2012年05月21日

鏡を用いた自己へのメッセージ2

鏡を使った自己暗示は効果的だが、
潜在意識の使い方を間違った自己暗示が横行しているので、
なるべく余計なことはしない方が良い。

ニューソートのマーフィー博士の本などを読むと、
様々なアファメーションの言葉が載っているが、
それが意識進化に役立つものばかりとは限らず、
欲望と信念を潜在意識にすり込むようなものも多い。
また、願望が沢山あれば、その願望に応じて
沢山の種類の自己暗示をしなければならない。

world_7_img.jpg

そこで今回は、朝起きて鏡を見た時に
実行してもらいたいアファメーションを紹介する。
これは世界最大のニューソート団体と呼ばれている
「生長の家」で教えられているものだが、
欲望に基づくものではなく、これさえ唱えていれば
オールマイティーという優れたアファメーションである。

また、1日は一生の雛型であり、
朝は誕生であることを理解した上で、以下の言葉を唱えて頂きたい。
これを暗記して、毎朝、鏡に向かって言うだけである。
家族に聞かれたくなければ、小声や心の中で唱えても良い。
もちろん、いつでもどこでも、1日に何回唱えても構わない。
重要なことは習慣にすることだが、まずは今、唱えてみて頂きたい。

われ新たに生まれたり
われ神の子なり
神の持ち給える一切の善徳をわれは持ち
常に神に祝福されて
健康に裕に幸福に
あらゆる希望は必ず成就するのである

posted by ZERO at 08:52| Comment(280) | 瞑想と祝詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
瑞草会さまのHP:http://www.geocities.jp/zuisoukai/

「旧約聖書」のエゼキエルの「墓」の予言は、古代イスラエル十部族の末裔の復活を予言し、漢字の「墓」を開くことによって、日本という国がイスラエル十部族の建国した国であり、その末裔が我々日本人であることを知らしめるための証としたのである。
『旧約聖書の予言の国 日本の役目』

どっから出た話か、すこぶる疑問ですが、わたしの解もこっちへ行くから仕方ない・・・
「その末裔が我々日本人である」・・・のであれば、そろそろ『失われた十支族党』とか、立党してもらいたいものです・・・

いったいそんな人間、日本のどこにいるの???

しかし、自分がそうだと思わなければ始まらないのでしょうね。
日本人は宗教を奪われた国民なのだ。
そして信教の自由を与えられ、結果、真の神を隠された。


倭姫命が天照大神の御杖代となって・・・の杖は、マルドゥクの剣であり、アロンの杖かもしれない。

「マルドゥークは神々の支配のシンボルのシムトゥと魔力ある怪剣を持っていた。
そして日本神道の最高の祭主である天皇家では、
支配のシンボルの八咫の鏡と草薙の剣を三種の神器の二種としているし、
日本神道の大元である物部氏の祀る石上神宮には天下万物聚類化生大元乃神宝があり、霊力ある神剣フツの御魂があった。
シムトゥと神道は同じであり、シムトゥが八咫鏡(天下万物聚類化生大元乃神宝)であり、魔力ある怪剣が草薙の剣や神剣フツに相当することになる

・・・・・

弥勒寺の名の弥勒はアッカド・バビロニア神話の主神マルドゥークのことであり、マルドゥークの持っていた神々の支配のシンボルのシムトゥが明宝蓮華鏡であった。
虚空蔵菩薩は摩尼宝珠(如意宝珠)を仏格化した仏であり、
如意宝珠とは妙法蓮華鏡のことである。
山幸彦は海神ワタツミから塩盈珠と塩乾珠を授けられた。
これが如意宝珠であり、妙法蓮華鏡だったことになる。」

摩尼宝珠については、ウリムとトンミムではないか・・・と思っていましたが、マルドゥク=エホバであるなら、この期に及んで、どちらでも結果は変わりないかも・・・


三種の神器が物質でできているのか、修法で獲得するのかはわからないけど、修法といっても、それについての知識を深めるしかないのでしょうから、考察は続けるしかないでしょう。

とりあえずは6月6日まで・・・全力で・・・
Posted by クズシノメア at 2012年05月28日 19:58
おぉ、あの素晴らしい考察のサイトは瑞草会さんという方でしたか!
日本はそうかもしれませんが、倭奴国(アイヌ)も忘れちゃなりませんね!
もしくはイスラエル2支族や、その他も混じってそうですしハイブリッドでしょう!
月神シンと太陽神ウトゥの合体した名ですか・・・日月ですね。
地の神エンキ−マルドゥクで、日月地の大神になるのでしょうか?

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2084.html
「シュメールの天神アンの子の地水の神エンキの子がマルドゥクですが、彼は神々の支配のシンボルを授けられた。後に、このマルドゥクの性格が契約の神の「ミトラ神」(ミスラ)と宇宙森羅万象の秩序と運行を支配する「ヴァルナ神」(バアル→バール)に分けられたのだという。つまり、ミトラが契約を祝福し、ヴァルナが契約の履行を監視し契約に背いた者には罰を与えるという相互補完の関係になっているのです。

これは人類に知識を与えたエンキとその知識で人口が増え過ぎた場合に削減するエンリルの関係と同じです。ヴァルナの名は「牛角(ヴァル)」が由来であり、また「天の雄牛」を屠るとレリーフに刻まれるミトラはその性質と名から「牙の王」である「虎」を示し、ヴァルナ・ミトラで「ウシトラ」となるのですが、勿論、これが「艮(ウシトラ)の金神」ですね。
つまり、ミトラ・ヴァルナ=マルドゥク=艮の金神なのです。」

「マルドゥクに与えられたシムトゥ(神命)は、日本の「神道」の言霊の由来であり、シンドゥ→ヒンドゥ(インドのヒンドゥ教)であり、インドやインドラ神の名の元となった。

雷を操るインドラ神は「釈提桓因」と漢訳されますが帝釈天のことです。帝釈天(インドラ神)は須弥山のトップに住むことから主神とされる存在ですが、梵天と対になる神として知られていますが、これは仏教の天部思想の故であり、本来はアスラ(アシュラ)と対になる存在なのです。

即ち、香取(経津主神)・鹿島(建御雷之男神)の両宮は、実は、アスラとインドラ、エンキとエンリル、ミトラとヴァルナの「地神」「天神」という補完的対立神を祀っていたのです。」

「蔵王権現=国常立尊=艮の金神= スサノオ=牛神ヴェルナ=蚩尤=エンキ=ルシファー」
「メソポタミタ神話では人類に知識を与えたのがエンキであり、その知識を使って文明が発展して人口が爆発的に増え過ぎた場合、「裁きの神」としてエンリルが登場するというストーリーになっていますが、この人類に知識を与えたエンキがエノク書のシュミハザ率いる「グリゴリ」です。この話が元となってバビロン捕囚時にユダヤ教の旧約聖書が創作された際に、「エデンの園で蛇に唆され知恵の木の実を食べたアダムとエヴァ」「天使の長から堕ちた堕天使ルシファー」の説話として挿入された。

日本の「地神」に相当するのがエンキで、「天神」がエンリルだと睨んでいる。」


ここも難しそうですが、面白いです。
荒覇吐神 女神アシェラタ
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2809
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月28日 21:20
さあ、2支族については・・・なんの啓示もありませんから・・・
2支族はそもそも失われてはいないのでは?

はっきりとした境界線というか、領域を定められないので、これはもう、ひとりひとり己の遺伝子情報と相談していただくしかないですね・・・
自分がどの民族の血を引いているかは、自分でもわからないし、ひとりひとり遺伝子解析しても、それが自己同一性を保証できる自信は誰にもないでしょう。

わたしの場合は・・・・・・エホバとの契約があると信じているので、それを全うする努力を続けるだけですね。
パーティーはみんなで楽しむけど、宴のあとは・・・結局、死ぬときの痛みは自分だけのものなのですから・・・

ハズさんはみなさんのことを考えておられるようですが、わたしは自分のことで精一杯です。
自分のグループからひとり出せば、とりあえずは所属集団の責任だけは果たせる・・・

ここでお会いしたのもなにかの縁だったのでしょうが、あなたの霊界がわからないとなんとも・・・
わたしは自分に無関係のことは関知しません。

エホバといっても、人に仲介されたわけではなく、ある日突然示現したのですから、わたしに起こるくらいだから、みんなにも起こるだろうと考えています。
起こらないのはわたしの責任ではないです。

ここまで来るのにあなたはパートナーでした。
これからもそうなのか、それは・・・おそらく・・・いまこそ分れ目かな・・・(忍)

わからないことあったら、また、聞きにくるね。
なんか外界が大変なことになっていってる気がするから・・・

愛しのハズへhttp://www.youtube.com/watch?v=pTdJowGi0UI&feature=relmfu
Posted by クズシノメア at 2012年05月28日 22:07
外界?
また、その時は・・・(礼)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月28日 22:20
せんせえ、やってまいりました!!

今、読み返してて、

大物主のお告げを受けた三人って、ひょっとして三王朝にそれぞれゆかりの者どもでしょうか?


・大水口宿禰
・倭迹迹日百襲媛命(倭迹速神浅茅原目妙姫)
・伊勢麻績君

え〜と・・・出雲と秋津島大倭豊王朝と、尾張王朝・・・でも名前3・1・2になっとらんな・・・
Posted by クズシノメア at 2012年05月28日 22:59
あ!早っ
すいません、コメに気付かなかったです。
え〜っと、後ほど調べてみます。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 09:03
上のふたりはともかく、伊勢麻績君については誰のことなのかさっぱり・・・

麻績氏や麻績連、麻績神社・・・と検索では麻の忌部氏や、海人族とのつながりが上がってきますが。

年代が合わないのでしょうが、興味深いのは麻績王。
大友皇子との説もあるみたいです。


麻績王(おみのおおきみ)っていったい誰なんだろう。非常に海人と関係が深そうなのだが、その消息は、僅かに日本書紀と万葉集と常陸国風土記でしか伝えられていない。

万葉集巻一、麻績王、伊勢の国の伊良虞の島に流さゆる時に、人の哀傷しびて作る歌、

打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります 読み人知らず
(麻績王は漁師であられるのか、漁師でもないのに伊良虞の島のよい藻を刈っていられる。)

そして、その答歌、

うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む 麻績王
(この世の命が惜しさに私は波にぬれて、この伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです。)

「日本書紀」によると、天武四年四十八日、三位麻続王に罪があって因幡に流された。一子を伊豆島に、一子を血鹿(値嘉)島(長崎の五島列島)に流したとある。しかし、「万葉集」では、流罪地は伊良湖岬ということになっているし、「風土記」は潮来(霞ヶ浦)だという。いずれにしても、いわゆる貴種流離潭の一つで、何の罪があったのか、何天皇系の王族なのか、全く詳細は分からない。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ominoookimi.htm
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 09:07
あ、すみません、おはようございます。

投稿してからナルちゃんの駒木諏訪神社のご由緒が大友皇子じゃなかったっけ?と思って・・・結局、高市皇子(の後裔)だったのですが・・・

http://www.suwano-mori.com/lst16229/dt3501.html

ややこしいですね。
大友も高市も・・・同一か創作人物ってことはないのかな〜
二系統立ての始まりは、ここからなんですよね?
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 09:27
三人がおなじ夢を見るというのは、啓示なのでしょうか・・・
わたしがコメント開始3年
ハズさんが、2年
越楠総裁が、1年・・・

おそらく霊界は別なのでしょうね。
別という立場からおなじ夢を見る必要がある・・・
いや、もうおなじ夢を見ているのかもしれません。
大物主=閣下という・・・


天台智ギの生まれ変わりと関係についてはわからないですが、知りたいと思う気持ちがあるのです。
天武朝において九州から近畿への遷都があった・・・?

「しかし今度、
藤原京から平城京の遷都に伴い、
飛鳥四大寺である大官大寺、法興寺、薬師寺、川原寺(弘法寺)がそれぞれ、
大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺と名を変え、
またかつての飛鳥四大寺の現物の全部と言わないまでも一部が
移建・移座にあったことを見るなら、
『日本書紀』が天武による九州から近畿での大和朝廷の開朝を隠すために、
筑紫から豊前への神武東征の豊前王朝の開朝を、
瀬戸内海経路の一行を造作することによって、
天武の大和創業の業績を隠し、
天智を新皇祖とする正史を完成したことを思うとき、
天武のよる九州から近畿への遷都を我々は押さえそこない、
それに伴う九州から近畿への大寺の移建・移座を見失ってきたのだ。」
http://trakl.exblog.jp/17083150/

破地獄閣下・・・ご裁断を。
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 11:36
麻績王は確かに分からんですね。
柿本人麻呂が三輪高市麿のことで、高市皇子と親友だから、「高市」が付いているともあります。「稚建」が正式???

高市(稚建)皇子=文武天皇のようで・・・天武の子
大友皇子は天智の子で、「大智」が正式???

二系統の始まりは、さらにその父、聖徳と舒明から。
上宮王家vs下宮王家(妄想説ですが)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 11:37
二系統並立については、形式的に重要な感じがしています。
皇統保持の理念として必要というか、形式的にでも二系統を造らねばならぬみたいな。
上宮と下宮もそれに分類できますか?

なぜ万世一系を掲げながら、実際は二系統なのかは理解に苦しむのですが・・・


天武朝における遷都の有無についてはどうでしょうか?
そこに気が向いたのは、
「天武十三年四月には、福楊という飛鳥寺の僧が獄中で自殺するという事件も起きている」等の天武朝における変について読んだからなのですが・・・
http://iyukiainosaka.kitunebi.com/4syo.html

麻績王だけでなく、諸王三位とされている人物、不遇な感じだったので・・・

麻続王 - 天武天皇4年(675年)4月18日、因幡に流される[1]。
屋垣王 - 天武天皇5年(676年)9月12日、筑紫大宰、土佐に流される。
稚狭王 - 天武天皇7年(678年)9月没。
高坂王 - 天武天皇12年(683年)6月6日没。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 12:22
万世一系は、二系統を隠蔽するために掲げたのではとも思います。

天武の遷都とは、何とも言えませんが、やはり「神武」の一人ということなのか???

Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 13:12
神武のひとりという意味がよく分かりません・・・

では、邇波言壱氏の三王朝について確認させていただきたいのですが・・・

邇波言壱著作 出雲王朝:
http://www.pleiades15.net/history/folder27/niwa.htmlより


毛人語とはアイヌ語?

アイヌで構いません。
イスラエル人の祖ヤコブの兄弟のエサウの子孫です。
明治時代の酋長にラサウは、そこから来てますし・・エサウはエドム人の祖先でして 、
エドモと訛り江戸や出雲や和泉に変化しました。
出雲王朝は、元出雲のある邇 波国{丹波・丹後・但馬包含}におり・・
其処に来た理由は、邪馬台国の調停を 受けた魏の停戦勧告{檄文と官軍の旗}から監視の為です。
倭国の大乱の正体です。
その前は、江戸にありました。
丹波の神様は東から来たと伝承に在る通りです。」

・・・丹波の神様は東(江戸)から来た・・・となっています。
そこに来た理由は、邪馬台国の調停を 受けた魏の停戦勧告から監視のため・・・ちょっと意味不明ですが、魏が介入しているということですね。

まずは、「出雲王朝は江戸からやって来た」でよろしいですか?
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 13:28
真偽は別として、あの説では
神武の事績は、景行(倭讃)一部+応神(倭武)一部+天武(倭建)一部+創作から構成。

僕はおそらく、徐福、崇神の一部も入ってるような気も・・・

あと長いですが
「西暦に入り朝鮮半島から大挙九州北部に居住し始めて、本体は高地性集落を用いて
道教の信仰により東海三神山(東海地方)を目差し東方へ進み、原住民と交戦となります。
(中華から見る倭国の大乱)

邪馬台国時代には魏の停戦指示を取り付けるまでに発展しますが、平和な時期を享受し
東海地方や北陸まで居住しますが、原住民は東海、北陸の弥生人を扶余人傘下にして
350年、10月15日から16日の未明にかけて邪馬台国を滅亡させます。

邪馬台国は道教を信奉し、東海三神山の地を目差して大陸から移動して来た人々からなり漢民族(竜族)の兄弟分にあたり
内地へ進み(竜宮とは邪馬台国の都を指します)女性の多い国家で、瞬く間に人口が増え近畿地方に都を建てると、東海三神山の東海地方にも進出し原住民の毛野(狗奴)と戦争になり、女王を立て国難を、魏からの停戦指示を取り付け乗り切り融和が図られますが、人口増加率が高く、原住民は、朝鮮半島で、傀儡の王をしていた扶余人を東海地方の古伊勢湾から上陸(安八麿郡長屋・・・長屋王の長屋は此処から取られた)させ旧東山道より邪馬台国を討ち(東海、北陸の邪馬台国連合も参加)新王権を樹立させますが、中華に対してはそのまま邪馬台国の後裔を名乗り倭氏を称します。

骨壷に遺骨を入れる箸は、この世とあの世を繋ぐ道具と見做されますが、箸墓も王朝交代を示す墳丘で、作り直されて前方後円墳に改装して卑弥呼の遺物崇拝も行われた様です。」

「邪馬台国とその後の王朝に連続性は無いです。

「邪馬台国(弥生人)と敵対した句奴(クナト神、毛野)で、邪馬台国と和平を結んだ大国主(縄文人の末裔と言うべきか)で、
和平後関東より遷都し山代に王朝を置きました。

ヘブライ人を決定権の無い傀儡の王に招いた邇波彦で、(王彦で通用する。その子矢田彦は出雲に遷都)
直系は合議制を維持していた中心人物の弟で、ナガスネヒコは邇波矢田彦の孫、彦佐須伎の子で、本名を明国彦と言い小野氏や海部氏の祖です。」

「弥生人は女性も信仰対象にしており女性が多い人種でしたから、
国家の危機に際して女性が擁立されたのは自然な成り行きでしょう。
関東地方のクナトの神、大国主の句奴(毛野)国との戦いは長期に渡るものでしたから・・・
邪馬台国より東側の弥奴(美濃)国や東海北陸の弥生人は邪馬台国の攻撃を容認しました。
九州南部は8世紀まで隼人の自治下にあり大和朝廷も自らの支配権を行使できませんでした。
弥生人が、その領域に国等作れない事は言うまでもありません。」


読み流す程度でどうぞ(汗)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 13:44
これも中々、面白いです。

「倭武大王が、宗教革命を行い銅鐸祭事(しゆう崇拝)、日奉氏の卑弥呼の墓での祭事
等を終わらせています。自信も洗礼を受けミカを名乗りました。
但し、為政者として非情になれるので密かに小乗仏教を信奉し、表面上は信心深い
斯波(景)教徒でした。この宗教は政治に関与しないので、忠実な国民を育てる上で
寄与しました。ですが、密かに行っていた小乗仏教が、所謂蘇我稲目の注目を浴びる事で、広まり始めます。

ただこの斯波教は、藤原の傀儡政権を嫌う聖武天皇の宗教改革で、国教としては廃止に追い込まれ
仏教で養われるようにとの思いを込め大養徳(やまと)国の漢字を当てはめます。
小乗仏教徒の横暴で、危機的状況を見た桓武天皇は、小乗仏教に聖書の教えを混ぜ合わせ
を空海や最澄に命じ、影響力を低下させた現実が伝承されています。
清少納言(聖書納言・・聖書を学んだの意)等、混ぜ合わせた不純物を取り除いて回帰した人々もいます。」
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 13:50
そんなに一度に無理です。

出雲は江戸からやってきた・・・それをまず確認させてください。
あなたの所感を知りたい。
わたしはあなたの思考に興味があるのです。
邇波氏の説をここに引用するのは、まずあなたありきです。

神武も神ではありますが、人間神武に興味はないわけです。
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 13:57
江戸、武蔵になるでしょうか???
「津軽に都を後に武蔵野に都を持つ」

もちろん引用する以上、支持してますが・・・あてにはならないかもしれません(笑)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 14:10
天武朝における九州から近畿への遷都の可能性についてはどうですか?
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 14:14
僕の観点からは無いです。

天武は藤原京遷都の前に死去していて、実は藤原宮(不死(蓬莱)原で東三河)に遷都を決めていたらしく、子の高市皇子が一時、藤原宮を築いたらしいですが、その後大和にこの名称と共に祭祀も移されたとか何とか・・・誰が大和に移したのか不明
大津→東三河→大和(高市皇子が遷都したのか、持統なのかよく分からないですが)を支持してます。

他のサイトでは、天武は信濃へ遷都しようと思っていたらしいって説もありました。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 14:29
大津は天智でしたね。
天武は東三河にいた・・・らしい。
持統の三河行幸は、天武の御落胤狩り。
持統(広野)の子、草壁皇子を中臣大嶋に殺されたからとか何とか・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 14:33
では、前の秦さんの記事、秦氏の九州における埋もれた事跡の有無についてはどうですか?

わたしとしては、知識に段階があるように、今は九州を基点に捉えて学んでいます。
東北には行ったことがないので、いずれ行くことがあれば、感じるかもしれませんが、感じないことには縁はないので・・・

人にはそれぞれ知る時というのがあると信じています。
その「時」と、「出逢い方」ですね。
それがアイデンティティを決定するのだと信じています。

おなじひとつの真実でも、出逢い方は人それぞれで、それを尊重することが愛であり、寛容だと思います。
不寛容ということ、イントレランスが歴史の悲劇であり、わたしのもっとも憎むべきものです。
Posted by クズシノメア at 2012年05月29日 14:38
何ともですが、扶余王族が作った大宰府などの甘木王朝の遺跡や、邪馬台国も徐福も九州に最初は上陸してますし、遺跡や伝承があっても不思議ではないです。

倭武は九州(甘木ですが)から東遷したのは、神武の伝説通りですし・・・倭武が応神なので、宇佐八幡など祀っていても辻褄は合います。

邪馬台国連合みたいな感じだったと思いますし、西へ西へ残党は逃げ最終地が吉野ヶ里とかなんとか・・・

箸墓から百体神社へ卑弥呼の遺物も移動させたとか・・・

ただ、南九州は隼人を征討後に大規模な地名移動、古墳整備をやらかした可能性はあります。

だから、九州も重要なのは確かですね!

でも九州か大和かは永遠に解決しないでしょうね・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 14:52
昨日から、玄米食始めたのですが、その場の思い付きで適当な配合で炊いたら
、なんか体調が?!になったので、フリーズしてました。^^;
どうも、効果のある!?配合かもしれないので、引き続き研究開発に専念します。(忍)

総裁は、この配合ライスを「回天ライス」と名付けました。(笑)
回天http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%A4%A9

>ハズさんには、いついつまでも総裁と呼んで貰いたいです〜(忍)^^
逆に、ハズさんはどう呼ばれたいですか?(太子?種子さん?)

>天武天皇の参考にどうぞ
天武天皇の謎を解く
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/

草薙剣の祟り
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-18.html

天武って、なんか悪の大王なのか!?
悪党(大楠公)と悪の大王の末裔の総裁は、
やはり、悪の総裁です。(汗)^^;
http://www.ntv.co.jp/zip/gatchaman/09.html
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月29日 20:27
そうですか!では、総裁、
僕はハズでも、閣下のように種でも何でもオッケーポンプです。(ポンプ懐かしいなぁ・・・笑)
天武は悪の大王なんかではないですよ!!
そう貶められているのは、後の不比等&桓武の仕業・・・のはず
一般的!?な考えでいくと、自らの悪行を天武に押し付けた「悪」の側かなと思います。


ただ、本人は道教に傾倒し、不老不死を追及するあまり、不老不死の秘薬を熱心に研究し、忠臣の部下にも飲ませて自らも飲み続け、おそらく水銀中毒で崩御・・・らしいです。

そういう意味じゃ、間違った不老不死に囚われて生に執着し過ぎた「悪人」とも言えそうです。

秘薬を飲み続けたカルマを総裁は背負っているのかも・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 21:21
クズさん、参考にどうぞ〜(流し読みで)^^

エンキとエンリルとアヌンナキについて
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1301522486/
【人間の創造について】

・シュメール神話
〜ラムガ神(木工、指物師の意)が殺され、
その血が人間に取り込まれている。
・アトラハシス物語叙事詩(大洪水のお話)
〜ウェー・イラという神が殺され、その血が人間に取り込まれている。
・エヌマエリシュ(バビロニアの創世神話叙事詩)
〜ティアマトの息子でその軍団の長であるキングーが、
マルドゥクに殺され、その血から人間がつくられた。
※この神話で興味深いのは、人間の中に支配者側の神々にとっては敵の血が
入っていること。

上記3つの神話で共通しているのは、人間の中になんらかの神の因子が
あること。 そして、その創造の動機は神々が行うべき労役を負担するためで ある。まあ、人間にとっては労働用ロボットをつくるような感覚になるのであろうか・・・・・・。


>太子〜!、思わず笑っちゃた^^
おはよう忍者隊ガッチャマン「ギャラクターの掟の巻」

「小さな悪からコツコツと」「悪そうなヤツはだいたい友達」「暑さ悪さも彼岸まで」「悪は死にましぇん」「そうだす、私が悪なオジサンです」を、メンバーに復唱させるベルクカッツェ。だっふんだ。(笑)


>そうそう、草薙剣の材質メタセコイアの木なら、我が阿倍野神社の拝殿近くに植えられています。
http://machikomizaq.jp/users/os-tennoji01/article/301/
メタセコイアの化石
http://www.c-hino.org/hino_history/view/192.html

草薙剣の材質に、ふさわしいと総裁は思います。(忍)^^
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月29日 21:31
総裁、コレですね!(笑)
http://next884mat.at.webry.info/201105/article_9.html

セコイアは高木神の高木でもあるのでしょう!
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月29日 21:52
では、天武天皇も大楠公も
悪のレッテルを貼られちゃった芸人・ですね!(安堵)^^

不老不死の追求 水銀毒死って、秦の始皇帝つながり!?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311643748

実は、総裁も不老不死の為に水銀を飲んだ事あります。(ホント)^^;
http://www.nekobatake.com/catalog183.html

総裁も、天武天皇の因縁(毒)を、回天ライスで排毒して、
呪い・祟り・に勝利したいです。(忍)^^

「悪は、死にましぇん!」(笑)
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月29日 22:06
ハズさん、わたしは真剣だと前に言ったら、あなたは「ボクも真剣です」とおっしゃった。
覚えてらっしゃいますか?
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 00:50
真剣だとおっしゃたように記憶しますが、あれは閣下だったのかもしれませんね。

邇波氏の説を検証するのを忘れていたので、ヤジローを通過した今、それをするべきか・・・と思っていたのですが、別にそこまで評価していないということでよろしいですか?
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 01:25
総裁、
水銀を・・・(汗)

クズさん、
僕も真剣で評価してますが、検証は気になればする、気にならなければしなければいいと思います。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月30日 08:07
真我と歴史考察は別物とされるあなたと、一致するべきとするわたしとは、考察の動機そのものが違うから、合意することがそもそも不可能ですね。

ハズさんと確認したいのは、わたしとあなたは不一致であるという現実なんです。
ですから、わたしのコメントはあなたには理解できないし、あなたのコメントもわたしには平行して流れる川です。

共に海に流れるけど、決して合流することはない。

あなたが一般的なネット内部の検索者であって、ネット内部を霊界と見るわたしが特異な存在なので、悪意はないです。
わたしは自分が誰にも似ていないことを知っています。


邇波氏がなぜ、フロイスを高く評価(そのあたりはまったく読んだことはないですが)し、ならば当然ヤジローがくっついてきそうなものなのに、未だそれを伏せているのか知らないのか、非常に疑義を感じますが、検証はおもにそれについてさせていただくつもりでした。
けど、その目的はあくまでも『あなた』であり、『邇波氏』ではありません。
あなたの気が向かないなら、わたしにも魅力的ではないです。


ただ、わたしは土地勘がないので、相模と駿河の違いを知りませんでした。
邇波氏の指している蓬莱とは、駿河の西にあたるのでしょうか?
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 09:36
当時の日本列島が二つで、形も向きも違ったということが大前提ですが・・・今の三河あたりの島ですかね

これも中々興味深いです。
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2327.html
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月30日 10:45
おことわりしておきますが、文字は霊だと思っていますから、受け入れないものは読まないです。
必要な文字は抽出して、前後の脈絡を無視して取り込むので、殆どの紹介記事は目を通していません。
もっともお気づきとは思いますが・・・

しかし、文字の書き込みが霊の戦いであることをあなたは認識されておられながら、そしらぬふりをして、あなたが真剣に評価しているというサイトを、もう一年近く神仙組に書き込んでおられる・・・

わたしは正直ですから、自分のゲーム理論を表明しています。
あなたもそれを十分認識していると拝察します。

ここはわたしの守る王城の城門の外です。
あなたはトロイの木馬のようにここに送り込んでこられている・・・



爆サイトが興味深いのはあなたであって、わたしではないです。
わたしは駿河であると捉えています。
豊川のあたりも・・・

イザナギは杖を投げて、黄泉との堺を設けたそうです。
マルドゥクの神剣で。
それは熱田にあるというならば、熱田は黄泉と現界の堺であるのでしょう。

熱田より東は、関東ですよ。
関が原以東は、おなじ霊界です。
現界か黄泉かは分からないけど、イメージからして現界でしょう。
イザナギ大御神の領域でしょう。
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 11:21
ハズさん、セコイヤ・キター!!^^

メタセコイヤ(イチイ)=扶桑樹=エデンの園の「生命の木」
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2325.html

東の果てに太陽が生まれる扶桑樹があるという。東海の海の上に茂る桑に似た巨大な神木のことで、9000年に一度実をつけるとして知られる「生命更新」の仙木(神仙の樹)でもある。

そして、それはエデンの園の「生命の木」でもあった。


弥生人(倭人)の他にも、苗族、新羅人、百済人、エドム人、エビス人、フェニキア人、シュメール人...等がゾクゾクとこの日本列島に集結してきたのは、正に今実を結ばんとしている、この不老不死の「生命の木」の実を求めて渡来してきたわけです。かつて「智恵の木」の実を求め縄文日本から人々は旅立ち、それはシュメールの地に花開いた。そして今度は「生命の木」の実を求め、更に東方へと旅立っていった。こうして本隊は日本に到達したのだろう。これで丁度、地球をグルリと一周したというわけです。

語り部は、この扶桑樹はメタセコイヤ(イチイ)のことであり、当時は青森が南にあるという逆転した日本列島ふだったので、温暖だった蓬莱山(現・鳳来寺山)の麓に扶桑樹が自生していたと語る。
※註 魏史倭人伝では「帯方郡→倭国→文身国→大漢国→扶桑国」という順になっているが、文身国=名古屋大高、大漢国=豊川〜豊橋、扶桑国=石巻〜三河大野〜新城だと語り部はいう。

この扶桑樹からモーセの杖の逸話を元に作られたのが「海凪の剣」(草薙剣)。縄文人の合議制の元、傀儡王を立てるべく加羅国からの倭旨(首露王、依羅)を招聘したが、その一行の航海の安全を祈願して渡したのだという。その後、その剣は水軍の守りとして王治水軍に伝わったと語り部はいう。

かつて草薙剣が東三河にあったという古老の話がありますが、それは東三河の扶桑樹から作られたところからきているのだな。一応、辻褄は合う。


>2012年の今、この樹が実を付けようとしているのかもしれない。!?
ニビル!?

いや〜、煩フルは素晴らしいですね〜。^^
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月30日 11:34
どうよ。これいったい?
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 11:37
阿蘇と富士には言葉にはできないけど密接な関係があると感じています。
阿蘇の建磐龍と伊豆はなぜかシンクロにあります。

いままでは征夷大将軍に意味があるのかと思ってましたが、駿河を調べると鎮守府将軍と頻繁に出てきます。
鎮守府将軍こそが、キーなのかもしれません。

源頼朝と北条政子ですが、両家の縁組は先例があったそうです。
これが引用できる適当な資料がなく、さっきまでノートしたのを写しますが・・・

桓武天皇 − 多治比真宗
     |
   葛原親王(子孫に平姓を賜り、臣籍への降下を朝廷に要請)
     |
    高見王
     |
    高望王(平を名乗る)
     |
    平国香(妻:源 護娘ほか)
     |
    平貞盛
     |
    平維将
     |
    平維時
     |
    平直方

*平直方
平 直方(たいら の なおかた、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。
父は平維時。
本拠は鎌倉。
摂関家の家人として在京軍事貴族でもあった。
平忠常の乱の際には、追討使を命じられるほどの剛の者であった。
源頼義の舅でもある。

直方の娘と、源頼義の間からは源義家、源義綱、源義光の兄弟が生まれている。

日本の中世史の舞台・鎌倉は、彼が鎌倉に居館を構えたことに始まる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E6%96%B9


鎮守府将軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E5%B0%86%E8%BB%8D
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 12:04

分からんけど、総裁の検索は全部自分繋がり関係です。(忍)
自分に繋がりそうなら、語り部だろ〜が爆サイトだろ〜が何だろ〜が、
関係ないです。いろんなジャンルから、反応したモノを抽出して、たくさんストックして、比較したりして、最終的に自分の御用に繋がればいいというスタンスです。
歴史の真実を解明したいわけでもないし、霊界?!機関!?とかも私には馴染みのない領域だから、基本、二人とは違うパラレルワールドみたいに思ってます。
ただ、ハズさんに見せて、相手してもらってるだけです。(3X)^^


ハズさん、知ってたらゴメン。^^;

>聖徳太子ショック
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-category-32.html
それは、、、ズバリ!上宮(うえつのみや)の高向王
※註 記紀によれば、聖徳太子(574年〜622年)は飛鳥時代で、聖徳太子は天武天皇の父であり文武天皇は孫であるという。つまり、天武系天皇の系譜は「用明-崇峻-高向王(聖徳太子モデル)-天武(ヤマトタケル&スサノウモデル)-文武-聖武-長屋王(山背モデル)」という流れであるという。

>聖徳太子と天武天皇の繋がり(因縁)は、総裁の因縁〜(自称)^^

桓武天皇こそ今に伝わる記紀を改竄(再編集)した張本人!?
しかも記紀自体を閲覧禁止にするし、日本書紀31巻目の系図、「天皇記」「国記」...等の古伝抹殺を焚書したともいう。そして桓武天皇の立太子の年、老齢の夫・光仁天皇を呪詛したとして廃位させられた井上内親王(聖武天皇の第1皇女・伊勢神宮斎宮)とその子供らを幽閉して毒殺し、初期大王族(天武系)を完全滅亡させた黒幕こそ彼だという。確かにこういう流れならば、斑鳩を拠点にした初期大王族(スキタイ騎馬民族)が奉じる妙見信仰を完全封印する理由がハッキリしますね。


なんか、この話の流れが総裁には凄いシックリ来ます。(忍)^^
判断基準は、私の血(遺伝子)と祖父や先祖の境遇、私に関わる全ての地域や人間関係が、そう思わせます。
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月30日 12:44
未だ決着ついていないのですが、気になるのが『スルガ』です。

珠流河国造
珠流河国造(するがのくにみやつこ・するがこくぞう)は駿河国東部を支配した国造。駿河国造とも。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E6%B5%81%E6%B2%B3%E5%9B%BD%E9%80%A0

祖先
神八井耳命。神武天皇の皇子。
氏族
金刺氏。氏名の由来は欽明天皇の皇居磯城嶋金刺宮(奈良県桜井市)で、同天皇の舎人を出した。
本拠
駿河国駿河郡。現在の静岡県沼津市・御殿場市・裾野市・清水町・長泉町・小山町。
氏神
不明。候補としては桃澤神社(長泉町または沼津市)。


「と表すようになったと
伝わっているけど、珠流河の珠って御魂のことだという話もあるから
この説を取ればアイヌ語で天国だという話も辻褄は合うね。 」
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4170295.html


健磐龍命
健磐龍命(たけいわたつのみこと)とは、日本神話に登場する人物で、阿蘇神社の主祭神である。
神武天皇の子である神八井命の子として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E7%A3%90%E9%BE%8D%E5%91%BD

↑ この記事中、『数鹿流(すがる)が滝』と出てきます。
気になっています。


とりあえず「金刺氏」検索

諏訪氏
●三ッ葉根あり梶の葉
●国造金刺氏の後裔/清和源氏説も  
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/suwa_k.html

その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。
伝わる系図によれば、
金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、
倉足の弟の乙頴は諏訪大神の大祝となったと記されている。
そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。
一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。
諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。」


で、「スルガは飛鳥時代に朝廷の意向で珠流河(現東部)国造に 蘆原(現中部)国造が組み入れられて駿河国」の・・・

・・・廬原国造(いおはらのくにみやつこ・いおはらこくぞう)は駿河国西部を支配した国造。五百原国造とも。

祖先
『新撰姓氏録』によると孝霊天皇の皇子稚武彦命で笠氏と同系。
『古事記』では孝霊天皇の皇子日子刺肩別命の子で利波氏・国前氏などと同系。
氏族
廬原氏。姓は君(公)。後に朝臣を賜った者もいた。
本拠
廬原国(後の駿河国)廬原郡。現在の静岡市清水区を中心として、富士川と大井川に挟まれた範囲。
氏神
不明。
子孫
廬原臣 …… 天智朝の武人。白村江の戦いで阿倍比羅夫らとともに水軍を指揮したが敗れた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%AC%E5%8E%9F%E5%9B%BD%E9%80%A0


庵原国造を祖とする庵原氏(吉備氏族)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B5%E5%8E%9F%E6%B0%8F
庵原氏は廬原国造の家系である。
日本書紀の伝えるところによると景行天皇の時代、日本武尊東征の際の副将、吉備建彦が蝦夷征伐の功によりこの地(駿河国)に封ぜられる。
廬原国造の祖、意加部彦は吉備建彦の子、建彦は日本武尊の外舅なり、とある。以後永くこの地を治め、倭国の将としても度々歴史上に登場する。


そもそも神武天皇の子、神八井耳命とは?
神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟が天皇として即位するに及び、これを助けて天神地祇を掌ることとなった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%85%AB%E4%BA%95%E8%80%B3%E5%91%BD

兄は天神地祇に仕え、弟は天皇となる原型かもしれません。
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 13:04
金刺氏の後裔諏訪氏
「神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫」(再掲)

武五百建命
「宮内庁に異本阿蘇氏系図というものがあり、
これによれば科野の武五百建命と阿蘇の健磐龍命は同一で、
武五百建命は崇神天皇により科野国造に任命されて、
肥後の阿蘇神社に祀られている、
そしてその武五百建命の子のうち、
兄の速瓶玉命は阿蘇の地に下り、
阿蘇国造となって阿蘇国造神社に祀られ、
弟の健稲背命は科野国造となって諏訪神社を祀る金刺、神氏へと繋がっていったということになるそうである。
この話だと、健磐龍命自身は阿蘇へ来ていないことにもなり、阿蘇神話を根底から揺るがしてしまう。
http://homepage3.nifty.com/megalith/r-suwa.htm


また、
「九州の伝説によれば、阿蘇外輪山の内側はかつて広大な湖でした。
そこで健磐龍命が山を蹴り崩し、水を海に流して土地を開いたといいます。

 似たような伝説が諏訪の北、糸魚川・静岡構造線上の松本平にも伝わっています。それが泉小太郎伝説です。
 景行天皇の時代まで、松本から安曇野にかけては広大な湖でした。
その湖を泉小太郎とその母犀竜が、山を崩して日本海に水を流し、土地を拓きました。
 泉小太郎の父である白竜は穂高見命(海神の息子で穂高神社の祭神)の化身、母の犀竜は諏訪大明神の化身だと伝えられています。
 阿蘇の健磐龍命は景行天皇の行幸を迎えたともいわれていますから、二つの開拓伝説は時代まで一緒だということになります。」
http://www.tohyamago.com/rekisi/chuoukouzousen_suwa/


武五百建命の子
兄の速瓶玉命ー阿蘇
弟の健稲背命ー諏訪
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 13:20
「即位灌頂のとき、ダキニ天法をもって国王に授け奉ることは、鎌足大臣の因縁から起こった」
鎌足大臣の因縁とは、藤原鎌足が蘇我入鹿の首をはね、天智天皇を皇位に導いて以来、人王間で受け継がれていた即位灌頂の秘法が、摂政による伝授に変わったという秘説を指している。
実際の即位灌頂では、摂政(主に二条家)が皇太子に秘密の印と明呪を・・・
ー『天台密教の本』学研
http://kemono666.seesaa.net/article/250442477.html

原本には、

私云。
天子即位灌頂ノ時。
以吒天ノ法ヲ奉授國王事。
鎌足大臣ノ因縁ヨリ起レリ 云云 又云。
伊勢太神宮ニ有此表示也。
高倉ノ岩屋有此事。
仁王經ノ以祭塚神事深可思之
溪嵐拾葉集
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=2410_,76,0633c01:2410_,76,0633c04&key=%E5%8D%BD%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82&ktn=

入鹿の首をはねる・・・ことが、神武以来の神代上宮・聖徳太子の終焉、神代下宮・蘇我入鹿への革命=摂政の開始 の両義を持つのかもしれません。


溪嵐拾葉集 原文中、『高倉ノ岩屋』とはなんなのか?

「伊勢外宮の神体山ともいわれる高倉山には岩屋があり、神話の中でアマテラスがこもった天石戸ともされるが、伊勢津彦の住居とする伝承もある。
 いっぽう、高倉山とつづいている高神山には客神社というのがあり、弘安八年(1285)の『神名秘書』によればタケミナカタ神を祀る神社である。宣長はこうしたことを根拠に伊勢津彦=タケミナカタ神、同神説を説いた。」
http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/76ddf4588acd8420a446aad5573a21c5

・・・伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦・・・とあり、

「伊豆毛」検索で、

「中世、伊豆・武蔵と呼ばれていた地域は、神奈川県辺りです。
この辺りの地名・地勢のよく似た場所が、北九州海岸線にあります。
・・・・
北九州北海岸の笠沙崎から鐘が崎にかけての地形です。
この付近は、古代、胸刺(むなさし)国、または胸副(むなそ)国(胸国=空国=宗像、刺国=副国=蘇国=津屋崎=石川=伊蘇川)や、出雲=伊豆毛=伊都と呼ばれていた地域です。

胸刺(むなさし)国→武蔵(むさし)、出雲→伊豆毛→伊豆となったのです。」
http://www.geocities.jp/oden1947/izumusasi.html


続いて
「ヤマトタケルの、あずま(関東)遠征の時の記述の中で、関東地方の地名が沢山でてきます。尾張、相模、筑波、信濃、焼津、足柄、甲斐などです。
北九州を中心とする地域が、これらの地名の原典だと思われます」


こういう事情だから、どれがルーツかを探るのは、過程にこそ意味があれ、結果に意味はないでしょう。
邇波氏の話しを否定しているのでなく、意味がないと言ってるのです。

それはハズさんご自身、決着がつかないと書かれています。
決着のつかない論争を仕掛けるのは、言論テロ以外、何と呼べばいい?

だから説と呼ばれるもので、救われるか、意識進化するか?とお尋ねしたのです。
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 14:17
総裁、
喰い付いていただき、誠に3Xです。
ヤッズ氏の次に語り部説を研究していると自負する、ハズはモチロン知っています。(礼)

クズさん、
いいのではないでしょうか?それぞれ真偽は別次元でまずは、反応するものを追及していけば!
しかし、怒涛の書き込みですね(汗)

僕は僕の感じたもので応戦します。

「葛原親王の母は、大国主族の葛城氏系の人物故、葛城の腹より出たと言う意味ですが、平家とは
百済時代の騎馬民族のタイラ(棟梁)を偲ばせる言葉でしたから特別な訳です。」
「葛城摩理勢(蘇我馬子)の曾孫、宗形綿麻呂(吉備真備)の娘が母」

前にもコメりましたが、健磐龍命は建御名方で荒田別王、邇波荒脛巾のことかもです。
「阿蘇のカルデラ湖の水抜きをしたのは彼である。阿蘇氏の祖でもある。」
「中臣阿毘古の弟、科野国造金弓-倉足。中臣=所謂、金刺氏」

僕は全く逆の説です。
記紀に合うように九州の地名は後に整備された。
意識進化するかもしれませんが、基本は歴史考察なだけですよ!

