは無理な話である。
根っ子を養うのは大地(神)の仕事なのだ。
そこで、もう一歩進んで考えると、
人間そのものが「木」だとすると、先祖(根)も自分である。
「H光線」の篠田義市の理論では、脳が人体の根っ子にあたるという。
そこに霊(放射線)を注ぐことが、真のミソギ(霊注ぎ)だという。
それが想念の浄化や魂の向上(意識進化)に繋がることは言うまでもなく、
先祖供養にも直結するという理論が成立する。
だが、それは1つの考え方であり、実践方法の1つに過ぎない。

まず、先祖供養というのは、先祖を成仏させるということである。
ここで言う「成仏」とは、輪廻を解脱させるという程のことではなく、
とりあえず幽界から解脱させるということを意味する。
だが、幽界を解脱していない自分が先祖を供養できるわけがない。
「他者救済」は「自己究明」とワンセットであり、
自己究明(真我覚醒)しなければ他者救済できないのと同じである。
他者救済とは、他者を幽界想念から脱却させ、真我覚醒に導くことである。
エネルギーを与えて一時的に心身の病気を快癒させるのは、
本当の救済ではなく、一種のパフォーマンスに過ぎない。
また、素晴らしいマザー・テレサの活動も、
実際のところは何の意味もなかったと言っても過言ではない。

『日月神示』には次のように示されている。
「先祖は肉体人を土台として修業するぞ。めぐりだけの業をせねばならん」
「常に一切を浄化せなならんぞ。
霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。
霊体一致が喜びの根本であるぞ。
一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。
それは霊なるが故にであるぞ」
つまり、先祖供養と自分の身魂磨きは一体なのだ。
釈迦やイエスやサイババが先祖供養を説いていないのは、
そのような理由からだろう。

それは、次の神示からも分かることである。
「霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。
よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ」
「神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。
その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。
中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは正流を通じ、
幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ」
「正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、
外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。
それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。
一切が自分であるためぞ」
「神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。
幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ」
「霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。
幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜である」

幽界霊は人間の幽体に憑依するものである。
人間の幽界想念(悪想念)が波長の合う幽界霊を招くからだ。
故に、自分の幽体意識(副守護神)が幽界の先祖
(外流から来る副守護神の一柱)を招いているのである。
先祖を20代遡れば100万人と言われているが、
人間に憑依している外流の副守護神(幽界の先祖)は膨大な数になる。
当然ながら、一体ずつの浄霊などできるはすがない。
隈本確は、神霊治療は先祖供養でもあると言っているが、理論的にも正しい。

結局、高次の神のエネルギーを引けば
自分に憑依する全ての霊が浄化されるということである。
但し、ここでは、神霊治療を受けるという話をしているわけではない。
要は、神のエネルギーを心身に浴びることができれば、
先祖供養になるということである。
数日前、この文章を書いていることを夢で見たことを思い出した。
さて、神のエネルギーを引く為には、神と波長を合わせる必要がある。
その為には、幽体意識(想念界)を浄化して、
魂(本守護神=大神の大歓喜)の意識、つまり真我に目覚めることが必要となる。
即ち、真我に目覚めれば、先祖供養も完成するのだ。

順序立てて説明すると、人間は自分の幽体意識や
先祖霊などの「副守護神」に操られて生きている。
普通の先祖供養では、先祖の冥福を祈ったりお経を唱えたりするが、
そのようなことは全く意味がない。
自分の想念が幽界レベル、即ち、副守護神に支配されている状態で、
幽界の先祖(外流の副守護神)に波長を合わせて
パイプを太くしているだけだからだ。
従って、全く意味がないどころか、自分の心身がますます不調になり、
不幸や災難が増えるだけなのだ。

その副守護神を改心させることが「自己救済=先祖供養」であり、
その為に食事改革と内観による「身魂磨き」が必要となるのだ。
人間は全先祖の遺伝子を受け継いだ「結果」である。
自分の人生は、無数の過去世と無数の先祖のカルマの投影なのだ。
自分の人生で起こる出来事を「理解」するということは、
自分(先祖)のカルマを解消して「先祖供養」をしていることになる。
そして、真我(魂の意識)に目覚めるということは、
本守護神(大神の歓喜)に目覚めるということである。