要は分からないことは、分からないなりに自分の中で答えを見つけるぐらいの気持ちでいいんじゃないでしょうか・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月30日 14:37
シュメル起源のバアル・イシュタル・ミトラ神を信仰するのが、北方十支族のイスラエル王国。

ヤアウェ一神に傾くのが、ユダの2支族。

紀元前722年、アッシリアに滅ぼされたイスラエル10支族の末裔が東方に流れ、縄文末期の丹後半島に上陸、海部氏を称して海民を支配し、丹後古王国を建てた。・・・
http://2006530.blog69.fc2.com/category10-10.html

わたしはわたしとして、これを家訓のように受け留めるということです。
もし同族がいるなら・・・とコメントで表明してきましたが、沈黙の読者の中にはいるかもしれないが、みつからなかったということで、次の段階に行きます。

見つからなくていいんです。
テレパスによる集団なので、現実に接触する必要はないと思ってます。

同族、あるいは機関への報告として、これからもコメントするかもしれませんが、それも通り雨のようにやり過ごしていただいて結構です。

あなただけを相手とするゲームになった感はありますが、あなたも機関がよこしたのだろうと思ってますよ。
お互い使命に忠実だったということで・・・
Posted by クズシノメア at 2012年05月30日 14:50
そうですか・・・それでは僕は僕でコメします。

日本国名の由来
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n75774

「ヘブライ語の「Nhi(ニッ)」と日本語の「Hon(ホン)」からなっているという説」
「「Nhi」はヘブライ語で「従う」と言う意味であり、「Hon」は「本」つまり「書」ですが、2つをつなげてると「書に従う」となる。」

「ヘブル語でニツ(従う)本(聖書)の国と命名したのです」
「「本州」「本土」とも言いますし、「本当」とも言い正確を期す語として使われています。
神社の「本殿」、寺社の「本堂」は日本の宗教の二本立てで、聖書も旧約、新約の二本、
日本の聖書と目されている「日本書紀」、「古事記」もそうです。」
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月30日 18:27
葛原親王から平直方までの系図を書いているときから、次代高見王が気になっていたのですが、さっき、コメントを読み返していて、アテルイとモレではないか・・・という考えにとりつかれています。

桓武天皇 − 多治比真宗
     |
   葛原親王(子孫に平姓を賜り、臣籍への降下を朝廷に要請)
     |
    高見王
     |
    高望王(平を名乗る)
     |
    平国香(妻:源 護娘ほか)
     |
    平貞盛
     |
    平維将
     |
    平維時
     |
    平直方

多治比真宗・・・桓武平氏の元祖葛原親王の母「多治比真宗」に繋がる流れを本流
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-21.html

継体の血です。

「高見王はその後の桓武平氏に直結する流れであるが、その実在が疑われている。文献によると父の葛原親王は高見王が誕生する前に子孫に平姓を賜り、臣籍への降下を朝廷に要請し、これが認められている。しかし高見王は平高見を名乗ったと言う記録は無い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E7%8E%8B


アテルイ(生年不詳 - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。
789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

日高見国の王・・・高見王・・・?
前もって、朝廷に服するかわりに平氏を下賜ことが取り決められていたのではないか・・・

そう考えると、そのあとのいろんな不整合が修正される気がするが・・・
武士の発生・・・とか・・・征夷大将軍とか・・・
直方の娘と、源頼義の間からは源義家、源義綱、源義光の兄弟が生まれている。・・・こととか・・・
源平合戦の物語臭さとか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年05月30日 18:42
アテルイが平高見?・・・これは面白いですね〜
確かに高見王は実在が怪しいですね・・・
仮に子の平高望が葛原親王の子だとしても、何故、高見王を創作しなければならないのか!?という謎が残りますしね・・・

葛井親王【かどいしんのう】
http://kotobank.jp/word/%E8%91%9B%E4%BA%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B

「桓武天皇の第12子で母は坂上田村麻呂の娘春子」

葛原親王とともに「葛」ですね!
坂上田村麻呂が葛城氏の説もありますし、葛城氏も暗示されてます。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月30日 19:59
太子〜!、日本の国名の由来なら
煩フルにもありましたね〜。^^
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2325.html

日本の「本」とは「人が十字架に架かった状態」(怖)^^;

ハズ太子は、東三河=「約束の地カナン」 
扶桑樹=エデンの園の「生命の木」=メタセコイヤ(イチイ)=草薙剣=アロンの杖
を、すでにご存知だったのですね。(さすが爆マニア)^^


これは、どういう事!?
http://2006530.blog69.fc2.com/category10-10.html
ニギハヤヒは秦韓の所在する任那から外航用船舶(天磐船)で来航した秦氏後続隊の頭領か、ないしは宇佐で生まれたその子であろう。

二ギハヤヒと聖徳太子(高向王)は、同系統!?


こんなの見つけました!(汗)^^;
>聖徳太子は新羅の王
http://bbt888s.zero-yen.com/newpage8.html
大仏は中国皇帝の実兄であり、かつ極東アジア邪馬台国の倭王聖徳太子ニギハヤヒの慰霊のモニュメント、

聖徳太子二ギハヤヒでさえ、重臣秦河勝と同じく景教、つまりキリスト教を奉ったでありましょう。隋への書にある西天の菩薩とは煬帝だけのことではなく、秦の始皇帝にはじまる中華王朝そのものが、ダビデ王その人から派生したことを物語っています。

岩とはスサノオ、ニギハヤヒ。手とは経済基盤です。
岩手とは天皇ニギハヤヒが国家を運営するに当たってその基盤としたところに端を発します。

物部同族、大和軍将軍坂上田村麻呂の友好と説得により、天照ニギハヤヒの孫、日ノ本国天皇アテルイは天皇象徴、草薙の剣を携え大倭日ノ本国から大和へ向かったのですが、皇孫の権威を恐れてきた百済系新政府が、河内にて日ノ本国天皇アテルイを処刑してしまったことによって、日高見国の繁栄も幕を閉じるのです。

アテルイは、二ギハヤヒの孫!?(なんか解る気するわ〜)^^

聖徳太子の本名と言えば海多利子北狐
安部晴明と血縁関係!?

面白いことに聖徳太子その人が、大陸から渡ってきたように、安部清明もそうなのです。狐は稲荷と呼ばれます。稲荷と言えば豊受大神、豊受大神と言えば天御中主、天御中神と言えば国常立大神、国常立大神といえばニギハヤヒ、ニギハヤヒと言えば天照大神、天照大神と言えば応神天皇、応神天皇は崇神天皇、崇神天皇その人が聖徳太子、と、リンク、サーフィンし続けるんですよね、この因縁と言うメビウスの環の様に。

 故国を追われて日本に辿り着いた、百済族。それを追いかけた新羅族。そして、その新羅族がニギハヤヒ。


ハズ太子、感想下さいな〜(笑)

オマケ 地球人類のルーツ
http://www.justmystage.com/home/3427m/newpage6.html
今から135万年前ーーー地球に最初の人類が降り立った
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月31日 03:28
ハズ太子、こちらで考察する事にしました。(忍)
http://kemono666.seesaa.net/article/269825766.html?reload=2012-05-31T07:39:22

葛さんの邪魔しちゃ悪いしね。^^;

感想・考察、アッチで待ってます〜。^^
Posted by 総裁越楠 at 2012年05月31日 07:45
もし、先祖たちが、なんの脚色も誇張もせず史実をしるしたなら、今のマスコミが報道する日本国政府のようでしょう。
大陸の文明に対抗するためであったとしても、皇統を創始、保持しつづけて来た1300年以上に渡る日本霊界に深く深く感謝と敬愛の意を表します。

個人的にネット内部で考察することに、やりたい放題ということはありません。
言葉は標され、確実に記録される・・・審判の資料となります。
みだりに・・・してはならない というのは、愛です。
人が罪をおかさないための戒律であり、それは愛です。
それを愛と感じられないなら、それはその人が他人に対して、そういう愛を抱いたことがないからでしょう。
言葉は自分の世界を決定するのみで、他者にはなにも有効ではない。
今までは放置の期間であったけど、それももうすぐ終わる。

わたしは神に請う。
言葉がその成就を迎えるときの到来を。
人から出た言葉は、当人に成就することを。
時は満ちた、裁かれよ。



秦氏の九州における事績について知るすべはなく、あくまで事象から推察するのみです。
地理的に一番大陸や半島から渡航しやすいのは北九州です。
時間的効率を考えるなら、文明が速やかに入ってくるのは、北九州でしょう。
入国受け入れに礼を失さないために、準首都機能を持っていこそすれ、辺境地未開地であったとは、考えられない。
また、都で政変が起こったばあいの亡命地として、あるいは大陸までのルートとして確保しておく必要もあります。


あくまで参考資料ですが、

丈六光背銘の証言
醍醐寺所蔵『諸寺縁起集』に収められた『元興寺伽藍縁起並流記資財帳』の『丈六光背銘』について取り上げる。
この丈六(1丈6尺)仏は、大和の元興寺(現飛鳥寺)の本尊である銅造りの釈迦如来坐像(飛鳥大仏)であるとされ、元興寺は建立された飛鳥時代には法興寺という
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/ronten/7/jouroku.html

銘文は、
欽明天皇を廣庭と訓表記する一方、
蘇我稲目を巷哥名伊奈米大臣、
用明を多知波奈(tatibana)土與比(toyohi)天皇、
推古を止與彌擧(toyomike)哥斯岐移(kasikiya)比彌天皇 など一字一音の仮名表記するなどかなり古い。
原史料は仏像の作られた推古朝の遺文であろう。

推古の時代背景

「天皇名廣庭、斯歸斯麻(磯城嶋)宮に在る時・・故佛法始じめて大倭に建つ」は、「元興寺縁起」の
「大倭國の佛法は、斯歸嶋宮で天下を治めし天國案春岐廣庭天皇の御世、蘇我大臣稻目宿禰仕え奉りし時より創(haji)まる。
治天下七年歳次戊午十二月に度り來つ」のことである。
七年歳次戊午は538年である。

538年が欽明7年であれば、即位年は532年になる。
書紀は欽明元年を540年としており、従来から謎とされてきた。
532年の即位は、筑紫国で倭王(列島の王者)に即位した意味である。
なぜなら531年辛亥の年には『百済本記』(書紀逸文)に「又聞く、日本天皇・太子・皇子、倶に死すという」とある翌年で、
この日本天皇王族は全滅状態であり、
欽明は別の王統であることが分かる。

少し時代を遡る継体22(521)年*には、
肥後の大倭国と継体天皇の発した物部麁鹿火軍に挟撃され、
筑紫君磐井(筑後の倭王)が殺され大倭国が倭王位を奪還する。

それが上の日本天皇である。

531年には再度筑後国が、大倭王統を全滅させ倭王位を奪還したのである。
そして即位したのが欽明。
欽明は640年蘇我稲目と大和磯城嶋宮に遷都する、
それが書紀の伝える即位である。
書紀は大和王権での天皇即位を即位年とする。

したがって書紀即位の540年以前の
「佛法始じめて大倭に建つ」と「大倭國の佛法は・・」の538年の記事は、
筑紫国での事である(大和への仏教伝来は欽明13(552)年)。
欽明と蘇我稲目は、
まず筑紫で仏教を受け入れていて大和でのそれと、
『上宮聖徳法王帝説』などは二つの事実が輻輳しているのである。
・・・・引用終わり。


その蘇我と欽明のバックが、伊勢の鉱山で巨万の富をなした秦大津父。


秦大津父 深草にいて・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53899095.html

ところで秦氏が中央にやってくるのは最初、葛城氏の招聘だったような書き方を『日本書紀』がしている。
はじめに秦氏が来朝し、葛城襲津彦が残りの部民たちを迎えに半島へ行くのである。
そしてつじつまを合わせるように秦氏一行はまず葛城の掖上に居住したと書かれる。
掖上というのは神武が最初に入った土地で、要するにこれは渡来氏族の仮冒ではないか?

日本最初の秦氏の渡来先は豊前であろう。
豊前から周防、四国、吉備、播磨、摂津と来て大和に入ろうとするが結局山背に落ち着くのだから、
葛城に留め置かれるのは本流ではなく襲津彦が連れ帰った部民たちだろう。これは自信はないが。

そしてここをかつては為奈国と呼んでいたという。
摂津から箕面、豊中、服部、茨木、三嶋、高槻周辺には秦氏の痕跡がまだ出るはずである。
九州の筑前や豊前ですでに旧来の九州の盟主的氏族であるはずの肥君を同族化した秦氏。
肥君の系譜は中央多氏系譜と同じ神武直系・神八井耳の子孫である。
奈良では多氏の神社と秦氏の寺はほとんど隣同士のようにある。
どう見ても同族である。
肥君には肥前の肥君手を出す系譜と八代の火の葦北国造と日子八井子孫の人吉の草部吉見系があり、
そこに神八井耳孫タケイワタツ子孫の阿蘇氏が存在する。間に二代目神がひとりいる。
知己はその神の謎が阿蘇ピンク石石棺と関わったかどうかを探偵調査している。
・・・引用終わり


秦氏とは、歴史そのものかもしれませんね。






Posted by 葛篠宮 at 2012年05月31日 09:56
う〜む、
過去のパラレルワールドも一つではなく、いろんな歴史の過去が生まれているのかもしれませんね・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月31日 10:28
うまくまとまる自信はないのですが、寝るまえに書き込んでおきます。
さっき、アテルイを検索していたら、初めて知る説に出逢いました。

アテルイー坂上田村麻呂ー桓武天皇の不思議な関係・・・引用長い
ため、分割します。

http://www.ten-f.com/tamuramaro.htm
時の右大臣・藤原継縄(ふじわら・つぐただ、727〜796))の妻は百済王明信(くだらのこにきし・みょうしん)であり、
その祖父・敬福(きょうふく)が東大寺の大仏様を鍍金するための黄金九百両(約35キロ)を献上し従三位を授かり、
河内国交野に土地を賜ったのが天平二十一年だった事をやっと思い出した。
そう、河内の交野は、かつて陸奥の国司を務め魔術のように「黄金」を取り出して見せた百済王の本拠地だったのです。
そして、このページが取り扱っている時代には右大臣の別荘も交野に在りました。
そしてなにより、この百済王家からは桓武の後宮に九人もの女性が入っており、継縄夫人の明信は尚侍(ないしのかみ)として女官の頂点に立っていたのです。だからこそ桓武は在位中、十数回も交野の地を訪れ、
延暦九年二月二十七日には『百済王らは朕の外戚である。
だから、今、その中から一人、二人を選び位階を進める』と詔まで発していたのです。

田村麻呂にしてみれば、
同じ渡来系であり桓武の後宮を介して姻戚関係にもあたる百済王家は、大変親しみやすい一族だったのではないか!
黄金伝説の主人公である敬福も陸奥守だった頃、
鉱脈探しの情報収集を地元の豪族や有力者たちに依存していたのではなかったのか!
そして、黄金探しだけに限らず将来にわたる東北の安定した経営のためには、是非とも地元実力者たちの協力が必要だと判断していたのではないだろうか?
若し、そうであれば田村麻呂は、桓武への影響力という点で最も期待が持てる百済王家の人々に「蝦夷」たちの助命活動の根回しを進めていたように思えてならない。
明信の弟・百済王俊哲が延暦十年には坂上田村麻呂と共に巡察司を務め、
鎮守将軍を兼務していた事実も併せて考えると百済王家の人々が田村麻呂の考えに同調し支援していたという想像が現実味を帯びるのである。
そして更に、妄想を逞しくするなら『明信を通じた内緒の報告を聞き、桓武自身も「蝦夷」の大赦を考えるようになっていた』かも知れない。

二十年以上、見方によれば三十年近くも朝廷軍を悩ませ続けていた東北軍が、
田村麻呂にかかると一年も経たないうちに「投降」した背景には、
軍備面での周到な準備と共に、地元情報の収集と分析があったのだろう。
そして、その重要な情報源の一部が百済王ルートだった。田村麻呂の描いた「蝦夷」討伐のシナリオは、こうである。・・・」
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 01:34
桓武は当初、陸奥守の多治比真人宇美に鎮守将軍を兼務させていたが、・・・
http://www.ten-f.com/tamuramaro.htm

多治比真人宇美に鎮守将軍・・・で、『多治比真人宇美』を検索しました。

http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1260.html
このように、白壁王は母系が百済系で、その百済は天智の祖国であることから、天智系を日本国王として承認する唐に対しても「天智系」をアピールしたのだろう。
 武寧王という、天智と共通の祖先を持つ高野新笠を妃としたのもその一環だったのではないか(私見では武寧王〜彦人大兄〜武王〜天智)。
 737年 高野新笠、山部王(桓武)を出産。

771年6月 渤海国使・壱万福ら325人が出羽に上陸。
 772年1月 朝廷は壱万福に従三位を叙位。2月に帰国した。
 
壱万福帰国直後の3月、密告により、井上内親王が呪詛による大逆を図ったとして皇后を廃され、5月に他戸親王も皇太子から外された。
 すでに自ら皇后となり、息子も皇太子になっている井上内親王が、それほど先が長くもない光仁を呪詛するなどというリスキーな行為に及ぶとは考えられない。
 やはりこの事件には、325人もの軍勢を率いてきた壱万福が関係していたと考えるべきだろう。

773年1月 光仁は、しぶしぶ山部王を立太子させた。
 10月 井上内親王は難波内親王をも呪詛したとして、他戸王と共に幽閉された。
 774年3月 新羅使者235人が太宰府に到着。またしても藤原清河の書簡を持ってきた・・・・

774年7月 陸奥国の海沿いに住む蝦夷が桃生(ものう)城を攻撃。
 この後、朝廷は38年間に及ぶ征夷の時代に突入する。

778年 この頃、光仁崩御。
 しかし皇太子の山部王はまだ金良相として新羅にあったため、光仁の喪は伏せられた。
 この年から785年まで、日本を実質的に治めていたのは山部王の同母弟の早良親王。軍事力を担っていたのは大伴家持だった。
 779年 唐の代宗崩御。息子の徳宗が即位した。
 780年 新羅・恵恭王崩御。
 金良相(山部王)が即位して宣徳王となり、朱と共に、吐蕃の半島から列島への南下を防いだ。

  新羅・宣徳王 = 山部王(のちの桓武)

このサイトは以前、入ったことがあったことを思い出しましたが、そのときは桓武=宣徳王には気づかなかったと思います。

宣徳王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%BE%B3%E7%8E%8B
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 02:00
http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1270.html
782年 宣徳王、慶州から自らの地盤である平壌に遷都。 
 783年 唐で朱がクーデターを起こし、宣徳王もこれに加担。徳宗は奉天に逃亡した。
 朱が帝位に就いて国号を秦とし、元号を応天とした。
 784年 国号を漢と改め、天皇元年とした。
 さらに兵を徳宗のいる奉天に進めようとしたが、徳宗は吐蕃との境界を賀蘭(がらん)山とする「清水の盟約」を交わして吐蕃勢力を味方に付け、朱に反撃。
 唐と吐蕃の連合軍が勝利し、敗走した朱は、最終的には部下に殺されてしまった。
 朱を失った宣徳王(山部王)は新羅王からの退位を表明し、部下だったと思われる元聖王(金敬信)を即位させた。

 長岡遷都

 784年 山部王は日本に定着するにあたり、旧勢力の強い平城京からの遷都を決め、藤原種継に山背の乙訓郡長岡村を見地させた。

11月 山部王はまだ未完成の長岡京に入った

785年1月 山部王が長岡京で即位式をあげ、桓武天皇となる。

785年3月 大伴家持の陸奥按察使鎮守将軍の職を罷免。後任に多治比真人宇美を任命した。
 ところが家持は帰京することなく、8月に陸奥で没した。
 9月 桓武の留守中、家持一族の大伴継人と竹良らが、長岡京造営の最高責任者・藤原種継を暗殺。
 長岡京に戻った桓武は、わずか1日で継人ら関係者数十人を処刑した。
 10月 早良皇太弟が種継暗殺の首謀者として廃位され、乙訓寺に幽閉された。
 早良は一切の飲食を拒んで無実を訴えたが、淡路島へ配流される途中に餓死したという。

唐の徳宗は、宣徳王が去ったあと即位した元聖王を新羅王として正式に承認した。
 しかし、日本に渡った宣徳王=桓武を日本国王としては認めなかった。
 朱の乱では朱側にあったのだから当然だろう。
 

桓武=宣徳王・・・なんとなく納得してしまいます。
普通の史実は、こうです↓


http://kn2006.blog66.fc2.com/?mode=m&no=458
752年に天平勝宝の遣唐使を送り、その帰りの便に乗って754年に鑑真が来日して以降、しばらくの間、日本と唐の間の交渉は途絶えました。
それは755年に勃発した安禄山の乱によって唐の国内が混乱し、
日本側からは何度か使節を送ろうとしたのですが、ことごとくその目的を果たせなかったのでした。

・・・・・この時に皇太子であった山部親王、つまり後の桓武天皇もそのように考えたのではないでしょうか。
桓武天皇の781年からの治世においては最晩年の804年の延暦の遣唐使まで、ずっと遣唐使の派遣は行われていません。
延暦の遣唐使にしても、これは律令制の摂取が目的であったというよりは、
早良親王の怨霊を恐れた桓武が密教の導入を最澄に期待したというのが主な動機であり、
かつての遣唐使派遣とは意味合いがだいぶ異なっています。
おそらく密教導入という目的が生じなければ桓武は遣唐使を派遣するつもりは無かったのではないでしょうか。

一方、日本に唐使がやって来た778年の翌年779年には新羅の使者が久しぶりにやって来て日本への朝貢外交を復活させました。
これは、内紛続きで政情不安が続く新羅政府が、ただでさえ内憂が絶えないのにその上に日本との敵対関係を続ければ日本が内紛に介入してくるのではないかという不安を抱き、日本を懐柔する意味で行ったことでした。

結局この新羅の内紛は翌780年に恵恭王が母方の従兄弟にあたる金良相によって殺害され、
金良相が王位に就いて37代の宣徳王となるという展開を迎えました。
金良相は4世紀後半の17代目の新羅王の傍系の9世孫の貴族が 33代の聖徳王の王女と結婚して生まれた子であり、
本来は王位を継承できるような血筋ではありませんでした。
この36代の恵恭王の殺害によって、6世紀終盤に朝鮮半島を統一した29代の武烈王(金春秋)の子孫の王統が絶えることとなり、
王統が傍系に移ったことになります。

何やらほぼ同時期の日本と同じようなことが起きていたわけですが、
その後の展開は日本の場合とはだいぶ違い、
宣徳王は正統性を認められず求心力を失い、その後は王位継承争いが激化して反乱が頻発する時代となり、
そうした王位争いに敗れた王族や官僚らが地方に逃れて地方勢力を結んで新興豪族となり、反乱を頻繁に起こすようになりました。
9世紀の新羅はこうした地方豪族の反乱が頻発する無政府状態の時代となり、それらの地方豪族の中の有力なものが後百済と後高句麗を立てて新羅から独立し10世紀初頭から後三国時代となり、918年に後高句麗の武将の王建が高麗を建国し、936年にその高麗が他の三国を倒して朝鮮半島を再統一することになるのです。」
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 02:22
エゾー蝦夷・・・とは、どこのことなのか・・・

桓武天皇=宣徳王 の説を支持するにしても、東北征圧の名目、実質は金であったのでしょうが、仕掛けが大掛かり過ぎる・・・

気になるのは、やはり桓武平氏です。
その母胎となる・・・


・多治比真宗(まむね)(769−813)
@父:長野 母:不明
A夫:50桓武天皇
子供:葛原親王(786−853):桓武平氏祖。
佐味親王(793−825)
賀陽親王(794−871)
大徳親王(798−803)
因幡内親王(?−824)
安濃内親王(?−841)
B785年この頃桓武天皇(50才)に入内
C797年従三位「夫人」となる。
D806年桓武崩御。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-21.html


関東平氏の妙見信仰が鍵という気がします。

アテルイ・モレはナガスネヒコの末裔なのか?
・・・と閣下に尋ねたら、

『正史にのこるナガスネヒコの末裔はいない
偽典にいたとしても、重要なのはアメノミカボシでしょう』

アメノミカボシはアラハバキを祀るの?
・・・という問いに、

『アメノミカボシとアラハバキは同類ですが、無関係です。
共通しているのはスサノオ・ニギハヤヒ信仰です。

八坂神社や下賀茂神社など、秦氏・賀茂氏のスサノオ・ニギハヤヒ信仰はニセモノ(フェイク)です』


重要なのはアラハバキよりも、アメノミカボシ・・・

東北でなく関東、常陸なのではないか・・・?
東北を恭順させて、多治比氏の血によってアメノミカボシを取り込む・・・それが最終目的ではなかったか?

それほどの血統 多治比氏とは?


2-2)多治比嶋(624−701)
@父;多治比彦王 母;不明
A妻:家原音那、兄弟;三宅麻呂、(丹治真人家範 ?)   志摩とも記す。
B682(天武朝)年に初めて史上に現れる。宮廷で活躍し、多治比氏の地歩を築いた。
C「公姓」を改め「真人姓」を授かる。
D690(持統朝)年右大臣となる。太政大臣;高市皇子
E701年42文武朝正二位、左大臣となる。この時藤原不比等は大納言。
 http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-21.html

多治比 嶋(たじひ の しま、推古天皇32年(624年) - 大宝元年7月21日(701年8月29日))は、日本の飛鳥時代の貴族。
宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる。
摂津大夫・多治比古王(丹比麻呂)の子。
姓は公のち真人。
名は志麻・志摩ともいう。
正二位・左大臣。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E5%B6%8B

推古朝に生まれたとされるが、歴史の表舞台への登場は遅く、天武朝の682年(天武天皇11年)頃であった。
684年(天武天皇13年)の八色の姓制度においては、天皇家にもその血統が伝わっていた(天武天皇の高祖母の石姫皇女は宣化天皇皇女で、嶋にとっては曾祖叔母にあたる)、
宣化天皇の直系子孫である嶋も最高位の真人の姓を賜与された。


真人の姓・・・
真人(まひと)は、684年(天武13)に制定された八色の姓(やくさのかばね)の一つで、最高位の姓(かばね)である。
基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。
天皇の称号が道教の天皇大帝に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。
八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっている。
また天武天皇の諡(おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」(えいしゅう)という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。

真人賜姓は天武天皇が構想する皇親政治の一翼を担うものであった。
『日本書紀』の天武天皇十三年十月の条に、
「守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(ゐなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公(おきながのきみ) ・酒人公(さかひとのきみ)・山道公、十三氏に、姓を賜ひて真人と曰ふ」とあって、
これら公(きみ)姓氏族はおよそ応神 ・継体〜用明天皇の皇子の子孫である。

それ以降の天皇・皇子の子孫についても、奈良時代にたびたび賜姓が行われ、『新撰姓氏録』の載せる真人姓は48氏に昇る(国史にのみ所見のものも含むと更に増加)。
しかし、時あたかも藤原朝臣による権勢拡大の最中で、真人=高貴という原義すら崩れ始めていたことも否めず、氷上真人塩焼 ・厨真人厨女のように一種の懲罰として賜姓される例も現れた。
この傾向は平安時代に一層強まり、802年(延暦21)安世(桓武天皇の皇子)が良岑朝臣姓を賜ると、皇族や真人姓の中からも朝臣賜姓を望む者が増加。政治的意義を失った真人姓の氏族は、次第に政界から姿を消していった。


主な真人姓氏族 [編集]

応神天皇系  息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系  三国真人・酒人真人
宣化天皇系  多治比真人・為名真人
敏達天皇系  大原真人・吉野真人・海上真人・甘南備真人・路真人・大宅真人
用明天皇系  当麻真人・登美真人・蜷淵真人
舒明天皇系  三嶋真人
天智天皇系  淡海真人
天武天皇系  高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・御長真人・中原真人・氷上真人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E4%BA%BA


・守山公
・路公(みちのきみ)
・高橋公
・三国公
・当麻公
・茨城公(うまらきのきみ)
・丹比公(たぢひのきみ)
・猪名公(ゐなのきみ)
・坂田公
・羽田公
・息長公(おきながのきみ)
・酒人公(さかひとのきみ)
・山道公
・・・・・・・・・・・・・・・十三氏
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 09:53
まずは妙見神・・・

http://www.genbu.net/data/higo/myouken_title.htm
妙見由来
妙見神は聖なる北極星・北斗七星の象徴なり。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長 ・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津 より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に 来朝せり。
妙見宮(上宮)の創建
桓武天皇、延暦十四年(七九五)、乙亥、国司桧前(ひのくま) 中納言政丸、三室山横嶽にこれを創建す。
妙見中宮寺の創建
二条天皇、永暦元年(一一六〇)、庚辰三月十八日、従五位肥後守 平貞能、横嶽の麓に建立す。
妙見宮(下宮)の創建
後鳥羽天皇、文治二年(一一八六)、丙午十一月十八日、検校散位 大江高房、妙見上宮を太田郷宮地の地に遷座しめる。

八代神社 Yatsushiro Shrine (Myoken Gu)
 八代神社は、妙見宮とも呼ばれ、上宮、中宮、下宮の三社よりなり、本 社はその中の下宮です。
 この八代神社(下宮)は、文治2年(1186)八代平野の要の位置にあた るこの地に建立されました。
 現在の建物は、元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に本格的に改築さ れたものです。
 社殿は県指定の重要文化財になっており、屋根は入母屋造りで、正面に 千鳥破風が設けられ、これらの妻飾りには数多くの彫刻が使用され、江戸 時代中期から後期にかけての社寺建築の特徴をよく表わしています。
 11月中旬にある祭礼は、九州三大祭りの一つに数えられ、神事の神幸行 列は、県の無形民俗文化財に指定されています。
 Built In 1186 at the request of Emperor Gotoba. It is still famous as the site of one of the three major festivals in kyushu held in the middle of November.


『妙見縁起』によれば、むかし漢土の白木山神が、目深・手長・足早となり、
明州の津より、亀蛇(きだ)に駕して、天武朝の白鳳九年に来朝し、
八代郡土北郷白木山八千把村の竹原の津に着岸、三年仮座、
次いで益城郡小熊野郷千代松ヵ峰に移り、
そして、和銅二年、八代郡横嶽(上宮)に鎮座したという。

中宮は、二条天皇の勅願により、永暦元年、
肥後守平貞能が、三宮嶽の麓に建立。

下宮は、文治二年散位大江朝臣が勅を奉じて
山麓字池尻に創建したという。

天正十六年、小西行長の兵火にかかり焼失。
後、加藤清正によって再建された。

もとは妙見宮と称したが、明治初年、八代神社と改称し
明治五年県社に列した。

今回、当社へ参拝したのは、この妙見神の乗って来た亀蛇に惹かれたため。
当サイト、genbu.net の genbu(玄武)は、四神の一、北の守護神で、
亀と蛇のキマイラである。まさしく妙見の亀蛇なのだ。

妙見信仰は、北極星あるいは北斗七星を崇拝する信仰。
天の中心の星であり、天帝の星。
また、北は水を意味し、北斗七星も柄杓の形であり、司水の神でもある。
そして、玄松子の名のオリジナルである赤松子は、雨師の神。

妙に縁を感じてしまったのだ。

境内は広く、社殿後方が駐車場を兼ねている。
大きな祭りのある神社の境内は、当然広いのだ。
妙見祭は11月17・18日に行われる大祭。

社殿前には、燈籠の脚に六地蔵を刻んだ六地蔵幢がある。

・・・・以上、拝借(礼)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 11:06
三大妙見:
能勢妙見(大阪府)、相馬妙見(福島県)、八代妙見(熊本県)

能勢氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html



能勢氏の家紋

 能勢氏の家紋は「切り竹矢筈十字」が知られ、能勢頼次の位牌や野間神社の本殿に同紋が刻まれており、眞如寺の境内にも日蓮宗の「井桁に橘」とともに散見できる。また、多田源氏の代表紋である「獅子に牡丹」紋も使用していたことが知られる。一方、室町時代に記録された『見聞諸家紋』には、能勢氏の紋として「丸に十二目結」が収録されているが、十二目結は 山城西岡今里城主であった能勢氏のものであろう。
 戦国期の摂津の大名和田氏・高山氏らはキリシタンとして知られ、能勢氏もキリシタン宗徒であったという。「切り竹矢筈十字」とは、おそらく、クルス=十字架を象ったものであり、のちキリシタンが禁教されると「切り竹矢筈十字」と称するようになったと思われる。

・・・
武将としてキリシタンとして動乱の戦国期を生き抜く
八代神社(妙見宮)
忠興が復興させた妙見祭
妙見神(北極星と北斗七星の星辰信仰の神)がまつられている妙見宮(現在は八代神社)。
九州三大祭の「八代妙見祭」は細川忠興が復興し、神幸行事は国重要無形民俗文化財への指定となる予定。

http://nagatsuki07.iza.ne.jp/blog/entry/2516360/



切り竹矢筈十字/十二目結*/獅子に牡丹**
●清和源氏頼光流
* 『見聞諸家紋』に収録された能勢氏の家紋。
**多田源氏の代表紋。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html

切り竹矢筈十字 十字架?
十二目結    十二支族?
獅子に牡丹   天皇に関係あるのだろうか?


まさか妙見宮がキリシタンに結びつくとは、予想してなかったが・・・
本当にそうだろうか?

能勢・相馬・八代の妙見は同一なのか、三位一体なのか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 11:28
能勢・相馬・八代の三大妙見宮は、ほぼ一直線上に三等分・・・

しかし、それがなんの意味を持つのか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 11:59
http://logsoku.com/thread/academy4.2ch.net/min/1154841276/
思考材料として抜き出し、

・竹内文献の良写本である小島本の皇統譜の冒頭に見える天皇尊。
道教の最高神の名称の中にも見える天帝がみえる。
神仙道の北極微餓垣に座する最高神。平田篤胤の述べる北辰
真言密教にひそかに伝えられた宇宙以前のことを記した北辰の書。
これらはみなリンクする。

・万国思想の先取り吉田兼倶やさらに先取りしていた天台の慈遍。
東密、台密に見える竹内を連想させるアイテム。
密教の本朝伝来の流れも竹内的な奇跡的タイミングで天竺からンニ系統のルートで
シナへ、漢訳もすんだころに空海さんが日本へ持って帰る出来すぎの日本歴史。
別に本当だからしかたない。

最澄傳と称する神道書には天の鳥船傳が見える

・日蓮が伊勢神宮参拝の折りに降臨した妙見菩薩の一軒と竹内文書に記された
日蓮の伊勢神宮における神託との符合点。
仏典では仙界の最高仙と説く妙見菩薩。

・竹内文献に記されたゴミが何故道教の最高神と同じ名称が見え密教に宇宙以前の事が
記された事実。宇宙本体が大日ならば妙見菩薩の存在の実態は何か

・古代天皇が庶民が北辰を奉ることを禁じた。謎を解く鍵が北辰星霊験記という
書だ。神仏儒、格教の根源についてが記されている。さらにそれらは同源で
北辰妙見であると説く。本朝において妙見菩薩がクニノトコタチ尊と習合する訳は
ここにある。民俗学では本邦公開かな。

・妙見菩薩が鎮宅霊符神として習合している事は他のサイトに平安京の四方に奉ってると
あった。妙見菩薩の伝承では聖徳太子の時分に朝鮮半島の王子の来日がある。
さらにひそかに伝えられた真言の伝承には当時大陸で流行っていた鎮宅霊符神を王子が
日本へ持ってきたという。

・どちらも北辰という意味で間違ってはいないと日蓮宗の名僧が明言していた。
妙見来日の舞台は周防の国、神道天行居の本部があったっけ?
友清翁も神さびたる古きいわれのある所とぼかしていなかったかな?
友清翁ならば北辰妙見菩薩に深い理解がありそう。太古真法も国家規模の
鎮宅と見ることが出来ないだろうか。
平田篤胤も北辰については深い洞察がある。古神道と妙見菩薩はリンクしているのである。
北辰妙見との全容は時期も機も熟していないのだろう、古史伝では
わずらわしいと言っている。神道の講義に佛臭を出せば弟子が本地を誤解するための配慮であろう。

・北辰星霊験記では神道の根源神クニノトコタチ尊が神名の上で宇宙の根源神で実体であるブラフマンと習合し非常に興味深い。
だが先に述べたとおりその根源が北辰であり、>>7で書いた妙見菩薩とクニトコタチ尊との習合の謎も
真言密教では当然として伝承されてきたのである。




Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 12:19
能勢氏の切り竹矢筈十字

矢筈十字・・・
http://rekisitanbou.seesaa.net/article/156655761.html
その中にある矢筈十字紋は、
摂津の国の能勢から出た能勢氏が、
クリスチャンとなり
「マルタ十字紋」を家紋とました。
だが、
キリスト禁止令が出たので、
その名称を「矢筈十字紋」と変えたのです。

マルタ十字
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/27505875.html
碗形土器の意匠にはマルタ十字紋様が四つ描かれている。
十字紋や卍字紋意匠はサマッラ土器に特異な紋様である。
・・・
マルタ十字の名称は地中海のイタリア半島の西シシリア島のアフリカ側にある小さな島マルタMalta国と関係がある
・・・
シュメル語balの派生語sabalは子供、子孫を表す。
 碗形土器に描かれたマルタ十字紋は豊饒祈願のシンボルと考えられる。

ウィキペディア『マルタ十字』より、
マルタ十字(マルタじゅうじ)は、キリスト教の騎士修道会である聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団とも)の象徴とされる。元来は11世紀のイタリアの小共和国であるアマルフィの象徴であった。マルタ十字は4つのV形をした紋章がその底部で結合した形をしており、突き出た8つの角をもつ。この意匠は第1回十字軍の頃からある十字のシンボルに基づいたものである。8つの角は騎士道における以下の8つの美徳を象徴しているとされる。
 

あんまり気が向かない方に行ってる・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 13:50
加治木氏に戻ってきましたが・・・
http://matmkanehara-momo.blogspot.jp/2012/03/8-web-my-googleweb-google-yahooweb.html

では出雲へ隠棲した大国主とは、一体?誰だったのであろう?。
もう一度、登場人物たちの名乗りを詳しく分析してみよう。

建卸雷男神の「建御」は、彼に命令した高木の神と共通の名乗りをもっている。
建=高だから御・ゴ=木・コである。
この高木は大隅語だとタケチだから武内である。

武内ヌ大臣はタケチヌウミ。

京都下鴨にある賀茂御祖(みおや)神社の祭神・賀茂の建角身命もタケツヌミで、

同じ名乗りだとわかる。

すると天照大神と高木の神のセットは、
神功皇后と武内宿祢のセットだったことが判るのである。
この建角身命は神武天皇を先導した頭八咫烏(やたがらす)として有名である。
八咫はハタ。
武内宿祢の子に羽田(ハタ)八代(ハタ)宿弥がいる。
頭八咫烏は羽田韓子(カラス)だったのである。
この建角身命の孫が賀茂別雷命で、
上賀茂の賀茂別雷神社に祭られている。
建御は武内・雷は雷、男神は日子=別(ビチ)で、
建卸雷男神は完全に賀茂別雷命なのである。
彼は八重事代主に迫って国を譲らせた。
八重はハエでもあり、大隅語ではハエは「速い」である。
事はジ。日はジツで、八重事は「速日」に合う。
代はダイ=大。主は王でもある。
この事代主は恵比寿(エビス)として知られている。
関西では「十日えびす」を祭る。
十は「ソ」日は「カ」で速日・蘇我・ソナカ。
八重事代主は蘇我大王であってヤエコトシロヌシではない。


タケミカヅチは八咫烏(やたがらす)の孫。事代主は蘇我大王・・・


しかし、妙見信仰と、桓武平氏とどう関係するのだろう・・・
将門の封印との関係は・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 14:04
http://matmkanehara-momo.blogspot.jp/2012/04/blog-post_25.html
5 山陰の出雲が南九州の出水から分かれて大国化したことは、
   疑いの余地がない。
 6 すると地名も、領主たちも、
   南九州からの移民である。
   その地域を支配したのは土着の人たちではなく、
   元・南九州人たちである。
   その人たちが祀ったのは南九州の神であり、
   それは皆、支配者たちの肉親や祖先たちであって、
   出雲の先住民の肉親ではない。
 7 さらに<素戔嗚>と<大国主>は、
   ともに他からの移住者である。
   これで判定すると出雲へ移ってきたのは位宮と卑弥呼とその一族か、
   その子孫たちである。
 8 その伝承は時代の異なる2神が、
   どちらも外部から移住してきているから、
   <素戔嗚>だけが移住して来て
   <大国主>は出雲生まれだとする説は完全に間違っている。
   これは<素戔嗚>の八俣大蛇退治を出雲での事件だとする
   解釈が根本的に間違っていることを立証しているし、
   <大国主>の国譲り事件も、
   明らかに出雲以外の事件で、
   その後に出雲に移住して来ている。
 9 出雲各地にある、
   この2事件関連の人物を祀る神社や住居址は、
   後世に作られたもので、
   そこに本人が住んで事件があった史実の遺跡ではない。
 10 これは南九州の事件である
   <位宮>と<卑弥呼>と<壹與>の史実が、
   <浦島太郎>・<桃太郎>・<赫夜姫>のお伽話になって、
   丹後や木曽・陸奥・京都で、
   地元の事件として語られるのと同じである。


・・・わたしとしては『出水』という言葉に関して、2年まえに啓示を受けているので、この説を信じる方に傾いています。

その時、勤めているところの上司が、観音を勧請された家の方で、当人は信仰していなかったので、あまりにもったいない話だとお参りさせていただいたのです。
でも、由緒も本尊もよくわからなかった。
地図で調べると『出水観音』となっていたので、そのころ調べてみたのですが、南九州の地名であることぐらいしか、出てこなかった・・・

出水=出雲・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 14:17
カルデヤ→インド→稲敷→殷の大量の証拠群が復元
http://matmkanehara-momo.blogspot.jp/2012/05/blog-post_7252.html


しかしこの事実は、もう少し再確認しておく必要がある。
 それは、カルデヤ人は国を作る500年も前に、
 そんな進んだ文化をもっていたはずがない、
 偶然だ、間違いだという者が必ず現われるからある。
 本当にカルデヤ人がレイライン文化をもってきたのであろうか?。
 まず殷墟と稲敷との間に2200kmのレイラインが実在することは、
 地図で計ってみればすぐ確認できる。
 そのレイラインは以後の日本列島に定着して、
 5世紀に築造配置されたことの確実な
 仁徳天皇陵から
 応神天皇陵、
 景行天皇陵、
 伊勢元宮跡までが、
 全く同じ11の倍数単位で測定配置されている。
 その他の古墳はもちろん、
 神社仏閣まで同じ配列になったものが、
 8世紀以後の建造物にまで実在している。
 このレイライン文明は日本の古代文明だと主張できるから、
 なにもカルデアと結びつける必要はないのだが、
 前記のように殷と稲敷の結びつきが明瞭で、
 その稲敷と九州との間にイン・イナの地名遺跡が現存して生きている。
 しかもそれはインドとつながってイン・イナという地名のルーツを立証している。
 それと同時に、そのルートを結ぶ、
 カルデヤの名からしか生まれない地名や国名の一族が、
 ミャンマーから我が国まで見事に分布していて、
 その関連を疑う余地がない。
 そのコースは鰹節や宝貝貨幣といった
 特殊な海洋産業遺物によって、
 殷帝国の誕生史を裏書きしている。



稲敷とは、どこのことかわからないけど、ここなのだったらズバリになる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%95%B7%E9%83%A1
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 14:26
妙見信仰は古代メソポタミア人が、北極星の周りを巡る北斗七星とオリオン座を見て、大河の氾濫を予測したのが始まりのようですね!

妙見信仰の勉強になります。
http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

キリシタン大名の三箇氏も気になります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/saka_k.html

三箇(さんか)は山窩にも繋がるのか!?
「ミカ」と読み、三箇星(ミカボシ)甕星でオリオンの三ツ星なんて説もあります。
もしくは預言者ミカに繋がるのか・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB_%28%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85%29

三箇は「サカ」とも・・・興味深い字ですが三柱鳥居も匂いますねぇ・・・

http://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/diary/200608230000/
「八幡神が同時の姿になる直前、金色の鳩となって降りてきたという伝説も記されているそうです。
聖書の「鳩の姿をした聖霊」と、「金色の鳩の姿をした八幡神」。そして、「黄金の鷹」すべては繋がってきます。
そして、さらに、八幡神の神遣は、ずばり「鳩」です。
バプテスマ(洗礼)に関わる「鳩」と繋がってきます。
「「応神天皇は朝鮮半島から秦氏を招き入れ、豊国を与えた。
秦氏は、そこに秦王国を築き、三角池でバプテスマを始めた。
そこへ、神武=崇神=応神天皇が現われ、自らバプテスマを受けたのではないだろうか。
これが正しければ、すべての辻褄が合ってくる。
バプテスマを受けることによって、応神天皇はユダヤ教から原始キリスト教に改宗。
原始キリスト教徒である秦氏から同族とみなされ、秦氏の大王、秦王となった。
これを記念して、応神天皇は「八幡神」の称号で呼ばれるようになった。」

応神天皇は洗礼名が「ミカ」らしい・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月01日 14:39
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/49937364.html
私が発見した稲敷郡(茨城県)から殷墟までの霊域ラインは、
 彼等が実測したことを立証している貴重な有形文化財である。
 彼等は夏の時代に、すでに九州はおろか東日本でも活躍して、
 水郷茨城を開拓しつつ中国に大帝国を作るほどの交易と往来をしていた。
 それは彼等が「商」を国名にした程、大規模だったのである。





ウバイドから出発した人々が、モヘンジョ・ダロへ入ったことの証拠の数々は、
大学院講義録33でご説明したが、
 その一帯の地域が何故?今もインダスと呼ばれているのか?は、まだ未説明だし、
 それがウバイド女帝国の一部だったという決定的な証拠もまだ提示していなかった。

 メソポタミヤにはウバイド以後、多数の分国が生まれて、
 それぞれ特徴のある政体をもったが、
 そこで栄えた国々の大半は武装した男系国家が多く、
 インダス地方に侵入したのも、その武力によるものだろうというのが、
 世界の学者の常識になっていた。

 これではどんなに遺跡文化が共通していても、
 インダスはウバイドの遷都先だと主張するには決定的証拠に欠ける。
 だがこの欠陥を埋めるものが、パーリ語の中に見つかった。
 パーリ語の「インダ」は『女帝』という意味である。

 だからインダスとは女帝の国という名の広大な地域を意味している。
 ではインダスという地名はパーリ語によって命名されたのか?。

 ウバイドは8000年前で、
 インダス文明は約5300年前、ずっと後だから、
 インダという女帝国家が先にあって、
 男帝国家群と対照されて「女帝国家」という特色が
 際立つ時代に入ったために、
 インダス文明よりもさらに後世の言語であるパーリ語中に、
 インダ=女帝国家という新語が加わったのだという筋道は、誰にもすぐ判る。

 ではそのインダというウバイドでの原名は何だったのか?。
 それは農産の神・イナンナ女神から来ていることは、もうご存じの通りで、
 それがイネ=稲の語源にもなっている。
 イナンナ、稲ん女(な)、稲ん田(だ)、イナダ、イヌダ、インダであって、
 これからさらにイン=殷が生まれたこともお話しした。

 この殷が夏王朝を倒したことも、
 『魏書』の烏丸・鮮卑・東夷の条の冒頭に
 「書(『尚書・書経』)は「蛮夷は夏を猾(みだ)す」と載せ、
  詩(『詩経』)は
 「儼允(ケンイン)は孔熾と称して久しい」とあって、夏王朝が実在したこと、
 それを倒したのが儼允(ケンイン)であることを証言しているが、

 このケンは犬(けん)、インも犬(いぬ)、
 中国語発音と南九州語発音を並べて書いてあるということに注意がいる。

 なぜなら卑弥呼の都があった隼人出身者は、
 のちの大和朝廷の儀式では『犬吠え』をして奉仕し、
 犬人と呼ばれていたからである。
 殷人は犬人で隼人だったのである。

 殷帝国をつくり、貝貨幣のカで栄えたその貝貨幣産業は、
       
 沖縄を中心とする高族
 (高麗(たから)人=カリエン=カルデアン)のものだったのだから、

 沖縄語が濃く入り混じる大隅語を話す隼人=海人と、
 夏を倒した航海者殷人は疑いもなく、

 インダ、イヌダと呼ばれた同じ犬人で、
 倭隼人(倭=ウバイド)そのものだったのである。

 また貝も中国語でバイ、倭貝奴・大貝奴と書いてもやはりウバイドなのだ。

 カルデアは、ウバイド文明圏の先進国、天測を発明した海運国で、
 私が発見した稲敷郡(茨城県)から殷墟までの霊域ラインは、
 彼等が実測したことを立証している貴重な有形文化財である。
 彼等は夏の時代に、すでに九州はおろか東日本でも活躍して、
 水郷茨城を開拓しつつ中国に大帝国を作るほどの交易と往来をしていた。

 それは彼等が「商」を国名にした程、大規模だったのである。

 ウバイドはそのままで倭売奴、大買奴だったのだ。
 これが解ると、ウバイド文明の古さと巨大さ、
 そしてわが国が何故?その中心になったのかが理解できる。

 それは沖縄海域が貝貨用の小型宝貝の世界最大の宝庫だったことと、
 大市場である中国への往来に好条件の揃った、気候温暖で水田農業の最適地、
 四面環海で天然の要塞だったこと、船や家屋を作るのに最適な森林が豊富で、
 中近東出身者たちには、天国のような好環境が揃っていたことがことなどである。

 もちろん、その前には台湾が選ばれていた。
 カリエン・カレンが居住した証拠に、
 花蓮港(カレンこう)という大港湾都市が残っている。

 それが球球列島に拡大したので小さな沖縄を「大琉球」と呼び、台湾は小琉球に転落した。

 しかしウバイド本来の水耕農業には不適なので、その敵地を求めて、
 さらに九州から本州へと遷都し続けて現代に至ったのである。

 これで「何故?ウバイドの移動は遷都なのか」、とその理由がお解り頂けたと思う。

 それをいま少し補強すると、それは女帝国の膨張であって、
 意識した移住でも、遷都でもなく、さらなる繁栄のための、開拓の連続だったのである。
 それまでの生活圏の外に新たな農耕敵地がみつかると、
 人々はそこへ移住して水源を調査し、田畑の設計をして、開拓にとりかかる。
 その間の食料や、衣料、農機具、生活用具といったものは、指導者が供給し、補給し続ける。

 だからそれを担当する役人が必要になり、役人の給与も必要になる。
 こうして納税の原形として租庸調制度が生まれてくる。
 ウバイドではそれが8000年前には出来上がっていて、
 開拓地の拡大とともに、政府も女帝も遷って行ったのである。
 この発想は農業本来のものではない。

羊などの食用獣を放牧して、食草を追って移動し続けるシステムが基礎にある。
 だから居住には簡易なテント状のものが敵している。
 わが国の居住遺跡が、円形の基礎を残し、支柱を斜めに組み合わせて、
上端を縄で束ねてあるのは、樹木の豊富な我が国式のテント建築なのであって、
 決して貧困のせいではなかったのである。
 それは農耕生活に入る前の放牧生活の知恵の活用であり、

 皇室が欧米の絢爛豪華な大宮殿と異なる質素な木造家屋を選んできたのも、
 全てこの歴史の証人なのだ。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 15:22
インダ=女帝国家・・・


日本神話との整合を試みなければならないところなのでしょうが、まあ、大筋で噛みあっていくと思います。


真人について・・・
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub13.htm

真人家の成立
このときの出雲関係氏族の活躍が、天武十三年の「継体子孫に真人姓を賜る」ことに大きく寄与したのではないか。
いい換えるなら赤い血でかちえた賜姓であつたのでしょう。

斑鳩の地にあつた上宮家絶滅後、出雲族の悲願が真人家の成立だつたのです。
大伴氏は古くからの因縁で出雲氏族を誘い入れ、壬申の乱を勝利に導きました。
その後の真人家成立に後押ししたことは充分に想像できます。

このとき成立した真人姓は全部で十二、そのうち継体後裔ともくされるのは次ぎの七。

・三国公 越前坂井郡三国に本拠を置く。紀・継体紀に三尾君堅ひの女、倭媛所生の椀子皇子が
「三国公の先祖とする」。古事記では応神の孫意富富杼王を祖とする、遡らせた異説がある。
三尾君は近江高嶋の地を最初根拠地としていましたが、三国に進出したことは継体天王の進撃路の項で話しておきました。

・丹比(多治比)公 河内国丹比郡に本拠を置く。宣化御子の上殖葉皇子を祖とする。 
   
・偉那公 宣化御子の上殖葉皇子を祖とする。(書紀)、姓氏録には宣化御子の火焔王の後とする異説。
・坂田公 継体御子の中皇子を祖とする。(書紀)

・酒人公 継体御子の兎皇子を祖とする。(書紀)
★酒人公には、大国主神後裔忍甕足尼(おしみかすくね)を祖とする説。(鴨脚家本B残簡、大和国加茂朝臣条逸文)・(日本古代氏族辞典より)この異説は「大国主神=継体天王」を主張する筆者にとっては異説ではなく当然とみる。

 同族の酒人小川真人は近江国高島郡小川(滋賀県高島郡安曇町小川)の地名によると思わ
れる。継体天王と関係の深い三尾氏の根拠地でもある。

・息長公
・山道公 古事記に意富々杼王を祖とするとみえる。三国公・酒人公なども、ともにあるところから遡らせた祖先伝承である。姓氏録には坂田酒人真人は息長真人と同祖とある。(左京皇別)

紀・記とも継体朝の子孫に関しては異なったことを書いており、混乱して所生する母系も判然としないものがある。
ここでは真人を賜った氏族が継体朝三王の子孫として認められたことが重要なことでしょうし、
これが壬申の乱における出雲族の功績によるものだろうと考えられます。

十二の真人姓を賜った氏族の一「当麻真人」を賜ったのは、
天武十四年卒の当麻真人広摩呂で、
続日本紀に壬申の功者であると書かれている事からもそのことが想像できるのでした。

 多治比真人家 
継体朝後裔の真人姓を賜った氏族の中で、最も活躍したのは河内を本拠地とした多治比真人家でしょう。
当主の多治比真人嶋は持統朝の右大臣、文武朝の左大臣を歴任し、子の池守・県守・広成・広足も顕職につきました。

ときに大伴連御行は大納言の職に在り大宝元年(701年)の卒時には贈右大臣。
和銅五年(712年)には嶋の妻、御行の妻がともに、夫の生前、死後の貞節を賞せられ五十戸を賜ったとある。

持統王朝擁立に当った大伴氏と出雲出身貴族・多治比氏の関係は、密接なものがあつたのです。
それは壬申の乱以後のことではないでしょう。
出雲に日本国を造ったときまで、遡る深い縁があつたのではないかと思われるのでした。
この氏族たちが中央政権の要職にあつたとき、大唐との文化交流を行って仏教の花を開かせます。

★大宝元年(701年)の入唐大使は粟田朝臣真人。山城国愛宕郡上粟田・下粟田郷(京都市伏見区粟田口一帯)を本拠とし、氏神社は近江国滋賀郡にある「小野神社」ということからも分かるようにあの「小野氏」の同族。



・・・・意味があるのかないのか、わからないのですが、さっき稲敷郡のウィキの記事で、「河内郡」とあって、???と思いました。

大阪の河内は、こっちの河内であるか、ともに河内であるか・・・でないだろうか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 16:49
アメノミカボシ・・・をつかみにいかないと・・・

今宵、星のかけらを探しに行こう
http://www.youtube.com/watch?v=E_v-VC2PEtY


八代・能勢・相馬の妙見宮について、由緒を洗い直す必要があるように思います。
能勢妙見の能勢氏・・・改宗履歴疑惑・・・


鎮宅霊符神と妙見神 この関係が今ひとつ読めない
http://reyline.web.fc2.com/reyline/kouzousen.htm

「それの根元が八代にあると筆者は思っている」・・・わたしも思う。


この八代妙見神社の200m東の山の斜面に霊符神社がある。
この神社が全国に広がる鎮宅霊符神社の基社といわれている。
この鎮宅霊符神社の謂われは推古女帝の時代に百済の聖明王第三ノ御子の琳聖太子によって、熊本県の八代の神宮寺に鎮宅七十ニ霊符が伝えられたのが始まりといわれている
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 17:12
能勢は伊丹に近いこともあり、全く知らない土地ではないです。

能勢氏検索で、
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html

能勢氏が退去したあとの能勢は、塩川氏が領することになったようが、
天正十四年、塩川氏が改易処分を受けたのちは秀吉の直轄地となったようだ。
そして天正十六年、九州征伐で秀吉に降った島津義久の在京賄料として与えられた一万石のうちに能勢五千百石余石が含まれており、
能勢は島津氏の領有するところとなった。
天正十九年、
頼次は天正年間の兵火によって焼亡していた能勢の野間神社(当時布留社)の再興を島津氏に願い、これを入れた島津氏は頼次を本願人として社殿が復興された。

・・・布留社・・・しかも野間神社とは(絶句)
場所は違いますが、伊丹在住のときの住所は、安堂寺町、ちかくに野間というところがありました。

調べて・・・

野間神社(能勢)

 社伝によるとこの饒速日命(にぎはやひ)は、別名「布留大明神(ふる)」といって、神霊代は饒速日命が持っていた「勾玉」であるとされていた。
また、神話によるとこの神は神武東征のおり、御子「宇摩志麻遅命(うましまじ)」と共に臣下であった族長「長髄彦(ながすねひこ)」を討って神武天皇に恭順の意を表した。
そして神武天皇に先立って天降りした際、天神「高皇産霊神(たかみむすび)」より賜った十種神宝(とくさのかんだから)を持ってきた、とある。

その「勾玉」は、「十種の神宝」のひとつなのであろう。
神霊である勾玉がやってきたという石上神宮(いそのかみ)には、布都御魂(ふつみたま)、布留御魂(ふるみたま)、布都斯御魂(ふつしみたま)が祀られている。
そのうち「布留大明神」はもちろんのこと「布留御魂神」のことだと推測できる。では「布都御魂」と「布都斯御魂」とは何であろう?
布都御魂は、武甕雷(たけみかづち)が出雲平定のおりにおびていた霊剣である。

ところが石上布都之魂神社のところでは、『布都御魂』とは、須佐之男尊が八岐大蛇を斬った霊剣そのもので、朝鮮半島からもたらされたものだと伝わり、「布都御魂」が「須佐之男尊自身」でもあるといっている。

しかし石上神宮(いそのかみ)では、その剣は「布都斯御魂(ふつしみたま)」であるといい、どちらの主張が正しいのかはわからない。
いずれにせよこれらの霊剣で八岐大蛇から得た八握剣は、天叢雲剣(あめのむらくも)と呼ばれ、三種の神器のひとつになった。
それも饒速日命が持ち合わせた十種神宝のひとつだったのではないだろうか。

「布留御魂」が「勾玉」で、これこそが「大物主神(おおものぬし)」であったという伝承に巡り会えた有意義な日であった。


武家家伝に戻って・・・

能勢氏を再興した頼次は、感謝の念から法華経の信仰を深め、日乾上人の説法を聞くことになった。
その法話に感激した頼次はただちに上人に帰依すると広大な山屋敷を寄進したのである。かくして、能勢に住した日乾上人は眞如寺を興し、能勢地方一帯に日蓮宗=能勢法華が成立していった。
さらに上人は、能勢氏が信仰する妙見大菩薩を法華宗の守護神とし、上人自ら彫刻した妙見大菩薩像を能勢領が一望できる為楽山の山頂に祀った。
ときに慶長八年(1603)のことで、これが能勢妙見山の始まりである。


・・・八代と千葉氏の妙見信仰は通過したけど、能勢氏は手付かずだった。
しかし、これが一番手ごわそう・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 19:53
能勢氏の出自
http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keijiban/tada2-nose.htm

 能瀬(能勢)は古代能勢郡領家の後ではないかというのは、太田亮博士(『姓氏家系大辞典』ノセ条)の指摘であり、これを踏まえたものです。

B地黄(じおう)とは薬草で、地黄村付近には古代中世に典薬寮所属の供御所・地黄園が置かれていた。
また、能勢妙見堂が近くにあり、これらと併せて、薬師神少彦名神の流れをくむ服部連の同族が能勢郡領家ではなかったか。
地黄には、能勢郡式内の野間神社があるが、かつて布留社ともいわれ、
物部氏の祖・饒速日命などを祀っており、物部氏族は服部連の同族にあたる。
C能勢氏の矢筈十字紋は、伊賀服部氏の矢筈紋に通じる。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 20:09
典薬寮・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B8%E8%96%AC%E5%AF%AE

典薬寮は宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行った。
天皇への医療を行う内薬司と対を成す。
896年(寛平8年)に内薬司を併合して朝廷の医療を掌握した。
長官は典薬頭で、医師、針師、按摩師、呪禁師で構成されていた。

・・・平安時代後期以降、和気氏と丹波氏による世襲となり、典薬頭は専ら丹波氏流の小森家が独占した。
小森家は六位蔵人を兼ねたため、典薬頭であっても実際の天皇の拝診や寮の実務には携わらない名誉職的存在となった。
また、典薬権助の地位は賀茂別雷神社の社家である藤木家が世襲したが、こちらは実際に鍼術を行い、天皇の拝診もする家系であった。


呪禁師・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E7%A6%81%E5%B8%AB

呪禁師は道教の影響を受けて成立し、呪術によって病気の原因となる邪気を祓う治療などを行った。古くは仏教の祈祷と混同されて用いられた例もある(『日本書紀』敏達天皇6年条)が、本格的な導入の初出は『日本書紀』にある持統天皇5年(691年)条である。
・・・だが、後に厭魅蠱毒事件の続発によって呪禁そのものが危険視されたこと、同様に道教の呪術を取り入れた陰陽道の台頭によって8世紀末頃には事実上廃止され、9世紀には呪禁師の制度自体が消滅した。



呪禁博士(従七位上) 陰陽寮に職掌を奪われて消滅
呪禁生 陰陽寮に職掌を奪われて消滅
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 20:26
物部と妙見信仰・・・
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/kibi.html

・・・・・・・・・秦氏は天皇家の神事を執り行う影の一族となって表舞台には現れず、時の勢力の宗教統一に大きく影響して行く。
出雲にいたオオ一族、先住海人族の宗像一族と八重事代主、また賀茂一族やアジスキタカヒコネの葛城一族、かつ海人族波多氏、物部氏も秦氏の傘下になっていった・・・・・・
・・・吉備の遺跡に。
物部氏の信仰には星信仰がある。
北極星を太一とする妙見信仰は海人族のもの。
それは物部氏の本拠地北河内の交野にある星田妙見が証明する。
ところが太陽を中心とする天照大神信仰も実はこの海人の星信仰がベースにあって、それは秦氏が完成させている。
藤原氏はこの二つをクロスオーバーさせた女帝のための太陽信仰を造りあげた。天武の星信仰とここで微妙なくい違いが起きる。
持統天皇はその最初の女帝。彼女こそあまてらすだ。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 20:53
鎮宅霊符神と妙見神 この関係が今ひとつ読めない・・・でしたね・・・
http://reyline.web.fc2.com/reyline/kouzousen.htm

検索してますが、
「後水尾法皇が、夢枕に立った父・後陽成天皇の言葉に従って、王城鎮護のために貴船の奥の院より鎮宅霊符神をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師が開創となって寺としたのが当寺の起こりです。」
http://www.kangaan.jp/kangaan.html

・・・ぐらいしか出なくて。

インドは初めは二十七宿,後に中国から輸入された二十八宿を採用したと考えられている.
インドでは二十七宿はナクシュトラといい,そのまま日に対応する.それぞれの宿(つまり日)
には吉凶がある.二十七宿占星術は,原典はB.C.1000の呪術聖典「アタルヴァ・ヴェーダ」で
あり,中国二十八宿よりも古い.

中国二十八宿は,殷(いん)の国からできたという説もあるが,証拠はない.
最古の二十八宿は,B.C.433製作の陶器に漢字名できざまれたものである.中国の二十八宿の呼び名は,中国の風水の四天王の体の一部からきている.7宿づつ集まって,大きい1星座となっている.
アンタレスのある宿「心」はその名のとおり,蒼龍の心臓にある.中国の星座も春秋時代にはできていたと思われるが,星座の証拠の最古のものはB.C.1世紀の「史記天官書」である.

インドの二十七宿と中国の二十八宿は,別起源なので,インドが黄道上,中国は赤道よりと,かなりずれている.
http://unkar.org/r/min/1044541820


殷馗(いんき)  遼東の人
http://www001.upp.so-net.ne.jp/eiyutan-3594/hougi/inki.htm
 
そのむかし、桓帝の時代に、黄色の星が楚・宋の分野に現れた。
遼東の殷馗は天文に詳しかったが、五十年後に真人(天子となるべき人物)が梁・宋のあたりの地域に出現するにちがいなく、その鋭鋒には敵対できぬと予言した。
ここにおよそ五十年が経過し公(曹操)は袁紹をうち破って天下に敵なしとなった。
(注)天の二十八宿(星座)はそれぞれ中国の地域に相対する。
その星座に異変があれば、対応する地上の区域に変化が現れる と考えられた。
〔魏書 武帝紀〕



星のかけらばかりです・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 21:47
ハズさん・・・そろそろ・・・

あなたが三国氏といったとき、?と思った。
調べて、椀子皇子・・・椀子=丸子 であると知り、千田氏を思い出して、コメントしたけど、投稿エラーになった。

そして、今、ここまで来て、安倍清明の「三国相伝陰陽&#36648;轄&#31776;&#31755;内伝金烏玉兎集」の三国が、あるいは三国氏のことかもしれないと・・・

磐撞別命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E6%92%9E%E5%88%A5%E5%91%BD

「天成神道」で、検索してみてください・・・

怒っているなら・・・ごめんなさいです。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 22:03
三顧の礼です・・・ハズ・・・

236 :日本@名無史さん:03/01/01 02:14
最近気付いた五人のマロコ王
継体皇子……椀子皇子
欽明皇子……椀子皇子
用明皇子……麻呂子皇子(当麻)
太子王子……麻呂子王
山背王子……難波麻呂子王
何か共通点ある?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月01日 22:44
怒るわけないですよ!
何だか覇気を感じる怒涛のコメに圧倒されて、静観してました。
三国氏は僕もよく分からないんですよ・・・検索しても出てこないし
まあ一応、継体としておきますが、三国氏が壬生だったようです。

三尾君の祖神(磐撞別命)となってますが、三尾氏=三国氏だと思われるので三国氏の祖かなぁ・・・
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-02-01-06.htm

その麻呂子は興味深いですね〜、何かを暗示してそうですが、分からないですね(難)
継体と欽明の子が両方とも椀子皇子とは意味深です。

麻呂子皇子(当麻皇子)は孝徳天皇のことかもしれません。
ただ、舒明天皇(実は押坂彦人大兄皇子と同一!?)も麻呂子皇子らしい。

う〜む、攪乱しているのかもしれません。(汗)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月01日 23:43
おひさしぶり・・・^^

まず、「天成神道」が金烏玉兎集っぽい・・・

水尾神社
http://kamnavi.jp/en/oumi/mizuo1.htm

水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南(かうなみ)社と河北(かうほく)社(現在は河南社境内に遷座)の二社有り、
河南社本殿の御祭神は人皇十一代垂仁天皇の第十皇子磐衝別命。
また河北社本殿の御祭神は人皇二十六代継体天皇の御母君振姫命であります。

磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていました。

磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。

それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、
振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。
太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。


水尾っていうのが・・・

「後水尾法皇が、夢枕に立った父・後陽成天皇の言葉に従って、王城鎮護のために貴船の奥の院より鎮宅霊符神をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師が開創となって寺としたのが当寺の起こりです。」
http://www.kangaan.jp/kangaan.html

・・・気になります。

あと、「振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。」

・・・三つ子?!
まるで、スサノオの三女神でしょう・・・でも、三男神・・・

しかも、、拝殿を産所って、丹後局の住吉神社での出産に似てるし・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月02日 00:09
水尾神社の所在地は、若狭神宮寺や久田川を考察していたところの近くです。
だから土御門の領域の近くなのかな・・・
この時の考察内容、忘れたけど、北と南で陰陽を作っていたのでしたっけ?

由緒書は、陰陽道で押さえてるっぽいですね。
これに形式を見ることができるかも・・・

天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児は天地人かも。

彦主人王・・・シンクロが激しいですね。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-02-01-07.htm
継体天皇の母振媛は、『紀』では三国の坂中井の高向、『上宮記』では三国坂井県の多加牟久村の出身と記されている。高向(多加牟久村)は、・・・

・・・の高向、高向王を連想しますね。

●彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証
http://www.ookuninushiden.com/newpage59.html


もう、寝ようかな・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月02日 00:54
住吉三神(オリオンの三ツ星)の3神も連想されますね。



Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月02日 09:26
そうですね。


日中韓の因縁として、これなのかなあ・・・というのが、

http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1270.html
782年 宣徳王、慶州から自らの地盤である平壌に遷都。 
 783年 唐で朱がクーデターを起こし、宣徳王もこれに加担。徳宗は奉天に逃亡した。
 朱が帝位に就いて国号を秦とし、元号を応天とした。
 784年 国号を漢と改め、天皇元年とした。
 さらに兵を徳宗のいる奉天に進めようとしたが、徳宗は吐蕃との境界を賀蘭(がらん)山とする「清水の盟約」を交わして吐蕃勢力を味方に付け、朱に反撃。
 唐と吐蕃の連合軍が勝利し、敗走した朱は、最終的には部下に殺されてしまった。
 朱を失った宣徳王(山部王)は新羅王からの退位を表明し、部下だったと思われる元聖王(金敬信)を即位させた。



桓武天皇=宣徳王 説を結構 信じていますが、新羅にとっては傍流の桓武が日本における統治を華々しく成功を収め・・・

日本が韓国から、恨まれるのは、桓武の因縁かも・・・

では、今宵、また(礼)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月02日 09:42
これは勝手な僕の意見ですので、お気になさらずに(願)
つぶやき程度で!!

だとすると、どうしても遣唐使が何故、桓武以前から新羅ルートを避けていたのかが謎になります。
http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/korea2002.htm#kanmutei
「第1〜6回の遣唐使(630〜669年出発)は、玄界灘を突き切って、百済の海岸沿い(朝鮮半島の西海岸)を北上するルートで、山東半島に至る。 誰が考えても、いちばん安全確実なルートだ。
ところが、第7回(702年出発)以降は、奄美大島や沖縄島までわざわざ南下してから、東シナ海を突っ切ってみたり、日本海側を北上して渤海国経由で唐に入国してみたり。このルート、海難のリスクが高かった。
度重なる難破に苦しんだ鑑真(がんじん)和尚の話は、このころのこと。
要は、百済が滅びてから、朝鮮半島は近寄りがたい場所になったのである。
新羅は、尚武の気迫と緊張感に満ちた国だったようだ。
桓武天皇の御代の 第16回の遣唐使は、最澄や空海も参加して804年に出航する。
天皇が百済の王家の血も引いているからといって、友好の旗をかかげて旧百済国経由で行った、などということはない。
なんと、東シナ海をまっすぐ南下し、福建省の福州に至るコースをとった。」



白村江以降、どう考えても新羅とは険悪になり、藤原仲麻呂による新羅征討計画などもあるし、藤原氏とも新羅は仲が悪かったはず!?国交断絶時期もあった。

もし光仁と桓武が新羅を共同統治!?していたのなら、その頃の統一新羅と日本は何故険悪だったのでしょう
せめて、光仁天皇かその前くらいは遣唐使の新羅ルートを避ける必要が無かったはず!?

まあ、確かに宣徳王は武烈王からの王統を倒してますし、どうも出自も謎なので、「新羅」という感じもしないですから、滅ぼされた百済の末裔もしくは、光仁&桓武かもしれませんが・・・


スルーを希望します(汗)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月02日 11:28
『天成神道』って、「天成る道」っていうのだろうか?・・・

コメント読み返して、大元祖=アラハバキを、アメノミカボシかもしれないと、もう一度検索したのですが、
http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma816hibihikari/folder/407593.html?m=lc&p=3

↑の紹介サイトより、『天成る道」謎の国・日本』の記事へ
http://www.k2.dion.ne.jp/~well0369/newpage12.html

これらの古文書が偽作とされている理由は、
9世紀初頭、斉部(イツクべ)広成が斉部(インベ)一族の再興を企図して著した「古語拾遺/序文」に、「上古の世に、未だ文字有らざる時に、貴賎老少、口々に相伝へ…」と記載されており、この一点を取り上げて、古代日本には文字は無かったとされているのです。

ところが13世紀半ば、
斉部広成の子孫で南朝に仕えた忌部(インベ)正道は、
神代巻口訳で「神代の文字は象形文字だったが、
推古天皇の頃から日本の文字に漢字を当てはめるようになった」とし、
斉部には漢字以前から日本で用いられていた文字を、
秘文字として隠していた事実を明らかにしています。
これは、広成の時代に、日本固有の文字を抹殺しようとする強大な圧力があったことを思わせますが、残念ながら忌部正道が南朝に属していたため、その指摘は結局葬り去られてしまいました。
・・・・
宮下文書は第七代孝霊天皇の74年(BC217年)、
秦の始皇帝の命を受けて蓬莱の地を求め来日し、
日本の古代史に興味を持った徐福がまとめたと伝承されている古文書を、
「神皇紀」という名で発表されたのですが、
別編として徐福伝があり、
この一節には徐福が秦始皇帝に上白した言葉が記されていて、
「東海に蓬莱・方丈・瀛州という三神山がある。
これは全世界の大元祖国であって、
大元祖宗の子孫がいて不老不死の良薬を持っている。… 」とあり、
ここに日本が大元祖国、すなわち、世界の元の国であることが示されています。
・・・
もっと不思議なことに、空海大師から伝来されたとする舞経には「カタカムナノウタヒ」があり、今日でも

「カタカムナ ヒヒキ マノスヘシ 

アシア トウアン(舞教では「あしあと おわん」と発音しているようです)

ウツシマツル カタカムナ ウタヒ」

 この言葉を、最初のカの字が中心となるように、左進右退で渦巻き状に写経し、写経することによってこの世が清まると信じられており、空海大師と楢崎氏がどうつながっているのか大きな謎です。(左進右退の渦巻き状というのも深い意味が感じられます
・・・・
秀真伝は、
大直根子(おおただねこ)の選でまとめられ、
景行天皇の56年(AD126年)に天皇に献上された古文書と言われていますが、
編纂されたきっかけは、東北地方を平定した帰路に、現在の三重県能褒野で病没した日本武尊の死を悼み、

「天候の異変や国が乱れ、戦火の絶えないのは、日本人が本来守って生きるべき『天成る道(あめなるみち)』をおろそかにしたためであり、多くの人々が幸せとなるために『天成る道』の教えを大切にし、後世までにもその教えを伝えてほしい」
・・・・
最近では岐阜県の笠置山、その南に位置する山岡町一帯で発見され話題となりましたが、ペトログラフについて考えると、古代日本にしか無いはずの「祈り」の意味を持つペトログラフ・目の形がパラオ諸島最大の島、バベリダオプ島でも見つかったと言われており、太古の昔に海を越えた交流があったと思われています。

 また、彦島などの島々を含めた下関地域、北海道の小樽市や余市町地域、とくに神奈川県伊勢原市の大山にある阿亜夫利神社では、日本だけでなく中国、エジプト、シュメールの多国籍なペトログラフが発見されていて謎は膨らみます。

昭和9年、酒井勝軍氏が広島県比婆郡本村(現在の庄原市)の葦嶽山を、2万5000年前に造られた日本のピラミッドだと指摘し、その後の調査では、彼がピラミッドの原理としてあらかじめから予想していた列石が頂上で発見されています
・・・・・
こうした忌まわしい預言の言葉を、一般的に天罰とか神の怒りと受け止めがちですが、これまでもくどくどしくお伝えしてきたように、人間一人ひとりの魂の浄化作用、すなわち己の罪穢れを清算する現象でしかありません。かつてイエスは水の洗礼(浄化)と伝えられていますが、これから起きるとされているのは火の浄化(洗礼)とされています。

火は「陽」であり「霊」でもありますので、燃・熱・火災だけでなく地下のマグマをはじめ地球規模の災害、太陽による気候変動、太陽系の異常など宇宙空間からの影響、さらには霊界の曇りからの影響として・・・・
・・・・
日本が「日の本・ひのもと」と呼ばれているのは、
単に「日出る国」を指し示しているだけでなく、
本質は「霊の元」に由来し、
かつて日本は世界の精神を支える屋根だったと思います。
しかし、永い歴史の中で本当の日本の姿は抹殺、あるいは歪曲して伝えられてしまったように感じています。
ですが、日本という国に生まれた人々の心の奥底、魂は必ず「天成る道」「この世の摂理」が秘められていると信じていますので、はやく目が覚めてほしいと切に願うのです。
・・・・・
残念ながら日本人すべてが霊の元の魂とはいかないようですが、
その力を結集すれば、いとも簡単に大難が小難となると思います。
しかも、大和の魂をもった人々はこの時代には魂が呼び覚まされるはずですから、これらの人々の霊性が一日も早く蘇ることを切に願うものです。
・・・・


この世界が破壊される方向から見ると、大きな役割をユダヤの民が実行しつつあります。人道的にみれば獣道であり、非道ですが、実行部隊たるユダヤの民には恐らくそうした認識はなく、
ホルスの末裔を称する民は、ただただ己の伝説にしたがって九神を仰ぎ、権力や情報、資源・金力を手中に収めながら、世界支配へ突き進もうとしているように見受けられます。

彼らによって絢爛たる物質文明の花が開き、快適性、利便性と人々は多くの恐怖や労苦から開放され、しかも情報、経済活動の発展により、集落単位で争う小さな世界観から、地球が一つの家族とも考えられるほど大きな視野、大きな愛の交流が可能となった反面、地球上のいたるところで、目に見えない金融戦争、弱肉強食の資源強奪戦、インターネットやメディアによる情報管理や社会統制などが仕組まれ、その結果、これまでの秩序、常識が破壊されて行くのです。

そして、それら社会的な大きなうねりに影響され、人々の心に巣くう金や物質への欲望は膨張を始めます。彼らは人々を欲望の渦へ引き込む磁力でもあり、多くの人は本性を露呈し更なる欲望をかきたたせ、渦の深部へと巻き込まれて沈んで行くと思います。

悲しみ、苦しみをまき散らし、人の心に怒りと憎悪を増幅させて、魂の下落を誘っているのです。こうして知ってか知らずしてかは分かりませんが、彼らはこの世の掃除役の一端を担っているに違いないでしょう。ルシファーのお役とも言えるかもしれませんが。

神界や霊界など見えない世界を信じ、他者へのいたわりや思いやりなど心に愛を貯えてきた人のみが、渦の強力な吸引力、磁力から逃れられると思います。



・・・・ホルスの末裔を称する民は、ただただ己の伝説にしたがって九神を仰ぎ・・・
ホルスの末裔・・・?



『天成神道』はこの「アメナル道」だと思っていいようです。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 00:22
アメナルミチ・アメノミチ・アノミチ

陽陰(天地)なる道。陽陰(天地)の道。天の道。  =妹背の道。日月の道。天法。天道。
陽陰の結合と分離によって万物は起り、高みから低みに流れるという宇宙を貫く大原理。
またその原理に沿った世の治め方・人の生き方。
「調の道」もほぼ同じ。

【陰陽和合】インヨウワゴウ −広辞苑より−
陰・陽の二気が合わさって万物を造化・創成すること。転じて、男女の情交などにもいう。

■「duality(二元性)」「polarity(両極性)」。

滋賀県高島郡高島町拝戸、水尾(ミオ)神社。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 00:23
http://gejirin.com/src/A/amenarumiti.html
『トヨクンヌ 天より三つの 業を別け 君・臣・民の 三件の 神は百二十の 御子ありて 陽陰なる道は 女も現らず 三代 納まる』2文
『諸民も皆 妻 定む 陽陰なる道の 具わりて 類 成るより 年 数え 五百継天の 真榊や』2文
『鑑みれども 神孫の 千五百 大人ある その中に 陽陰の道 得て 人草の 嘆きを和す 守 あらず』4文
『天地 離るも 遠からず 日毎に上る トユケ神 陽陰の道 以て 授けます』ミ逸文
『天御子 学ぶ 陽陰の道  一人 侍んべる フリマロは 六代ヤソキネの 世嗣子ぞ』4文
『サホコ国 変えてイツモの 国はこれ 陽陰の道 以て 民 安く』9文
『菊 日月の 霊種ゆえ 食えば目の玉 明らかに 合い求むなり 陽陰の道 為す人 神に 合ひ求む 故に菊 愛つむ これかな』15文
『ホツマ国 カシマの宮の 世嗣に ツハヤムスビの 孫なる ココトムスビの 若子の アマノコヤネの 人と成り 陽陰の道 得て』ミ逸文
『天法を 得て 身を治め 耕して ソロを植え蒔き 草 切りて 刈り納む身の 民は孫 工・商人も 曽孫・玄孫』17文
『後の守は トヨケ法 '魂の緒 入れて 皇の 弥々 守らんは' 陽陰の道 ミモロの山に 洞 掘りて 天の逆矛 放けながら 入りて静かに 時を待つ 直ぐなる主を 見分けんと 直ぐな印の 杉 植ゆる』23文
『我 昔 陽陰の道 得る 橘の文 上祖百編を 授く 名も 御祖天君』27文
『アマテル神も 還らせば 天の道 守る 人も無し 諸共 褒むる 神も無し』27文
『至る ワカヒト ヒタカミの 陽陰の宮にて 道 学ぶ 三十年に知ろし 宮 造り 大日山下に 政 執る』28文
『昔の上祖 タカムスビ ヒタカミ 生みて 一千万年 過ぎて天日の 大御神 陽陰なる道に 民を治す』29文
『光 重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百 七十年 経るまで 遠近も 潤ふ 地の 君 ありて あれも乱れず 陽陰の道』29文
『(オミケヌシ) 嘆きて曰く "大御神 陽陰の道 成す 代々の君 継ぎ受け 収む 天地日月 汝が政 諌めずて 阿り 君を 穴にする 心 汚なし 君 如何ん 我が上祖神 離れんや 穢れ 食まず" と』32文
『弓も良く射る 立ち舞ひも 類 集めて かくれんぼ 野山を走る 技を得て 陽陰なる道に 服わず』39文
『国造 五人 神の道 強いて申せば 召し連れて 至る 新治へ』39文
『白鳥も 終に雲居に 飛び上る 尾羽は恰も 上の世の 世掃しぞ これ 東西も皆 治せば 罷れる 陽陰法ぞ』40文
『大神 ソサノヲに 曰く "如何ぞ 地 望む" 陽陰法 成せば 地の守 教えの歌に "天が下 和して恵る 日月こそ 晴れて明るき 民の父母" これ 解けず 罪に落つるを イフキ神 率きて守とす ニニキネは この心 以て ほつま 得て 天君となる 羨みて 仮の親子ぞ』40文
『ミナカヌシ 天霧に乗りて 八方に行き 日月の道を 譲り 地に 県の組みの 色国と 名付け 天の道 地の道も 葦の如くに 立つ故に』ミ6文
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 00:25
ギャグかこじつけとしか思えないようなシンクロが実際、起こっています。
言霊は偶然の一致を装って、波動の共鳴を示すのですが、観察者の立場になって観測しないと、その意味を理解する機会はムダになります。

水尾神社が出て、ちょうど「俳優の高嶋政伸(45)と妻でモデルの美元(32)の離婚裁判」報道が活発化していたので、意味はあるんだろうと感じていました。

滋賀県高島郡高島町拝戸、水尾(ミオ)神社

あめの道 とは、陰陽の道・・・皮肉です。


芸能・社会面記事とのシンクロはなかなか侮れないdeath。
草薙剣くんと香取神宮くん
http://amanohitukukami.blog28.fc2.com/page-10.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 00:36
「後水尾法皇が、夢枕に立った父・後陽成天皇の言葉に従って、王城鎮護のために貴船の奥の院より鎮宅霊符神をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師が開創となって寺としたのが当寺の起こりです。」
http://www.kangaan.jp/kangaan.html

おそらくこの由来書も、陰陽道で読まなければ効果がないのだと思います。
後水尾天皇は、父・後陽成天皇とは不仲でありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87

慶長16年(1611年)3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、南光坊天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。ー

そのような父子関係で、夢枕に立って父の託宣を実行する・・・

後水尾ー後陽成   陽 と 水 の関係です。
ひとつの事象に、フラクタルに言霊が含まれている・・・そのように日本の文学は操作されてきているんです。
どれだけ開示されるかは、どれだけ言葉を信じられるか?の当人の器量の問題です。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 00:56
アメノミカボシという、未知の大元祖神を探さなければいけないのですが・・・


NO41 「アルナの星(Aruna)」 (インド)
http://business4.plala.or.jp/kodomo/kodai5.htm

 今回の古代人からのメッセージは、前回に引き続き、インドの星座天体名で「アルナ」です。
アルナとは金星を意味する名前で、インド神話に登場する神です。

アルナはインド神話の三人の主神の一人ブラフマのひ孫にあたります。
アルナとは払暁の「紅色」を意味し、太陽神(スールヤ)が生まれる前に世界を照らしていたといわれています。
これはまさに明けの明星として輝く金星のイメージそのものです。
アルナ自身はどのような姿をしていたかはわかっていませんが、卵から生まれたとされていることと、弟であるガルーダは身体が白面金身の人間で頭と嘴、赤い翼と爪は鷲の姿といわれていることから、鳥をモチーフにした神様だったと考えられます。

アルナは母であるヴィナターが時の熟する前に卵を割ってしまったために不完全な状態で誕生してしまったとされています。
ヴィナターはこの過ちの報いとして蛇族の奴隷となってしまったといわれています。
アルナは不完全な状態で天上にあがり、後に太陽神の御者になったとされています。
アルナのイメージは仏教の中に取り入れられ、「明星菩薩」「明星天子」として信仰の対象として日本へも伝わりました。
鎌倉新仏教である浄土真宗、日蓮宗などでは迷妄をはらう菩薩様として重要な位置づけがされるようになります。
ただアルナはもともと男性だったのですが、シルクロードを通って中国に伝わる過程で、紅の鳥に乗る女性の姿となり、さらに星曼荼羅の中では琵琶を引く女性の姿へと変わっていき、原型の鳥をモチーフにした男性神のイメージを失っていきました。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 02:25
テレビは2000年くらいから観ていないに等しいので、どんな番組をしているかしりません。
時計代りにNHKの朝の連ドラはつけているから、それはだいたい知っていますが・・・

海底遺跡の発見って、こんなに進んでいたのですね。

九州の古代文明 沖の島 海底遺跡
http://www.youtube.com/watch?v=6vloeEfv-CA&list=UUaDhW_9NbvTYOb0DZYobrOA&index=2&feature=plpp_video

冠島の古代海底遺跡
http://www.youtube.com/watch?v=zAys_Ze5kjo&feature=g-vrec


海底も日本として考察していかないとダメかな・・・

ハズさん・・・あなたは日本人ですか?
あなたから、日本人のにおいがしないのですが・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 02:58
http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/korea2002.htm#kanmutei
高野新笠の話は、日本の歴史教科書には出ていないが、これは出ていないのが当然で、責められるべきものではない。
白壁王(光仁天皇)が高野新笠を愛したのは、「対百済外交のための政略結婚」などでは全くなかったのである。
もう百済は滅んでいた。半島は、日本・百済の共通の敵国たる新羅が支配していた。
 
しかも、高野新笠と結ばれたころの青年白壁王は、そののちまさか自分が62歳で天皇として即位することになろうなどとは想像だにしていなかった。
前代の孝謙天皇と白壁王は、8親等(しんとう)も離れている。白壁王は、皇族ではあったが、天皇即位の可能性がほとんどない家系に属していた。
白壁王の光仁天皇即位は、たまさかの運がもたらしたものだった。
 
今回、韓国の中学・高校の「国史」教科書も読んでみた。
百済中興の王として、武寧王のことは当然書かれているが、桓武天皇に至る縁(えにし)については言及されていない。


・・・冷静にこれを読んで、冷静に判断して・・・どうなんだろう・・・

いえ、この方の記事ではなく、これをこの場に紹介する「あなた」です。

日本人がバブル期のままの日本人意識とおなじだと捉えるなら、ネット族ではないか、日本人ではないから・・・と感じてしまいます。

わたしの霊の戦いですが、仮想敵は、中国のエスパー軍団です。
彼らはネット工作員として、過去、日韓の溝が深まる書き込みをしてきていたと信じています。
今の中国の繁栄はそうして勝ち取ったものだと。

2006年頃の優良サイトへの集中的荒しは、日本人ではなく、中国部隊だと思ってます。


違いますか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 03:21
殷馗(いんき)
http://kirrah.net/his_sa12.html

遼東の人。天文に詳しい人物とされる。官渡の戦いで袁紹を破った曹操は、黄河沿いに陣をしいた。そこへ、村の100歳近いという老人達が酒食を携えて陣中見舞に現れ、「昔、殷馗が『50年後に天命を受けた人物がこの地に来るだろう』と予言致しましたが、今年が丁度その50年目にあたります」と曹操をおだてた。すっかり気を良くした曹操は一切の略奪を禁じた。これは村の長老達が村を略奪から守るために打った一芝居とも思われるが、後に劉備に会った水鏡先生司馬徽が、潁川に人物が多いことを話した際にも、殷馗の天文による予言を引いている。
※前者は『魏志』武帝紀の本文に、「曹操が官渡で袁紹を破ったのは、丁度殷馗の予言した『五十年後』の年にあたっていた」と記してあるのに基づいているのであろう。



建安5年(200年)、官渡の戦いで最大の敵である袁紹を破り、その勢いを削いだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D


殷馗(いんき)  遼東の人
http://www001.upp.so-net.ne.jp/eiyutan-3594/hougi/inki.htm
 
そのむかし、桓帝の時代に、黄色の星が楚・宋の分野に現れた。
遼東の殷馗は天文に詳しかったが、五十年後に真人(天子となるべき人物)が梁・宋のあたりの地域に出現するにちがいなく、その鋭鋒には敵対できぬと予言した。
ここにおよそ五十年が経過し公(曹操)は袁紹をうち破って天下に敵なしとなった。
(注)天の二十八宿(星座)はそれぞれ中国の地域に相対する。
その星座に異変があれば、対応する地上の区域に変化が現れる と考えられた。
〔魏書 武帝紀〕


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
*漢の献帝の初平年間(190-193年)のこと、長沙(湖南省)の桓という男が死んだ。ところが棺に収めてから一ヶ月余り経ってから、母親が棺の中で声がするのを聞きつけ、蓋を開けて出してやると、そのまま生きかえったのであった。占いによると、「陰の極致が陽に変ると、下の者が上に立つ」ということである。その後果たして曹公(曹操)が平役人の中から頭角を現して来たのである。[46]


殷馗・・・という人物の予言は、イエスの誕生を占った東方三博士の予言ほど、歴史上、重要なことだったのではないか?

『真人』姓の下賜は、かなり深い意味を持っていたのではないか・・・
そうなると継体は、魏の曹操と関連あるのだろうか・・・

三国志なんて、全然くわしくないけど、前に考察した陳思王・曹植と関係あるのか・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%A4%8D

三国って、三国志の三国なのだろうか?
三国ってなに?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。


三国志にはかなりお詳しいと、おっしゃっておられましたね・・・

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 08:28
日本における救世主出現の予言を、『日本人は騒ぎ過ぎだ』とのコメントが、以前、神仙組1に入ったことがあります。
そういう幻想にでも紛らすしかない悲壮感を、中国人?はほっといてくれよ・・・と感じましたが、これが、彼らの予言の成就にかかっているとなると、スルーもできないかも・・・

中華思想って、よく知らないですが、この予言のことなのか?