それは、霊体意識(正守護神)に流れ、次に幽体意識(副守護神)に流れ、
そして肉体意識(自我)に流れることになる。
幽体意識(副守護神)に真我の光(大神の歓喜)が流れた時、
無数の迷える先祖霊が浄化・救済されることになる。
そして、肉体意識(自我)に流れてくると、
無駄な思考や感情は消滅して至福の境地に到達するのである。
その真我の光(魂のエネルギー)の源は、トータルセルフ(一霊四魂の一霊)である。
トータルセルフは根源神ではないが、一霊四魂の一霊は「主神」と表現されている。
真我(魂の意識)に目覚めると、それと直結して5次元エネルギーが流れ込むのだ。

つまり、自分を「木」だとすると、トータルセルフは「土」である。
自分(枝葉)がトータルセルフ(土)と直結することで、
根(先祖)が養分を吸収し、枝葉も栄えていくことになる。
『日月神示』には次のように示されている。
「自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。
限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。
一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ」

「だが、根は最初から土と直結しているが、
枝葉は土と直結していないではないか」という反論があるかも知れない。
それについて言うと、枝葉や根や土というのは1つの喩えなので、
あまり細かいことは突っ込まないでもらいたい。
要は、自分の想念を浄化(副守護神の改心=カルマの解消)して、
神なる意識(魂=真我=本守護神)に目覚めることが「真の先祖供養」なのだ。
但し、ここでまた複雑な問題がある。
獣の世界で獣が先祖供養を果たしても、
それが御父や聖母の世界の先祖が救われているかどうかは別問題なのだ。
但し、獣の子孫の世界では、先祖供養された世界(遺伝子)が受け継がれる。

尚、生長の家では、「本尊や仏像や位牌は単なる物質ではない」とか
「墓参りが大切」だと説かれているが、それは次元の低い信仰である。
というよりも、人間型ゲシュタルト思考が生み出しているものなのだ。
もちろん、魂の意識に到達して真我に目覚めるまでは、それも必要だが、
それは真我(神)を知らない段階だから必要なことに過ぎないのだ。
どういう事かというと、魂の意識に目覚めて自分が本守護神になると、
自分の肉体そのものが「物質的な本尊(守護神)」となるのである。
そういえば、獣が祭壇解体や神仏像類の断捨離の啓示を受けたのは、
ちょうど内外反転の感覚が生まれ始めた前後のことだったので、
獣の「精神」が魂(本守護神)にシフトする時期だったのかも知れない。

当然ながら、本尊(物体)に向かって唱えるのではなく、
胸を意識して自分の想念界(幽体意識=副守護神)に向けて
唱えることを忘れてはならない。
獣はこの何年か唱えていないが、名古屋時代は毎朝唱えていた。
今は唱える必要がないと思って全く唱えていなかったが、
この記事を書いたことを機に、獣も今日から唱えようと思う。
名古屋時代の獣の祭壇

『日月神示』に基づく「御先祖様の拝詞」
此(これ)の祖霊宮(みたまや)に神鎮まり坐(ま)す。
遠津祖神(とおつみおやのかみ)、
代々(よよ)の祖霊神達(おやかみたち)の御前(みまえ)、
また親族家族(うからやから)の霊祖神(みたま)の
御前(おんまえ)に謹み敬(いやま)いも白(まお)す。
此(これ)の家内(うち)には諸々の曲事(まがごと)、
罪穢れあらしめず、夜(よ)の護り、日の守りに守り幸(さき)わい給い、
まこと神国(かみくに)の御民(みたみ)としての義務を全うせしめ給え、
夜の護り日の守りに守り、捧ぐるものの絶間(たまま)無く、
子孫(うみのこ)の弥栄(いやさか)継ぎに栄えしめ給えと畏(かしこ)み畏みも白す。
惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)、惟神霊幸倍坐世

冒頭の「此の祖霊宮」というのは、
目の前の神棚や仏壇のことだが、本当はそうではない。
神棚や仏壇も自分の投影であり、本当の神棚や仏壇は
自分の胸に存在することを忘れてはならない。
神社や寺を参拝する時も、拝殿や本堂が
自分の胸に存在するということを忘れてはならない。
当然ながら、神仏や先祖は己の胸中に存在し、
胸の想念界によって交流が可能なのである。
獣の家には仏壇があるが、獣は仏壇に向かって拝んだりはしない。
生長の家の教えには反するが、
仏壇や墓などは不要なので本当は処分するべきである。
遺骨もろとも墓地も流された311のようにゼロに戻すことである。

釈迦も、自分の死体を燃やしてガンジス川に灰を流すように指示し、
自分の墓を造ったり神殿に祀ったりしろとは言わなかった。
そもそも、墓というのは無気味なだけであり、
墓に先祖の霊が宿っているわけではない。
仏壇も同じで、いずれも土地や部屋の面積の無駄使いに過ぎない。
進化した宇宙人や5次元のトータルセルフが、
家の中に仏壇や神棚を設置して拝んだり、
墓参りに行ったりすることはないはずだ。
そのようなレベルに到達すること(真我に目覚めること)が
最も重要であることを肝に銘じてもらいたい。

「そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。
それはまだまだ未熟な事ぞ」
獣は祭壇を解体して、祀っていた物体を徐々に処分し、
去年は自分の本守護神の御魂鎮めをした本尊カードも
日本中央の生島足島神社に埋葬してきた。
生島足島神社 in 長野(2011.10.14)
http://messiah666.seesaa.net/article/231991460.html

そして、今回の記事の核心をご理解頂けただろうか。
自分の意識進化、即ち、想念を浄化して
真我に目覚めることが「先祖供養」だということである。
「先祖は肉体人を土台として修業するぞ。めぐりだけの業をせねばならん」
これは人生での体験(カルマの結果)を、内観(種観霊)によって
「理解」に繋げ、カルマを解消するということである。
だが、それだけではない。
「みたまとは身と魂と一つになっているもの言うぞ」
霊体一致の真理から言うと、
先祖から受け継いだ肉体(血=霊)の浄化を疎かにしてはならない。

「人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものである」
と示されている通り、霊的に見れば、肉体は最も波動の低い粗雑な物体だが、
その反対の側面から見ると逆なのだ。
オコツトによると、意識進化によって真の覚醒をすると
肉体の削除(アセンション)が起こるが、肉体は最高次元の存在だという。
また、人間と宇宙の誕生は同時存在であり、
人間(肉体)のない宇宙は存在し得ないという。
それは人体が大宇宙だからであり、大神(人体)が宇宙を内包しているのだ。

その意味は理論的に理解できると思うが、
『日月神示』にも次のように示されている。
「今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、
肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か」
その側面から言うと、食事改革や水を飲むことが、
体内浄化(意識進化=先祖供養)に直結しているということである。
また、次のように示されている。
「この世ではそなた達が神であるぞ。
あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。
それがカミと申してゐるものぞ。
あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。
あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって、限りないのであるぞ。
裏から申せば、神様の神様は人間様じぢゃ。
心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな」
人間の肉体は大宇宙(神様の神様=大神)であり、
神々や先祖の守護神ということである。
即ち、汝は先祖の守護神であり、
守護神であるが故に先祖霊を救済できるのだ。
その肉体(血)を邪食や悪想念で穢すことは、大宇宙を穢していることであり、
自我(欲望や感情)によって大罪を犯していることは疑いのない事実なのである。

汝は、先祖の守護神である!
守護神だからこそ先祖を救うことができるのだ。
その守護神たる人間が、未浄化な幽界想念で魂を曇らせ、
肉体を穢しているのは、無自覚・無責任と言わざるを得ない。
先祖のカルマによって、悪い出来事が起きたり、
大病を患ったり、不幸な人生を歩まされている人もいる。
大なり小なり、それは誰にでも当てはまることである。
そう考えると、先祖は有り難くない存在で、
救ってやる気をなくすという人もいるかも知れない。

だが、先祖がいなければ自分は存在しておらず、
先祖カルマがなければ自分の身魂磨きも出来ないのだ。
そして、自己救済が先祖供養に直結しているのである。
本質的な面から言うと、自分が存在しなければ先祖も存在しない。
先祖も自分が映し出しているからである。
もちろん、先祖はこの世を去った者たちだが、
自分の世界では自分が先祖を創り出し、自分の肉体を霊廟としているのだ。

当然ながら、無数の先祖も自分の投影であり、
無数の迷える先祖霊が六道輪廻を繰り返して苦しんでいるのも
全て自分の責任だということを理解する必要がある。
先祖カルマも自分が創り出したものであり、
全責任は自分にあるということだ。
全責任を取るということは、全先祖救済の義務があるということである。

真の先祖供養とは、自分の身魂を磨いて真我(本守護神)に
目覚めることだということが理解できれば、
「先祖供養」について何も意識する必要はない。
食事、聖行為、睡眠の三大修行、日常生活の中での内観(種観霊)
による理解と浄化、それらは全て先祖供養に直結しているということだ。
そして、自分が真我(本守護神)に目覚めた時、
自分の世界の全先祖霊(自分の投影)が救済されるのである。
特別な「先祖供養」というものをするならば、
『日月神示』の「御先祖様の拝詞」を、内なる先祖に向かって唱えると良い。
私の乱文を理解できるということは、ごだいさんの理解力も素晴らしいものです^^