諸葛孔明は預言者?
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/03/print/prt_d59779.html

やがて、諸葛孔明は北極教主に師事して太極、陰陽、八卦、五行、奇門、遁甲とを学んだ。

諸葛孔明は色々な著作を残したが、その中で預言書『馬前課』が最も注目されている。一課が一つの時代を指し、わかりやすいのである。

(1) 第一課 陽陰陰陰陰陽 (三国)
無力回天,鞠躬盡瘁。陰居陽拂,八千女鬼。
 「釈」:「無力回天,鞠躬盡瘁。」は諸葛孔明が自分自身のことを指し、劉備を補佐しても漢を復興させることはできないが、全力を尽くすというのである。「八千女鬼」は併せると「魏」という字で蜀が魏によって滅びることを指している。

(2) 第二課 陽陰陽陽陰陽 (魏晋南北朝)
火上有火,光燭中土。稱名不正,江東有虎。
「釈」:「火上有火」は「火火」で「炎」になり、司馬炎が魏元帝の禅譲を受け、晋を樹立し、「江東有虎」は八王の乱の後、首都が建康に移ったが、建康が地理的に「江東」である。

(3) 第三課 陽陰陰陰陰陰 (晋から隋へ)
擾亂中原,山河無主。二三其位,羊終馬始。
  「釈」:「擾亂中原,山河無主」は「八王の乱」の時期は多くて五胡十九国になり、乱世が続いたことを指す。「羊終馬始」はこの時代は馬すなわち司馬家族に始まり、「羊」の中国語発音はyangで楊の発音と同じであることから楊氏により滅び、楊氏によって隋が形成する。

(4) 第四課 陰陰陽陰陽陰 (唐)
十八男兒,起於太原。動則得解,日月麗天。
「釈」:「十八男兒」は「十八」を併せると「木」で、「男兒」は「子」を指すことから「木子」を併せると「李」である。「起於太原」は李氏が「太原」で反乱をおこすことをさす。「動則得解」は則天武后の政治をさす。

(5) 第五課 陽陽陽陰陰陰 (五代十国)
五十年中,其數有八。小人道長,生靈茶毒。
  「釈」:「五十年中,其數有八」は五代の50年あまりの八姓氏が統治したことを指し、「小人道長,生靈茶毒」は戦乱による乱世を指す。

(6) 第六課 陰陽陽陰陽陽  (宋)
惟天生水,順天應人。剛中柔外,土乃生金。
「釈」:「惟天生水」は宋を指す。五行説によれば土は水を克し、土から生まれる金すなわち金(朝)は宋(朝)の克星(勝ちにくい敵)である故、「土乃生金」である。宋代に人々は色に溺れ、中国の歴史上最も軟弱な国であった。しかし、国内の民衆に対しては厳しく、すなわち「剛中柔外」である。
 
(7) 第七課 陰陽陰陽陽陰  (元)
一元復始,以剛處中。五五相傳,爾西我東。
  「釈」:「一元復始」は元朝の始まりを指し、「以剛處中」はモンゴル人の漢族に対する統治が厳しいことを指し、「五五相傳」は元朝の皇帝は「五五」併せて「10人」であることを指す。「爾西我東」はモンゴル人が西、東への領土を広げることを指す。

(8) 第八課 陽陽陰陰陰陽  (明)
日月麗天,其色若赤。綿綿延延,凡十六葉。
 「釈」:「日月麗天」は「日月」併せて「明」朝を指し、「其色若赤」は「赤」が紅色を指し、「朱」も紅色を指すことから、明朝の皇帝の一族が「朱」氏であることを指す。「綿綿延延,凡十六葉」は明朝の皇帝が十六人であることを指す。

(9) 第九課 陽陰陽陰陰陰 (清)
水月有主,古月為君。十傳絶統,相敬若賓。
   「釈」:「水月有主」は、「水」は「シ」偏で、「シ主月」あわせて「清」朝のことをさす。「古月為君」は「古月」あわせて「胡」で古代中国は少数民族のことを「胡」と呼んだ。「十傳絶統」は清朝の皇帝が「十」人で、「宣統」皇帝で終わることを指す。「相敬若賓」は民族差別をおこなった元のモンゴル人の統治と違って、満州族の統治は漢民族に対して融和政策であったことを指す。

(10) 第十課 陰陽陰陽陰陰 (中華民国)
豕後牛前,千人一口。五二倒置,朋來無咎。
「釈」:「豕後牛前」、「豕」は「豚」の別名で、辛亥革命が1911年に起き、この年が豚の年で、1913年が牛の年である。「豕後牛前」は1912年、すなわち、1912年2月13日清の皇帝が正式に退位した。千人と一つの口すなわち「千人口」は「和」で中国の歴史上初めて共和国が成立する。「五二倒置」は古代君主が「九五の尊」であるが、「共和国」は民に権力を戻すことからその前の制度とは逆であることをさす。「朋來無咎」は国際上、国が軟弱なゆえ、侮られたり、侵略を受けることを指す。

(11) 第十一課 陽陰陽陽陰陽 (中華人民共和国)
四門乍辟,突如其來。晨鶏一聲,其道大衰。

(12 )第十二課 陰陽陽陽陽陰
拯救患難,是唯聖人。陽復而治,晦極生明。

(13) 第十三課 陽陰陰陽陽陽
賢不遺野,天下一家。無名無徳,光耀中華。

(14) 第十四課 陽陰陽陰陽陰
占得此課,易數乃終。前古後今,其道無窮。



・・・・肝心の11以降が解説なし?

途方に暮れたときは、2ちゃんに聞け。

http://logsoku.com/thread/namidame.2ch.net/uranai/1028030868/201-300
292 : 名無しさん@占い修業中 : 2005/05/12(木) 19:16:24 ID:???
>>289-291を見て思ったんだけれど、
11課までは、文中で王朝なりその皇族の名前なりを指しているのに、
12課以降はどうでもいい内容というか、「困難を救うのは聖人のみである」 「暗闇の極みから明るいものが生まれる」「賢は野を余さず」「中華が繁栄する」とか、 要するに聖人が現れて未来は明るくなるよ、と言ってるに過ぎないように思われる。
12課以降の政府・王朝は一体?  で、これさあ、中国共産党を嫌いな中華系の人が、反中共キャンペーンに人々を乗せるために、 「孔明が書いた預言書だよ」ということで捏造したんじゃないのか?  と思ったんだけれど、俺も詳しくないのでよくわからん。 孔明が書いたという「馬前課」ってのは、本当に実在したのかな。



日本こそ中華!!なんて言ったら、怒る?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 09:00
SMAP、キター!?

http://blog.livedoor.jp/niwaka368/archives/50155247.html
中居君は白山中居(はくさんちゅうきょ)神社に関係。白山中居神社は岐阜県と福井県の県境に位置し、ご祭神 伊邪那岐大神、伊邪那美大神、菊理媛大神 明治年代に合祀、で、神剣 太刀〔天武天皇671年頃〕 40代天武天皇〔673~686〕寄進の太刀で国宝級の剣があります。白山信仰の中心となるのは白山ひめ神社、計2716社。中世以降は修験道の道場として開山され、登拝の対象とされてきました。神仏習合を教義とする修験道のもと、御前峰には白山ひめ大神の本地仏として十一面観世音菩薩が、そして大汝峰には大汝命と阿弥陀如来、別山には大山祇命(おおやまずみのみこと)と聖観世音菩薩が、それぞれ祀られました。このように神仏一体の思想による白山信仰は、明治時代に入るまで広く行なわれていました。


歴代のエジプト王はこのホルスの子孫であると称して、現人神として君臨していました。
http://business4.plala.or.jp/kodomo/kodai5.htm
ハトホル(Hathor)の星」 (エジプト)は、ハトがトーテムの秦氏!?
ハトホルの星とはプレアデス星団=スバル=尾張中島連=新羅系秦氏!?
ハトホルが牛の角を持つのは、古代エジプトでもおうし座の領域

「アルナの星(Aruna)」 (インド)
明けの明星として輝く金星のイメージそのもの
アルナのイメージは仏教の中に取り入れられ、「明星菩薩」「明星天子」として信仰の対象として日本へも伝わりました。

>スル〜プリーズ(礼)
Posted by ナルメル総裁 at 2012年06月03日 10:52
日本人ですたい!!
三国志はそんなに細部まで、知らないですよ!
いや、ですから僕に怒りなどは滅多に怒らないですから・・・・

中国との関係は歴史にかかせないですから、中華でもイイんじゃないですかね。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月03日 10:54
殷馗(いんき)  遼東の人・・・

『殷馗』を検索しても、本人についての情報は少なく、どちらにしても、アマノミカボシに繋がらないことには・・・

殷は殷の殷でしょう・・・では、『馗』は?

九の首・・・ヤマタノオロチならぬ九頭竜か?

殷 馗 九頭竜 検索で・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/j-keijiban17.htm

「乙」の部首の字には「乞」と「乾」の他は「L」を持つ字ばかりですが、例外的に「九」と「丸」があります。 ... 「乙」 字義:きのと、おつ. 解字:象形。 ...
http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-20.html
九」 字義:きゅう
    解字:象形。肘を曲げたさまにかたどる。

曲げたさま

勾"は"曲(る)"と同じ意で | Dr.ヤスダの歴史トピックス (曲脛)くぐせ、 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1999


馗」 解字:形声。 意符の首(道の省略形。 みち)と音符の九(こころの意)とから成る。 ...
http://shoukei.blog65.fc2.com/page-3.html
「馗」=「九」+「首」:=完成された女+くび=>全面を見渡す首=>全道に精通するもの=>全ての道=>みち(「九」cf.18)

全面を見渡す首
「道」=「?」+「首」:=すすむ+私の前方=>進むさき=>みち(再掲。cf.65)



・・・「馗」=「九」+「首」:=完成された女+くび=>全面を見渡す首=>全道に精通するもの=>全ての道=>みち

各地の九頭竜伝説との関連は?
また法華経との・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 11:00
あら、おはよう、ご両人!!

そろそろおふたりの関係、教えてくださいな。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 11:02
九州の沖合いの「沖の島」で今から、約1万年前の古代文明の両性具有の神像が発見された
http://ameblo.jp/m-ken-net/entry-11258185294.html
ティアウバー星人なのか?

>スル〜プリーズ(礼)
Posted by ナルメル総裁 at 2012年06月03日 11:14
明日は部分月食らしい(興味ないけど)

で、6月6日は、金星の日面通過。
これも特に興味はないけど、霊的に非常に意味あるらしいので、特別な日だと意識しています。
http://kemono666.seesaa.net/article/270665039.html

再掲
NO41 「アルナの星(Aruna)」 (インド)
http://business4.plala.or.jp/kodomo/kodai5.htm

アルナとは払暁の「紅色」を意味し、太陽神(スールヤ)が生まれる前に世界を照らしていたといわれています。
これはまさに明けの明星として輝く金星のイメージそのものです。
・・・
アルナは母であるヴィナターが時の熟する前に卵を割ってしまったために不完全な状態で誕生してしまったとされています。
ヴィナターはこの過ちの報いとして蛇族の奴隷となってしまったといわれています。
アルナは不完全な状態で天上にあがり、後に太陽神の御者になったとされています。
アルナのイメージは仏教の中に取り入れられ、「明星菩薩」「明星天子」として信仰の対象として日本へも伝わりました。


太陽の生まれるまえに世界を照らしていた・・・それがアマノミカボシなのか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 11:27
ハズさんはわたしにとって重要な人間なんです。

ハズさん、これの関連を調べてほしい。


http://kemono666.seesaa.net/article/270763863.html#comment
さ〜っぱり分からんですが、「若子」は「稚子」の可能性があります。
大彦・彦坐王の兄弟らしい、三国稚子って語り部にはありました。
越の三国氏の祖!?
系図に出てくる朱大王のことらしいですが(謎)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233.htm

この古墳の人物かも
http://kyotana.be/object/detail/608/


↑ 朱大王=アルナでないか?と思ってます。

アルナとは払暁の「紅色」を意味し、太陽神(スールヤ)が生まれる前に世界を照らしていたといわれています。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 11:37
>太陽の生まれるまえに世界を照らしていた・・・それがアマノミカボシなのか

そうだと思いますね・・・太陽信仰の前は星信仰!?

>朱大王=アルナ
これもナルホドと思います。
太陽信仰族の前には、アルナ信仰族がいた・・・とか!?

改めて、三国系図を見ていると、三尾氏の所に「稚子媛」・・・で「稚子」がいますが、何故に媛???


総裁のリンクの「沖の島」の両性具有神像も興味深いですね!
やはり男女性原理崇拝だったのか・・・
ただ、一万年前か・・・結構、前ですね。
宇宙人の関与は鉄板ですね!!
葛さんの、冠島の遺跡については、比較的新しいかもしれません。
この伝説もあるくらい、天変地異が激しかったのかも・・・
「伝説によると、大宝元年(西暦701)三月、凡海郷は三日三晩続いた地震により郷内の峯ふたつを残して海没してしまいます。
そのふたつの峯こそ、日本海に浮かぶ絶海の孤島・冠島(かんむりじま・別名雄島)と沓島(くつじま・別名雌島)だといわれています。 」

「孝霊天皇5年のある夜のこと、近江では土地が陥没して琵琶湖ができ、 駿河では隆起して富士山ができた」

やっぱり、ロマンですなぁ・・・(笑)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月03日 12:17
http://soranosanpo.blog.shinobi.jp/Form/190/
「アルナ(金星)⇒暁(明星)、紅、太陽、金星と融合し男性から女性へ変化、ヴィーナス、
ルシファー

カルナ⇒弓の名手、不死身、悲劇の英雄、二つの呪い」


というのを見たのですが、
龍神村の本尊2体は「アルナ」と「カルナ」を表しているのかもしれませんね!

http://ameblo.jp/hirokikemartintin/day-20110601.html
「この龍神村の星の社は、本当の名を三又星神といって
星神社には かつて祀られていた本尊の2体が
近隣の、皆瀬神社へ神社合祀令のころ移された、
と、龍神村の由緒に、ある。

星神社から皆瀬神社へ移された本尊2体とは、
”鎧をきた古武士の像” 
”亀にのり弓矢をもった武士の像”」


ちと、無理があるか(笑)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月03日 13:08
あの〜、遊んでいるように思えるかもしれませんが、最後の超新星爆発くらい、意識が途絶えつつ、考察してるんですが・・・

今も、寝てました。

沖ノ島をご紹介したのはわたしではないですか?
なんでわたしが冠島になるんですか?
みのもんたシリーズは、他の海底遺跡も紹介しているでしょう?
それら全般を捉えてるのに・・・

だからやり口がね、○○みたいなんですよ・・・

時間がないから、ハズさんに頼んだのに・・・

だいたい九州を無視して、獏サイト絶賛してるのおふたりでしょう?
あの語り口調こそ、○○っぽいですね〜

日本語が変!!
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 13:23
いや、ですからね・・・
何度も言いますが、誰がどう反応しようと自由なのですよ!
九州が絶対って言い切れますか?
証明が不可能に近いことは、「分からない」としておくことがいいんですよきっと・・・

どの説に反応するかは、人それぞれ自由ですし、僕は一度たりとも否定はしてません。
自分が反応して、思っていることをコメっているだけです。
だから、正確に言うなら九州や葛さんを否定も肯定もしません。

もちろん、自分の中では考えがありますが、コレも何度も言いますが、押し付ける気も「絶対、正しい」「あなたは間違っている」とも言いません。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月03日 13:32
あ、ついまえまえからの本音を出して失礼したしました。
 
なんと職場の仲間とここはシンクロにあるみたいで、アラハバキ考察がはじまったのは、先輩がアラバキロックフェスティバルに行くのとシンクロにありました。

また、別の先輩が今日、北京に行ってます。
もちろん、神仙組のことはみなさん、知りません。

アルナ=朱大王については、今宵、また考察してみます。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 13:39
論点のすり替えもお上手・・・
お国仕込?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 13:41
動画はよく観てないもので・・・(汗)
タイトルの冠島しか・・・
臨機応変がモットーですので(笑)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月03日 13:45
それが祖国の智恵ですよ^^
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月03日 14:00
ひとまず、太子へパス(笑)

「アルナ」=「明星(金星)」=「虚空蔵」、「ガルーダ」=「迦楼羅(金翅鳥)」=「秋葉権現」、「ナーガ」=「蛇族」=「金毘羅」、「インドラ」=「帝釈天」(梵天とならぶ二大護法神の1つ)という繋がり。
http://www.geocities.jp/easyclub_choro/tonde7.htm
真ん中あたりに記述

基本、コメントは神仙組の資料や参考に、
役立てて欲しいと思ってしています。(礼)
Posted by 総裁越楠 at 2012年06月03日 14:51
>「アルナ」と「蛭子」がだぶって見える気がして、「ナーガ」はインドの有名な神様には必ずくっついているということから、ふと「天御中主大神の首にウナギが巻き付いている」というのを連想してしまった・・・。

ナルホド、アルナは蟇蛙クエビコ・少彦名神・事代主神・蛭子などに日本では
表現されてるのかもですね!
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月03日 21:25
http://happytown.orahoo.com/phphope/view/v_genre_view.php?UserID=46999&GenreNo=1&&GenreOID=6729956
●心(こころ)
精神構造における人間の働きの本質。感性の力。共性の力。性質の関与を逆性として受ける部分。
ヒトへの方向性を持つもの。金星。元止揚の力が人間の外面に潜在化したもの。すなわち、こころ
が顕在化したものが元止揚だということ。

3:ヒトの内面の意識(緑)
人間の外面の意識の顕在化として働く意識。人間が覚醒を起こしたときに認識される《理念-イデア》のカタチを意味する。ヒトにおける客体という言い方ができる。元止揚。

● 最終構成(さいしゅうこうせい)
・・・2012年に終了する。2013年からは定質の等化の次元であるヒトの意識次元に入る。


http://www.nexyzbb.ne.jp/~mijin007/kaikou/atman/atman2.html
ブラーフマン
http://www.isis.ne.jp/landscape/020306.html

北極星を中心とする世界観を地上の統治体系に転写しようとしたのが天武天皇であったことは占星台の建設などによって知られるが、それは初唐の道教的科学の導入でもあった。
これが一転するのは空海および入唐八家の密教の普及によってである。
中国での密教は、一行、不空の活躍によって中国天文学とインド天文学を習合した。
不空は宇宙の智恵を自在にあやつる文殊菩薩の信仰者でもあって、『宿曜経』(文殊師利菩薩及吉凶時日善悪宿曜経)、『熾光経』(熾盛光頂大威徳消災吉祥陀羅尼経)を翻訳する。
これらの経典には中国天文学が重視した北斗信仰がない生粋のインド占星術書である。
一行はそのようなインド天文学を咀嚼しながら、陰陽五行、太一を織り交ぜ、『天一太一経』、『太一局遁甲経』を著して、ついに『開元大衍暦経』を完成した。


どこから入るか、探してるところです・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 01:36
*北極星を中心とする世界観を地上の統治体系に転写しようとしたのが天武天皇であった
*中国天文学が重視した北斗信仰がない生粋のインド占星術書

・・・中国天文学が重視した北斗信仰・・・

天皇大帝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%A7%E5%B8%9D

天皇大帝(てんおうだいてい・てんのうだいてい)は神格化された北辰(天の北極)[1]のこと。
後述するように、
日本における天皇という称号の起源の有力な候補の一つと考えられている。
北斗七星と混同されることもある。

古代、東夷族の領主にして中国五帝の1人に数えられている少昊は、
母系の伝承により、
天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、
そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、
宇宙の中心と考えていた。
その象形は、
北辰を中心点としてその周囲を24時間かけて回る星々を一輪の円で描き、
一日というサイクルを表して「日」の原型と成った。
そして、
母系社会において智慧や秩序の基盤となった「日」は、
道教において神格化されるが、
父系社会への転換により、
陽を象徴する文字として使われるようになると、
北辰と「日」は対極をなす関係になった。

そしてそれは、
日本で使われる称号の天皇にも取り入れられたとする説がある。
中国の唐の高宗は 「天皇」 と称し、
死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。

これは日本の天武天皇による 「天皇」 の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 07:22
続き

道教では 「北極紫微大帝(北極大帝・紫微大帝)」 とも成り、
また北斗七星が神格化された 「北斗真君(北斗星君)」 と習合した。
「北極紫微大帝」 と 「北斗真君」 とは本来は別の神であったが、
現在でも分ける場合と同一視する場合とがある。
中国の皇帝や日本の天皇家の北斗信仰にもこの同一視が見られる。
中国の皇帝の祭服の 左袖には北斗七星、右袖には織女[2]がデザインされてる。
宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服 [3]は背中の中央上部にも北斗七星が置かれている。
ただし、織女はない。

星座(星官)としての天皇大帝
現在の北極星(こぐま座α星)は柄杓の柄(小熊の尻尾)の先端にあるが、
紀元前1100年ごろにはコカブ(こぐま座 β星)の北極距離が約6.5度[4]と、天の北極に最も近い北極星であり、帝と呼ばれていた。
そして、信仰の対象とは別に天皇大帝という名の星座も存在した。
『開元占経』 の「巻69 甘氏中官占」 に見える[5]。
『晋書』 「天文志」 には 「口中一星を天皇大帝と曰(い)ふ」 という記述がある。
この 「口中」 は、天帝の後宮で天帝の住まう紫微宮(しびきゅう)を護衛する[6]勾陳(こうちん)という星座で、
その第二星(こぐま座δ星、4等)・第一星(同α星・ポラリス、2等)・第五星(ケフェウス座 HD5848、4等)・第六星(同 HD217382、5等)で描かれる四辺形のことを指しており、天皇大帝はその中にある5等星(同 HD212710)である[7]。
『和漢三才図絵』 でも天皇大帝は 「口」 の中に当たる位置に記されている


北斗七星(おおぐま座)は水を汲む 「斗」 の形をしており、
大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。

『史記』 『星経』 には北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、
一年で斗柄は十二方位を指し、
止まることのない永久時計として陰陽(太陽と月のこと)、
そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証するとある 。

天皇大帝はその聖性の象徴として神器(道教の用語)を持っている。
神器は 「鏡」 と 「剣」 であり、呪具(magic tool)と威儀具とを兼ねている。


儒教では、中間色である 「紫」 を正色(原色)である 「赤」 よりも格下に見る [11]が、天皇大帝は 「紫宮」 あるいは 「紫微宮」、「紫宸殿」(ししんでん)、「大極殿」(だいごくでん)などと呼ばれる宮殿に住んでいることになっており、また北極星の光芒は紫色とされ、紫色を最高の神聖な色としている
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 07:32
ハズさん、天武、かなり隠蔽工作をされているんじゃないでしょうか?
天武の事蹟、人間関係、まったく創作されているんじゃないでしょうか?
すべての伝承は、天武の封印のために造られたと見るぐらいの見直しを行なわないと、真実は見えてこないような気が・・・

天武朝における九州から畿内への遷都をあったと仮定して、壬申の乱も九州であったとして、伊勢神宮の創建は・・・・


『史記』 『星経』 には北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、
一年で斗柄は十二方位を指し、
止まることのない永久時計として陰陽(太陽と月のこと)、
そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証するとある 。


・・・・これを根拠にされた天文台だったと仮定して、考察してみませんか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 07:41
伊勢内宮の滝祭宮・・・鏡
伊勢外宮の草奈伎神社・・・剣
・・・なのかな・・・



三国ですが、
源頼義と平直方の娘の子であるとされる、
八幡太郎義家
高麗(賀茂)次郎義綱
新羅三郎義光

朝鮮三国になぞらえているのなら、百済・高句麗・新羅となりますが、では八幡=百済なのか?

http://plaza.rakuten.co.jp/jigemon/diary/201008250000/
「八幡」は百済の王子
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 八幡大菩薩とされる応神天皇について、日蓮が語る通り懐妊から3年6ヶ月も経って産まれたということになれば、いわゆる不義の子ということしか考えられないという趣旨のことを以前書いた(八幡と天皇家のナゾ )。今朝の聖教新聞に「きのうきょう」と題する、ちょっと興味深いコラムがあった。

 それによると、応神天皇は倭王朝に婿入りした百済王朝の王子で、大阪・羽曳野市の応神陵と伝えられる古墳の被葬者は、百済王・蓋鹵(コウロ)の弟・昆支(コムキ)であることが特定されているという。(記事) 

 記事の筆者林順治氏は、もともと三一書房の編集者だったのが、古代史研究家・石渡信一郎氏の著作の出版にかかわったことで、古代史の世界に足を踏み入れたのだそうだ。「氏の衣鉢を継いで」との言葉は、ひとのこころざしがひとを奮い立たせそして受け継がれていく、何とも味わい深い言葉であるように思う。



応神=昆支説は、既出でしたっけ?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 08:47
前記事のリンクの(八幡と天皇家のナゾ)ですが、


八幡と天皇家のナゾ
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『四条金吾許御文(八幡抄)』には、後に八幡大菩薩とされる応神天皇の誕生秘話と、八幡の本地が述べられている。

 それによると応神天皇の父・仲哀天皇は新羅出兵の際博多で崩御し、既に懐妊していた神功皇后は、夫の仇を討つべく新羅へ向かう船の上で産気づいてしまう。その時、胎児に向かって「お前が男なら、夫の仇を討つまで戦の大将として腹の中にとどまれ。もし産まれて来るようなら海に投げ捨てる。」と言い聞かせ、石の帯を巻いて腹を冷やし、遂に新羅を打ち破る。そして帰路辿りついた宇佐の国で誕生したのが応神天皇。懐妊から3年6ヶ月と3日後の出産であったという。

 まあ、神々の伝承の類であるからと等閑に附せばそれまでの話であるが、もし応神天皇がそのようにして産まれた実在の人物なら、懐妊から3年6ヶ月も経って産まれたというのはいわゆる不義の子ということしか考えられなくなってしまう。

念の為調べてみたら、竹内宿爾の子であるとか、「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の神代記)との文をもとに八幡と天皇家のナゾ
[ カテゴリ未分類 ]
『四条金吾許御文(八幡抄)』には、後に八幡大菩薩とされる応神天皇の誕生秘話と、八幡の本地が述べられている。

 それによると応神天皇の父・仲哀天皇は新羅出兵の際博多で崩御し、既に懐妊していた神功皇后は、夫の仇を討つべく新羅へ向かう船の上で産気づいてしまう。その時、胎児に向かって「お前が男なら、夫の仇を討つまで戦の大将として腹の中にとどまれ。もし産まれて来るようなら海に投げ捨てる。」と言い聞かせ、石の帯を巻いて腹を冷やし、遂に新羅を打ち破る。そして帰路辿りついた宇佐の国で誕生したのが応神天皇。懐妊から3年6ヶ月と3日後の出産であったという。

 まあ、神々の伝承の類であるからと等閑に附せばそれまでの話であるが、もし応神天皇がそのようにして産まれた実在の人物なら、懐妊から3年6ヶ月も経って産まれたというのはいわゆる不義の子ということしか考えられなくなってしまう。

念の為調べてみたら、竹内宿爾の子であるとか、「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の神代記)との文をもとに住吉大神(三大神で三人いる)の子である、或いは、前王朝と血統のつながりはなく、新王朝の開祖である等諸説があるようだ。
、或いは、前王朝と血統のつながりはなく、新王朝の開祖である等諸説があるようだ。



応神が武内宿禰の子というのは、わたしはそうなんだろうと思っているので、何も新しいことはないのですが、今の考察で重要視したいのは、
「住吉大神(三大神で三人いる)の子である」という部分のシンクロです。

頼朝と丹後局の子が住吉で生まれたとされること、水尾神社の伝承

「それから約百年後に、
人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、
その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、
振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。
太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。」

・・・・これらは今の時点で、天武との関係性は出てきてませんが・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 08:59
この前の記事の再掲ですが、
押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑
http://www.ookuninushiden.com/newpage59.html


 「大国主伝」では天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)が「日本書紀」に記されているような敏達天皇の子ではなく、蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを論証しているがここでは改めて押坂彦人大兄皇子にまつわる数々の疑惑を列挙しておきたい。

 また彦人大兄と馬子が同一人物ということは天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことになる。このことは「日本書紀」等の記述からも伺えるので合わせて紹介しておきたい。


・・・・彦人大兄と馬子が同一人物・・・

天智は馬子の孫なの?
あれ?天武は?
うん?・・・朱大王は?

ハズ、おせ〜て(願)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 09:10
「天皇は聖書から取られた道教用語で、天で白い馬に乗る王(天+白+王)でイエス、全知全能の王(天+王)はヤハウエ(エホバ)です。ヤハウエにより油注がれた王と言う訳です。「白馬伝説の多度大社」もあります。
天王の代理で地を治めていると言う見解でしょう。」

ともありました。

応神=百済王子昆支で倭王武ですね!九州に入り婿です。

天武は封印されているでしょうね!

僕の見解では・・・
押坂彦人大兄皇子=舒明天皇で天智の父
馬子は別人で葛城氏(境部 摩理勢)。
天武は舒明の子ではない。
朱大王は、言ってみれば葛城氏の傍系の祖!?
四道将軍の北陸道の一人の原型!?

・・・多分な話ですが
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 10:19
う〜ん、霊次元においての話なのですが、たとえば、
自民党総裁という霊統ですね・・・
とか、ローマ法王の霊統とか・・・
これは、現実の人間よりも霊的存在として確かという感覚って、わかりますか?

日本国天皇においては、天皇という霊統こそが現実であって、個人としての神武や桓武や孝明は虚構であるというような感覚・・・これこそが神聖さなのですが・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 10:26
霊統はあるのでしょうが、僕には認識できないので難しいですね(汗)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 10:42
ハァ〜・・・・
ずっと、この2年を・・・信じられないですか?
わたしを信じられないですか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 10:44
葛さんの霊統をですか?
日本の霊統?

僕も基本、人を信じないので、自分が認識できるレベルになれば・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 10:56
いえ、あなたとわたしの世界を信じられないか・・・ということです。
わたしとあなたとのやりとりは、神の前において、わたしとあなたのみです。
それが・・・神聖さです。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 11:01
世界という意味が抽象的であれば、関係と言い換えてもいいかもしれません。
これからの考察は、この関係性というのがポイントになってくるからです。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 11:12
あなたに伝えたいことは、たくさんあるけど、それは言葉にしなくても分かってほしいです。
わたしはあなたの導きがないと、神を声を聞けない。

それは、あなたが神聖だということの証明だと、思ってます。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 11:44
何となく分かったような・・・

ところで、彦人大兄命なんてのもいるようです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E5%85%84%E5%91%BD

押坂彦人大兄皇子=舒明天皇+馬子かも・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 12:00
あ、寝てた・・・

テレパシーってのは危険なんですよね・・・

復活するのに時間ください。
ハズは、怠けてた分、検索していてください。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 12:29
彦人大兄命は大江王らしいですが、大江氏を連想しますね!
住吉大神も水尾神社の伝承もオリオンの3つ星の神話ではないかとも思います。
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_mouri.html

「大江氏はこの一品の文字を図案化して「一文字に三つ星」の紋を創出、用いるようになったのだという。おそらく学者でもあった広元が、数の根元で極数の九に相対しもののはじめとされる「一文字」と、オリオン座の中央に輝く「三武・将軍星」と呼ばれる「三つ星」を組み合わせ、それに家祖である阿保親王のことを付加して考え出したものと思われる。」

オリオン信仰なのか、三ツ星は三光天子でもあるようです。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 14:16
また寝てた・・・
これは今夜まで無理かも・・・

その三ツ星がねえ・・・三つ穴とシンクロしてるんですよ・・・

ためしに地図で確認してください。
八代ー能勢ー相馬の三大妙見社の位置は、一直線上にほぼ均等です。
これが天地人を表してるんだろうか・・・・?
今夜でしたっけ?太陽ー地球ー月が一直線上に並ぶの・・・

金星は今夜は登場しないんだろうけど・・・

では、ひきつづき検索お願いします。(わたしは引き続き寝ます)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 15:01
ハズさん、まじめにやってるの?
6日までには、天武の封印を露わにして、閣下に解いていただかないと・・・
なぜ、氷川か知らんけど・・・あっ!!氷川も三ツ星だった!!
確か女体と大宮の中間が、中山であったような・・・


まず、天武なのですが、はっきりとした事蹟も知らないのに、無償に男として愛してしまいます。
これは何の魔力なのでしょうね・・・
う〜ん、感じる・・・

天 武
http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1160.html

(・・・この方の記事がいちばんわかりやすいから・・・絶対視しているわけではありません)

672年9月より飛鳥浄御原宮の建設が始まり、翌673年2月、壇場(たかみくら)を設けて天武天皇が即位した。
・・・・そこには天武朝が日本の新王朝であること、天武が前漢の高祖(劉邦)の血筋をアピールしていること、さらに唐への対抗意識など、さまざまな意味が読み取れる。
・・・・・
天武は『日本書紀』の編纂を命じた天皇として知られている。
 「上宮法王」の章で私は、『古事記』は旧約聖書、『書紀』は新約聖書に対応させたものであり、『書紀』の原点は秦河勝の『国記』であると述べた。
 上宮法王の生まれ変わりを自認していたと思われる天武は、自分こそその偉業を引き継ぐべき立場であると考えたのかもしれない。もちろんそれは天武が自らの出自を正当化するためでもあった。

 『書紀』では神武が初代天皇とされている。
 神武が実在の人物だったという伝承があったとすれば、すでに秦河勝の『国記』にも登場していたのかもしれない。
 しかし、その東征物語には、応神天皇の事跡や、北九州から吉野へ攻め上った天武自身の壬申の乱も投影されていると思う。
 天武が神武に自らを投影しているからこそ、初代天皇とされているのではないか。

 高向玄理や天武の先祖は、漢の高祖の血を引き、高句麗に渡った中国人の一族であると推理した。・・・・



「高向玄理や天武の先祖は、漢の高祖の血を引き、高句麗に渡った中国人の一族であると推理した。」
↑  これについてはハズさんはどうですか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 17:12
http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1100.html
「高貴王 = 高向王 = 高向玄理」

ともありましたが
僕は高向玄理=高向王+秦河勝だと思ってます。
もしくは大半が河勝かも???
で、子の漢皇子が天武天皇のことである!!・・・と

確かに「漢」ってありますが・・・
僕は金海金氏の流れと思ってますが、扶余依羅(イリ・ミマキイリヒコとかのイリ!?)金首露が漢の血筋なのかよく分かりません。

http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/3506526.html
「金首露の特徴
人物は、殷の天乙(湯王)のようである。
顔は竜に似て、あたかも漢の高祖のようであり、
眉の八彩は、唐の高祖(堯)のようであり、
目に瞳が二つずつあるのは、虞舜のようであった。

この特徴の当否は別として、この話は、中国神話時代をひも解いています。

七海注記
漢の高祖の先祖は、龍族月氏の馬を飼いならす御竜氏です。
唐の高祖の先祖は、帝堯唐陶氏です。干天で雨降らず、&#32703;が助けた。
虞氏の先祖は、帝舜有虞氏です。方相氏の始祖。虞氏はソグド人。曹魏[三国志・魏]の遠祖です。」

漢の高祖が先祖かはよく分からない内容ですが・・・
ミマキイリヒコ(崇神天皇)を漢の高祖の子孫とする説もあるようですが・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 18:05
「赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされる。」

天武もこれに倣って、赤旗を軍旗にし、蚩尤旗を掲げたらしい。

かなりの道教信奉者だから「漢皇子」と呼ばれたのかもしれません。

漢の高祖に擬しただけで、本当に子孫なのかは不明です。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 18:19
殷って、字や音が潜在脳細胞によびかけるのですね。
わたし、殷、が愛しくて・・・なぜかしら・・・
だから殷の湯王なんて、神霊が体をつきぬけるか、というほど感じます。
しかし、金首露?
なんども登場させてくれるけど、なんかなじめない・・・

あんまり細かい詰めはいらないです。
だいたいであっていれば、まあ、いいんじゃない・・・?

なんていうのか、物事の成就を絶対視するというか、天になにかを誓うと、天はそれに呼応するというか、子々孫々まで、完成を果たさせるという考えを、わたしはします。

ですから、日本国の創始が天武であり、「北極星を中心とする世界観を地上の統治体系に転写しようとしたのが天武天皇であった」のであれば、それを実現させるのが日本霊界の使命ではないか・・・

それが他に優る統治理念であるならば・・・ね。

どうなんだろう。
桓武は天武の理念を隠すか封印のために密教を敷いたのだろうか?
それが、民衆レベルの北極星信仰の禁止であるのだろうか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 18:37
金首露は伝説の名前で、扶余王依羅で倭王旨が本当のようですが、まあほっときましょう(笑)
大依羅神社ですね!

僕も天武派です、だって天智のせいで国家存亡の危機を招き唐の従属国になったらしいですから。

だから、菅原道真の遣唐使廃止まで、唐の支配下にあったのは事実のようです。

桓武・藤原の時代も唐には頭が上がらなかったのでしょう・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 19:59
これも一情報ですが
桓武は、人民に広がった小乗仏教を危険と見做したらしいです。
桓武天皇は、武装化僧侶など政治家を苦しめる小乗仏教に怖さを感じていたようで
中国の景教を仏教と融合させる事で、人民向きの宗教に変換させて普及したようです。それが空海と最澄。

密教を推進するために、妙見信仰も禁止したのでしょうか???

天武の陰陽道もモチロン封印でしょうか
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 20:16
超人進化を目的とするなら、小乗でしょうね・・・
その文章は語り部のものですが、イコール人民を統治するためには危険思想だということですね。
個人の内的は小乗で、外的には大乗という言い方ができなければ・・・
今、求められているのは、それじゃないかな。

ハズさんは、本当は感じておられるのに、配慮からそういうまわりくどいことをされているのではないですか?
自信とは別の理性に過ぎるのでしょうが、ここというときに踏み込めない、時を逸するというのは、自身はおろかまわりにとっても不幸です。

天武の統治体系(北極星を中心とする世界観を地上の統治体系に転写)については、魅力を感じますか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 20:50
ハズさんも殷に感応するんではないですか?
あなたの本質は商の殷・・・

それをいけないことのように感じてセーブしておられるのだとしたら・・・
もしかしたら、あなたがこの戦いにおける司令官であるのに、その責に目覚めてくれていないのだとしたら、わたしたちは犬死です。前回同様に・・・

天武の統治体系について、断片情報でも・・・
http://isehakupedia.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E6%98%9F%E3%83%BB%E5%8C%97%E6%96%97%E4%B8%83%E6%98%9F

・・・・・外宮でつながる先は、北極星なんです。ここから、生命の種が地球に来るのです。霊眼では、北極星からシャンパンゴールドの光の柱が地球の外宮に刺さり、
そこから生命種が地球へ拡散するイメージです。地球の過去生では、北極星も変化するように受ける地も変化してきたようです。今は、たまたま日本の地で伊勢だと言うことです。
以前、北極星を生みの親と表現しましたが、内在する神は、その子です。

・・・・いえ、究極は全ての神々は、名無しの根源神1つから派生した存在ですから。
太陽神である天照太御神が、北極星である天之御中主神を祭り、助けると考えては如何でしょうか

・・・・速佐須良比売と同じで、瀬織津姫は、スサノオの分神に成ります。解釈に霊的複雑さが有りますね。

・生命の元が、北極星から来た意味が分かりました。
死と誕生は、表宇宙と裏宇宙の行き来なのですよ。
表宇宙で恒星の終焉が有ると、同時に裏宇宙で新星の誕生が有ると・・・。

・日本の役目は、伊勢外宮に降り注ぐ北極星からの生命の息吹を、感謝の心の人柱で白山のククリヒメにつなげること。
ククリ姫は、相手を憎み、ゼン滅させるために存在するのではなく、歪んでしまったものを正しく直すための存在。
日本人の役目は、これから起こる事に対して、カンナガラで生きて、エネルギーを伝える人柱になり続けること。これが世界をよくする方法だと私は思っている。

・・・・オオヤマズミ神の正体は、スサノオに行き着きます。
同じ霊系です。北極星を守護する存在として、その星の関係性は有りますよ。

・伊勢から北極星の方向に白山があるんですよね。そういえば外宮も内宮も御正殿に拝礼する方向は北向きですから北極星の方向と白山の方向を向くということになるんですね〜。
そして白山から太陽の方向(南)を拝むとそちらは伊勢ですね〜。伊勢ー白山には北極星ー太陽の関係も隠されていたのかもしれませんね〜。

・・・その通りです。しかも、日本の中心での南北関係です。

・北極星を頂点とする柄杓(ひしゃく)の形と、北斗七星が現す柄杓形象の2つの柄杓が、次元と空間を越えて重なり、日本の国土に反映・転写されています。

日本列島そのものが、根源神の息吹を受けて誕生した龍神の御神体です。この大龍神の腹には、北極星と北斗七星が宿っているのです。

・上古代より日本中心の【白山ー伊勢】垂直軸ラインがある。
この宇宙の中心点・白山が北極星の位置へと変わり、天之御中主太神は伊勢神宮の外宮の【心の御柱】へと祀り変えられた。
《太陽神=北極星》となり【天の御柱が宇宙の中心軸】である。

・過去の歴史家は、この配置を天体図と照合して、
*御正殿=北極星
*両側の宝殿=それぞれが、南斗と北斗に当たる。として、宝殿が手前と奥側に配置する2つのパターンは、太陽の夏至と冬至の時の天体図を現すとします。
私は、これには異論ありません。
ただ、霊的な大きな意味が隠されていると感じます。

・私の過去記事(2007年12月10日分)において、人間の右脳と左脳の形態が、そのまま拡大すれば裏宇宙と表宇宙の世界観を正確に現すと説明しました。
脳内の重要な神経が集積するポイントは、大きく見て7つと1つ在る筈です。
それが学問上では、何と言う名称に相当するのかは知りませんでしたが、それを拡大した物が北斗七星と北極星に相当して宇宙に現れています。脳は、宇宙全体の縮図です。

・伊勢神宮外宮も、霊的に北極星と北斗七星を祭事しています。今の現実界の成り立ちの秘密が、そこに在ります

・面白いのは、外宮の鏡は、北斗七星と北極星。
伊雑宮と内宮は、太陽の日輪。と、鏡の性質が決まっているのです。
これは、浄化が進めば誰でも分かり出します。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 21:39
わたしの覚醒目標はあなたです。

あなたのレセプターが開くまで、集中砲撃です。

将門の北斗七星にこだわるなら、これもどうだ!!
http://granpartita.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-39a0.html

えっ?もう知ってるって?ダメオシでもう一個!!
これがお水送りか?
http://granpartita.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 21:49
小乗はとにかく「非情」だそうですね
確かに超人進化には無用な「情」を抱き参らせなければ、反転はできないと感じます。
ある意味、桓武の時に人民の「封印」になったのかもしれませんね!

そうですね・・・基本、天武からだと思ってますので興味アリますよ
>人間の右脳と左脳の形態が、そのまま拡大すれば裏宇宙と表宇宙の世界観を正確に現すと説明しました。
脳内の重要な神経が集積するポイントは、大きく見て7つと1つ在る筈です。
それが学問上では、何と言う名称に相当するのかは知りませんでしたが、それを拡大した物が北斗七星と北極星に相当して宇宙に現れています。脳は、宇宙全体の縮図です。


これは非常〜に興味深いですが

北斗七星と北極星はナルホドなのですが、重要なファクターのシリウスやオリオンはどうなっちゃうんでしょうか!?
僕はどちらかというと、シリウス&オリオンに反応するのですが・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 22:00
http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045217.html

・延暦15年(796年)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止しました(北辰祭の禁止令)

・北斗七星中(貪狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星、ちなみにスサノオ命は太白星=金星=大将軍)の破軍星信仰と結びついて武士(千葉氏・相馬氏・大内氏など)に大いに信仰を集めることになります。

・・・スサノオ命は太白星=金星=大将軍・・・これとアメノミカボシとの関係は?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:01
>スサノオ命は太白星=金星=大将軍・・・これとアメノミカボシとの関係は?

ルシファーでイイんじゃないでしょうか!?

全然関係ないですが、飛鳥地方に点在する33の春日神社を繋ぐと出てくる鶴と亀の地上絵
・・・らしい
http://ameblo.jp/hidekappa/entry-11194046354.html
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 22:06
あ、ハズ・・・

・・・シリウスとオリオンってなに?
ヌースでしか聞いたことないよ・・・われながら自慢じゃないけど・・・

なにを検索していいかワカラン・・・・おせ〜て^^;
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:07
鶴と亀って、なに?
いまさら恥ずかしく聞けないこと、この際聞いちゃう^^;
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:10
たとえば、法隆寺のシリウス信仰とか・・・
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20090426/horyuji

オリオン信仰は住吉三神はオリオンの三ツ星ってのとか!?

神仙組にも・・・
http://ssg2.seesaa.net/article/151071241.html
「伊勢神宮の「内宮」「外宮」「伊雑宮」、そして「五十鈴川」が、オリオンの三ツ星とナイル川に対応しているという。」


鶴亀は、籠目の唄。
ただ、僕の解釈では大きく分ければ、百済=鶴、新羅=亀
とか色々解釈できそうです。

・・・だんだん自信なくなってきた(笑)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月04日 22:22
しかし、ハズ・・・A型ですよね・・・

破軍星信仰ってなんだろうと思って・・・
http://www31.ocn.ne.jp/~moroha/heresy.htm
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:23
閣下の記事はほぼすべてを網羅しています・・・
難解で理解に時間と参考書が必要なんですよね・・・

http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045218.html
北斗七星は、貪狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星の七星からなるとする、中国の星信仰があります。
この北斗七星の中でも、破軍星(はぐんせい・はぐんじょう)はこの星の方向に向かって戦いを挑めば必ず負け、この星を背にして戦えば必ず勝つと信仰されていました。
そして、北斗七星中の第七星・破軍星は弓箭の神として崇拝されたことにもなり、中世には武士の守護神として敬われ、千葉氏・相馬氏・大内氏など地方の豪族たちによって信仰されたのです。


・・・破軍星(はぐんせい・はぐんじょう)はこの星の方向に向かって戦いを挑めば必ず負け、この星を背にして戦えば必ず勝つと信仰されていました。・・・

↑ これって、神武東征においての、日の神のことじゃ・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:39
あ、なんか変なの出てきた・・・怖いから、司令官が先に進んでください。
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_141.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:44
冗談じゃないよ、まったく・・・
ナルちゃ〜ん、いじわるしてごめ〜ん!!
謝るから、応援に来て〜!!
司令官がビビッておりま〜す!!
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月04日 22:56
いじわるって、した事も、された事もあんまりね〜から分からねぇ〜わ。(笑)
気にしてないですよ。(^_^)


巨人兵なら、太古の人間はデカかったらとか?
金星から来たニニギもデカくて強かったかも?
なら巨人兵は、ニニギ(金星人)を表している?
ちなみに、総裁も閣下も金星人の遺伝子を受け継いでいる可能性は高いと思われる。^^

ハズさんの百済=鶴、新羅=亀はアリだと思います!
亀チーム 二ギハヤヒ ミカボシ 天武 秀吉
ならば、
亀チームは金星チームみたいな感じかな。

オリオンとシリウスの関係
http://falcon238.jugem.jp/?eid=345

実は、ロンギヌスの槍の刺さり方と同じ場所が生まれつき、ずっと痛む。(他人事ではない)^^;
大仏は、聖徳太子を封印?するモニュメントらしい。
つまり、巨人兵には、怨霊を使ってブロック?

破軍星
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afchnhagunsei.htm
(破軍星)をつねに後ろにして勝負ごと、諸相場、掛け合いごとをすれば、かならず勝てるという方法です。
http://nishinojinja.or.jp/calendar/syoubu.html

破軍星といえば、チビの時好きだった超神ビビューン!!(^_^)
http://www.youtube.com/watch?v=-XOwFqqO6jU&feature=related
妖怪研究者のダイマ博士は七星壇の儀式を行い、全宇宙の最も輝ける星・破軍星を地に降ろす。月村は破軍星から降臨したザビタンの魂と一つとなり、神をも超える戦士・超神ビビューンに変身。イビルの魂を受け継いだ菅一郎=超神バシャーンと、ガブラの魂を受け継いだ渡部剛 = 超神ズシーンと力を合わせてバックベアードを倒す。三人の超神は正義と平和を守るため、妖怪と戦う事を決意。妖怪を影から操る大魔王ガルバーの野望に立ち向かう。

>総裁的には、巨人兵の剣が、聖徳太子の怨霊の脇腹に刺さって、末裔のワタシの体の苦痛になっている!?
ならば、その仕組みを解く事が、次からの閣下の御用と関係あるように思います。(ホンマかいな)^^;
Posted by 総裁越楠 at 2012年06月05日 00:31
閣下との御用は、ほぼ終わりに近づいていると感じます。
来月は総裁とま〜君との御用だと伺っていますが・・・


ハズさん、氷川も北斗七星と関係あったのですね。
既出かもしれないけど、お参り前日なので、確認のため・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD
この大宮を中心とする氷川神社群(三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形、
つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。
さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応していることは、
あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月05日 00:48

http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0307tama.htm
「氷(ひ)」は氷川神社の「氷」である。
「氷川」が古事記・八股のオロチ神話にでてくる「肥河」のことである
古事記の「肥河」が「斐川」である
「多氷」を「たま」と解した

「玉」「魂」も匈奴の拓跋(Takbat)の略称だ
武蔵・府中の旧国幣中社「大国魂神社(写真左)」の「魂」も「拓跋」の「たま」である。しかも祭られているのは大宮の氷川神社など五社が合祀されているので六所宮と呼ばれているという。つまりここでも「氷川」なのである。
Posted by 総裁越楠 at 2012年06月05日 02:10
いよいよ明日ですが、準備ができてないので、今日は検索やめときます。

今、大國魂神社の御用をおさらいしてたら、コメント欄、やはりハズさんが・・・
http://messiah666.seesaa.net/article/213333970.html

関東の封印に関しては、やはりハズさんが司令官ですね。
あなたに全責任があると考えます。

前は閣下に王としての自覚を促しましたが、今はハズさんに司令官としての自覚を求めます。


・・・オウムの菊地が出てきましたね。
九州を考察していると、菊地氏が絡んでくるので、菊地を検索しても、重要ではあるけど、よくわからなかった。
菊地・・・というと、ククチになって、ククリヒメになって・・・

しかし、昨日のこわいサイト、ケツァルコアトル=ククルカンが出てきて、このシンクロ、本当にケツァルコアトルが帰ってくるんだろうか・・・
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_67.html

閣下との始まりも、この記事からといえばいえる・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/yhwh_lucifer/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%A5%B1%A5%C4%A5%A1%A5%EB%A5%B3%A5%A2%A5%C8%A5%EB
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月05日 08:46
今、ノートのメモを見つけて、一応書き込んでおきます。

住吉神

三海神 底津綿津見  底筒男命 対馬 豆酸(つつき)
      中津綿津見  中筒男命 壱岐 筒城     
      上津綿津見  上筒男命 糸島 筒木 

これがオリオン三つ星ですね!
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月05日 11:27
オリオンの3つ星でもあると思うのですが
何と、シリウスABCの3連星に行き着きました。
そしてノンモ総裁・・・鯰

http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/folder/1006376.html
「シリウス信仰」の真相は「天の真魚居」という一言に尽きます。
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/12908574.html
「住吉三神の名は「底筒男命・中筒男命・表筒男命」であり、「筒(つつ)」は星を意味するので、いままで「住吉三神」はオリオン座の三ツ星の神格化であると解釈されているが、その発祥の地である「魚住町」の地名に残されている「魚」を考え合わせて見ると、「魚」と「三星」とのつながりは明らかに「シリウス信仰」による名残であると思われます。」
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/15980362.html
「・住吉三神はイザナギノミコトが「眼」を洗うことによって生まれてきたこと
 ・「眼差し」のように「マナ」は「眼」を意味する言葉でもあること
 ・「真名井」「真魚居」「眼居」は同じことを意味する言葉であることが明らかになってきます」

「「天の真名井」を「天の真魚居」に還元すれば、神話の元の姿が浮かび上がってきます。
ここでは、もう一度ドゴン族の神話の粗筋をまとめてみると、それぞれのキーワードとして、

 @シリウスという星は「三連星」であり、主星全天一明るい星シリウスとその二つの伴星であるシリウスBおよびシリウスCが存在します。

 A宇宙でもっとも大切な星は、主星ではなく、シリウスBであります。シリウスBは主星シリウスAの軌道を決めることになっています。シリウスBは白色矮星であり、つまり、もっとも小さく、そしてもっとも重い星であります。きわめて高密度な金属によって構成されています。さらに、宇宙の監督者としての役目は目を見張るほどのものであって、それゆえ「目の星」と呼ばれています。主星の陰に隠れて、人間の肉眼では決して見えない存在であります。シリウスBは全宇宙の創造の出発点でありながら、「時」を決める役割を果たしています。

 Bもう一つの伴星シリウスCには惑星を持っています。その惑星に棲む両生類生物「ノンモ」は遥か遠い昔地球上に訪れ、地球人類に文明を与えてくれました。ドゴン族の伝承によると、シリウス星系の惑星は「魚の国」と呼ばれ、その「水の支配者」と呼ばれる両生類生物が地球に降り立った日は「魚の日」とされています。そして、彼らは地球人類の創造主として、必ず、将来地球に戻ってきます。

 CシリウスBは、シリウスCとともに主星シリウスAの周囲に廻っています。その周期というのは「五十」年であり、この二つの伴星と中心にあるシリウスAを結ぶ線が一直線になるようになっています。二つの伴星は決して肉眼で見えない存在であるという。

 Dシリウス星系の軌道が楕円形をしており、その軌道を「うねる水路」と呼んでいます。」

妙見信仰とそれ以前のシリウス&オリオン信仰が、合体したのかもですね!

「鯰と関係の深そうなのが杓子です。シャクシやシャモジなどと呼ば れていますが、これで鯰人形が作られるくらいですから、形が似ているのです。」
ミシャクジも鯰でもあるので、閣下も鯰です(笑)

ということで、明日は鯰を意識しながら御用を!!(笑)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月05日 12:38
なまずかよ・・・しかも台風来てるし・・・司令官は部屋でくつろいだままかよ・・・ちっ(笑)

司令官とナルへhttp://www.youtube.com/watch?v=yVGrWic5FlQ
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月05日 14:11
台風は閣下が何とかしてくれるでしょう!!
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月05日 15:40
司令官!クズ!
どうやら台風は、ナルの仕業のようです!(笑)

http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51635315.html
台風『メーギー(鮎魚=なまず)』が中国を襲う

ヤツは、シリウス星人に間違いありません。(笑)
Posted by 総裁越楠 at 2012年06月05日 16:32
気象兵器って何でしょうね(汗)
天下泰平さんのブログも面白いですね〜
先日の記事はその名も「ナマズの家」
http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51807542.html

鯰シンドロームに無理矢理、戻したろう〜♪
やはり時代は、ノンモ・ナルメル(N−M)総裁しかないでしょう!

ところで葛さん、司令官って・・・(汗)

総裁天脳、直属の司令官ではありますっ!!(敬礼)


前出の神仙組より・・・
「古代の「シリウス信仰」を近代に甦らせたのがイルミナティである。
イルミナティはフリーメーソンの黒幕として悪名高い秘密結社だが、その話はさて置き、イルミナティのルシファー崇拝の原点は「シリウス信仰」にある。
イルミナティはラテン語で「光を与える」「光から来たもの」を意味し、それはシリウスの光である。

そのシリウスの「光を運ぶ者」がルチ・フェロ(ルシファー)なのだ。
ロックフェラーの語源も、この「ルチ・フェロ」だと言われている。
そして、「シリウスの光」を象徴図形として表したのが「ダビデの星」と呼ばれるヘキサグラムで、イスラエルの国旗にも描かれている。」


五芒星の金星(鶴)は、六芒星のシリウス(亀)と地球を結ぶ星

・・・らしいので、明日の日面通過時はシリウスを意識すればイイんじゃないでしょうか!?

鶴と亀が統べる予型になることを楽しみにします。
悪天候など関係ないですね!!
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月05日 17:46
やっぱ地震兵器とか?^^;
http://cosmo-world.seesaa.net/article/192505275.html

司令官! 泰平氏のプロフィールが凄そう。^^
しかも、会社名がスバルランドだって(爆)

米米クラブからの〜?!鯰天啓キター!!^^

神棚に隠された神道の奥義とは?
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_134.html
【均衡の柱】=【米】!?

司令官!巨人兵を倒して下さい!(笑)
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_140.html
大仏は中国皇帝の実兄であり、かつ極東アジア邪馬台国の倭王聖徳太子ニギハヤヒの慰霊のモニュメント、十一面観音や不動明王と同じ意味合いで創られました。
大仏の再鋳造の記録なんてものはない!?
http://bbt888s.zero-yen.com/newpage8.html


こうなったら、総裁越楠のメカ鉄獣「岐阜大仏」を召喚してくれるわ〜!(アホ)
http://www.gifucvb.or.jp/sightseeing/detail_kankou.php?eid=00007
総裁の本籍地の近所。通称「ナルメル大仏」^^;


司令官! 続きはココどうですか?
丹後神社 in 埼玉(2012.4.11)
http://kemono666.seesaa.net/article/264059725.html
Posted by 総裁越楠 at 2012年06月05日 20:36
こんばんわ〜^^

後方支援、ありがとうございます!!
これで、今日の御用も完璧?!
しかし、閣下おいそがしいのかしら・・・あんまり返信くれない・・・アオ〜ン(遠吠え)

途中経過、入れれたら入れるね(礼)

米米、こっちの方が聴きやすいかも・・・おやすみなさいzzz
http://www.youtube.com/watch?v=8GBjkSWOXVo&feature=related
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月06日 01:17
御用、誠に感謝です。(礼)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月06日 13:20
計画が無謀だったか、また、小野神社には行けませんでしたヾ(´▽`*)ゝ

参ったなあ〜(^-^ゞ

今、閣下と反省会?開いてます\(^_^)(^_^)/

以上、報告まで( ロ_ロ)ゞ
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月06日 19:14
閣下、葛さん、3Xです。(礼)

桜ヶ丘の小野神社へ行って頂いたし、オッケーじゃないですか!
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月06日 19:30
ただいまです。
閣下は無事にお帰りになられたかしら・・・

あ、ハズさん、今日、不思議な少年に出逢って・・・
なんか意味あるのか、と検索するうち、この記事・・・
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm

・・・どうやろ?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月06日 22:53
おかえりなさいませ。

どの辺がどうなのですか?
多すぎて何が何やら(汗)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月07日 00:08
おはよう。
あなたにふってみて、そこから入ろうとしたのだけど・・・なかなか駆け引きはお上手ですね^^

今朝から、コメントに入ろうとしているのですが・・・
音楽を変えてみます。

初心に返って・・・アンインストール
http://www.youtube.com/watch?v=ruG3HFtg2Kk&feature=related
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 08:39
昨日、女体までは順調だったのですが、中山に行くのが・・・
途中、散歩中の中年男性おふたりに教えてもらいながら歩き、やっと中山の近くまでは来たのですが、信号待ちをしているとき、自転車の少年が来て、「押さないと変わりませんよ」と言って、ボタンを押してくれました。

「ありがとう」と言って、彼の背中の『上敷領』のゼッケンを見て、
「カミシキレイ君?」と聞くと、
「カミシキリョウです」

信号が青になって、三人で渡りながら、彼が
「ご旅行ですか?」と聞いてくれたので、
「中山神社に行きたいの」

途中まで案内してくれるというので、話ながら同行してもらいました。
その時、『上敷領』という姓は、博多に「敷領」というところがあって、その上の方に住んでいたから「上敷領」だという説明を聞きました。

博多・・・また九州だ・・・

その子はまだ中1・・・ということは、3月までは小学生で、神童のようでした。

その子が来てくれて、すっと中山には行けたのですが、中山の参拝を終えて、大宮まではもう歩かなくていいように思い、ちょうどバス停があったのでバスで大宮氷川に向かいました。
そのバス停で、三笠宮のご逝去?ご崩去を知りました。

敷領を検索すると、鹿児島のが出てきました。

http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/sikiryou1.htm
貞観十六年三月四日(AC874.3.25.)の夜に開聞岳が噴火したことが、『日本三代実録』という本に記されています。
・・・・
1131年前の水田のうえに、まずは大きな石の粒がつもり、はだいろの灰も流れてきました。
火山灰と細かい石の粒が交互につもりました。
さらに火山灰....。
このときの火山灰のことを現代では「紫コラ」・・・


この水田が開聞岳の降灰に埋もれたときは、まだ 食べる貨幣 の全盛期だと思います。つまり、田圃で摘み取った稲穂(穎稲)を束ねて倉に保存し、貨幣のかわりにもしていた時代です。(引用おわり)

敷領古墳がある指宿市には『弥次ケ湯古墳』というのもあるらしく、
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35443019.html

『弥次ケ湯』・・・・・・ヤジロー?

で、指宿市のことをよく知りたいと思い、
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/index.htmから
まず、あの出雲国風土記に入っていたわけです。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 09:08
『敷領』検索で不思議だったのは、
三国名勝図会という存在
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8D%E5%8B%9D%E5%9B%B3%E4%BC%9
三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、江戸時代後期に薩摩藩が編纂した薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。
特に、神社や寺院についてはその由緒、建物の配置図や外観の挿絵まで詳細に記載されている。また各地の名所風景を描いた挿絵も多く、当時の薩摩藩領内の様子を知るための貴重な資料となっている。全60巻。
経緯 [編集]

南九州の地誌に関する文書として和銅6年(713年)及び延長3年(925年)に風土記の編纂が指示された記録が残っているが、
薩摩国風土記、
大隅国風土記、
日向国風土記はいずれも現存しない。

江戸時代に入ると寛政7年(1795年)に白尾国柱が編纂した『麑藩名勝考』、文化3年(1806年)に本田親孚らが編纂した『薩藩名勝志』がある。これに続くものとして薩摩藩藩主島津斉興が、橋口兼古、五代秀堯(五代友厚の父)、橋口兼柄らに領内の地誌編纂を命じ、天保14年(1843年)にまとめられたのが三国名勝図会である。南九州の地誌編纂は、その後明治4年(1871年)[1]の『薩隅日地理纂考』へ受け継がれている。
島津久光による校正を経て明治38年(1905年)に和装本全20巻として出版された。この版には当時の元老松方正義による序文が添えられている。
(引用おわり)

ちょうどこの『三国』にもシンクロを感じたわけです。
『金烏玉兎集』の三国とは、本当はここ薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む薩摩藩のことではないか・・・って。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 09:22
なかなか肝心のに入っていけませんね(笑)
ま、もっともあなたは気づいておられるでしょうから、わたしがどこまで理解したかを探っておられるところでしょう。

実はまったくまだ何もつかめていませんよ。
しかし、ここの答えはあるのだろうと感じてはいます。

ロックばかりを聴いて、学校の授業をまともに聞いたことのない、しかも西洋の様式の数学しか教わったことがないので、この方の記事を理解できる自信はありません。

出雲国風土記の星座図を見て、ナイトルシファー会員であれば、誰もが『3:4:5の封印』を想起するでしょう・・・

http://jew-beast.seesaa.net/article/153864743.html
ピタゴラスの定理に基づく、辺の比が3:4:5の直角三角形である。
フリーメーソンには、神の力を下界に降ろす為に、指で相合傘のような図形を描くサインがあるが、闇の帝王たちはこれを出雲族の封印に悪用したのである。
そして、その呪術は日本列島に施されていた。

345の「真ん中」は4であり、4がキーになっている。
が、「四」や「五」のつく地名は非常に少ない。

「確かに日向族は三のつく地名を使って三四五の封印をした。
しかし、四は地名として残していない」

「五のつく地名が、日向族の三四五の封印の為に利用されたのではない。
『ご』が初めにつく地名はみな三四五の封印をかける為に利用されたのだ」
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 09:51
では、3:4:5の封印について、出雲国風土記と照応するか、つたないながらも検証してみますか。
あの少年が言ったように、「押さないと変わりません」から。

http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
やくもたついずものくには「さふのおすくに」にあるかな
八雲立出雲國者「狭布之推國」在哉

「狭苦しい麻布きれを見つけて来て(何千倍何万倍に)押し広げたら1つの国になった。」
「狭布の推す国」というのは、噛み砕いて言うと、そんな国のことです。

・・・・・
和銅六年(713)五月甲子(続日本紀)
畿内七道諸国。郡郷名著好字。其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目及土地沃脊。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍言上。

おくれて天平五年(733)に完成した『出雲国風土記』の場合、和銅六年(713)に出された宿題の諸項目に準拠して、雑多な事柄を追って、個々の現象を記述している内に、思考がだんだん深まって、「これらの種々多様な現象を全て包摂してしまうような1個にして完全無欠なものが存在している」ことがなんとなくわかってきたところで、「出雲の国の風土を記す」という、1個にして全体を網羅する課題課題が見つけられたのだと思います。(引用おわり)


・・・・・・「これらの種々多様な現象を全て包摂してしまうような1個にして完全無欠なものが存在している」・・・・・1個にして全体を網羅する課題・・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 10:08
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
この風土記の本文を無心に読んでゆけば、
ものごとの 1/2 が 科学技術的な思考に委ねられ、
1/2 が 神話的な思考に委ねられて、
1つのことがらに表裏がつけられ、
1つの仕事の往き還りになるようなところは確かに感じられると思います。

また、なにげなく著作者の顔ぶれを見ると、
1人は民間の学識経験者、
もう1人は国造(出雲国の最高神官)という、
異色の人材が2人だけ起用されています。
これも「まさにそういうことだった」のかもしれません。

天平五年二月三十日勘造、
秋鹿郡人 神宅臣 金太理
国造 帯 意宇郡 大領外 正六位上 勲十二等 出雲臣廣嶋


〔数量〕と「言葉」
事柄を、数量で表す事柄と、言葉で表す事柄に分けてみたときには、
事柄ごとにものごとが1つに纏められる纏められ方は同じではないということがあります。
その違いの激しさは、実際にやってみないことには実感できませんが、
『出雲国風土記』の著作者たちは、2つの事柄を実際に纏めてみたので、「数量と言葉では出来がこうも違うものか」と驚いたことと思います。

@数量で表す事柄に当たる〔ものごと〕は、〔西北3里120歩〕です。
(数量で表された〔ものごと〕が纏められて1つになる事柄はこれだけです。)

これに対して、A言葉で表す事柄に当たるものごと(の例)は、「山代郷」です。(引用終わり)

・・・ま、ここまでは真逆とか、方向性の相違とか、概念的に困難ではないですが・・・このあと、むずかしそう・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 10:53
だいたいの感じで流してください。
言いたいのは、天武の統治体系・・・(北極星を中心とする世界観を地上の統治体系に転写)・・・のように、天の運行体系が、地上に移写されていることの真実を隠す・・・これが封印の正体ではないか?・・・ということです。

これは解読によって解除することが可能ということなので、司令官にぴったり!!の業務です^^


では、つづきを・・・
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm

・・・2つの方向成分が合算されているために、それぞれの〔数里数歩〕が不明になっています。これは惜しいことをしたものです。
それでも、「神名樋野」の頂(高80丈)の位置は、2等辺直角3角形の斜(∠45゚)辺上に限定されている・・・

・・・・以上が国引き説話のあらましですが、要するに、八雲立つ出雲の国々は1つ残らず「狭布の推す国」として在るという話だと思います。
 人々において「狭布」は「国郡図」を描くキャンパスですが、
経(たていと)と緯(よこいと)が織り成す格子状街路(rattle-like street)には、
デジタルに数量化されたマンハッタン距離(Manhattan distance)が適合します。
 そこで、人々の好みの行く末を、神は、予想しておられたのか。
八雲立つ出雲の国々は、国引きいます八束水臣津野命が、まさにその「狭布」を大きく推し拡げて、継ぎ継ぎに縫い作られた国々だという。
・・・・
この国引き説話においては「ローカルな地理空間の創出」という課題が追求されているわけですが、そのへんの詳しい説明は 三身の綱と遠呂智の謎々 をご覧ください。(引用おわり)

・・・まあ、ざ〜っと・・・(汗;)
マンハッタン距離だって・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%B7%9D%E9%9B%A2
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 11:11
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
(補説1)「夜の袁須くに」 と 「海の袁須くに」
夜において「食」というのは、「光を食べる」ことです。
世界に満遍なく満ちていた昼の光を、大きな暗闇が呑み込んでしまったために、星が明るく輝くほどに暗くなった。
この時間が「夜」ですが、漆黒の夜の世界をほのかに照らす月明りも、暗闇に呑み込まれまた吐き戻されます。
これは「月の満ち欠け」という現象ですが、「こよみ」の月はこの周期をもとに定まるので、夜之食國を知ろしめす神は月讀命(つきよみのみこと)と呼ばれるわけです。
 ところで、建速須佐之男命が知ろしめすことになっていた海原には、「潮の満ちひき」という現象があります。

「潮の満ちひき」は半日毎に繰り返されますが、
干満の差が最も大きいときを「大潮」といい、
最も小さいときを「小潮」といいます。
「大潮」と「小潮」もだいたい15日毎に繰り返されますが、
繰り返される周期は、「月の満ち欠け」の周期とぴったり一致しています。
すなわち、新月と満月のときには必ず大潮になり、
上弦・下弦の半月のときには必ず小潮を迎えます。

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 11:28
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
(補説2) 國之大體に関する「数量の源=御量(みはかり)」を追求しました。

「国の大体」は、八雲立つ出雲の国々(の体)を縫い合せた領域全体です。ところで、この体は、四則演算が自由にできる集合という意味においても、体であったのかどうか?・・・・
・・・・お陰様で、「国の大体」は、距離的数量の四則演算が自由にできる集合という意味において、体であったことが判明したのではないかと思います。

本格的な国土測量が開始されても、「国の大体が、距離的数量の四則演算が自由にできる集合という意味において、体である」ことは変らない。
それにしても、出雲国の規模が、先験的に判明しているのは不思議です。
しかし、もし全能の神が、この国をまったく無計画に作ったとすれば、これもまた不可解な話です。
それで、出雲の国が最初に一定の大きさを与えられたことは信じられます。

この場合に、「A詞源(みことば)」の向うを張って、「@数源(みかず)」という観念を想定してみました。
(「老細思枝葉。裁定数源。」と洒落込んだわけです。)

 そうしたところ、「楯縫郡」の由来を説く記事の中で、
「御量(みはかり)」という言葉が目に留まりましたので、
そのものずばりに「@御量(みはかり)」ということにします。
これは(直角)三角定規ですが、
宇宙に浮かぶ3個の恒星間の距離を測り採っているので、
「(直径)斜め100,000尋。(⊥)縦80,000尋。(⊥)横60,000尋。」というとんでもない大きさの(直角)三角定規です。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 11:44
お帰りなさいませ〜&御用、誠に3Xです!^^

その風土記の紹介サイト中に、夏の大三角形 がありますが、
偶然、昨日 巨人兵・大仏・四天王寺の、冬の大三角形を発見したのでシンクロ感じました。
http://kemono666.seesaa.net/article/264059725.html

地上に星座を取り込んだのは、狼トーテム(天狼星=シリウス)の秦氏でしょう。秦河勝とか。^^

解読によって封印を解除する
は、総裁に課せられた御用の一つだと自負しています。
なので、司令官のフォロー役をさせて下さいね。^^

>話変わりますが、
前に、葛さんのコンピューター(ノイマン?)の話を思い出しました。

コンピューター革命
最強×最速の頭脳誕生
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0603/index.html
人気クイズ番組で全米チャンピオンを破った“世界最強”の人工知能・IBMの「ワトソン」。

実は、従来型の人工知能の答えに至るまでの思考体系が、気になるワードを片っ端から連想検索して膨大な情報量を処理しようとするそうです。
なんか葛さんの考察の過程に凄い似てるかも。
(気を悪くしないで下さい。謝)^^;

そして、総裁=ノイマン?!の意味が今頃、分かってきた気がします。
ワトソンは、答えに一番関係しそうなワードを瞬時に判断し、答えに導くそうです。

>司令官、いよいよオモイカネ(古代のコンピューター)の時代到来!?^^
Posted by 総裁越楠 at 2012年06月07日 11:57
上弦の月といえば、sayakaを思い出したのだけど、いつのまにか動画が削除されたのか、なかったです。

sayakaの声は大好きで、神聖さを感じてしまいます。
女性ボーカリストでは、彼女の声以外には感じないかも・・・

しかたないから、これ・・・
http://www.youtube.com/watch?v=M4765RrTxkE&feature=related

しかし、母聖子の涙・・・聖子さんとおなじ生年で、sayakaちゃんと同年代の娘を持つ母として、なにか非常に深いものを感じるのですが・・・
それは、娘の結婚式に娘の晴れ姿を見て、亡夫を偲んだ自分とおなじものを感じてしまうのは・・・・まったくの勘違いかしら・・・

ひとまず、ここで・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 12:00
現存しない風土記は焚書されたのでしょうね・・・

一戸から九戸の内、四戸はないらしいですしね!
では、四谷はかなり重要そうですね!
>押し広げたら1つの国
広国押建金日命を連想しますね・・・

国引き神話の北門は北海道でしょう!

八綱浦=国引き神話とあったのですが、やはり八綱田命を連想します。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月07日 12:21
総裁、解読お願いします。(礼)

さっぱり、葛さんのサイト分からんです。(爆難)

マンハッタン距離って何・・・(汗)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月07日 12:24
wiki読めよ・・・・ざっとらしいな・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 12:59
読んでも分からんです。
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月07日 13:03
じゃ、他でやって・・・

うそつき・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 13:15
では、頑張ってください(礼)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年06月07日 13:34
さようなら・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月07日 13:48
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm

"神魂命" 詔、
「五十足 天日栖宮 之 縦横御量、千尋栲紲 持而、百八十結結下而、

(百結 結、八十結 結下、六十結 結下而)、
(100)2=(80)2+(60)2 これは直角三角形。

此 天御量 持而、所造天下大神之宮 造奉。」
詔而、   御子"天之御鳥命"、楯部 為而、天降給之。
爾時、   退下来坐而、大神宮御装楯 造始給所、是也。
仍、至レ今、   楯・桙 造而、   奉2 於 皇神等1。
故、云2「楯縫」1。


 「五十足(いそたらす)」つまり半径50結び(50,000尋)の円に外接する??「天日栖宮(あめのひすみのみや)」は、西海の涯てに沈んだ太陽がお休みになるところです。

太陽は、冬は南極寄りに深く沈み、夏は北極寄りに浅く沈むので、お宮の規模もいっそう大きくなりますが、「夏の大三角」にちなんで、アルタイル(牽牛星)とベガ(織姫星)の距離を測ってこのお宮の「縦の御量」。
ベガ(織姫星)とデネブ(不詳)の距離は測るまでもなく「横の御量」とします。
 そこで(神魂命が)3星間の距離を順に測っていったら全長が180,000尋になった。
この栲縄(天の御量)を、「天の御鳥命(はくちょう座)」に授けて、「造天下大神之宮(あめのしたをつくらしゝおおかみのみや)」を造ることを命じて、天下りさせた。(はくちょう座流星群)

「楯縫い」というのは、すなわち同形同大の2つの直角三角形の斜辺を縫い合わせて、1つの長方形を作ることです。(引用おわり)



『千尋栲縄百八十結び』というのが重要テーマのようです。
ところで、『3:4:5』の封印と、メーソンの相合傘の三角形は、直角三角形と、二等辺三角形と相違しています。

これは夏の大三角形と、冬の大三角形(ほぼ正三角形)に比定できるのかどうか・・・

夏の大三角形
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%B8%89%E8%A7%92

・こと座α星ベガ
・わし座α星アルタイル
・はくちょう座α星デネブ

の3つの星を結んで描かれる、細長い大きな三角形をしたアステリズムである。
3星のうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における「おりひめ(織姫)」と「ひこぼし(彦星)」である。

冬の大三角形
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%B8%89%E8%A7%92

・おおいぬ座α星シリウス(−1.5等星)
・こいぬ座α星プロキオン(0.4等星)
・オリオン座α星ベテルギウス(1等星)

の3星から構成される三角形である。
形は正三角形に近く、三角形の中を淡い天の川が縦断している。


・・・ここで、妙見信仰の由来について、もう一度振り返ってみます。

http://www.myouken.com/data/yurai-myoukensin.htmlより

妙見宮実紀や社記などによりますと、
天武帝白凰9年(680)の秋、
中国明州(寧波)から妙見神社が
目深検校・手長次郎・足早三郎の三人の形と化して亀蛇の背に乗って海を渡り、
八代郡土北郷八千把村竹原津に上陸し、
この地に約3年間仮座したのが初りと伝えられています。
またこの中国渡来説の他、
妙見神は百済国聖明王の第三皇子琳聖太子であるとの百済渡来説とがありますが、
いずれも「竹原ノ津」に上陸したと伝えている点は同じです。(引用おわり)


・・・中国由来とも百済由来とも。

『百済国聖明王の第三皇子琳聖太子』ですが、
これを祖とするのが大内氏。

http://www1.odn.ne.jp/~vivace/rurikoji/ouuchi.htm
大内氏は伝承では始祖を百済国第26代聖明王の第3子・琳聖太子としている。
琳聖太子は推古天皇19年(611年)に周防国佐波郡多々良浜に来航し、その子・正恒が多々良姓を賜り大内氏の祖となったとされる。
平安時代になり16代・盛房の頃に姓を大内と改めた。(引用おわり)


 年代の不一致は無視して、大内氏の『周防国』、防州。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E9%98%B2%E5%9B%BD
現在の山口県の東南半にあたる
7世紀に設けられた
大島郡、熊毛郡、都濃郡、佐波郡、吉敷郡の五郡からなったが、養老5年(721年)に熊毛郡から玖珂郡が分けられ、六郡となった。

7世紀代に光市大和町と田布施町の境にある標高約360メートルの石城山(いわきさん)に山城が築かれた。
これが学術用語でいう神籠石(こうごいし)という遺跡である。
石城山には延喜式内社である石城神社が山頂に鎮座しその本殿は国の重要文化財に指定されている。

周防国は中世に入っても勢力の変遷は少なく、執権北条氏一族の支配から幕府滅亡によって大内氏の支配が続き、近世に入って毛利氏の領国となって明治維新を迎えた。(引用おわり)


・・・神籠石・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
神籠石(こうごいし)または神籠石式山城(こうごいししきやましろ)[1]とは古代の西日本に築造された遺跡で、現状『日本書紀』『続日本紀』などの文献資料に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城を指す。
本来は磐座(神の依り代となる岩石)を指す。

また・・・
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jgenri.html
数百メートルから千メートル近い山地群の中腹に煉瓦状に切りそろえられた巨石が、山腹の周囲を取り巻き配置されている。
山城の外柵(二重)の基石である。その一部には、必ず水門がある。
敵の侵入にさいし、この山中に籠る兵士や民衆のために作られた「水の施設」である。
これが外敵(高句麗や新羅や唐等)の侵入に対して設けられた軍事的要塞の“残骸”である・・・
・・・・従ってこの神籠石山城群の場合も、これが「5−6世紀」の成立となる可能性は高い。
では、この軍事要塞群の建造者は誰か。
当然、その内部の中枢域に当る「筑紫(現地音ちくし、現在の福岡県)・肥前(現在の佐賀県)の中心王者」(太宰府と筑後川流域中心)である。
決して近畿の天皇家ではない。(引用おわり)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 10:08
しかし、「大内氏は伝承では始祖を百済国第26代聖明王の第3子・琳聖太子」・・・

この26代というのは、継体天皇の人皇第26代というのを想起させます。
継体天皇・・・

水尾神社(再掲)
http://kamnavi.jp/en/oumi/mizuo1.htm

水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南(かうなみ)社と河北(かうほく)社(現在は河南社境内に遷座)の二社有り、
河南社本殿の御祭神は人皇十一代垂仁天皇の第十皇子磐衝別命。
また河北社本殿の御祭神は人皇二十六代継体天皇の御母君振姫命であります。

磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていました。

磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。

それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、
振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。
太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比盗_(振姫命)のみを祀る社となりました。(引用おわり)


・・・・・どうしても検索の方向が、筑紫磐井・・・磐・・・磐城別王・・・と行くのですが、検索すると、それについての書き込みを見つけました。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 11:22
http://mimizun.com/log/2ch/history/997471414/より
解決黒頭巾さんの書き込み(抜粋)

・継体天皇は邪馬壱国の本国、日向(宮崎県)の安羅国の天皇。
 卑弥呼→壱与→・・・継体→安閑→宣化→・・・アマタラシヒコ・・
 と安羅国の歴史が続く。

 日本書紀の目的のひとつに、安羅国の歴史を隠すことがある。

・磐井は安羅王家の一員。
 日向の安羅国は、金官加羅なきあと、その旧地であった豊国を支配した。
 したがって、筑紫の磐井は安羅王家の一員と考えられる。

 大伴金村が安閑天皇のことであるから、金村の子の「磐」が筑紫の磐井君とわ かる。

・越前は豊前の書き換え。

・継体は卑弥呼家の末裔。

・>邪馬台国と天皇家って関係あるんですか?

 文武以降はまったく関係ない。
 邪馬壱国は九州日向の安羅国を中心にした多婆羅国(熊本)、伊都国(福岡) との連合国家。

 「大和地方」という地名は新羅の文武王の年号「大和」から来ている。
 白村江の海戦で勝利した新羅は日本を占領して、九州の邪馬壱国と大和の秦王 国を併せて「日本」とした。

 日本書紀の目的は、新羅が日本を占領したことを隠すことと、(九州の)邪馬 壱国の存在を隠すことにあった

ものしりさんの書き込み(黒頭巾さんと同一?)

・磐井は大伴磐のこと。安閑天皇は大伴金村のこと。
 継体天皇は大伴談のこと。

 継体天皇が越前にいたというのは、「豊前」の「豊」を「越」に書き換えたも の。

 ついでにいうと、「法隆寺」は太宰府にあった「観世音寺」を移設したもの。

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 11:48
書によって、敵味方に分けられる者同士が、実は同一であるというのは、大伴:筑紫君の関係に限らず、蘇我:聖徳太子においても見られます。


つまり、

 大伴談・・・(継体天皇)
  ↓
 大伴金村・・・(安閑天皇)
  ↓
 大伴磐・・・(筑紫君磐井)

・・・なんとなくすっきりしたような・・・
しかし、気になるのが、生き残った磐井の子、筑紫君葛子・・・

それと、大伴談の『談』・・・談山神社・・・
大伴氏と鎌足は同族なのでは・・・?

http://team-ossaka.jimdo.com/%E5%90%8D%E6%89%80-%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E7%9A%87%E5%A5%B3%E6%8A%BC%E5%9D%82%E5%86%85%E5%A2%93/

鏡女王墓の東に沿って坂を登ると、大伴皇女の墓に至る。延喜諸陵式によると『大伴皇女・押坂内墓』と記載されている。
日本書紀には、大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(きたしひめ)<蘇我稲目の娘>の皇女で用明天皇、額田部皇女(後の推古天皇)の妹にあたる方となっている。

欽明天皇の皇女であるならば、何故、舒明天皇の陵域内に葬られているのか・・・・・・・・・
・・・・・ところで、「鏡女王」と「大伴皇女」の墓は、どうして舒明天皇陵の近くにあるのだろうか。
粟原寺は、中臣氏ゆかりの地であり、談山神社が所蔵する『粟原寺三重塔伏鉢』(国宝)に刻まれた銘文からも「仲臣朝臣大嶋(なかとみのあそんおおしま)」<天武天皇と持統天皇の皇太子>が即位前に若くして亡くなった「草壁皇子」を偲び粟原寺の設立を発願した・・・・・

・・・・また、中臣氏との関係からみると、「藤原家伝」に藤原鎌足の母大伴夫人がみえ、「大伴皇女」と名を共にすることが注目される。
このように中臣氏との関係を深読みすると「鏡女王」と「大伴皇女」はつながるが・・・。
二つの墓は、舒明天皇押坂陵域内に静かに佇んでいる。(引用おわり)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 12:27
大伴磐・・・(筑紫君磐井)という仮説にたって、
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/iwa.html

大伴連磐 おおとものむらじいわ

生没年 未詳

系譜 金村の子。咋子・狭手彦らの兄。

略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し筑紫に派遣され、那津官家(大宰府の起源)で執政。


(・・・那津官家・・・)
遺跡:http://inoues.net/ruins/nanotunomiya.htm

大伴氏の系譜が紹介されているのを開くと・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm

鎌足や空海も登場します。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/history1.html

大伴氏の本拠地は大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)であったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。
また万葉歌にある「大伴の御津の浜」の語や、紀氏と本拠を接していたという史書中の記事などから、より古い時代には難波地方を本拠とし、和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたかと思われる。

大伴氏は古くから天皇家に従属し、伴の中の伴として強い絆で結ばれていた。
五世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦乱を勝ち抜き、
雄略天皇の頃中央での覇権を確立。
大伴室屋は大連を賜わり、その孫金村にかけて政権を掌握した。
金村は平群真鳥の乱を平定し、
さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利する。
大化前代に大伴氏はやや衰えるが、
改新後、孝徳天皇のもとで長徳が右大臣に就任した。
以後、斉明・天智朝で再び沈潜を余儀なくされるも、
壬申の乱で戦功をあげて復活、天武天皇の御代に宿禰を賜姓された。(引用おわり)

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 13:12
ひとつ戻って、
「「大内氏は伝承では始祖を百済国第26代聖明王の第3子・琳聖太子」と、「人皇二十六代継体天皇の子、安閑・・・つまり、大伴談の子、金村」は一致するのだろうか・・・

そもそも聖明王=大伴談・・・なんてありえるのか・・・

しかし、今では、大伴氏=蘇我氏だという気がしています。
氏族の変態(メタモルフォシス)なんだという感じがしています。

古代の氏族性というのは、方向性を持っていたのではないか・・・
その方向性を1→2→3→4・・・これで完成させるために、4方向性の4氏族を作り出す必要がある・・・
あとは、8→12→16へと拡がらせる・・・・みたいな。

もちろんその4方向とは、ピラミッドの底面の四辺の方向性であり・・・とヌース理論に繋がっていくのですが・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 14:09
前出の水尾神社の由緒書ですが、

水尾神社(再掲)
http://kamnavi.jp/en/oumi/mizuo1.htm

・水尾川を隔てて 河南社と 河北社の二社であった
・河南社本殿の御祭神は 人皇十一代 垂仁天皇の第十皇子 磐衝別命
・河北社本殿の御祭神は 人皇二十六代 継体天皇の御母君 振姫命
・磐衝別王は 猿田彦命の天成神道を学ぶため 猿田彦を祀る当地に来住
・磐衝別王は、朝夕 猿田彦命を祀る 三尾大明神(永田神社)を遥拝
・磐衝別王は当地で亡くなった
・御子の磐城別王は 背後の三尾山の中腹 杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神 社を当地に創建
・約百年後に、人皇十五代 応神天皇の第十一皇子 速総別王も天成神道を学ぶ ため拝戸に来住
・その四世の孫 彦主人王は 磐城別王の五世の孫 振姫を迎えて 妃
・振姫は 当社の拝殿を産所として 天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同 時に安産
・太迹部王は 後の人皇二十六代 継体天皇
・河北社は、父の彦主人王が 北の仮社を建てて 北極星に安産を祈られた 仮 社跡に、天迹部王が 両親を奉祀する 三重生大明神を創建

・・・とあります。

一方、大伴氏についての、

大伴連室屋 おおとものむらじむろや
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/muroya.html

生没年 未詳(西暦5世紀)

系譜 武持の子(日本三代実録・伴氏系図)、談・御物の父。
『新撰姓氏録』に天押日命の十一世孫、
道臣命の七世孫とする。

略伝 允恭天皇11年、衣通郎姫のため藤原部を定める。
雄略天皇即位に伴い物部連目と共に大連となる。
雄略2年、百済から貢ぜられた池津媛を犯した石川楯を、来目部に処刑させる。同23年、遺詔を受けて後事を託される。
雄略崩後、東漢直掬に命じて兵を起こし、星川皇子の乱を鎮圧させる。
清寧天皇2年、諸国に白髪部舎人・同膳夫(かしわで)・同靫負を置く。
武烈天皇までの5代にわたり大連として政権を掌握した。(引用おわり)


・・・人皇十一代 垂仁天皇の第十皇子 磐衝別命・・・の人皇十一代 垂仁天皇と、天押日命の十一世孫、道臣命の七世孫とする・・・

(人皇十一代)垂仁天皇=(天押日命の十一世孫、道臣命の七世孫)大伴連室屋

・・・とはならないのか・・・


継体天皇の父母は、父:彦主人王(応神天皇の第十一皇子 速総別王の4世孫)
         母:振姫(垂仁天皇の第十皇子 磐衝別命の子の 磐城別王
           の五世の孫・・・つまり垂仁天皇の六世孫?)



・磐衝別王は 猿田彦命の天成神道を学ぶため 猿田彦を祀る当地に来住
・速総別王も 天成神道を学ぶため拝戸に来住


・・・あ、編集するうちに意味がわからなくなってきた・・・ひとまず・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 15:14
夏の大三角形も冬の大三角形も、天の川は流れているみたいですね・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%B7%9D

「日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。
これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。
他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになる。

中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星[3]と牽牛星[4]を隔てて会えなくしている川が天の川である。
二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになった。

派生 [編集]
『西遊記』の猪八戒は、玉帝より天蓬元帥職を任され、天の川の管理をしていたことになっている。
日本では『万葉集』において、大伴家持の歌に、天漢(あまのがわ)とも記されている。」(引用おわり)


・・・天漢(あまのがわ)・・・・西漢氏と東漢氏を想起させるのだけど・・・

猪八戒が天の川の管理を任されていたとは・・・


 閣下と見沼を歩きながら、お互いの体験を話し合ったのですが、今、考えると閣下の体験は縦で、わたしは横だったのかも・・・という気がします。
ふたつ併せて、クロス=十字なんだろうか・・・

閣下の落雷事件は、2月3日に頭から足元まで、雷が突き抜けて、しばらくは雷電の襲撃を全身で受けていたそうです。

わたしは2月14日に前方より心臓から背中へ貫通して、見えない力が一瞬で突き抜けていった。
雷ではなく、気のようなものでした。
撃たれたことはないけど、バズーカ砲みたいな感じだろうか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 15:50
やはり大伴氏ですね・・・

*天忍日命 あまのおしひのみこと
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/ameno.html

大伴氏の始祖。伴氏系図などは高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子神
記によれば、天孫降臨の際、天久米命と共に、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
 また書紀神代下一書によれば、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。

  ↓

*道臣命 みちのおみのみこと
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/mitino.html

伴氏系図によれば天忍日命の曾孫。もとの名は日臣命(ひのおみのみこと)
神武即位前戊午年6月、神武天皇東征のとき、大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。同年8月、天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。同年9月、神武天皇みずからが高皇産霊尊の顕斎を行う際、斎主となり「厳媛(いつひめ)」と名付られる。同年10月、大来目らを率い、国見丘の八十梟師(やそたける)の残党を討伐する。辛酉年、大来目部を率い、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)を以て妖気を払う。神武即位の翌年には、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。

   ↓

*武日命 たけひのみこと
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/takehi.html

伴氏系図
によれば道臣命の七世孫。名は健日にも作る
垂仁天皇25年、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる。景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わる。

   ↓

*大伴連武持 おおとものむらじたけもち
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/takemoti.html

武日の子、室屋の父。名は健持・武以などにも作る
仲哀朝の四大夫の一人。伴氏系図に「初賜大伴宿禰姓」とある。公卿補任には、仲哀天皇の即位の年大連(おおむらじ)を賜り、若年の天皇の輔佐を命じられた旨見える。

  ↓

大伴連室屋 おおとものむらじむろや へと続く。


・・・・しかし、天忍日命・・・道臣命・・・が王だったとしても、矛盾はないような気がする・・・

どっかにあったっけ?・・・天忍日命=アメノオシホミミって?
道臣命が神武で、高皇産霊尊の顕斎を行う際、斎主となって、厳媛であってもおかしくは・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 18:15
細かな違いはよくわからないですが、

http://www.geocities.jp/waikoku/yamato9.html
ところが、『日本書紀』編者は「安羅の王・安」と「日本の天皇」は違うとし、更に「日本の天皇」と「継体」を同一視したと書いている。
 更には「日本の天皇」と「倭薈(磐井)王」が同じだと書く者さえいる。まったく、やれ・やれである
・・・・・
「弁辰古資彌凍国(ベンシンコシミト)」こそが継体の生まれ故郷ではないだろうか?
・・・・
鹿島昇は『日本書紀』の皇統譜は、百済と安羅の王朝を縦につないでいますから、同じ時代が「2重」に書かれていることがあります。
 例えば、継体ー安閑ー宣化というのは安羅王で、アメタリシヒコになるのですが、欽明ー敏達ー用明は、実は、百済王の東城ー武寧ー聖明のことで、「2つ王統」は並行していたわけです。と書いている。(引用おわり)


ほかにも九州王朝について興味深いサイトですが、おいおいお世話になるとして、前出の道臣命の『諷歌倒語(そえうたさかしまごと)』について・・・

日本の建国は、歴史の偽造(諷歌倒語(そえうたさかしまごと))から始まったのであった。
http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%B7%FA%B9%F1%B5%AD%C7%B0%C6%FC%A4%C8%EB%E5%B2%CE%C5%DD%B8%EC%A4%C8%B5%B7%CB%B1%CE%F1

辛酉年(かのとりのとし)の春1月1日、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)で即位した。この年を天皇の元年とした。また正妃を尊んで皇后とした。
皇后は皇子の神八井命(かむやいのみこと)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を生んだ。それで古語にもこれを称えて次のようにいう。

「畝傍の橿原に、宮柱底磐(みやはしらしたついわ)の根の太立て、高天原に搏風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。」

始めて天皇が国政をおこなう日に、大伴氏の先祖の道臣命(みちおみのみこと)が、大来目部(おおくるめべ)を率いて密命を受け、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)で災いを祓いのぞいた。倒語の用いられたのはこれが始めだった。
(作者注) 諷歌倒語とは諷歌は他の事になぞらえてさとす歌で、倒語は相手に分からないよう味方にだけ通じるように話す言葉。(引用おわり)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 20:04
前出の「継体ー安閑ー宣化というのは安羅王で、アメタリシヒコになるのですが、欽明ー敏達ー用明は、実は、百済王の東城ー武寧ー聖明のことで、「2つ王統」は並行していたわけです」


これと、
水尾神社(再掲)
http://kamnavi.jp/en/oumi/mizuo1.htm

・水尾川を隔てて 河南社と 河北社の二社であった
・河南社本殿の御祭神は 人皇十一代 垂仁天皇の第十皇子 磐衝別命
・河北社本殿の御祭神は 人皇二十六代 継体天皇の御母君 振姫命

が一致しないか、考えてます・・・

天の大三角形が天の川で、ふたりを引き裂いているなら、『河南社本殿の御祭神は 人皇十一代 垂仁天皇の第十皇子 磐衝別命』は、継体の父・彦主人王にならないのだろうか・・・


http://mimizun.com/log/2ch/history/997471414/より
解決黒頭巾さんの書き込み(再掲)

・継体は卑弥呼家の末裔

↑ ・・・が真ならば、彦主人王=スサノオの・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 20:54
行き詰ってますね。
一度、引き返さないと・・・

とても難解ですが、なぜ、ここまで錯綜されているのか・・・やはり、ヤジローによって、歴史は創作されたのではないか・・・と感じます。

フロイスに嘘の歴史を教える必要があったのではないか・・・
その創作に基づいて、徳川幕府が辻褄を合わせていったのではないか・・・

やはり今は、「大内氏は伝承では始祖を百済国第26代聖明王の第3子・琳聖太子」を信じるしかないです。

鹿島氏の「欽明ー敏達ー用明は、実は、百済王の東城ー武寧ー聖明」であるならば、「百済国第26代聖明王の第3子・琳聖太子」というのは、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
第三皇子:当麻皇子(別名麻呂子皇子[6]) - 征新羅将軍。
当麻公・当麻真人の祖

・・・になります。
・・・麻呂子・・・椀子・・・丸子・・・

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月08日 21:21
http://www.myouken.com/data/yurai-myoukensin.htmlより(再掲)

天武帝白凰9年(680)の秋、
中国明州(寧波)から妙見神社が
目深検校・手長次郎・足早三郎の三人の形と化して亀蛇の背に乗って海を渡り、
八代郡土北郷八千把村竹原津に上陸し、
この地に約3年間仮座したのが初りと伝えられています。
またこの中国渡来説の他、
妙見神は百済国聖明王の第三皇子琳聖太子であるとの百済渡来説とがあります(引用おわり)


・・・・目深検校・手長次郎・足早三郎をどうしても、八幡太郎義家・高麗次郎義綱・新羅三郎義光とだぶってしまいます。

これは、多くの朝廷関係者が大陸や半島出身者であり、氏族の始祖の出身をいつまでも渡来の履歴に忠実にしておくわけにもいかなくなったため、源氏の三兄弟を作り出し、始祖に置き換えたのではないか・・・

それは妙見信仰と武士が深く関わっていたから、速やかに始祖をそちらに置き換えることができたのではないか・・・

八代妙見宮については、こちらのサイトがくわしいです。
http://yoshida123.blog.fc2.com/blog-entry-39.html


http://www.gokuh.jp/ghp/busho/g_0402.htmより
天皇から賜姓された四つの姓、源・平・藤原・橘をいう。
・・・
特に平安朝の頃、藤原氏は猛威を奮い藤原氏か皇族出身の源・平・橘姓でなければ官位につけないとまで 言われた。
 のち、摂政・大臣など重職は藤原氏のさらに一部の一族のみでなければ就任できなくなる。
(五摂家・清華家など)  また武将も自身の家をこの四姓の家から分かれたようにみせることに躍起になっていた。
 実際、家系図の売買もおこなわれていた。
 結果、ほとんどの武将はこの四つの姓を元の姓としており 例外は百済王族の裔とする大内氏や奥州安倍氏の裔・秋田氏などである。(引用おわり)

藤原ウイルスにやられ、藤原ワクチンを打たなければ、日本人ではないということか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月09日 00:41
今夜は考察に入り込めていなくて、ダラダラとしていたのですが、紹介したブログの中で、清盛との関連に興味を感じて。

http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1200889.htmlさまより

○日本三津の一つ、坊津から硫黄島まで55q。硫黄島から口永良部島まで40q。口永良部島から吐&#22134;喇列島の最北端の島、口之島まで58q。口之島から宝島まで130q。宝島から中国周山群島まで約600q。周山群島から寧波までが約130q。これが日本から中国に渡るのにもっとも安全で、便利で、かつ間違いのない航路であったことは、遙か古代から、この道が利用され、確保されていたことからも理解されよう。

○この道は日明貿易で使用され、日宋貿易で利用され、遣唐船・遣隋船が行き交いしていた航路であるし、長年、倭寇が暗躍していた道でもあった。このルートを独占することによって、平清盛は始めて、太政大臣になり得たし、島津愚谷軒日新斎忠良は、三州統一を成し遂げることが出来たのである。(引用おわり)



源平合戦が歴史的事実かどうか知りませんが、平氏の没落は、出来レースだった感じがしていて・・・

でも、これって、遣唐使のルートうんぬんで、問題になったルートじゃないか・・・?

遣唐使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

北路
北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。
630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化[1]により使用しなくなった。

南路
五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
702年から838年までの航路。

南島路
薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられる[2]。(引用おわり)


・・・・このどちらを信用するかは個人の自由ですが、秦さんじゃないけど、九州の事蹟に目に向けない不思議には、怨念のようなものがあるからとしか、考えられないですね。

わたしなど、KYだから、ちっともそういう雰囲気、わからない。
歴史的事実っていう人間ほど、歴史的カルマを背負ってるから、不寛容なのでは・・・?って思っちゃいます。


普通に人間の心理と行動パターンからして、九州を拠点にするの、普通でしょ?
残党が西へ西へ逃げる???

そして南海貿易で富を貯えるというのなら、ワカランでもないけど・・・
それって、意味ないじゃん・・・

・・・地理が詳しくないから、両者の記事に不一致がないなら、ごめんなさいです。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月10日 00:22


妄想ポイントを列挙

・沖縄戦は易断衆の歴史を破壊することにあったのではないか。
 沖縄の米軍駐留は、その易断の歴史が暴かれない封印の意味では?

・源氏の白旗、平家の赤旗は、蚩尤の封印の意味を刻印するためでは?
 世の体制が現実と合わなくなって不穏になっていくと、必ず戦争は到来する。
 戦いの神はなぜか『蚩尤』であり、彼への呼声が高まるのは、世界が戦争の必 然性を感じているからなのか。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%A9%E5%B0%A4
 蚩尤は帝王神であった・・・
 「蚩尤は赤帝に命じられて少昊におり、四方に臨み百行を司った」
                     ー『逸周書』嘗麦解ー

 秦の時代までには、蚩尤は五兵(五種類の兵器)の創始者とされ、兵主神とも
 呼ばれて祭祀の対象となっていた。司馬遷『史記』封禅書には、蚩尤は「兵主
 神」に相当するとされ、戦の神と考えられている。
 「天下を統一した始皇帝は泰山で封禅をおこなった後、東の海岸地方で祭祀を
 おこなった八神の一つに兵主の神を蚩尤の塚で祭り、また漢の高祖・劉邦は、
 挙兵した時に蚩尤をまつったという。」

 戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したと
 いう。 蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなけ
 ればいけなくなったとも言う。(引用おわり)


・八神・・・九鬼神道の八方向の神・・・源氏八領・・・盾無
 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%85%AB%E9%A0%98
 保元物語では、源為義が八領が風で散り散りに吹き飛ばされるのを夢で見たこ
 とを理由の1つとして、出陣を断る場面がある

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E7%84%A1
 楯無(たてなし)とは、源義光伝来の鎧とされる源氏八領のうちのひとつ。
 特に甲斐国の武田家に伝わる大鎧で名高い
 御旗(みはた)と呼ばれる義光から受け継いだ日章旗と対になっている。
 
 http://rekishinosato.com/essay1_4.htm
 新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜された「日の
 丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。
 これが、義清・清光父子とともに常陸國から甲斐國に伝えられ、甲斐武田家の
 家宝となったのです。
 ・・・・・「義業」に渡っていればこの家系は常陸国を統一し、秋田藩を400
 年栄えさせた佐竹家ですので、武田家の家宝についても、何かいわくがありそ
 うですね。
 ↑ より、源頼義と後冷泉天皇の関係が気になりました。
 特に、後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜されたことと、奥州安倍氏征討と 関係あり?
 
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
 後冷泉天皇は三后並立の唯一の例である
 
↑ との関係はわからないが、両統迭立
中でも、非常に興味深いのは、桓武天皇後の嵯峨流と淳和流の迭立http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%B5%B1%E8%BF%AD%E7%AB%8B


平安京を建設した桓武天皇には、多数の妻妾と多数の皇子女があったが、
なかでも皇位継承についてもっとも有利な立場にあるとみなされていたのは、
安殿親王、神野親王、大伴親王の3人の皇子であった。
彼らはいずれも皇后もしくはそれに準じる待遇を受けた藤原氏式家出身の女性を母とし、
さらに桓武天皇の意向で異母姉妹にあたる内親王を妻としていた
(安殿親王は朝原内親王と大宅内親王の2人、
神野親王は高津内親王、
大伴親王は高志内親王)。
3人の皇子をあえて並び立たせ、将来複雑な皇位継承争いを引き起こしかねない措置をとった桓武天皇の真意は不明である。(引用おわり)

・・・大伴氏考察中ですから、(大伴親王は高志内親王)のカップリングに注目。しかも「桓武天皇の意向で異母姉妹にあたる内親王を妻」!!

で、高見王のケースといい、3皇子の兄弟婚といい、桓武天皇とは、部族の統合(および拡散=臣籍降下)を引き受けた大養父ではないか?
もっとも、桓武天皇=宣徳王だと思ってはいますが・・・


 あと、天武は唐の捕虜となって洗脳後、返された『筑紫君薩夜麻』という説があるのですね。

土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/waikoku/comment/20110722/1311326118
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月10日 10:51
過去の考察を読み返さないと流れが把握できない・・・
大内氏と密接な関係にある大友氏・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%95%B7

http://kemono666.seesaa.net/article/267906066.html#comment

観勒:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%8B%92
7世紀初頭の百済出身の僧侶。
日本へ602年に来航する。
三論宗の法匠であり、成実宗にも通じていた
「暦法は陽胡玉陳、天文遁甲は大友高聡、方術は山背日立」
暦本は604年に聖徳太子によって採用された


陽胡玉陳(やこのたまふる)
後漢(東漢)出身で、観勒に師事し暦法を修め、日本における暦道の祖となった人物!
http://matome.naver.jp/odai/2127233045058346701/2127233529658652903

大友高聡は、大友氏出身である。
この大友氏は、後の長岡京時代、
天智天皇皇統の桓武天皇から延暦6(787)年に、
志賀忌寸姓を下賜されていることからもわかるように、
近江国滋賀郡に本拠を置く一族である。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mretu/mretu00317.htm

山背日立【やましろの-ひたて】
推古天皇10年(602)渡来した百済(くだら)(朝鮮)の僧観勒(かんろく)から方術(占術や医術)をまなんだ。名は日並立とも。
http://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E6%97%A5%E7%AB%8B


・・・この記事のコメント欄でほかに、

「このように北辰尊星信仰が日本へ渡来する経緯は、欽明帝の538年、百済聖明王が日本に仏教伝来し、推古帝602年、百済僧観勒により暦本、天文地理書が献上され、辛未の611年聖明王の第三子琳聖太子が肥後国八代郡白木山神宮寺に、七星と諸星を画き、下に道教の奇妙な文字を記した七十二霊符をもたらしたことに始まる。」
http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/kenkyu8.html


あと、忘れていたけど、大分の日田市も日高見国であったか・・・

・日田郡と呼ばれる以前は日高郡と呼ばれており、本来は日高見国であって、そこから日高、日田になったという説もある。現在も地名は、三芳地区に「日高町」として現存している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%B0%E5%B8%82


それと、仁徳天皇の・・・

「治水に関する治績が多いですね。
そして最後の「紀角宿禰を百済へ遣わし」の紀角

紀 角または木 角(き の つの、生没年未詳)は、古墳時代中期の豪族。
姓は宿禰。
武内宿禰の五男で、母は宇乃媛とされる。
兄に羽田矢代、巨勢小柄、蘇我石川、平群木菟が、弟に葛城襲津彦らがいる。」

・・・・↑ これにつづく・・・↓

辰斯王は、近肖古王の孫のようですね系図では。(事績はよく分からんです)
紀氏は多分、大伴氏の流れですかね!?
道臣命を祖とする大伴氏の「角日命」というのがいるらしく紀 角、「紀氏は角から始まる・・・」っていうのに合う!?

僕の意見だと、???(多分)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年05月06日 02:55


・・・・金首露の息子、大伴武日の子孫が角日???

上のコメントより再掲

*武日命 たけひのみこと
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/takehi.html

大伴氏系図
によれば道臣命の七世孫。名は健日にも作る
垂仁天皇25年、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる。景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わる。


・・・・・・。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月10日 13:11
観勒に暦法を教わった陽胡玉陳(やこのたまふる)

http://kotobank.jp/word/%E9%99%BD%E8%83%A1%E7%8E%89%E9%99%B3
?−? 飛鳥(あすか)時代の学者。
陽胡(陽侯)氏の祖。
推古天皇10年(602)百済(くだら)(朝鮮)から渡来した僧観勒(かんろく)に暦法をまなんだ。陽胡氏は百済の楊侯氏を祖とするが,のちに隋(ずい)(中国)の煬帝(ようだい)の子孫と称するようになる。
名は王陳とも。

・・・陽侯氏・・・とあります。
これもまた以前、コメント済み分ですが、忘れているので再掲、

http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AF%80
楊氏は我国への帰化族で、古く「新撰姓氏録」左京諸蕃の条に、楊侯忌寸、楊侯氏、楊侯直など載せてあり、吉備真備の生母が楊氏であった事は、その墳墓から発掘された骨器の銘に明記されている〔二五〕


http://44051510.at.webry.info/201203/article_54.html
↑・・・も再掲ですが、今度はここに注目してみました。・・・↓

「陽侯氏
淮南子 巻三  天文訓
太陽は暘谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる。
新釈漢文大系 第54巻 淮南子 (上)  明治書院  P162
※ 「暘」 は「陽」 に同じ。


同 巻四  墜形訓  P208
扶木は陽州に在り。
P209 の語釈に
扶木 扶桑ともいい、湯(陽)谷の南、東海上にある想像上の神木。
日出の所とされる。」(引用おわり)

・・・・太陽は暘谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる・・・


http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/kokoro.htmより、引用、編集。

*『楚辞』の「東君」には
・「太陽神が天の馬車に乗って暘谷から上り西に沈む」と、
*同じ『楚辞』の「出自暘谷」には
・「太陽が東方暘谷より出て、夕方蒙水に宿る」と記されている。
*『淮南子』の天文訓には
・「太陽が扶桑の生えている暘谷より出て、蒙谷に至る」と、
*『書経』には
・「帝尭は義仲に嵎夷(東方の九夷の住む土地)に宅するを命じて曰く、暘谷から昇る太陽を謹んで導き春の耕作を順序立てよ」と、
*『後漢書東夷伝』には
・「昔尭命義仲宅嵎夷、曰暘谷、蓋日之所出也」と記されている。

これらの記述から、古代中国人は東君[太陽]は扶桑の木の生えている暘谷から上ると考えていた。


『楚辞』の「東皇太一」には、天つ神[東皇太一]を奉る儀式が歌われている。
楚人は都の東に祠堂を造って奉っていることから、東皇太一と呼ばれる星は全天の恒星の中で最も輝いていて旧正月前後の夕暮れに東から上るシリウス(−1.4等星)であると推定される。
この星は冬の東南の夜空を飾るオリオンの三ツ星を斜め下方に延長した所に位置していて、薄暮でも一際明るく輝いて見える。
中国では時代が下ると楚人ばかりではなく黄河流域の人々までも、この星に日々の希望を繋いで生活していたようで、大袈裟かも知れないが何千年を通して全中国、中央アジアやヨーロッパの人々が夢を託した星であろう。
面白いことにシリウスは望遠鏡で見ると揺らいで見えたようで、今ではその原因が白色矮星を伴う連星であるために起こる現象であることが明らかになっている。
夜空を飾る恒星の多くが連星の形態を取っていることは判っていたが、人類の憧憬の対象であるシリウスが対構造をとっていることには特別な意味[ゆらぎの尊さ]が秘められているのであろう。


暘谷が何処かということになるが、
人工衛星写真による日の出ラインの極東地域での移動状況や
関東造盆地運動による沼や入り江の多かった地形的特色や
関東平野には3万年以上前から集落が形成されていたことや
富士山を扶桑の木とすること等と
数千年にわたる数億の人々の東方への憧憬を考慮に入れると
関東平野が暘谷であるといえるであろう。
元より人が長距離を移動して直接に情報を伝達することは難しいが、中国興隆溝遺跡と青森三内丸山遺跡との関係などから人類の生存に関わる情報は世代を超えて伝わるものであろう。

ノーベル賞学者G.エーデルマンは 人間の一瞬の意識シーンを作り出す脳神経のプロセスとは 無数の神経対構造の一瞬のパターンと それぞれの結合強度によって形成されるという。
この意識シーンは 今という時に縛られた原意識と 過去・未来そして自己自身を俯瞰出来る高次の意識からなっている。
人類が400万年を費やして脳容積を拡大して来たのは、この高次の意識に到達するためであったことになる。
私達の脳で繰り返されるという再入力プロセスは宇宙エネルギーが宿している「時の要素」を巧みに捉えている。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 10:13
http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/kokoro.htm(再掲)

『楚辞』の「東皇太一」には、天つ神[東皇太一]を奉る儀式が歌われている。
楚人は都の東に祠堂を造って奉っていることから、東皇太一と呼ばれる星は全天の恒星の中で最も輝いていて旧正月前後の夕暮れに東から上るシリウス(−1.4等星)であると推定される。
この星は冬の東南の夜空を飾るオリオンの三ツ星を斜め下方に延長した所に位置していて、薄暮でも一際明るく輝いて見える(引用おわり)

・・・・シリウス=東皇太一・・・・

http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/folder/1154950.html
中国の古典『淮南子』(天文訓)には、

「太微者太一之庭也。紫宮者太一之居也。軒轅者帝妃之舍也。咸池者水魚之囿也。天河者&#20247;神之闕也。

(太微〔の星垣〕は、天子の宮廷である。紫宮〔の星垣〕は、太一神の居処である。軒轅〔の星垣〕は、帝妃の邸舎である。咸池〔の星〕は、水魚〔の天神〕を養う園池である。天河〔の星〕は、群神の出入りする門である。)」                        平凡社『淮南子』p27

 このように今から二二〇〇年前の中国の古代記録には、
「神の居場所・東皇太一」、
「(太一)水の支配者」、
「(天神)水魚」などとはっきり残されています。(引用おわり)


・・・・・
太微者太一之庭也  太微〔の星垣〕は、天子の宮廷である
紫宮者太一之居也  紫宮〔の星垣〕は、太一神の居処である
軒轅者帝妃之舍也  軒轅〔の星垣〕は、帝妃の邸舎である
咸池者水魚之囿也  咸池〔の星〕は、水魚〔の天神〕を養う園池である
天河者&#20247;神之闕也  天河〔の星〕は、群神の出入りする門である

・・・しかし、わざわざ記紀に書き換えなきゃいけない理由はなんなんだろう・・・
これらが、千田氏のいう天文博士 アメノミカボシなのか・・・?

http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/kokoro.htm
宇宙にはシリウスのように連星を構成している恒星もあるが、更に遠く夜空を飾ってくれている星雲同士や星雲団同士でも対構造をとっているものがあるという。
この対構造は恐らくモンゴロイドが「気」や「理」と呼んでいる「宇宙の意思」を時空の中に保有して時空としての価値を創造するための構造であろう。
人間の脳は1千兆個ともいわれるシナプス対構造によって、この「宇宙の意思」を忖度し価値を創発して歴史を刻んでいるのである。
『詩経』と『楚辞』との対構造も西方遊牧民族の高速情報伝達システムからの高度な論理性を大陸モンゴロイドが受け止めた時の心の持ち方の差異から生まれたものである。
それらを差異[詩経と楚辞の対構造]から生まれる磨き上げられた価値に蕪村の脳が共鳴することによって「日本人の心」の一端が涵養されたのである。(引用おわり)


対構造やゆらぎが「この意識シーンは 今という時に縛られた原意識と 過去・未来そして自己自身を俯瞰出来る高次の意識からなっている」ために必要不可欠な要素なのでしょう。

今までの考察のように、帰化人とか渡来人と呼ばれる人々によって、日本国は立ち上がり運転されてきた。
今の日本の危機は、その歴史的事実を受け入れないことに最大の要因があると感じます。
日本国という容器と、日本人という中味が不一致である。
その不一致を解決するためには、今再び、渡来人・帰化人の意識を日本人意識と融合させることにあると、歴史的事実は教えています。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 11:01
『淮南子』とは、なんでしょう?

http://1000ya.isis.ne.jp/1440.html(以下引用)

 紀元前122年は漢の武帝の元狩元年にあたっていた。
この年に淮南王に任ぜられていた劉安(りゅうあん)が謀反の罪に刺されて、自害した。
淮南は淮河(わいが)の南方面の土地をさす。
現在は安徽省の北部をいう。
 淮南王劉安は当代きっての文芸主義者で、言語的にも思想的にも豊かな呪能性をもっていた。
そのため王のもとに多くの学士や食客が集まり、淮南は華やかな文化に彩られた。
ところがその淮南王劉安が悲劇の最期を迎えた。
残されたのは『淮南子』(えなんじ)だけである。・・・・
・・・・・
 しかしやがて『淮南子』(えなんじ)の背後の奥行きにひそむ「楚の風土」の何たるかを知るに及んで、いや、待てよ、タオというも、神仙というも、巫祝というも、南方の言語術というも、これは『淮南子』をつくった淮南(わいなん)王の「楚への思い」が見えてこなければ何もわからないというふうに理解するようになったのだ。
楚というのはむろん、あの楚国のことである。
・・・・・
 楚国とは、淮南の時代をさかのぼる数百年前からの、この土地の国俗(くにぶり)の総称をいう。
そこは老子(1278夜)や屈原が生まれた国であって、かつまた孔子や墨子(817夜)が君子を求めて訪れた「風韻まつりごと」の地であった。
その楚の国が『淮南子』の背景で動いている。
・・・・・
 あらためて説明しておきたい。
淮河(わいが)が中国文化を南北に截然と分けてきた。
「南船北馬」「南稲北麦」といった諺は淮河の北と南を明瞭に形容していたし、「北の華系文化」と「南の夷系文化」はまさに淮河によって大きく截然されてきた。
 淮南の地は古くは春秋戦国期の呉や楚の土地だった。
呉は海(黄海・東シナ海)を臨み、
楚は河湖(淮河・長江・洞庭湖)を臨んだ。
地理上でいうのなら、楚は淮河の上流と長江の中流とに挟まれていた。
とくに洞庭湖を望む楚の国には、山河に育まれた神仙や巫祝の文化が横溢していた。
けれどもそこは、中華の国々からみれば「礼教の外」であり、野蛮(南蛮=夷狄)の象徴でもあった。
・・・・
 そもそも中華文明というのは周の社会・制度・文化をいつも基軸モデルにおくことで、そのセンター性すなわち華夷秩序を保ってきた。
歌謡や宗教の発生でいうのなら、周に伝わる古い歌謡が『詩経』となり、古い記録が儒教となった。
その周の基軸モデルから見れば、楚の社会文化なんてものは(呉や燕もそうであるけれど)、たんなる辺境なのである。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 11:28
ひきつづき松岡正剛氏より
http://1000ya.isis.ne.jp/1440.html

・・・・屈原が泪羅に身を投じたのち、楚はあっけなく滅亡し、50年後には秦の始皇帝による中国統一になる(前221)。
 その秦もわずか十数年で滅んでしまうと(前206)、時代は漢帝国の世になって、その武帝のときに淮南の王の劉安が「離騒についての解説」を頼まれるのである。
 なぜ武帝は、辺境の淮南王が楚辞の伝承の意味を紐解くことを期待したのだろうか。この謎、ちょっと難しそうであるが、ここには大事な暗合がある。

実は楚には「莫敖」(ばくごう)という重要官職があり、そこが国家祭祀を司っていたのだが、屈原の一族である屈氏がその職掌を担っていたのだった。

 楚辞とは、その莫敖が操っていた言霊技能の発露でもあったのである。
淮南王とその膝下(しっか)にある者たちは、この格別な技能を継承した。
・・・・・
 淮南王が命じた『淮南子』はその後も執筆や編集が進んだ。恐るべき悲劇によって死没した王ではあったのに、『淮南子』はあたかも王の直下の指導にもとづくように、進捗していったのだ。
 いやいや、それだけではなかった。そのうち、淮南王は謀反によって自死したのではなく、天に昇って仙人になったのだという感懐が淮南の世人のあいだに沸き上がっていくようになった。
 このことこそ驚くべきことである。わが国の早良親王や菅原道真の例にみられるような、いわゆる怨霊観念によるものではなかった。めっぽう陽気な昇仙幻想なのである。(引用おわり)

・・・なんとなく『淮南子』ワールドって、日本が真似ているように感じます。

・・・・太陽は暘谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる・・・

太陽とは『日』でいいのだろうか。
では「東皇太一」=シリウスとは?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 13:02
・太微は、天子の宮廷である。
・紫宮は、太一神の居処である。
・軒轅は、帝妃の邸舎である。
・咸池、水魚を養う園池である。
・天河は、群神の出入りする門である。

*太微垣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%BE%AE%E5%9E%A3

 古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の上垣。
北斗七星より南、星宿・張宿・翼宿・軫宿より北の区画。

 星官としての太微垣は、庭園を囲う蕃垣(かこい)の形に象っており、その中心には五帝座が位置する。


*紫微垣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BE%AE%E5%9E%A3

 古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。
天の北極を中心とした広い天区

 天における中央の宮殿を囲う藩垣(城壁)の形に象っており、その中枢には天の北極が位置する。


*軒轅 =黄帝http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D

 三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝
蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。
 彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。
おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。
さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。
また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。


北極は出てきますが、シリウスってどこにあるのかしら?

北極星(太一、天皇大帝)である紫微星[2]を主とする星々から運命(=数)を量る枡(=斗)を意味している・・・紫微斗数というのがあるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BE%AE%E6%96%97%E6%95%B0

 紫微斗数では特に北斗七星と南斗六星が重要視


知らなかったのですが、北斗七星は大熊座、南斗六星は射手座なんですね・・・
このあたり検索していたら、二十八宿について、こちらが頼れそうな・・・
http://www.ne.jp/asahi/stellar/scenes/china28/index.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 13:37
肝心のシリウスですが、よくわかっていません。

シリウス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
・おおいぬ座のアルファ星
・太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星
・ギリシャ語で「焼き焦がすもの」「光り輝くもの」を意味するセイリオスに由来
・英語では別名Dog Star
・中国語では天狼

・オリオン座α星ベテルギウス、こいぬ座α星プロキオンとともに冬の大三角を形成する

・・・・オリオン座α星ベテルギウス・・・とともに冬の大三角形・・・そうだったのか

では、オリオン座とは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E5%BA%A7
天の赤道上にあり・・・中央に三つ星が並んでいるのが目印・・・日本では、毛利氏の家紋である「一文字に三つ星」の三つ星が、このオリオン座の三つ星を表しているといわれている[1]。


 オリオンは、オリオンの三ツ星と、冬の大三角形の2つの3に関係しているんですね。
毛利家の三ツ星はオリオンの三ツ星に限ったことではないかもしれません。
気になるのが、ここのところの三つ穴灯篭のシンクロ・・・


数霊の摂理は宇宙の星座と呼応しているのだとしたら、中国二十八宿も重要そうです。
シリウスとオリオンについて行き詰ってるので、こっちも・・・


中国二十八宿
・青龍 東方七宿 
・玄武 北方七宿
・白虎 西方七宿 
・朱雀 南方七宿

http://www.ne.jp/asahi/stellar/scenes/china28/index.html
現代星座で,太陽の通り道に当たる黄道が通る星座たちが「黄道12星座」ですが,中国星座の黄道12星座に相当するのが,「二十八宿」と呼ばれる28の星座です。
 黄道12星座は,太陽が12ヶ月かかって動く黄道を12等分したひとつひとつに当てはめたものです。
これに対して二十八宿は,月が27.5日かけて天球を1周するとき,一晩ごとに1つの「星座=星宿(せいしゅく)」を移動するように割り振られたものです。
黄道12星座の出発点は春分点(現在のうお座)ですが,
二十八宿の起点は秋分点に近い「角宿(かくしゅく),おとめ座中央部」にあります。
 この二十八宿は,太陽・月・惑星の位置と動きを表現することに用いられ,当時の天文学上も,非常に重要なものであったようです。
それぞれの星宿の中で,西端に位置する比較的明るい星を「距星(きょせい)」といいます。
そして東隣の距星との間の領域を,その距星の名前を付けた「宿」と呼んでいるわけです。(引用おわり)


この方の記事によると、オリオン座は西方七宿の領域にあるのかしら・・・
「最後に位置する参宿(しんしゅく,現在のオリオン座)」
Posted by フォグストロン at 2012年06月11日 18:34
しかし、シリウスの『ギリシャ語で「焼き焦がすもの」「光り輝くもの」を意味するセイリオスに由来』というのは、まるで金星のようではないですか?
金星というよりもルシファー・・・

「シリウス ルシファー」で検索してみました。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1538721.htmlより拝借

シリウスと人類の歴史の間の神秘的な接続
http://secretarcana.com/hiddenknowledge/the-mysterious-connection-between-sirius-and-human-history/

古代から、そして多数の文明社会の向こう側でシリウス(犬星)は、神秘的な言い伝えに囲まれました。

すべての時代の不明瞭な教えが、不変的な特別なステータスをシリウスに帰しました、そして魔術的な象徴的表現での星の重要性はその事実の証言です。

何がシリウスをそれほど特別にするのでしょうか?

それは単純に空で最も明るい星であるという事実に帰せられるのでしょうか?

この論文は、歴史と秘密結社全体にシリウスの重要性を見て、それを囲む象徴的表現を記述します。



過去ほとんどすべての文明社会に崇拝されたシリウス(太陽より20倍大きく2倍明るい星)の歴史など詳しく記述されていますがそこら辺りは省略します。

※文章がとても長いので省略しながら書きます。

・シリウスは古代から天文学、神話、オカルト的な大きい重要性を持っていたことが明らかにされました。

・ミステリースクールでは太陽の後ろの太陽、太陽の効力の本当の源であると考えます。

・太陽が物質世界を温かくするなら、シリウスは精神世界の状態を保つと考えられています。

・太陽が物質世界を照らすように、東洋では精神的な光で輝く「本当の光」であると考えられますが、それは雄大な錯覚であると考えられます。

古代の文明社会

古代エジプトでは、シリウスが空で最も重要な星と見なされました。

実際にそれはエジプト人全体の宗教的システムの土台でした。

それは Sothis として崇拝され、そしてエジプト神話の母女神イシスと結び付けられました。

イシスは彼女自身、オシリスと息子ホロスによって形成される三つ組の女性の様相です。

アヌビス、(死の犬によって率いられた神)は、dog star(シリウス)との明白な接点を持っていました、そして人間性の偉大な教師トートエルメス(トス - ハーミス)は同じく難解な接点がありました。

大幅に中略




グレートピラミッドとその神秘的な「通気孔」に関する最近の科学的な発見で、ピラミッドの中にさらにシリウスの重要性を確認するための研究主任がいます
魔術的な象徴的表現、シリウスと秘密結社

シリウスは秘密結社の教えと象徴的表現の中心的な焦点以下の何ものもでもありません。

この事実の究極の証明:多くの秘密結社が実際に星の名にちなんで名を付けます。

タロットやフリーメーソン主義で


フリーメーソンのロッジで、シリウスは「燃え上がる星」として知られています、そしてフリーメーソンの象徴的表現で目立つ単純な一見がその最大の重要性を明らかにします。

フリーメーソンの著者のウィリアム・ハッチンソンは 、シリウスについて「ロッジで一番我々の注目を要求する最も高い対象です。」と書きました。

シリウスの光がイニシエーションの間に、グレートピラミッドが作られたその同じ方法で、それはフリーメーソンロッジに象徴的に存在しています。



シリウス、フリーメーソンのモザイク舗道の中心にある燃え上がる星



燃え上がる星がフリーメーソンロッジのメンバーの上に輝く

燃え上がる星は、元来シリウス(ドッグスター)の、ナイルの氾濫の前触れを表しました; アヌビス、彼女のイシスの仲間がオシリスの体を求めて捜索する神、彼女の兄弟と夫。

それからホロスのイメージは、彼自身同じく太陽によって象徴されるオシリスの息子、季節の立案者と「時間」の神になりました;イシスの息子、普遍的な本質、基本的問題であった生活の無尽蔵な源、創造されない火の火花、すべての生きものの普遍的な種自体でした。


フリーメーソンの芸術が、シリウスを燃え上がるスター、石工の遍歴(旅行)の目的地として描写する

完ぺきを達成するために、入会者は成功裏に理解して、そして錬金術の変形を通して世界の二重の性質(男らしさと女らしさ、黒と白の善悪など)を内面化しなくてはなりません。

この概念は象徴的にオシリスとイシスの結合(男と女の原則)によってホロス 、スターチャイルド、燃え上がる星(シリウス)と同等に扱われるキリストのような人物、フリーメーソン団主義の完成された男に出生を与えると述べられます。

「太陽と月は2つの壮大な原理を表します…… 男性と女性は共にそれらの子、燃えるような星、またはホルスにそれらの光を落しました。」

シリウスを表しているエジプトの象形文字は難解にこの宇宙の三つ組の表示であると解釈されました。


シリウスを含む象形文字:オシリスを表す陰茎のオベリスク、イシスの代理を務める子宮のようなドーム、星はホルスの代理を務めます。

この概念は非常にフリーメーソン団にとって極めて重要であるので、それは世界中の最も重要ないくつかの構造に埋め込まれました。


男性の原則を表しているワシントン記念塔、エジプトのオベリスクは女性の原則を表し、直接国会議事堂のドームに接続しています。

それらはシリウスによって目に見えないエネルギーが表したホルスを産み出します。

http://vigilantcitizen.com/sinistersites/mystical-sites-u-s-capitol/


アルバート・パイクによって述べられたように、エジプトの神ホロスとシリウスはしばしば結び付けられます。

フリーメーソンの象徴的表現のホロスの目(All-Seeing Eye)は、シリウスの光がきらめき取り巻いているのが描写されます。


左の柱の上に太陽、右の柱の上には月、そして中央にシリウス(ホルス、イシスとオシリスの息子)があります。ホルスの目に気付いて下さい。


(神を象徴する)三角形の中のホルスの目が燃え上がるシリウス星の光によって囲まれます


アメリカの1ドル札にある、「すべてを見ている目」の後ろの光は太陽ではなくシリウスです。


フリーメーソン団主義の「女性バージョン」と考えられている東洋のスターのオーダー(OES)は、直接「東洋からの星の上昇」のシリウスの名にちなんで名付けられます。

オーダーの名前の起源の「一般大衆」向けの説明は、3つのマジス(さらにそしてさらに)をイエス・キリストに向ける「東洋のスター」から始まったと主張します。


ヘレナ・ブラワツキーとアリス・ベイリー、共に神智学の仕事をしている2人の主な人物はシリウスが情報源の不明瞭な力であると考えました。

ブラワツキーは、シリウス星がすべての生きている天国の上に神秘的に直接影響を及ぼし、古代のすべての素晴らしい宗教に関連していると述べました。

アリス・ベイリーは、シリウス(ドッグスター)を本当の「グレートホワイトロッジ」として見て、それが「スピリチュアルハイアラーキー(精神的な階層)」のホームであると信じます。

シリウスに焦点を当てる、中心の役割を果たす、自意識過剰を引き起こす影響を放出して下さい・・・

サタンと結び付けられたカオスの Eyptian 神を結ぶ地球圏外の次元の話もあります。

中略

それは人間の知識と地球が決して古い形とは思われない星と惑星の間の強い接続の存在の信念の発祥地であると認知されます。

シリウスと地球の間には本当に繋がりがありますか?

シリウスは精神的な領域でトレンディーな何かを表している不明瞭なシンボルですか?

1つのことが確かです、シリウスのカルトは「過去のもの」ではなく、今日、非常に有効です。

ひどくオカルト的な象徴によって影響を与えられる我々の大衆文化への詳細な一見がシリウスに対する多数の言及を明らかにします。

以下シリウスを題材にしたディズニー物語や他は省略。


すべてを見ている目は惑星シリウスを表すために使われます

シリウスは秘密のマジシャンにとって重要です、そしてプログラマーのいくらかは深く秘密のマジックに打ち込んでいます。

シリウスは、マスタープログラマーがフリーメーソン哲学に没頭させられるいくつかのシステムで、システム創造者の代理を務めるかもしれません。

http://www.whale.to/b/sp/4.html


「ルシファーがシリウスを去ったとき、彼はエホバと多くの他の人たちと一緒に探究しました、そして彼はレムリアでしたような方法が好きではありませんでした。

あなたはルシファーが、その時男らしさとはまったく対極していた珍しい生きものであったことを覚えていなくてはなりません。

ルシファーは雑婚で、本来物理的な利己のプロダクトでした。

これは堅苦しく制御されていた惑星でさえ、その時、シリウスでは異常でした。

彼の父親はオリオン座からでした、それで彼はシリウスという環境での宇宙人でした。

彼の母親は同じく追放者でオリオン座とシリウスのプロダクトでした。

したがって、ルシファーは多くのオリオン接続と共に生まれました。

http://www.whale.to/a/shapiro_h.html


ルシファー=光を運ぶ人(Light-bearers)

「みなさん、もうまもなく・・・」と言い続けてはや10年?

今まで読んだいくつかの海外記事からして、意識的か無意識かに関わらず、アセンション関連はフリーメーソン系が発信していると見てほぼ間違いないと私は感じます。

違います?

アセンションはワールドグッドウィルグループが書いた光の物語ですよね?
http://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/32789030.html

ニューエイジは国連がらみの壮大なグループなんでしょ?



そしてアセンション詐欺のメルキゼデク
http://www.whale.to/b/melchizedek_h.html

彼は公然とハイエンドのイルミナティ組織であるグレートホワイト ブラザーフッドのニューエイジ グルと、ただ1つの薔薇十字団 と神智学を昇進させます。


最近ワンダラーオブスカイと言う物語も始めたシェルダンナイドルと言うオッサン
シリウスの言葉なるものを口走ります

<転載終了>
「メモ・独り言・戯言」カテゴリの最新記事 (以上、原文のまま)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 19:46
↑ ひとつ前の記事は、シリウスについて知る糸口になりそうなので引用しましたが、わたしが参考にしたいと感じてるのは、

・過去ほとんどすべての文明社会に崇拝されたシリウス(太陽より20倍大きく2倍明るい星)
・ミステリースクールでは太陽の後ろの太陽、太陽の効力の本当の源である
・太陽が物質世界を温かくするなら、シリウスは精神世界の状態を保つ
・フリーメーソンの著者のウィリアム・ハッチンソンは 、シリウスについて「ロッジで一番我々の注目を要求する最も高い対象です。」
・シリウスの光がイニシエーションの間に、グレートピラミッドが作られたその同じ方法で、それはフリーメーソンロッジに象徴的に存在
・オシリスとイシスの結合(男と女の原則)によってホロス 、スターチャイルド、燃え上がる星(シリウス)と同等に扱われるキリストのような人物、フリーメーソン団主義の完成された男に出生を与えると述べられます。

「太陽と月は2つの壮大な原理を表します…… 男性と女性は共にそれらの子、燃えるような星、またはホルスにそれらの光を落しました。」

・この概念は非常にフリーメーソン団にとって極めて重要であるので、それは世界中の最も重要ないくつかの構造に埋め込まれました。
・それらはシリウスによって目に見えないエネルギーが表したホルスを産み出します。
・メリカの1ドル札にある、「すべてを見ている目」の後ろの光は太陽ではなくシリウスです
・ヘレナ・ブラワツキーとアリス・ベイリー、共に神智学の仕事をしている2人の主な人物はシリウスが情報源の不明瞭な力であると考えました
・アリス・ベイリーは、シリウス(ドッグスター)を本当の「グレートホワイトロッジ」として見て、それが「スピリチュアルハイアラーキー(精神的な階層)」のホームであると信じます。
・すべてを見ている目は惑星シリウスを表すために使われます
・ルシファーがシリウスを去ったとき、彼はエホバと多くの他の人たちと一緒に探究しました


・・・これらの断片的情報は、わたしには初耳のことばかりです。
フリーメーソンにとってのシリウスと、『楚辞』の「東皇太一」は、一致するのだろうか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月11日 20:49
これらの情報は、やがてひとつになっていくと・・・

「 あと、天武は唐の捕虜となって洗脳後、返された『筑紫君薩夜麻』という説があるのですね。
土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/waikoku/comment/20110722/1311326118

・・・どうしてもこれらの人物が気になりますが、詳しい情報がつかめません。

検索するうち、開聞岳に惹かれていきました。

http://www.ten-f.com/hirakiki.htm
開聞岳の麓の岩屋で或る仙人が修行をしていると、或る日、一頭の鹿が現れ
  法水を呑んだ鹿は忽ち懐妊して一人の姫を産んだ。名前を瑞照姫と言った。
  姫は大層麗しく、その美貌の噂は遠く都にまで届き、
  僅か二歳で上京、藤原鎌足に養育され十三歳で宮中に召され
  天智天皇の妃として寵愛を受けたが、他の女御たちに嫉まれ郷里へ舞い戻った

天智天皇と九州の地が縁深いことは皆さんも良くご存知のことと思います、そして鎌足との縁が最も深いことも…。事実がどうであったにせよ、このお話しは、薩摩の有力者と都で権勢を振るう藤原氏(鎌足)との間に、なんらかの繋がりがあったことを窺わせます。そして天智天皇が、姫の跡を追って薩摩に下向、亡くなるまで住み続けたという「伝説」は、何を意味しているのか?(引用おわり)


まるで、紀の国の宮子と不比等みたいな話・・・

やはり九州・・・鹿児島という気がします。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:06
・・・・太陽は暘谷からあらわれ、咸池で水浴びし、扶桑の野を過ぎる・・・淮南子

楚の「莫敖」(ばくごう)が気になります。
屈原の屈氏について検索してみました。
学びたいので、公開されている全文を引用させていただきます。

http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa17/a17_03.html
屈原をたずねて(3)   山田 善仁
 屈氏の由来はこうである。
 水(いくすい)が漢水(かんすい)に合流する手前の屈曲した所に申国の屈申城が在り,18代目の文王(熊貲(ゆうし))の時代,滅ぼされて楚の県邑となった。申国を抑える為に武王の子,瑕(か)が封ぜられて屈氏を起こし屈瑕(くつか)と言う。以後代々莫敖(ばくごう)(徳川幕府で言えば副将軍もしくは御三家)家で,王を補佐して,自由に国政,外交,軍事に参与できる家柄となる。
 敖(ごう)は(ごう)で猛犬の名であり,(ごう)をトーテムとし,楚国にとって敖(ごう)は熊(ゆう)と同じく王を象徴する語であった。
 楚蛮の風土には依然として殷王朝的な宗教的雰囲気,巫風(ふふう)つまりシャーマンが幅を利かせる社会で,人ごとに享(まつり)をし,家ごとに巫(みこ)や史(かんなぎ)を作り,民と神とが同位に立ち,神は人に狎(な)れ,民は神に則(まね)るが,民は節度の無い祭祀に明け暮れてまずしく,神の福を受けるどころではなかった。
 春秋時代になると,楚国は相つぐ中原の亡命者を受入れ,一緒に三皇の書,五帝の書,八卦の書,洪範九丘の書を大量に取入れ,楚の文化を独得の高度なものにした。
 知識階級は諸国の外交的応対に,古の語句,主として「詩経」の文句を誦(しょう)し,これに己の意を託した詩を賦していた。
 この時代の巫風は,宮廷でも民間でも巫覡(ふげき),つまり男女の巫(みこ)による祭神の神楽舞が行われていた。
 屈原の表した九歌(九つのまつりの歌)の演唱には,祭神に扮する巫(神巫(しんぷ))と祭者としての巫(祭巫)とによって行われた。
 祭巫は,神巫の相手役を勤める特定の祭巫と,合唱合舞を演ずる一般の祭巫に分かれるが,特定祭巫には男性女性の別が有り,男性の神巫には女性の祭巫が,女性の神巫には男性の祭巫が相手を勤め,「九歌」の歌詞は神に対する人の敬愛の情を男女の愛慕の情に託し,民と神とが位を同じくして雑糅(ざつじゅう)していた楚の祭祀の習俗である。ちなみに,古代朝鮮語の神(カム→カミ)は女神を指し,のち神一般を言う。又,男神はスカム(雄神,隧神,神)と言った。
 周の文化は「礼楽」を制定して天下を治め,秦は独裁行政で治めたが,夏殷の精神的風土そのものが底辺に流れる楚の文化は後々まで受け継がれる。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:27
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa18/a18_03.html
屈原をたずねて(4)   山田 善仁
 楚王武以来,王を補佐して来た莫敖の屈家。
 前697年頃より,屈瑕,重,蕩,到,建,申,大心,子華,そして伯庸(はくよう)の子,屈原の時代までの屈巫を除いて,春秋戦国400年間,楚国の為に中原諸国との鎬合(しのぎあ)い,そして中原の覇者(荘王)を導き出し,西北虎狼の国,秦に対する合従(がっしょう)に,或いは連衡(れんこう)と繰り返して来た。
 屈原は20歳の時,懐王に仕えて左徒,三閭大夫(さんりょたいふ)の重職(王族を統率)を担い,終始秦との和親は楚の滅亡に繋がると主張して来たが,秦の策謀にかかった上官大夫及び王妃,懐王に疎(うと)んじられる様になって行く。
 幼少の頃より,祖父と推定される莫敖子華の薫陶を受けて育った潔癖な貴公子屈原は,18歳の頃「天問」「橘頌(きっしょう)」を作る。
 「天問」は,さまざまな質問を述べ連ねた長詩で,概(おおむ)ね四言体で,四句二韻を一章とし,「詩経」の体を襲(おそ)う(受け継ぐ)もので,95章に及んで172問を出し,発問の対象となっている題材は,すべて自然神話や古史伝説の一こまを掲げて配列し,まず人間の歴史が展開される舞台としての,天地の生成開闢(せいせいかいびゃく)から始まる。そして夏,殷,周三代の興亡に関する事件を並べる歴史的順序を経(たていと)とし,関連類似を聚(あつ)める類聚(るいじゅう)的順序を緯(よこいと)として,互いに絡ませている。
 「天に問う」という発想は,楚国のシャーマニズムの一面として卜問(ぼくもん)に基づき,前朝の殷の卜辞(ぼくじ)を承(う)けるもので,更に制作を触発したものは,先王の廟(びょう)や公卿(こうけい)の祠堂(しどう)の壁に画かれた,種々の絵画を基に,若き日の修学中,屈原の筆のすさびに成ったものである。
 因(ちな)みに白川静先生に依ると,我国には「史」や「歴史」にあたる固有の語は無く,中国においても一,二散見あるのみで,明治の初年頃から歴史という言葉が使われだした。
 中国では昔より「国の大事は祀(し)と戎(じゅう)とに在り」といわれ,本来の意味する歴とは軍事的征服の功績の記録であり,史とは祭祀に依る秩序の記録である。
 歴はもとで,厂(がんだれ)の下に禾(か)(標木)の字が二つ並んでいるのは,軍門として立てる鳥居の様な木の形,下の部分,止は足の形,故にひさしの有る軍門の前で,戦功のあった経歴を表彰する意味である。
 史はおまつりをする時に,木の枝に祝詞(のりと)の箱を付け,申し文を捧げる様にして神をお祭りする意味。又,祀の巳は基はヘビの形で,自然神をまつる事を祀と言い,祖先神をまつる事を祭りという。
 祭りという字は,羊の肉を手で祭壇にお供えする事をいう。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:32
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa22/a22_04.html
屈原をたずねて(8)   山田 善仁
 問地をもう少し覗き見るとこうである。
○女(じょか)は黄土をまるめて人間を造ったが,女の体は誰が造ったか。
 兄妹の伏犧(ふくぎ)と女は創造の神で,人頭蛇身,一日に70もその体を変化させると。
 近年,トルファン盆地の古墓(7世紀の高昌国)から発掘された棺に掛かった彩色絹画には,兄妹は肩を組み,伏犧の左手に定規,女の右手にはコンパスが握られ,顔立ちは,高松塚古墳の壁画の様で,長袖の服に,腰は同体になって一つのスカートをはき,足は蛇の様にからまっている。
 伏犧は「庖犧(ほうぎ)」ともいい,犧は神や祖霊に捧げるいけにえ,偉大にして秀麗完美のものの意があり,女は「(ほうか)」ともいい,はまん中が空洞になったもの,女陰を表し,または「匏瓜(ほうか)」つまりひょうたんの事である。(聞一多,伏犧考)
 陸羽(りくう)の「茶経」に,杓(ひしゃく)の事を「犧」とあり,瓠(ひさご)を二つに剖(わ)ってこれを作るとある。
 故に,伏犧と女は同一で,同じ神格の男性と女性にすぎないとされる。
 また,伏犧と女は苗族の祖先と伝えられる。(陳舜臣,中国の歴史)
 「女の人間造り」はこうである。
 黄土を手で摶(まる)めて造っていたが,妙案を考え出し,ドロドロの黄土の泥の中に荒縄をつっこみ,掻き回して引き上げ,縄の先からボタボタと泥が落ち,それが固まって人間になった。故に人間にも出来の良い悪いは,最初に造った時の行程が原因といわれる。
 「女の補天(ほてん)」はこうである。
 水の神の共工(きょうこう)と,火の神の祝融(しゅくゆう)が大喧嘩をして,負けた共工はくやしまぎれに自分の頭を不周山(ふしゅうざん)にぶちつけた。
 不周山には天を支える柱とそれを大地につなぐ維(つな)があったが,共工が暴れたので,天柱は折れ地維は切れて,天は西北に地は東南に傾き,穴のあいた天から大雨が降りそそぎ,河川は大洪水となった。それを見た女は,急いで五色の石を採り,火に融かして煉り,天空の大穴をふさぎ,海中の巨大な海亀の足4本を切り取り,折れた天柱の代わりとし,水辺の芦を集めて焼いた灰で河の水をふさぎ,地上の平穏を取り戻した。
 因みに妃(ふくひ)は伏犧氏の女(むすめ)で,洛水に溺(おぼ)れて死んで河の神となったという。(淮南子)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:41
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa26/a26_05.html
屈原をたずねて(11)   山田 善仁
 「橘頌(きっしょう)」(橘(たちばな)を頌(たた)うるうた)
 頌(しょう)とは,朝廷の宗廟に奏して,舞を伴ったものといわれる。頌の詩は,元来祭祀に奏するものだから,先祖の功徳を讃美し,祭りをする子孫の慎みを詠い,またその祭りに参加する諸侯を誉めたものが多い。しかし,屈原の「橘頌」は,少しく性格を異にする。
 屈原の理想とする人間像は,内は清潔で外はそれにふさわしく修飾されたものであり,20歳の若き修学時代に,この理想の人間像を楚の特産である1本の橘の若木に寓(ぐう)して詠じたのが「橘頌」篇である。
(1)后皇(くにつかみ)のうめる嘉(うま)し樹(き),橘(たちばな)この地に来たり服(なじ)めり。
 命(さだめ)を受けて遷(うつ)ろわず,南(みんなみ)の国に生(お)いたり。
(2)根は深固(ふか)くして徙(うつ)され難(がた)く,更(さら)に志を壱(ひとすじ)にせり。
 緑の葉素(しろ)き栄(はな),紛(ふさふさ)として其(そ)れ喜(この)む可(べ)し。
(3)会(かさな)る枝(するど)き棘(とげ),円(まろ)き果(み)は摶(つぶら)なり。
 青きと黄(き)なるといりまじり,文章(あや)うるわしく爛(きらめ)けり。
(4)精色(こがねいろ)して内(うち)白く,道を任(いだ)けるものに類(に)たり(任道)。
 紛(かんば)しくして脩宜(すがたととの)い,みめ(うるわ)しくして醜(か)けず。
 「周礼(しゅらい)」考工記に,「橘は淮(わい)(淮河)をこえて北すれば枳(からたち)と為(な)る,此の地の気然(しか)るなり」とある。楚の地にのみ服(なじ)んで生える橘は,後年失脚しても他国に亡命せず,楚国に終始した屈原の生涯を象徴するかの如くである。
 白い花,緑の葉,青い実,黄色に熟した実,外面はきらびやかであや麗しく,しかも果実の内部は清潔で香気に満ちている。前段の詩は橘の木のもつ性状の美が,くまなく描き出されている。
       (竹治貞夫,中国の詩人。屈原)
       (目加田誠,詩経楚辞)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:44
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa28/a28_06.html
屈原をたずねて(13)   山田 善仁
 屈原23歳の頃(前317年)九歌(九つのまつりの歌)を作る。
 時代は孟子が諸国を遊説,魏を去り,斉の宣王に仕え,秦では張儀を各国に派遣しては,策謀をめぐらし,領土を広げる事に虎視眈々としていた戦国時代であった。
 屈原は,王の侍従,秘書役に当たる左徒と,王族である昭氏,屈氏,景氏の三姓を統率する三閭大夫(さんりょたいふ)の要職の任に仕えていた頃である。
 20歳過ぎの屈原が,いかに才学,英才であったかが読み取れる。屈原は,楚朝において順風満帆の政治活動を開始する一方,その豊かな詞才は宮廷詩人として発揮され,宮廷でも民間でも盛んに行われていた,巫覡(ふげき)による祭神の歌舞を基に,修飾,洗練し,優美華麗な祭祀舞楽の歌謡が作られた。
 11篇から成る1組の祭祀楽歌の「九歌」がそれである。首尾に迎神,送神の2篇を置き,中間に9篇の神霊を祭る歌を配したもので,最初に東皇太一(とうこうたいち)神を迎える。
 天上の日神と雲神を最高神(太一)として楚都の東郊に太一神の祠が設けられていたので,代表して「東皇太一」と呼ぶが,全体の神を迎える。迎神歌に続く祭神歌の第一は「東君(とうくん)」で日神を祭り,第二は「雲中君(うんちゅうくん)」で雲神を祭る。第三は「湘君(しょうくん)」第四は「湘夫人(しょうふじん)」で湘水(北の洞庭湖へ流れる川)の二神を祭り,第五は「大司命(だいしめい)」第六は「小司命(しょうしめい)」で,司命は人の生死寿命を司る星神をいい,それを祭る。第七は「河伯(かはく)」第八は「山鬼(さんき)」で,黄河と巫山の神鬼を祭る。ここまでは対になった二神の祭神歌は,第九の「国殤(こくしょう)」に至って性格を異にし,国家のため戦没した人々の霊(みたま)を祭る歌となる。末尾に全体の送神歌である「礼魂(れいこん)」でしめくくられている。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:46
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa33/a33_05.html
屈原をたずねて(18)   山田 善仁
 九歌の第七「河伯(かはく)」は黄河の神である。
 演唱は,神巫(男性)と祭巫(女性)が相伴って登場し,専ら祭巫が唱う。
◎女(きみ)と九河(きゅうか)(黄河の下流で禹(う)が九道に分流した所)のほとりに遊べば,風吹き起こって荒波立つ。
 水の車に乗りて荷(はす)の蓋(ほろ)つけ,両(つがい)の竜(たつ)に駕(ひ)かせて(みずち)(竜(きゅうりゅう)=水の中に住むという,角の無い竜)を驂(そえうま)とす。
 崑崙(こんろん)の山(黄河の源流)に登りて四(よも)に望(なが)むれば,心は高く揚(あ)がって果(はて)も無し。
 日は暮れんとすれども憺(こころうば)われて帰るを忘れ,遠き浦(きしべ)を惟(おも)い顧みて懐(なつ)かしむ。
 魚鱗(うろくず)の屋根に竜(たつ)の堂(たかや),紫貝(しばい)の門観(やぐら),珠(しんじゅ)の宮。
 白亀に乗り文魚(こい)を逐(お)い,霊(かみ)は何ぞ水の中に住める。(河伯の住む水中の宮殿に遊ぶ)
 女(きみ)と黄河の渚(なぎさ)に遊べば,流氷紛(おびただ)しく下り来る。
 きみは拱手(こうしゅ)の礼(両手を前に組む礼)して東に去らんとし,美人(よきひと)を南の浦(きしべ)に送らんという。
 波はとうとうと寄せ来て迎え,魚は群がって予(われ)を送れり。
 この「河伯」は,「天問」に出てくる(げい)に射られて,妻洛嬪(らくひん)(妃(ふくひ))を奪われた故事,又,「左伝」によると楚の昭王に病が有り,卜(うらな)うと黄河の祟と出たが,王は「楚の領内の山川の外は祭るべきでない」と言ったと有る。九歌の「河伯」と後に出てくる「国殤(こくしょう)」は,民間のものではなくて屈原が新たに宮廷用に創作した楽歌である事がわかる。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:48
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa34/a34_02.html

屈原をたずねて(19)   山田 善仁
 九歌の第八は「河伯」と対を成す「山鬼(さんき)」である。
 「山鬼」は,楚の民俗に従って,巫山の神女を祭る歌である。山鬼の語(かたり)は,「史記」の秦始皇本紀36年に見える。「山鬼は固(もと)より一歳の事を知るに過ぎざるなり」とあり,その予知能力の乏しいことが指摘されており,神としての地位の低いものである事が知られる。
 この演唱は,山鬼(妖精(ようせい))に扮する神巫(女性)が,人間の男性を愛慕して唱い,その相手の人間は登場せず,山鬼が「離憂(りゆう)」の情をたたえて終わる形式である。
◎若(ここ)に人(われ)山の阿(くま)に有(す)みて,薜茘(まさきのかずら)を被(きぬ)とし女羅(つたかずら)を帯とす。既に含睇(こびのまなざし)おくりまた宜笑(ほほえみ)こぼせば,子(きみ)も予(わ)が善(こと)に窈窕(ようちょう)なるを慕わん。
(己の愛慕する人間界の男性を魅惑しようとして,山鬼は満艦飾の装いで登場する)
 赤豹(せきひょう)に乗りて文狸(ぶんり)を従(とも)とし,辛夷(こぶし)の車に桂(にっけい)の旗を結(ゆわ)えたり。石蘭(せきらん)を被(かざ)り杜衡(かんあおい)を帯び,芳馨(かぐわしきはな)を折(たお)りて思う所(ひと)に遺(おく)らん。余幽(われふか)き篁(やぶ)に処(す)みて終(まった)く天(そら)も見えず,路(みち)も険難(さが)しければ,独(ひと)り後(おく)れ来ぬ。表(たかだか)と独(ひと)り山の上に立てば,雲は溶溶(わきなが)れて下に在(あ)り。あたり杳冥冥(ほのぐら)く羌(あわ)れ昼晦(ひるまくら)みて,東(こち)の風飄(ふきめぐ)り神霊(かみ)は雨ふらしつ。霊脩(よきひと)を留(ま)ち憺(こころうば)われて帰えることも忘る,歳(とし)も既(はや)く晏れゆけば孰(たれ)か予(われ)を華(もてはや)さん。
(山鬼は奇獣にまたがり斑(ぶち)のある狸を伴にし,華麗な装いで,篁(やぶ)の奥から現われ山頂に登る。折からあたりは晦冥(かいめい)となり,風雨が起こる。女性の神巫である山鬼が遅れたかと心配したが,人間である男性はまだ来ていない。歳月とともに身の盛りも過ぎて,もてはやしてくれる人も無くなる事を嘆く)
 三秀(さんしゅう)の花を巫山の間(たにま)に采(つ)めば,石(いわお)は磊磊(うちかさな)り葛(くず)は蔓蔓(はいまと)えり。公子(とのご)を怨(うら)み悵(うちしお)れて帰(いえじ)も忘れつ,君は我(われ)を思えども間(いとま)を得ざるか。山中にすむ人(われ)は杜若(はなみょうが)を芳(かお)らせ,石泉(いわしみず)を飲み松柏(しょうはく)のかげに蔭(いこ)う。君は我を思えども然疑(うたがいごころ)作(おこ)るか。
(山鬼は,一年に三度咲き,不老不死の仙薬と言われ瑞草(ずいそう)である三秀の花を摘んだり,石泉の水を飲んだりしながら,来ぬ人の心をおしはかって,暇が無いのか自分を信じ無いのかと思い悩む)
 (かみなり)とどろきわたり雨冥冥(くら)くふり,(さる)啾啾(むせびな)き(ましら)(猿の一種)夜鳴(よるさけ)ぶ。風颯颯(ざわめ)きて木のは蕭蕭(ちりし)き,公子(とのご)を思(した)いて徒(かいな)く離憂(うれえしお)る。
(やがて雷が鳴りわたり,再び風雨晦冥(かいめい)の光景となる。その中に悄然(しょうぜん)たる山鬼の姿を留(とど)めて,この祭儀を終える)
(竹治貞夫,中国の詩人。屈原)
(目加田誠,詩経楚辞)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:50
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa36/a36_03.html
屈原をたずねて(21)   山田 善仁
 楚の王族である屈原は,優れた才能と恵まれた環境の中,若くして楚国の政界にデビューし,懐王の侍従,秘書役及び三閭大夫(さんりょたいふ)であり順風満帆であった。
 夷狄虎狼(いてきころう)の国,秦の策謀とりわけ宰相張儀の画策は,屈原を失脚に追い込む為,大国楚国の中枢に賄賂を贈り,又,楚王(懐王(かいおう))には美人を贈り,張儀の意図する所に楚は嵌(はま)ってゆく。
 屈原の外交政策(六国合従し,秦を敵視)も楚の朝廷には通ぜず,度々の建言も懐王に疎(うと)んじられ,ついには政界から追放の身となる。
 楚都,郢(えい)から約150km長江を遡った湖北省帰(しき)県丹陽の地(楚王の先祖熊繹(ゆうえき)が初めて楚に封ぜられて都した所)である采邑(さいゆう)田宅に帰耕し,懐王24年(前305年,屈原35歳)の頃まで約8年間,憂愁(ゆうしゅう)の退隠生活を送った。
 懐王24年,秦の昭王は楚から婦を迎え,和親の盟約をする。屈原は退隠の身でありながらも,秦に親しむ事の危険と斉国への度重なる不信行為の非を懐王に進言するも,懐王には国政を正すだけの叡智(えいち)は無く,いよいよ厭(いと)われ,次は漢北の地へ配流の身となった。
 この無限の憂愁の中から,詩人屈原を鳴らしめた長篇詩「離騒(りそう)」が生まれ出る。
 「離騒」は,讒言(ざんげん)を被って己の潔白が認められず,失脚不遇の境涯に陥った主人公が,その憂怨(ゆうおん)の情を吐露したもので,その前半約三分の一は,讒害を受けて退隠するに至る経過を述べ,後の三分の二は,不遇における心の懊悩(おうのう),すなわち祖国君主を捨て去るべきか否かという問題を,天地四方を遊行して美女を求めるという虚構の叙事に託して展開する。
 これは楚国の民俗であるシャーマニズムが,時間と空間を超えて自由に霊界を遊行し得る形式を借りたものである。最後には懐郷の情に堪えず遊行を中止する事を述べ,前賢(殷の賢大夫。彭咸(ほうかん))の行跡に従うという決意を示してこの詩は結ぶ。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:51
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa38/a38_06.html
屈原をたずねて(23)   山田 善仁
 私は始め,広い畑に蘭を植え,(けい)を植え,香草をたくさん植える様に,優れた人々をたくさん養成していた。それをいつか時を待って取り入れようと思ううちに,みな雑草に覆われて,荒れ果ててしまった。
 衆人は競って利禄を貪(むさぼ)り,その汚れた心で人の心を推し量る。私はひとり潔く我が身を保っているのに。
 私のこの態度は,世の俗人の受け入れる処では無い。しかし,私としては,どうして心を枉(ま)げ,理想を枉(ま)げて,衆人と共に恥ずかしい真似が出来よう。
 私は,人と異なる高い冠を被り,煌(きら)めく佩物(おびもの)を腰に垂らし,蘭の生えている沢辺に馬を歩ませ,蓮の葉と花を集めて,清らかな衣裳を作って身にまとう。だが,もはや私の道は行き詰まって,絶望が有るばかりだ。しかも今の世の民びとを見れば,余りにも苦しみの多いのに泣かずにいられぬ。
 この時,侍女が彼を諌めて言う事に,世の人々が何んで貴方を理解してくれよう。貴方は余りにまっすぐだから,自分で自分を苦しめるのではないかと。
 そこで色々考えれば考えるほど心の悩みに堪えず,遠く洞庭の南に有る九疑山に出かけ,古の聖天子,舜の墓に詣でて,誰にも理解して貰えぬ自分の心中を訴える。その訴える間にも,心は実にやるせなく,涙は胸を濡らすのだが,訴えるだけ訴えると,何か心が開けてくる様な気持で,寧ろこの悩み多く醜い地上の世界を離れて,空高く天に昇ってゆけば,或は自分の求める理想の美女(賢君を象徴する)が居るかも知れぬ,……と。
 そこで四匹の竜に曳かせ,鳳を車として,風に乗って空に舞い上がった。
 ……これから彼の天上遍歴が始まる。
(目加田 誠,詩経楚辞)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:53
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa40/a40_04.html
屈原をたずねて(25)   山田 善仁
 楚の懐王の20年(前309),屈原が詩「離騒」を執筆中の頃,楚国の君臣を散々に翻弄(ほんろう)してきた秦相張儀も,故国の魏に移って宰相を務めるうちに病没し,覇業達成の野望に燃える斉の宣王の呼び掛けに応じて,韓,魏と共に楚王も合従に加わって,秦を離れ斉に和した。
 かねて親斉合従の策を唱え続けてきた退隠中の屈原も,こうしてやや意を安んずるに足る時が訪れたが,それも長くは続かず,またもや政局の転変を見るに至った。
 秦の恵文王の後を継いだ武王の治世は,わずかに4年で終わり,楚の懐王22年,異母弟の昭王(昭襄王(しょうじょうおう))が立った。
 昭王の母は(び)氏で,その祖先は楚の王室の出であり,宣太后と号した。
 南方と東方の雄者である楚と斉とが手を結ぶことは,秦の天下制覇を最も妨げるものである。そこで昭王は即位と共に,生母の家の縁に頼って楚に親しみ,早速その切り崩しに努めた。懐王の24年,昭王は厚く楚に賂(まいない)して婦を迎えた。情にもろい懐王は,忽(たちま)ち血縁続きの昭王母子に親しみ,女(じょ)を送って昭王を婿とした。
 昭王はその翌年(即位3年)に冠の礼を行った年少の君主で,初めは宣太后が摂政し,太后の弟魏冉(ぎぜん)(穣候(じょうこう))が国政に任じた。しかし昭王の在位は56年の長きに及び,その没後子の孝文王はわずかに1年,孫の荘襄王は2年在位して没し,曾孫の政(せい)が立った。政の即位26年(前221)に天下はことごとく秦に帰して,始皇帝となった。
 従って秦の帝業の素地は,ほとんど昭王の時代に成ったもので有り,叔父の宰相魏冉と,猛将白起(びゃっき)が活躍し,晩年には知謀を以て客卿(かくけい)に任ぜられた范雎(はんしょ)が縦横に献策して,その業を助けた。
 周の王室(赧王(たんおう)59年),秦により滅亡する(前256)。
 さて,屈原はと言うと,配流の身であり乍らも,楚王及び朝廷が秦に和する度に,楚国の行く末を憂い,きつく建言したが受け入れられず,前298年(屈原42歳)鄂渚(がくしょ)に流謫(るたく)せらる。前283年頃,鄂渚から出発し,或は水路を舟で遡り,また陸路に馬車を駆って,はるばると水(げんすい)の上流,浦(じょほ)(湖南省浦県)の謫居に遷(うつ)された。
 新配所は,荒僻(こうへき)の山林の中にあり,山は高くて日を蔽(おお)い,地は暗く寒冷多雨で,まったく猿の住処(すみか)であった。前278年(屈原62歳,頃襄王21年,秦の昭王29年)浦を去って長沙に赴く。因みに300年後,長沙の王は劉秀で,後漢の光武帝であり,紀元57年倭奴国王遣使が洛陽に到着した時の皇帝である。その当時であっても長沙は札つきの卑湿貧国(ひしつひんこく)で有った。
 屈原が予見した様に,文王熊貲(ゆうし)以来20代,400余年王都として栄えた楚の国都,郢(えい)はついに滅亡し,楚王が再びここに返る日は無かった。
 屈原は敗戦亡国の悲報を聞き,詩「懐沙(かいさ)」を作り,前277年ついに汨羅(べきら)の渕(えん)に身を投じて,その生涯を終える。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:56
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa42/a42_04.html
屈原をたずねて(27)   山田 善仁
 乱(むすび)の詩は死を前にして,旅途を回顧し乍ら諦念(ていねん)の数語を発し,最後に世の君子に宣言し己を以て類(のり)とする事を求め,自ら命を絶って悲憤の生涯を閉じようとする気概を示している。憂国詩人の辞世の詩として誠にふさわしい結びである。
【16】乱(むすび)に曰(いわ)く,浩浩(ひろびろ)とした湘(げんしょう)のみず,(わ)汾き流れ(なみおと)たかし。脩(なが)き路(みち)幽(くら)く蔽(おお)われ,道(ゆくさき)は遠く忽(かす)めり。
【17】曾(しきり)に傷(いた)み爰(ひまな)く哀しみ,永(とこしえ)に歎(なげ)き喟(わ)びぬ。世は溷(けが)れ濁りて吾(われ)を知るもの莫(な)し,人の心は共に謂(かた)らう可(べ)からず。
【18】あつき質(きじ)を懐(たも)ち情(まごころ)を抱けども,われ独りあかし(正)するもの無し。伯楽(はくらく)は既に没(し)にたれば,驥(ときうま)も焉(いずく)んぞ程(みわ)けられん。
【19】民(ひと)の生(いのち)は命(さだめ)を稟(う)け,各々にその定めが有る。心を定め志を広くし,余(われ)何をか畏(おそ)れ懼(はばか)らん。
【20】いまは死の譲(さ)く可(べ)かざるを知りぬ(知死不可譲),願わくはいのち愛(お)しむこと勿(な)からん(願勿愛兮)。明らかに世の君子に告ぐ(明告君子),吾(われ)将(まさ)に以(みをも)て類(てほん)と為(な)らんとすと(吾将以爲類兮)。
 以来今日まで,国家危急存亡の時,屈原の詩を懐い出されるので有る。
 屈原の死については,『史記』の「屈原伝」に「長沙に適(ゆ)きて屈原が自ら渕に沈みし所を観(み),未だかって涕(なみだ)を垂れ其の人と為(な)りを想見せずんば非(あら)ず」と賛している。著者司馬遷(前漢武帝の時の史官)は,その遺跡を踏査して,現地における伝承を確認したわけである。
 現在においても,湖南省汨羅県の県城の北を汨羅江が流れ,北岸に屈原の墓と祠が在る。
 屈原の投身の日については,5月5日が定説となっている。梁(りょう)(502〜554)の宗懍(そうりん)の『荊楚(けいそ)歳時記』の5月5日の条に「是の日競渡し,雑薬を採る」「菖蒲をちりばめ或は屑とし,酒に浮かべて飲む」と有る。又,隋(ずい)の杜公瞻(とこうせん)は,これに注して「按(あん)ずるに5月5日の競渡は,俗に屈原が汨羅に投ぜし日その死を傷(いた)む,故に舟(しゅうしゅう)を命じて以て之(これ)を拯(すく)うと為す」と言う。梁の呉均の『続斉諧(せいかく)記』には「屈原は5月5日に汨羅に投じて死せり。楚人(そびと)之(これ)を哀れみ,此の日に至る毎(ごと)に米を貯(たくわ)え,水に投じて之を祭る。後漢の建武年間(光武帝の時代)に,長沙の欧回(おうかい)と言う者の前に屈原の霊が現れ,毎年祭られるのは有難いが,蛟竜(こうりゅう)に窃(ぬす)まれてしまうので,楝(おうち)の葉で上を塞(ふさ)ぎ,五綵(ごさい)の糸で約(しば)って下さい,この二物は蛟竜の憚(はばか)るものですと言ったので,その通りにした。今(梁の時代)の人が粽(ちまき)を作って五色の糸と楝の葉をつけるのは,皆汨羅の遺風で有る」と述べている。
 『隋書』の「地理志」荊州には,競渡の戯の起こりを説いて屈原の投水を「5月望日」と記す。即ち望日とは15日のことで有る。
 古代中国において,5月5日は1年で最も悪い日とされた。陰暦5月(午月(ごがつ))は,夏季の真中で,火の勢いが盛んで,5日も午の日として勢いが強すぎて不吉とされた。この日に生まれた子は,背が戸の高さになると,父母を害すると言われた。(日本で言われる迷信の丙午(ひのえうま)生まれと同類である)
 『史記』に「鶏鳴狗盗で有名な,戦国時代,斉,楚,秦国で宰相の孟嘗君(もうしょうくん)(衛で生まれた兵法家の呉起(ごき),また斉の王(びんおう)の叔父にあたる)は,5月5日の生まれであった為に,子供の時危うく父に棄てられそうになったのを秘かに母親が育てた」と有る。
 『燕京歳時記』に「5月は俗に悪月と称する」,『荊楚歳時記』には「菖蒲の葉は剣の如く八節の妖邪を斬る」と有り,5月5日は元来は,厄払いの日だったので有る。
 日本では,菖蒲と艾(よもぎ)を軒に吊り魔除けとし,風呂にも入れ浴びる。又,端午の節句とし男の子供を祝い粽を祭る。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:58
http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa43/a43_03.html
屈原をたずねて(28)  山田 善仁
 こうして頃襄王21年(前278,屈原62歳)非情の秦将白起(びゃっき)は,西陵を出発し楚の歴代先王の墓「夷陵(いりょう)」を焼きつくし,怒濤の如く郢都(えいと)に押し寄せ,また竟陵(きょうりょう)の地も収め,楚国の旧山河は秦に併呑されて行った。
 頃襄王の軍は敗れ,陳城に逃れたが36年病んで没し,子の考烈(こうれつ)王が立つ。
 楚の春申君(しゅんしんくん),斉の孟嘗君(もうしょうくん),趙の平原君(へいげんくん),魏の信陵君(しんりょうくん)の四君時代を出現し,秦の勢威(せいい)を抑えたが,考烈王22年(前241),楚は諸侯と連合し,秦を伐つも利あらず,反対に都を陳城から東方の寿春(じゅしゅん)に移す。
 秦王政(後の始皇帝)は,前230年,韓を滅し,翌年趙を滅す。前225年に魏,前223年に楚が滅ぶ。翌年燕,前221年に斉を滅して中国全土を統一し,秦王は始皇帝と称す。
 悪名高いとされる秦の宦官(かんがん)趙高(ちょうこう)はこうであった。
 春秋戦国時代,趙家は斉国の王族であった。秦に亡ぼされた時,遊女同然の辱(はずかし)めを受けた母を趙高は目に焼きつけた。秦を倒す野望に燃え,宦官となって秦の始皇帝に近づく。始皇帝の死後,丞相となり二世皇帝胡亥(こがい)を自殺に追い,自ら皇帝を夢みたが,暗禺を装っていた三世皇帝子嬰(しえい)に殺される。
 秦の抑圧に各地で打倒蜂起,前206年秦滅ぶ。
 「楚,三戸といえども,秦を亡ぼすは必ず楚ならん」の如く,楚の項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)が秦を倒し,劉邦が漢の国を建国する。以後,東晋,劉宋,唐,南宋から現代まで,中国の文化を高め勝利して来たのは,楚人であり楚の文化であった。
 孔子等が進めてきた改革に馴染めぬ者達が,中原の書を携えて楚に亡命し,夏,殷,周初の古代の文化と相まって,独得の楚の文化を導き,完成させたのは屈原であった。(儒(ジュ)という字は需(ジュ)が音符。雨と而(じ)とを組み合わせた形。而は頭髪を切って,まげのない人の形で,神に仕える人を巫祝(ふしゅく)という。日照りの時の雨乞いは巫祝たちによって行われ,需とは雨を需(もと)め,需(ま)つの意味となる。その雨乞いをする巫祝を儒(ジュ)という。祈りを捧(ささ)げる巫祝を焚(や)いて雨乞いをすることもある。)
 司馬遷(しばせん),王羲之(おうぎし),杜甫に代表される「漢の文章,晋の書,唐の詩」もみな楚の風土から育っている。
 日本の「記紀」も,朝鮮の「三国史,三国遺事」もその端々から,「楚辞」の遺風に多々慣ったものである事は否めない。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 00:59
以上ですが、「東皇太一」が登場しています。

「20歳過ぎの屈原が,いかに才学,英才であったかが読み取れる。屈原は,楚朝において順風満帆の政治活動を開始する一方,その豊かな詞才は宮廷詩人として発揮され,宮廷でも民間でも盛んに行われていた,巫覡(ふげき)による祭神の歌舞を基に,修飾,洗練し,優美華麗な祭祀舞楽の歌謡が作られた。
 11篇から成る1組の祭祀楽歌の「九歌」がそれである。首尾に迎神,送神の2篇を置き,中間に9篇の神霊を祭る歌を配したもので,最初に東皇太一(とうこうたいち)神を迎える。
 天上の日神と雲神を最高神(太一)として楚都の東郊に太一神の祠が設けられていたので,代表して「東皇太一」と呼ぶが,全体の神を迎える。迎神歌に続く祭神歌の第一は「東君(とうくん)」で日神を祭り,第二は「雲中君(うんちゅうくん)」で雲神を祭る。第三は「湘君(しょうくん)」第四は「湘夫人(しょうふじん)」で湘水(北の洞庭湖へ流れる川)の二神を祭り,第五は「大司命(だいしめい)」第六は「小司命(しょうしめい)」で,司命は人の生死寿命を司る星神をいい,それを祭る。第七は「河伯(かはく)」第八は「山鬼(さんき)」で,黄河と巫山の神鬼を祭る。ここまでは対になった二神の祭神歌は,第九の「国殤(こくしょう)」に至って性格を異にし,国家のため戦没した人々の霊(みたま)を祭る歌となる。末尾に全体の送神歌である「礼魂(れいこん)」でしめくくられている。」


・・・天上の日神と 雲神を 最高神(太一)として 楚都の東郊に太一神の祠が設けられていたので,代表して「東皇太一」と呼ぶが・・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 01:24
ひょっとしたら武内宿禰の『宿』は、二十八宿の宿ではないか?・・・と感じて、検索してみました。

「宿禰 星宿」検索で、倭氏が出てきて、

「倭・大倭氏考
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦 .... C天平9年(737)記事 :散位正6位上大倭忌寸小東人・大外記従6位下大倭忌寸水守に宿禰姓をそれ以外の 同族に連姓を賜る。 ..... 中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿□□□□」 ...」

しかし、この記事を開いても、「中平・・・云々」の文章が見つかりません。
「百練清剛 上応星宿」検索で、

東大寺山古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
 奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ鉄刀があった。

 「中平」銘刀
24文字を金象嵌で表した長さ110センチメートルの鉄刀一本が出土した。鉄刀の刀身の銘文は「吉祥句」を用い、
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
と記されていた。内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」という意味である。
中平とは後漢の霊帝の年号で、184〜189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋書)が終結した時期、2世紀の末である。中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。この鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬されたのかは分からない。しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろうかと考えることができる。
鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が示すように中国(後漢)製である。(引用おわり)


「中平銘刀」検索、

橿原日記 平成22年01月06日
東大寺山古墳から出土した金象眼の大刀
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0106.htm

 今年の考古学ニュースの念頭を飾ったのは、この東大寺山古墳から出土した長さ110cmの大刀に埋め込まれた金象眼の銘だった。この大刀は最近の出土品ではない。すでに半世紀も前の昭和36年(1961)9月から翌年1月にかけて実施された発掘調査で出土した鉄刀20本の中の一本だ。

 この大刀は鳥形の飾りがある銅製環頭をもち、刀身の峰の部分に0.5cmほどの大きさで24文字からなる次の銘文が金象眼で刻まれていた。
中平□年五月丙午造作□□百練清□上応星宿□□□□

 天理市教育委員会が古墳の麓に掲げた案内板によれば、中平という年号は中国の後漢末の184年から189年に用いられた年号である。この紀年銘のある鉄刀は我が国最古の遺例であるばかりではない。卑弥呼が魏王から下賜された五尺刀二ふりにあたるのでは・・・、と発掘当時もマスコミの話題となった。

 その大刀を修復するために、東京文化財研究所が各文字の金象眼を蛍光エックス線分析で調べたところ、新たな発見があった。すべての文字が、99・3〜99・9%を占める純金で象眼されていたことが判明したという。これだけの精度の金を得るには、金鉱石に含まれる銀を精錬でほぼ完全に除去しなければならない。これは極めて難しい高度な技術であり、当時の我が国では不可能だった。

 ・・・・・魏志倭人伝には次のような魏の皇帝の詔書の内容が記載されている。
「また、特に汝(=卑弥呼)に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張(さいはんかけい:模様を細かく斑に表した織物)・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなりと。・・・」(現代語訳:すなわち、汝(=卑弥呼)に対するこれらの下賜品を装封して、使節の難升米・牛利に託す。使節が帰国したなら、目録にあわせてこれらの品々を受けとり、それを汝の国中の人に示し、我が国が、汝をあわれんでいるのを知らしめよ。ゆえに、鄭重に汝の好物を下賜するのである・・・)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 08:59
この「中平」銘刀をめぐる報道も違和感を感じるのですが、画像が見つからないので、銘を確認できません。
本当に「中平□年五月丙午造作□□百練清□上応星宿□□□□」□部分は判読不能なのか・・・

この方の記事、http://yamatai.sblo.jp/category/932915-1.html

東大寺山古墳の被葬者は建振熊命
和邇氏の祖ともなる宇那比姫が、卑弥呼である

とされています・・・


 わたしはわたしで、「椎根津彦」のシンクロにあるので、「倭氏・大倭氏考」を見てみたいです。

椎根津彦はノーマークの人物だったのですが、源氏八領を調べているとき、

 http://rekishinosato.com/essay1_4.htm
 新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜された「日の
 丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。
 これが、義清・清光父子とともに常陸國から甲斐國に伝えられ、甲斐武田家の
 家宝となったのです。

の記述から、源頼義と後冷泉天皇の関係が気になり、

http://murakumo1868.web.fc2.com/02-ohsyu/04-002.html
「天喜5年(1058)に源頼義が後冷泉天皇の勅を奉じ、文武の神・長寿の神として、邸宅内に創建。
六条八幡とも、左女牛八幡 とも呼ばれていたそうです。」

若宮八幡宮にいき、現在の祭神とされている 椎根津彦 が頭にありました。

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 09:53
倭氏・大倭氏・・・重要そうですが、把握できません。
椎根津彦に絞って検索。

http://yoshida123.blog.fc2.com/blog-entry-49.html
※この早吸日女神社の祭神には早吸日女はなっていない。
ただこの神社とセットの神社として椎根津彦神社がある。
椎根津彦=珍彦命(うずひこ)が祭祀されている。
ということは早吸日女は珍彦の兄弟姉妹か御妃の可能性がある

http://reyline.web.fc2.com/soga/soga.html
熊本の宇土に入ったキリシタン大名の小西行長が神社や寺院を全て破壊しまくっている事から
宇土から八代にかけての神社は後年に再建されたものばかりである。
八代の中央構造線と熊本の中央構造線である金峰山南側の立田山断層(熊本霊ライン)とに挟まれた
この地域で起こったことは増幅されて日本へ影響するが、
・・・・・小西行長の布教活動は、当然九州に浸透していったが、これにことごとく対抗したのが加藤清正公である。
小西行長は朝鮮出兵では和平交渉に尽力しているし私財での慈善事業を行うなど尊敬すべき点も多いが、
結局彼の人生は清正との対立の中で敗者となってしまう。(引用おわり)


武内宿禰を考察するつもりはなくても、全般に絡んできますね。
蘇我や物部。

先の松岡正剛氏の引用「いやいや、それだけではなかった。そのうち、淮南王は謀反によって自死したのではなく、天に昇って仙人になったのだという感懐が淮南の世人のあいだに沸き上がっていくようになった。
 このことこそ驚くべきことである。わが国の早良親王や菅原道真の例にみられるような、いわゆる怨霊観念によるものではなかった。めっぽう陽気な昇仙幻想なのである。」


これは逆説的にいって、仙人になられたらまずいから怨霊信仰を創出したのではないか・・・と感じてます。
悲劇が神を創り出すことを知っていたから、怨霊という形式に当てはめたのだと・・・
日本霊界を封印する必要があったのでしょうね・・・


http://www.youtube.com/watch?v=ryWG5Bm7HvQ
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月12日 11:24
屈原を読み返して5月5日の端午の節句が屈原由来ということに感慨深く。

http://www.kougetsu.co.jp/tango-iware.htm

・楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。

・これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。

国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。

・そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。

やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。(引用おわり)


・・・実に興味深いのは、
・三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ
・5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ

あと、http://www.bukyu.com/seck/s5.html
万葉集に名高い、額田王と大海人皇子が交わしたこの歌も、5月5日の薬草摘みのときに詠われたものです。

額田王の歌
     茜草さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

大海皇太子答ふる歌
     紫草のにほへる妹を憎くあらば 人嬬故に吾恋ひめやも
                     (引用おわり)


・・・それと、屈原が作った九歌・・・巫覡(ふげき)による祭神の歌舞を基に,修飾,洗練し,優美華麗な祭祀舞楽の歌謡・・・その第七「河伯(かはく)」

http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa33/a33_05.html
九歌 第七「河伯(かはく)」は黄河の神である。
◎女(きみ)と九河(きゅうか)(黄河の下流で禹(う)が九道に分流した所)のほとりに遊べば,風吹き起こって荒波立つ。(引用おわり)

・・・九歌第七の河伯は黄河の神・・・また九河とは黄河の下流で禹が九道に分流した所とは?

「九河 禹」検索で、「洪範九疇」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%AF%84%E4%B9%9D%E7%96%87
洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)は、中国古代の伝説上、夏の禹が天帝から授けられたという天地の大法。単に九疇(きゅうちゅう)あるいは九章(きゅうしょう)、九法(きゅうほう)などともいわれる。洪は「大いなる」、範は「法(のり)」、疇は畝で区切られた田畑の領域から「類(たぐい)」の意味である。その内容は『尚書』洪範篇において殷の箕子が周の武王へ語るかたちで載せられており、君主が水・火・木・金・土の五行にもとづいて行動し、天下を治めることを説いている。儒家経典の中で五行説の中心となるものであり、陰陽説にもとづいた『易』の八卦と表裏の関係とされた。このことから西洋哲学におけるカテゴリの訳語である「範疇」の語源となった。(引用おわり)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 08:52
ひきつづき洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%AF%84%E4%B9%9D%E7%96%87

九疇の内容
九疇は五行・五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極とされ、その内容は以下のようである。
五行 - 水・火・木・金・土
五事 - 貌・言・視・聴・思
八政 - 食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師
五紀 - 歳・月・日・星辰・暦数
皇極
三徳 - 正直・剛克・柔克
稽疑 - 卜筮
庶徴 - 休徴・咎徴
五福・六極 - 寿・富・康寧・攸好コ・考終命、凶短折・疾・憂・貧・悪・弱

洛書と九疇
『易経』繋辞上伝に八卦の由来に関する記述に「天、象を垂れ、吉凶を見(あらわ)す。聖人これに象る。
河は図を出し、洛は書を出す。
聖人これに則る」とある。
ここで黄河から現れた図(河図)や洛水から現れた書(洛書)がいつ現れたかは記されていないが、
『漢書』五行志が劉&#27462;の説を挙げ、
伏羲の時に河図が現れて、これに則って八卦を作り、
禹の治水の時に現れた洛書が洪範九疇であったとした。
さらに『尚書』の偽孔伝では夏の禹の時、洛水から神亀が文字を背負って現れたが、そこに九に至る数字があり、禹がそれにもとづいて作ったのが九疇であったとされた。
宋代になると河図洛書は陰陽と数を黒白の圏点で描いた図象として解されるようになり、北宋の劉牧や李覯は、1から10までの五行生成の数を各方位に配した十数図を「洛書」としたが、南宋の朱熹・蔡元定は十数図を八卦の由来となった「河図」とするとともに1から9までの数を中央と八方に縦・横・斜めの総和が15になるように配した九数図を「洛書」とした。
やがて朱子学が官学として権威をもつようになると、十数河図・九数洛書の説が広く行われるようになった。(すべて引用)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 09:12
禹貢
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/01435000/
古代中国の政治・地理書。書経の中の一編。
著者・成立年代未詳。
伝説上の聖王禹が、全国を九つの州に分け、各地の山脈・水系・地理・物産を調査し、貢賦(こうふ)の制度を定めた事跡を記したもの。


九州
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
周代以前は中国全土を9つの州に分けて、地域単位として用いていた。
この九州の対象には異説があり、
『尚書(=書経)』の夏書・禹貢による九州は、
冀州、&#20823;州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州を指した。



河伯
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BC%AF
人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる。
元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという。
若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす。
黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后&#32703;(こうげい)により左目を射抜かれた。(引用あわり)


・・・元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男・・・

【憑夷】水神の名、河伯のこと。『清冷伝』に、「憑夷は華陰潼郷&#38532;首の人なり。八石を服して水仙たるを得たり。これを河伯と為す」
http://ameblo.jp/ofuk-286s/day-20101003.html


・・・・華陰潼郷&#38532;首・・・・

河伯(カハク)【神】
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/HUMAN2A.HTML
黄河の神。
『山海経』には、冰夷といい人の姿をして竜に乗るとあり、
『穆天子伝』には、無夷といい、陽紆の山に都するという。
また『抱朴子』には、馮夷といい、 8月のはじめの庚の日に黄河を渡って溺死し、天帝は彼を河伯としたとある。
また『清&#27872;伝』には、馮夷は華陰の潼郷&#38532;首の人で、 八石(仙薬)を服して水仙となることができ、河伯となったとある。
また『博物志』には、禹が黄河を見たとき、 背が高くて身体が魚になっている人を見て、その者が、自分は黄河の精であるといい、おそらく河伯であろう、とある。
あるとき河伯は変化して白竜となって水端で遊んでいると、&#32703;に左目を射られた。 河伯は天帝に訴えて「私のために&#32703;を殺してください」と言ったが、天帝は「おまえが竜に変化していたから射られたのだ」と答えた。 河伯は「私は時に変化して白竜となって出て遊ぶことがあるのです」と言ったが、天帝は「おまえが神霊を守れば、&#32703;はどうしてこのようなことをしようか。 汝を獣とみれば、人の射られるところとなるのはあたりまえではないか。どうして&#32703;に罪があろう。 また、おまえは洛水の神&#23443;妃と交接しているではないか」とさとした。
河伯は黄河の神であったが、古くは河神といわれ、河伯と称するのは戦国以後のようである。『楚辞』にもたびたび登場する。
商王朝の先祖王亥の子上甲は、帥を河伯に借りて有易を討ち、 父の仇である緜臣を殺した。(引用おわり)



しかし、神の出現というのは、どの神話においても奇妙奇天烈です。
人間の感覚では、ばかばかしくなるようなものばかりで、受け入れようという歩み寄りの気持ちを持たなければ、信じられないことばかり。
それが神話なのでしょう。

『易経』繋辞上伝に八卦の由来に関する記述に「天、象を垂れ、吉凶を見(あらわ)す。聖人これに象る。河は図を出し、洛は書を出す。聖人これに則る」(再掲)

天 象を垂れ 吉凶を見す 聖人これに象る・・・・ 
河は図を出し 洛は書を出す 聖人これに則る・・・・

聖人とは?・・・天皇か?
河は図を出し・・・洛は書を出す・・・?

http://blog.mage8.com/rongo-09-09
孔子の論語 子罕第九の九 鳳鳥至らず、河、図を出ださず

現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「世を治める聖天子の出現の前兆である鳳凰は現れない。人々に天の英知を与える図書も黄河から出てこない。もうお終いだな。」

Translated by へいはちろう

鳳凰(ほうおう:中国の伝説の聖獣。
混乱した世の中を治める聖天子の出現の前に現れるとされる。舜帝や周の文王の時代に出現したとされる。)


黄河からの図書(周易に伝わる伝説。易で使われる八卦の図は黄河から龍馬と呼ばれる聖獣が出現し、その背中に背負われていた図書に書かれていたという。
また洛水からは神亀が洪範九疇の書を背負って出現したとされる。
八卦と洪範九疇はともに陰陽五行説の根幹をなしている。
二つの伝説を併せて、河図洛書(かとらくしょ)と呼ばれる。
「天、象を垂れ、吉凶を見す。聖人これに象る。河は図を出し、洛は書を出す。聖人これに則る」)

若い頃より学問の道に志し、名君に仕えて理想を実現する事を目指した孔子。しかし実際には現実に敗れて失意の晩年を過ごしたのでござるが、今回の文章からは孔子のお気持ちが痛いほど伝わってくるようでござる。

しかしまさか孔子自身が死後に伝説の聖天子をも超える聖人として人々から敬われるようになるとは、夢にも思わなかったでござろうな。皮肉なものでござる。(引用おわり)


・・・・黄河から龍馬と呼ばれる聖獣が出現し、その背中に背負われていた図書・・・・洛水からは神亀が洪範九疇の書を背負って出現・・・

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 11:39
河伯は黄河の神
洛水は黄河の支流
洛水の女神は洛嬪(フクヒとも)

フク妃(フクヒ)【女官】
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/HUMAN6U.HTML#BUNEI
黄河または洛水の女神。ブンエイの娘。
洛水に溺れて洛水の女神となった。
&#32703;の妻となる。

黄河ー男ー龍馬ー図書ー易ー八卦
洛水ー女ー神亀ー洪範九疇

八卦と洪範九疇はともに陰陽五行説の根幹をなしている

鳳凰・・・凰はメス、鳳はオス
男女の対構造の現出がまずは必要ということか・・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 12:13
水尾神社が登場してから、川ばかり出てきます。
これも河をめぐる神話なのではないか・・・屈原は仙人・・・実在していないのでは・・・などと妄想・・・
オコツトたちによってばらまかれた神話のひとつ?


屈原は、汨羅【べきら】に沈む必要があったのだ・・・その5月5日に・・・なぜなら・・・

http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa42/a42_04.html(再掲)
『隋書』の「地理志」荊州には,競渡の戯の起こりを説いて屈原の投水を「5月望日」と記す。即ち望日とは15日のことで有る。
 古代中国において,5月5日は1年で最も悪い日とされた。陰暦5月(午月(ごがつ))は,夏季の真中で,火の勢いが盛んで,5日も午の日として勢いが強すぎて不吉とされた。この日に生まれた子は,背が戸の高さになると,父母を害すると言われた。(日本で言われる迷信の丙午(ひのえうま)生まれと同類である)
 『史記』に「鶏鳴狗盗で有名な,戦国時代,斉,楚,秦国で宰相の孟嘗君(もうしょうくん)(衛で生まれた兵法家の呉起(ごき),また斉の王(びんおう)の叔父にあたる)は,5月5日の生まれであった為に,子供の時危うく父に棄てられそうになったのを秘かに母親が育てた」と有る。
 『燕京歳時記』に「5月は俗に悪月と称する」,『荊楚歳時記』には「菖蒲の葉は剣の如く八節の妖邪を斬る」と有り,5月5日は元来は,厄払いの日だったので有る。
 日本では,菖蒲と艾(よもぎ)を軒に吊り魔除けとし,風呂にも入れ浴びる。又,端午の節句とし男の子供を祝い粽を祭る。(引用おわり)


・・・『古代中国において,5月5日は1年で最も悪い日とされた。陰暦5月(午月(ごがつ))は,夏季の真中で,火の勢いが盛んで,5日も午の日として勢いが強すぎて不吉とされた。』から、水をイメージさせる必要があった(妄想)

では、その汨羅【べきら】とは?

汨羅【べきら】http://kotobank.jp/word/%E6%B1%A8%E7%BE%85

べきら【汨羅 M&#236; lu&#243;】

中国の戦国時代,屈原が投身自殺したとされる川。
湖南省北東部にある。
汨水が湘水に注ぐ地点に近く,付近に古く羅子国があったことから汨水は羅水ともいい,その淵(ふち)を汨羅,一名を屈潭(くつたん)という。
屈原の汨羅投身の伝説は賈誼(かぎ)〈弔屈原文〉,《史記》屈原伝などに見え,《楚辞》懐沙篇は一説に屈原が沙(いし)を懐にして汨羅に投身したのでその名があるという。
《水経注》はここに屈原廟が建てられていたことを記し,現在もこの近辺に多くの屈原伝説がのこる。・・・(引用おわり)


汨羅(べきら)市http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A8%E7%BE%85%E5%B8%82

汨羅市(べきら-し)は中国湖南省岳陽市に位置する県級市。市域内で、汨水(べきすい)と羅水が合流し汨羅江となっている。汨羅江は屈原の最後の地でもある。

歴史
 汨羅の名称は前690年、楚が羅子国を滅ぼしたことに由来する。
羅子国の遺民は丹陽(現在の湖北省&#31213;帰県)に移民させられ、後に汨羅江尾閭南岸(現在の汨羅西部郊外)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来する。
当時の羅城は現在の汨羅市、湘陰県、平江県全域及び岳陽県南部、&#27781;江市東部に相当した(引用おわり)


・・・楚が羅子国を滅ぼした・・・・羅子国・・・・?

羅子国ではほとんど情報がありません。
どうも羅国らしく・・・

羅国と盧国
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/6789021.html
盧氏の情報はかなり出て来ますが、羅氏は余り出てこない。
少ない情報ですが、この羅国、羅方は、うす絹、綾絹を指します。
馬王堆の絹は、謎ですが、いくつか考えてみます。
・・・・・
海の関心事
肥前の末羅国と末盧国は、湖北省の羅氏、盧氏の後裔とみられるからです。
末羅国近くの佐嘉川上流の川上川に、300年前半、熊襲梟師がいた。
やはり、出身は、熊を氏とするビ姓の楚国ではないか。(引用おわり)


前文引用したいところですが、ヤメテおきます。
ここもまた九州に結びついたということで。


どうなんだろ・・・べきら【汨羅 M&#236; lu&#243;】・・・・M&#236; lu&#243;・・・み ろ・・・みを・・・水尾・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 18:20
9はニギハヤヒの数と、閣下より聞いたことがあります。
天武没は9月9日・・・

9・・・九・・・

http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa33/a33_05.html(再掲)
九歌 第七「河伯(かはく)」は黄河の神である。
◎女(きみ)と九河(きゅうか)(黄河の下流で禹(う)が九道に分流した所)のほとりに遊べば,風吹き起こって荒波立つ。(引用おわり)


・・・九歌・・・九河・・・九道・・・

http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu003.html
帝禹(?〜?)
  姓は&#22994;、名は文命。夏后氏。鯀の子。父のあとをうけて十三年の歳月をかけて、黄河の治水をおこなった。舜の代に司空となる。舜に後継者として指名された。舜帝の死後、舜の子の商均に譲って陽城に移ったが、諸侯がみな商均のもとを離れて禹のもとに来たので、ついに天子となった。夏王朝をひらき、九州・九道・九川・九山を治めた。東方に巡狩して会稽に崩じたという。


(・・・いったい、この夏王朝における九の繰り返しはなんだろう・・・)

・帝杼(?〜?)
  少康の子。少康の跡を継ぎ、夏の天子となった。はじめ原におり、老丘にうつった。杼の子が東海と王寿を攻め、九尾の狐を得たという。
・帝槐(?〜?)
  后芬ともいう。帝杼の子。帝杼の跡を継ぎ、夏の天子となった。三年、九夷が来朝してきた
・帝不降(?〜?)
  帝泄の子。帝泄の跡を継ぎ、夏の天子となった。六年、九苑を攻めた。
・帝&#21418;(?〜?)
  またの名は胤甲。帝&#25155;の子。帝&#25155;の跡を継ぎ、夏の天子となった。西河に都した。かれの治世に十個の太陽が同時にのぼったという。
(九個を射落としさせる)
・劉累(?〜?)
  陶唐氏の子孫。竜をならすことで、帝孔甲に仕えた。御竜氏という姓を与えられ、豕韋の跡を継いだ。竜の牝の肉を夏后氏に食わせたが、美味だったため、さらに所望され、恐れて逃亡したという。 (引用おわり)

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 20:50
『羅』ってなに?
羅子国ー羅国・・・末羅国・・・ときて・・・

前出の・・・
http://mimizun.com/log/2ch/history/997471414/より
解決黒頭巾さんの書き込み(抜粋)

・継体天皇は邪馬壱国の本国、日向(宮崎県)の安羅国の天皇。
 卑弥呼→壱与→・・・継体→安閑→宣化→・・・アマタラシヒコ・・
 と安羅国の歴史が続く。

 日本書紀の目的のひとつに、安羅国の歴史を隠すことがある。

・磐井は安羅王家の一員。
 日向の安羅国は、金官加羅なきあと、その旧地であった豊国を支配した。
 したがって、筑紫の磐井は安羅王家の一員と考えられる。 (引用おわり)


安羅国・・・検索してもよくわからない・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6
 日本書紀では、厳密な実年代の特定は困難ながらも、神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(ひじほ)、南加羅(ありしひのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。・・・(引用おわり)



羅・・・新羅・・・羅語・・・林羅山・・・摩多羅神・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月13日 23:22
武蔵国一之宮の小野神社と大宮氷川神社・・・
ふたつあるのは、これが原因なのか?

多羅人ってあったそう・・・安羅・・・加羅・・・武蔵・・・胸刺・・・牟邪志・・・真城・・・
http://iwamigin.vsp3.com/history/tokyo-kudara.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月14日 01:32
中国古典に典拠を求めだすと、日本の歴史を考察していることがひどく矮小なことに思えてきます。
まさにこれこそが日本の国体を壊滅に導く亡国の方法なんだという気がします。
たかだか戦後60〜70年のGHQ統制の本に構築された市民感覚でもって、中国伝来の知恵を解明しようとすることの愚かしさ・・・
かの国のちからは重力のようだ・・・

夏王朝の歴史が9で韻を踏んでいることを調べていて、そう感じました。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu003.html
http://blogs.yahoo.co.jp/iizukakouu/12856109.html
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n13799

9といえば、わたしは『神の数学』の佐藤氏を思い浮かべるのですが、閣下と訪ねてみようかな・・・
http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/

九尾の狐を検索してみましたが、元は瑞獣だそうです。

−1921 洛伯(名は用)と河伯(名は馮夷)との諸侯戦争が発生
http://book.geocities.jp/iizukakouu/xia.html

↑ これを調べようとして、
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/cat_110631.html
↑ ここに入り、他の記事にある『多弖命』に目が留まり、「アテルイではないか?」・・・

『倭文神社』は昨年、考察しましたが、アメノミカボシが登場したのでしたね。
『多弖命』検索で、長幡部神社
http://www.nirotaro.com/nagahatabe.htm

御祭神 綺日女命かむはたひめのみこと・多弖命たてのみこと

常陸風土記参照 天照皇大神の孫で皇孫瓊瓊杵尊天孫降臨の時、 御服を織られるため、機具を携えお供えした神に綺日女命
かむはたひめのみことあり筑紫の日向の二神の峰(高天原、高千穂) より三野国(現美濃市)引津根の丘に至られた。後に、崇人天皇の時代になり、其の子孫が長幡部 の祖である多弖命たてのみことが三野国(美濃)より常陸の国に移り、この地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とはきぬの名にて之を織作るものを長幡部と言い、以前の倭文織しどり(静織しどり)より美しく丈夫であった。この織物は、そのまま着物となって裁ち縫う必要がなく、之を内幡うつはたと言う、ある人が謂うには太あしぎぬを織る時は、人目につき易いので、機屋を閉じて闇くしてったので、烏織 (内幡)と名付けられた、その布は強兵の剣も裁ち斬る事が出来ない丈夫な織物であった。
現在の神社の北西五町(500〜600メートル)ぐらいの処に旧宮跡があり、神輿出社の際は必ず安置する。
江戸時代(1600年)以降小幡足明神と云い後に駒形明神と尊称。
康平年間(1060年)頃、源頼義が、奥州征伐の際、当社に戎旗一旗奉献し戦勝祈願をして凱旋に及んだ
社地に鹿島、三島、明神、若宮八幡を祀り四所明神とした、四所明神が盛大となり、遂に社号を失い鹿島明神とのみ称えていたが、延享年間(1744〜1748年)に故老(昔の事や故実に通じていた老人)の口碑(言い伝え)により旧社号長幡部神社になった。(引用おわり)


・・・筑紫の日向の二神の峰(高天原、高千穂) より三野国(現美濃市)引津根の丘に至られた。
後に、崇人天皇の時代になり、其の子孫が長幡部 の祖である多弖命たてのみことが三野国(美濃)より常陸の国に移り、この地に機殿を建て長幡を織られた。・・・


中央構造線に沿って東遷するストーリーというのは史実ではなくても、信じるべきなんだろうと感じます。

常陸国風土記の久慈の郡では、天照皇大神の孫で皇孫瓊瓊杵尊天孫降臨の時・・・の部分が、「珠売美万命(火のニ二ギ)が天より降る時」http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/cat_110631.htmlとなっています。

『珠売美万命』検索で、http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6954893.html
1. 常陸風土記(717〜724年)久慈郡 に
  「珠売美万命(スメミマノミコト)」
2 令集解 儀制・天子条(738年)に
  「須売弥麻乃美己等(スメミマノミコト)」
3 令集解 喪装・服紀条
  「須売良美己止(スメラミコト)」
 同じ令でも担当者が違うとこの通りです。(引用おわり)


まずは西の九州に降り立ち、東海を経て、東端常陸にて星に帰る・・・それが日本国に重要な神話なんだとしか考えられない。
筑紫の天孫降臨・・・水戸の大日本史学・・・

日本=天の川・・・と見ているのだろうか?

天の川
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%B7%9D
天文学における天の川

天文学の進展とともに、「天の川」ないし「Milky Way」の実体は膨大な数の恒星の集団であると次第に理解されるようになった。
現在では、我々の地球を含む太陽系は、数ある銀河のひとつ(=「天の川銀河」)の中に位置しており、我々はこの銀河を内側から見ているために天の川が天球上の帯として見える、と解説される。
天の川銀河の中心はいて座の方向にある。
なお、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためである。
(引用おわり)


・・・我々の地球を含む太陽系は、数ある銀河のひとつ(=「天の川銀河」)の中に位置しており・・・天の川銀河・・・

銀河系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%B7%9D%E9%8A%80%E6%B2%B3
銀河系(ぎんがけい、英語では Milky Way または大文字で始まる the Galaxy)とは、宇宙に数ある銀河の中でも、人類の住む地球・太陽系を含む銀河の名称である。
局部銀河群に属する。
以前は渦巻銀河の一種と考えられていたが、20世紀末以降は棒渦巻銀河であるとする説が有力になりつつある。
中心には大質量ブラックホールがあると思われる。
現在では銀河系のことを天の川銀河とも言う[1]。
また、地球から見えるその帯状の姿は天の川または銀漢(ぎんかん)と呼ばれる。(引用おわり)


・・・古代中国の天文学は、銀河系というものを知っていたのではないか?
銀河系=天の川・・・その中の太陽系の天の川・・・それを地上に転写したのが日本なのではないだろうか?

天の運行体系が地上の秩序体系と相関関係にあることを・・・
それが天武の統治体系か?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月14日 12:16
長幡部神社
御祭神 綺日女命・多弖命・・・

http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus171001-01.htm
鎮座当初は神流川沿岸の西的場(現在、神流川の流れが変つたため、川の中に沈んでいる)に勧進して建てられた。
平安期の洪水(1110年)で社地が流失し現在地に遷座。天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した。
本来の祭神は姫大神・大根王の説がある。
姫大神:御服を織るために降臨した綺日女命ではないかと想像される。
大根王:美濃国の本巣郡の国造で、長幡部連の祖。
今城青八坂稲実神社の論社ともされている。
今木青八坂稲実荒御魂神社の論社ともされている。
長浜村の北に稲荷神社が三社あり、その中の一つが今城青坂稲実荒御魂神社であると語り伝えていた。長浜の字宮にあつた丹生神社が明治41年に長幡部神社に合祀されたとき、その末社であつた稲荷社も一緒に合祀された。
今城青八坂稲実池上神社の論社でもある。(引用おわり)


・・・長幡部連・・・今木青八坂稲実荒御魂神社・・・

七本木神社
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus171002-05.html
七本木小学校東に接して鎮座する。
江戸時代七本木村字本郷原に鎮座する榛名宮神社が比定された。
現在の鎮座地は旧家である金井家(当地を開発した家)が邸内社として祀っていた八幡神社を村の鎮守社とした。
 明治42年に近隣社を合祀し七本木神社と称した。この時榛名宮神社も移転合祀された。
この榛名神社は今城青八坂稲実神社・今木青坂稲実荒御魂神社・今城青八坂稲実池上神社 三社の論社である。(引用おわり)


・・・しかし、今木青坂稲実荒御魂とは、まるで閣下の神号「青森白木上大神」のようではないか・・・
榛名神社と関係あるのだろうか・・・

「熊野神社」(村社)     
<今城青坂稲実荒御魂神社の論社>
<埼玉県児玉郡上里町提鎮座>
http://skyimpulse.s26.xrea.com/kamigun2.html
祭神:奇御木野命(クシミケヌ命)・奇稲田比売命・豊受姫命

古来より延喜式内社「今木青坂稲実荒御魂神社」といわれているが確証はない。
ただ鎮座地内には平安時代の住居跡があり、熊野神社境内も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから熊野神社が勧進される前に式内社があった可能性も考えられるという。(引用おわり)


・・・・奇御木野命・・・熊野本宮大社・・・

http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/kumanohongu.htm
・・・御祭神は熊野坐大神と申し上げ、熊野に鎮まります大神と言う広大な意味でありまして、熊野国は現在和歌山県、三重県の両県にまたがり東、西、南、北牟婁郡の四郡を言うのであります。
 本社には十四柱の神が御鎮座になりますが、主祭神は家津御子大神(熊野加武呂乃命)でありまして、大神の御事蹟は、古史に依れば、はじめ海原を治められましたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得られ、天照大神に献上され、国土の経営はもとより、遠く大陸をも治められたとあります。
紀伊続風土記に『大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の播生れる山を熊野とも木野とも言えるより、熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬのみこと・木を生成化育される意味にて家津御子大神と同意)と称え奉るべし』とあります。植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はこゝよりおこったのであります。
・・・・・・・・・其故は古へ清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へまいられけるに大きなる鱸の舟におど入りたりけるを、先達申けるは、是は権現の御利生なり。いそぎまいるべし。と申しければ清盛のたまいけるは昔周の武王の舟にこそ白魚は踊り入りたるなれ、是吉事なり。とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔斎の道なれども、調味して家の子、侍どもにくわせられけり。其故にや吉事のみうちつゞいて太政大臣まできわめ給えり。子孫の官途も竜の雲に上がるよりは猶すみやかなり。九代の先しをこえ給うこそ目出度けれ。』と物語って居ります。(引用おわり)


・・・・熊野にとんで、清盛が出てきた。
また「九」だし・・・
「青坂」と「八坂」は同義なんだろうか・・・?

阿保神社
http://udnkui.blog50.fc2.com/blog-date-201002.html

當社は阿保朝臣人上の創立せしものにして、延喜式当國四十四座の一、則今城青八坂稲實神社なりと云傳ふ。
朝臣は伊賀國阿保村の人なり。
延暦3年(784)11月、從五位下に叙せられ、武藏介に任ぜらる。
任地に來るや地を茲に相し、一城を築き、今城と称し、本國の地名を移して阿保村と云ふ。社號の依て興る所以なり。
阿保、青、國音羽近し。故に式に青坂と証せり。
其后治承4年(1180)阿保二郎丹次實光崇敬して、社殿を造営す。后建物頽破せしを以て、文政元年(1818)村民再建せしと云ふ。(神社明細帳)

−−−−−−−−−−−−

付近の神社の名の由来がようやくわかった。
この付近の式内社はだいたい今城青坂稲實池上神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青八坂稲實神社の論社だ。
青八坂は青坂からの転化だろう。
この阿保朝臣をいたという伊賀国阿保村には阿保朝臣の始祖にあたる垂仁天皇の皇子息速別命(イコハヤワケノミコト)を奉祀した大村神社がある。
この息速別命及び子孫が伊賀国阿保村に代々居住し、文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ地名に因って阿保朝臣の姓氏を賜ったそうだ。
武蔵国は元々出雲族の影響濃い血だが、この付近は違ったらしい。(引用おわり)


大村神社
http://kamnavi.jp/en/mie/oomura.htm

大村直の祖であろ大名草命(『神名帳考証』から)
 『新撰姓氏録』和泉国神別 大村直は紀直と同祖、大名草彦命男枳彌都彌命之後也、とあり同じ郡である伊賀郡に木根神社が鎮座、これを一つの根拠としている。確かに紀伊臣は伊賀国に居住し、壬申の乱の功臣として顕彰されている。(引用おわり)

・・・阿保朝臣・・・息速別命・・・阿部氏族・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月15日 12:09
息速別命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%80%9F%E5%88%A5%E5%91%BD

息速別命(いきはやわけのみこと、生薨年不明)は古代日本の皇族。『日本書紀』は池速別命(いけはやわけ-)に作り、『古事記』は伊許婆夜和気命(いこばやわけ-)に作る。また『続日本後紀』に見える伊枳速日命(いきはやひ-)も同人であった可能性がある

第11代垂仁天皇と妃薊瓊入媛(あざみにいりひめ)の間に生まれた皇子。同母妹に稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)がいる

記紀には特に記されていないが、『新撰姓氏録』によれば幼少の時に父天皇により伊賀国阿保村(あほのむら)(現三重県伊賀市阿保周辺)に命のための宮室が築かれ、同村を封邑として授けられたといい、『三国地志』はその宮が営まれた地を阿保南部の字福森から字西ノ森にかけての緩らかな丘陵地帯に比定している。

また、下野国日光山の開基である勝道上人の業績を記した『補陀洛山草創建立記(ふだらくさんそうそうこんりゅうき)』に、垂仁天皇の第9皇子で勅命を受けて鈴鹿川の上流で伊勢神宮を奉斎し、その後縁があって東国に下向したが罹病により一眼を損失したために帰洛出来ず、下毛野国(下野国)室八島に止住して同地の若田氏の祖となったという伝えがある(勝道上人は若田氏の出という)。
栃木県真岡市にある鹿島神社の社伝にも同様の伝承があるが、谷川健一はこの伝承と、古代日本においては鍛冶神が多く隻眼とされている事、異母兄弟である誉津別命や五十瓊敷入彦命等も鍛冶に深く関係すると見られる事、父天皇(垂仁天皇)自身にも鍛冶に関する伝承が多々見られる事、日光山の祭祀にはこれも鍛冶と深く関わると思われる小野氏が関与していたらしい事等を摘出し、命(もしくはその後裔氏族)と鍛冶職との親密性を指摘している
(引用おわり)


・・・・小野神社になかなか行けないのは、なにか理由があるのかな・・・

郡の東7里、太田の郷に長幡部の社あり。古老がいう。珠売美万命(火のニ二ギ)が天より降る時、御服を織ろうとして、一緒に降りた神、名は。綺日女命(かにはたひめ)・・・・・(再掲)
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/cat_110631.html


なぜ、天の川と機織りは関係あるのだろうか・・・

検索してこんなのに当たったのは・・・山水河原者・・・

http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-1.htm
・・・・・河原者がどのようにして庭師になれたのか。
彼ら以前、立石僧と呼ばれた専門の庭師がいた。
しかし彼ら立石僧は自ら石を動かしたり土砂に触ったりはしない。
歴とした僧呂である彼らは古今の教養に裏打ちされて、石一つ立てるにも故事来歴にちなんでそれを決めた。
立石僧の差配の元、石を動かし土砂を運んだは河原者であった。・・・・
(引用おわり)


・・・・わたしは何を検索しているのだろう、と思うことがよくあります。
しかし、説明不可能な体験を夢や妄想では片づけられないから・・・答えが出るまで求め続けなければならないのだろう・・・と感じます。
答えとは?・・・・それは、なんらかの法則性に基づくネットワークの存在を確認することだという気がしています。

たとえば・・・高橋容疑者の居所はすでに当局は把握していたけれども、三笠宮の儀式が終了するまでの期間は逮捕できないのだ・・・というような暗黙の了解が存在するようなネットワーク・・・・機関かもしれないが・・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月15日 13:23
忍者服部氏の正体
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-1.htm#5

『・・・・数多ある忍者本は、こぞって服部氏を古代の機織族から解きおこす。
ハタオリ →ハトリという、いともお手軽るな語呂合わせである。
機織族が何処でどうし て忍者に変身したか、一切の説明はない。
・・・・たしかに例えば『新撰姓氏録』には服部氏が採録され、機織を職とする服部や 織部の伴造氏族とされている。それも伊賀国に限られるわけではなく、全国い たるところに服部氏の名はある。
 書紀には多くの職工と一緒に機織を連れて渡 来したともある。
それかあらぬか服部氏出身の世阿弥までも秦氏の末と署名す るくらいだから、服部一族は名に何かを隠している。 』(引用おわり)


機織り→ダイレクトに服部・・・じゃないのか・・・・
「機織 忍者 服部」検索で・・・


徐氏 伯益・・・佐伯・・・道臣・・・鴉・・・諜報部員(忍者)
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2061

徐氏家譜. 徐氏は首領、端$玉$高陽氏の後裔である。
徐姓の起源は夏朝の伯益まで遡る。
... 古代中国、禹治水事業で手柄をたて、徐国に封ぜられた者が徐氏の始まりである。 ...
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya31c.htm

伯益(はくえき)
古代史掲示板(清談論議)
伯益・・・佐伯・・・道臣・・・鴉・・・諜報部員(忍者) ... 天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、佐伯氏とは同族関係 ... 禹の臣の伯益の作と伝える。
現存本は18巻。 古い部分は
佐伯鞍職に命じ神社を建てる場所を探し、その先導役を務めた雌雄二羽の鴉(からす)
http://yutaka901.fc2web.com/page9zz154c.html
鴉(からす)
『邪馬台国 ... 揺れている太陽があり、これを射落すと、巨大な三本足の鴉(からす)だったと云う話である。
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/946344/
 
話の内容は、此の地方に二つの太陽が現れて日照りが続き、民が困る。朝廷が弓の名人を探し出して、偽物の太陽を射落すように命じる。
 現場に付いて、太陽を見ると、近付いたり、揺れている太陽があり、これを射落すと、巨大な三本足の鴉(からす)だったと云う話である。

宇摩説では鳥で無く、地域と高天原を往来して、情報を伝える報告者、案内者と解いている。地域のトリは弥生時代の穀倉の近くに居た。天照大神の目・耳・代理人でもある。

目・耳・代理人
目となり耳となる「忍者」
服部 機織 秦氏
部天神宮 hattori
その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、 ... 「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成りたったものと思われますが、第十九代允恭天皇の御代に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」 ...
http://kamnavi.jp/en/settu/hattori.htm
祭神
少彦名命、菅原道眞
摂社
部えびす神社、初酉稲荷神社

由緒
 機織りの技術を伝えたと云う秦氏の子孫が多く当地に住んだと云う。 地名の服部は機織部から成り立っていたからとされる。

星術だの、死人を蘇らせるだの、人を暗殺できるほどの呪術の使い手だの、秦氏と関係あるだの ... 機織から(はた)と呼ばれるようになった、とも言われていますが、機織といえば、服部(はっとり)。服部といえば忍者。 そう、秦氏は忍者の始祖ともなるのですが
http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/51242334.html

「秦氏と安倍家は関係あると思う。秦は確実に西から来ている。建築家の立場で言わせてもらうと、陰陽師のでてくるずっと以前、飛鳥の遺跡や巨石の配置を調べると、ちゃんと五芒星のバリアを張ってある。そしてエジプトやシュメールのものが来ている。これは確実なことだよ」と。
 エジプトとユダヤは一緒、というのは、今まさに私が執筆中の小説(のようなもの)の中で詳しく書いているところですけど、要はモーゼによってエジプトから解放されたイスラエル人たちが後にユダヤ人となるわけです。つまり、彼らの根には、エジプトの多神教がある。だからモーゼは無理やり一神教に変えたわけなんです。ところが西洋のオカルト学では、モーゼは魔術師と解釈されているんです。で、その魔術の始まりもエジプトにある。

古代エジプトにおいて、太陽が獅子座に落ちるのは8月なんですな。このとき、ナイルの河が氾濫したらしい。だから獅子座を恐れた。つまり獅子と水ははここで一体なんですな。もうひとつ、文殊菩薩は、三人寄れば文殊の知恵、言うて知恵の神様、化身、その知恵の象徴というのは、星なんです。
 獅子座、水、星、となれば、これはまさに古代エジプト人の象徴なんです。
 安倍家の氏神は、エジプトの象徴。それに五芒星だの、占星術だの、死人を蘇らせるだの、人を暗殺できるほどの呪術の使い手だの、秦氏と関係あるだの・・・。そら只者やないなあとわかってくる
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/』(全文転用)


秦氏の名前?
・・・・八咫烏・・・服部・・・八の鳥?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月15日 15:52
上記を受けて、秦氏とエジプトの占星術が関係あるのかと検索したけど、よくわかりません。

なぜか『耽羅国』というのに当たった。

■失われた古代日本領=耽羅国は倭人の国であった■
http://mimizun.com/log/2ch/history/1166287199/

『当時の記録によれば、耽羅には星主と呼ばれる支配者が存在していた。朝鮮・韓国では、この称号は新羅=文武王が与えた
とする中世朝鮮の文献を根拠に、新羅王が耽羅の支配者に与えた称号だと信じられている。
 いずれにせよ、耽羅支配者は、耽羅星主(ソンジュ)と呼ばれていたのである。韓国では、この称号が耽羅王を意味すると
信じられている。 』(引用おわり)


『星主』ってなんでしょう?

◆『朝鮮風土記』いろいろ
http://yumiki.cocolog-nifty.com/nautica/2010/02/index.html

『E日本が「日」をシンボルとしたのに対し、新羅は「月」を、耽羅国(済州島)は「星」をシンボルとしたという。』

天文学との関係はよくわかりませんが、この記事から、三井寺が天武天皇勅願所と、知って、あらためて驚き・・・(出たのかな?・・・忘れてる)

『中世に国家鎮護の神の一つとして崇拝されたものに「新羅明神」があります。天武天皇の勅願寺である三井寺の奉祭神で、源「新羅三郎」義光の名前のもとでもある。この「新羅明神」とはスサノオ神を指すそうです。』

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月15日 17:19
やはり、わたしは唐の統一に日本(倭?)は組み込まれたとしか考えられないです。

『須弥山と禹貢九州』モデルありきか?
九次元、おそらくは河図洛書と呼ばれるものに基づいて日本国が立ち上がったのなら、考察は現在の一元的な歴史教育から、九次元へ分かれていかざるをえないのでは・・・・まあ、それを超えて彼岸に到達するのでしょうが・・・

唐の長安の繁栄・宗教統一・・・その後に起こる衰亡・・・特に755年から763年の「安史の乱」・・・・・ふと、チベットはどうしていたんだろう?・・・

安史の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
『唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)が台頭していく。』

・・・チベット・・・(吐蕃)・・・

ソンツェン・ガンポ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%9D
『ソンツェン・ガンポ(581年頃 - 649年)は、古代チベットの王。伝説上では33代目とされるが、事実上の吐蕃の建国者。ラサを都として、領域を拡大。チベット文字を制定し、インドや中国の文化を積極的に取り入れた。十六清浄人法という道徳律や大小の宝石で十二位階に分けた位階を制定したりと、日本の聖徳太子にも似たところがある。』


聖徳太子17条憲法とチベット16条信掟
http://web.mac.com/saito_sy/iWeb/SAITO%20Yoshihasa%20Website/08D5FC1D-C6C9-11DA-B337-000A95D44250/C7F3A2F8-0C17-11DC-8F43-000A95D44250.html
 『岩井氏は両者の類似性を指摘し、さらにインド・アショカ王の十条の徳目やマイソールの碑文の六カ条、デリーの銘文の八カ条、などとの近似性をも指摘しています。そのうえで、ソンツェンガンポ大王と聖徳太子の業績が偶然の一致とは考えられないから、ひな形となる思想や文献があったのではないか、と推理しています。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月16日 08:58
唐とチベット(吐蕃)の間を取り持ったのも姫か・・・

文成公主
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%88%90%E5%85%AC%E4%B8%BB
文成公主(ぶんせいこうしゅ、623年 頃- 680年)は、唐の皇女で、吐蕃のソンツェン・ガンポ王の第2皇后。

634年、吐蕃は唐に対し公主を迎えたいと申し出た。しかしこのときは吐谷渾の妨害にあって実現しなかったため、638年にソンツェン・ガンポは吐谷渾へ兵を送って攻撃し、その上で降嫁を迫った。これにより唐が妥協し、640年に文成公主を送ることとなった。
公主は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン(在位・641-643)の妻となった。642年に王子をもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。公主はラサにラモチェ寺を建て、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔った。
夫の死から3年後、文成公主はグンソン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。
ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎えた。
現代では文成公主を観音菩薩の涙から生まれたターラ菩薩の化身とする見方もある。(引用おわり)

なにやらどこぞの姫と同じような軌跡・・・・
公主の行為は、唐やチベットにどのような精神的波紋を起こしたのか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月16日 09:10
『羅』についてはもっと深い意味があるのだろうか・・・
オーケストラがラ音で基準をとるのも、なんかシンクロめいて・・・

羅子国を検索していくと、どうもミャオ族やチベット少数民族にいくような気がします。

楚が滅ぼしたという羅子国ですが、その遺民は・・・

汨羅市(べきら-し)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A8%E7%BE%85%E5%B8%82
 汨羅の名称は前690年、楚が羅子国を滅ぼしたことに由来する。羅子国の遺民は丹陽(現在の湖北省&#31213;帰県)に移民させられ、後に汨羅江尾閭南岸(現在の汨羅西部郊外)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来する。当時の羅城は現在の汨羅市、湘陰県、平江県全域及び岳陽県南部、&#27781;江市東部に相当した。(引用おわり)


・・・丹陽・・・後に尾閭南岸・・・

羅氏鬼国や自杞国・羅殿国・于矢部・・・・などなど出てきますが、重要なのかはよくわからない。

思い切って「丹陽 丹後」で検索してみたら・・・

コウ之慧鳳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E4%B9%8B%E6%85%A7%E9%B3%B3

経歴については不明点が多く、出身地を「丹陽」と記すも、これも丹波国・丹後国いずれも解釈が可能である。東福寺岐陽方秀の門人としてその法を嗣ぎ、永享6年(1434年)の遣明使に随って明に渡る。帰国後の永享11年(1439年)に大内氏を頼って周防国に下った。後に京都に戻り五山の僧侶や一条兼良らと親しく交流し、地位こそ蔵主(寺院の経蔵管理人)に過ぎなかったが文名は高かった。晩年の寛正5年(1464年)に再び周防国に下っており・・・
(引用おわり)


大内氏が登場する時点であやしく感じ・・・親しく交流したという『一条兼良』クリック・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E8%89%AF
・源氏物語注釈書『花鳥余情』を完成させる
・斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆
・9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうける
・「日本無双の才人」と評され、兼良自身「菅原道真以上の学者である」と豪語した
・神仏儒教の三教一致を説いた
・墓は京都東山東福寺常楽院
・国内史において、応仁の乱頃の世情を指して、中国の春秋戦国期になぞらえる見方を、著書の『樵談治要』に記したのが兼良である



・・・・やはりあやしい・・・
『ふぢ河の記』検索で・・・

土岐氏と都支国
http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/483/
土岐氏は清和源氏の流れになるらしいけんど、その起源はかなり古く、魏志倭人伝に出てくる都支(とき)国の末裔ではないかと思う。

伊都国は、北九州から高知県南西部(伊豆田)⇒高知県中央部(伊都多)へと後退し、伊豆国まで東遷している。これはもろ加茂氏の東遷ルートであり、迦毛大御神がなんで力を失っていったのかは、出雲神話が力を持ち始めたことと密接な関わりがある。(引用おわり)


汨羅と羅子国遺民の関係、気になります・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月17日 02:06
魏志倭人伝に出てくる国って、このところ頻出していますが、魏が停戦勧告を出せるほど倭に影響力があったのか・・・

まず、『都支国』

都支  高国造(志賀高穴穂朝)
http://momohahamatmkanehara.blogspot.jp/2012/05/blog-post_31.html

『・・・・それは卑弥呼が景初2年に魏に出した使者の1人、「都市牛利」である。
都市牛利は都支国王を意味する名乗りだったのである。
この人物は『記・紀』にも記録が残っている。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命である。
その同母妹と書かれた豊鍬入姫命という名乗りも、
トスキイリで、都市牛利=トシギウリと帯方郡使が当て字した同じ名乗りが、やはり原音だったことがわかる。
するとこの兄妹は、夫妻にだけ許される同じ名乗りをもっている以上、彼等は兄妹ではなく、今の川内市の領主夫妻だった・・・・』(引用おわり)

・・・・豊城入彦命・豊鍬入姫命・・・・超ビッグなふたりが夫妻?
『川内』って、まるで『仙台』だし・・・

北関東・東北と九州を突き合わせないと、なんともこのままは・・・
伊勢の斎宮のこともあるし・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月17日 09:56
そもそも『魏』っていつの時代のどこの国のことなのか・・・検索しても複雑になるばかりで、『魏志倭人伝』から入っていきます。

魏志倭人伝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称を指して用いられる呼称の略称を指して用いられる呼称』


・・・第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称・・・・烏丸 鮮卑 東夷 伝 倭人条・・・


『著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、正史として重んじられたと、中華書局版『三国志』(北京、1959年)の「出版説明」にある』

・・・著者が『陳寿』ではないとするサイトもありますが・・・
倭人章は梯儁と張政と陳寿の合作
http://momohahamatmkanehara.blogspot.jp/2012/05/blog-post_19.html


『帯方郡から倭国に至るには・・・倭国の北岸の狗邪韓国・・・対馬国・・・一大国・・・末廬国・・・伊都国・・・奴国・・・不弥国・・・投馬国・・・女王の都のある邪馬台国に至る』


『3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる(ただし、晋の南遷以前には具体的な種族名を記載しない「東夷」朝貢記事が複数存在しており、その中には倭国の朝貢もあった可能性もあるが、今日ではそれを確かめる術はない)。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。日本の歴史では4世紀は「空白の世紀」と呼ばれている』


・・・(413年)の倭王讃の朝貢・・・150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる・・・広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦った・・・

391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦った・・・



陳寿の『陳氏』については一度通ってますが、例のごとく重要であったという印象だけで忘れています。
陳氏・・・http://blog.goo.ne.jp/nanamihantaro/e/82c0777e6ea092ccf7c9a6b4a701c016
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月17日 10:49
ポイントを見失いそうなので、あらためて確認。

http://www.geocities.jp/zuisoukai/myouhouren5.htmより

☆妙法蓮華とマナの壺の正体
 『妙法蓮華の妙は、明けの明星の金星の「明」のことであって「明」は天照大神と月読神の「日・月」を示している。天照大神と月読神は「目(マナコ)=眼」から生まれた。マナの壺の「壺」は「コ」と音読みする。マナの壺は契約の櫃に納められていた。「櫃」に納められた「匚」の中身の「貴」の漢字も、中央に「目」が隠されていた。

 マナ壺は日本では「眼(マナコ)」という暗号となって、封印された。

 「眼」の漢字は天照大神の生まれた左目(籠目)を示すように左に目があり、右には艮の金神を示す「艮」の漢字がある。真実の艮の金神とはマルドゥークが授けられた神々の支配のシンボルのシムトゥのことであり、月神シンと太陽神ウトゥを象徴する鏡であった。これが真字鑑(マナカガミ)であり、漢字の楷書を生む亀鑑と呼ばれる物で、天照大神を象徴する八咫の鏡であったし、釈迦の説いた妙法蓮華鏡でもあった。』


・・・・どうも、よくわかりません。
・・・言葉はサラサラ流れるのだけど・・・

http://www.geocities.jp/zuisoukai/kouzuiden5.htm
☆洪水伝説と鳩・燕・烏の三つ鳥居

 『ウトナピシュテム伝説の鳩・燕・大烏の三羽の鳥は、それぞれシュメールに関係した民族を象徴する暗号であったからたまらない。烏は中国の夏王朝の禹王の一族のことで、ウトナピシュテム=禹王のことである。
ウトナピシュテムの名のウトはシュメールの太陽神のウトゥのことで、世界的にも烏は太陽に住む三本足の烏とされて、太陽神の象徴であり、禹王の一族とは烏桓族・烏孫族・契丹族・扶余族などがいた。』


☆烏・燕・鳩を象徴する民族

 『禹王の一族の契丹族は、後章で説明する『契丹古伝』を残している。さらに契丹族が遼国を建てて『遼史』を編纂して残しているが、契丹族の祖王のことを葛禹図可汗(遼史では葛烏兎可汗)と記していて、禹王=烏王であることがわかる。そして契丹はキタイと読み、イスラエル十部族をアッシリアから救出したスキタイ騎馬民族の末裔であることを匂わしている。また烏桓族・ウイグル族の末裔が平家となった』

『ウトナピシュテム伝説の燕は、夏王朝の後を継いだ殷王朝の祖の契(セツ)の出生譚の燕のタマゴを母親が飲み込んで生まれたことに関連している。
 契を祖とする殷族は周王朝に取って代わられるが、殷族は烏を象徴する契丹族や烏桓族や扶余族などに逃込んで、烏を象徴する部族に吸収されてしまう』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 02:03
☆烏・燕・鳩を象徴する民族
http://www.geocities.jp/zuisoukai/kouzuiden5.htm

 『契は帝舜の時代に治水を命じられた夏の禹王を助けて、黄河の修理に成功した人物であり、契も洪水伝説に関係している。契丹や殷の祖の契の名の「契」は契約の櫃の契であり、この漢字は神々の主のマルドゥークの魔力ある怪剣(大刀)を示すものであり、契丹族の祖王の名の葛禹図可汗の「可汗」は鏡の意味であると同時に、契約の櫃を担ぐ資格のあるアロンの直系のレビの尊称だった』


 『葛禹図可汗』を検索していて、
『高原の聖地 ポタラ宮』
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/yichan/200109/200109.htm

・・・あのチベットなのだから、由緒は古いのかと思っていたら、『ソンツェンガンポ』王以前のことはよくわからない。
ソンツェンガンポ王が、ポタラ宮を建て、チベット文字を開発させたのに、その王について、wikiの情報以上のものがないというのは不思議なものです。
 ふと、契約の棺が安置されていたのか・・・と思い、あの記事へ・・・

◆ 契約のヒツギ(一)と、モーゼの渡来 ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugi.html

『契約のヒツギを斎祀した所を今日迄エルサレムの宮殿と言い伝えています。モーゼがエルサレムの宮殿を造って、契約のヒツギを祀った最初の日は、正月の元日でした。
 神武天皇が即位されたのも正月元日です。
ウエツフミ(富士古文書)等に書かれている、神武天皇の御即位式の模様は、エルサレムの宮殿が完成して、最初の祭りの状景を思い出させますが、ここらにも日本とイスラエルの関係が秘められているように思います。
 モーゼはエルサレムの宮殿を祀ってから、イスラエルの十二支族に宮殿の斎祀を託して、中央アジアから姿を消してしまったのですが、それはかなり後の事であります。
出エジプト記には『ベザレルを名指して諸の工(わざ)に長(た)けしめ、奇功(たくみ)を尽くして金銀及び銅の作をなす事を得せしめ玉を切りはめ木に彫刻みて諸の類の工を成す事を得せしむ』と書いてありますが、古事記の岩戸開きの件でも『思金神(おもいかねのかみ)に思わしめて天の金山のマガネを取りて鍛人アマツマラを求(ま)ぎてイシコリドメの命に科(おう)せて鏡を作らしめて』とあります。
 この両者の表現の仕方が似通っている所にも、日本とイスラエルの関係がうかがえます。また日本では文字を横に書く時には、現今では左から右に書いてますが、明治時代には右から左に書いていました。ユダヤ民族のユダヤ教の古い経文には横に右から左に書いてあります。
これにも日ユの関係がうかがえます。
 モーゼは中央アジアを離れて東へ進み、ヒマラヤの南麓を東進して、チベットに出て、支那に渡り北進して満州から東進してシベリヤに出て、ウラジオストックから能登半島に上陸したのであります。
モーゼの止まった所を宝達山(ほうたつやま)と言います。能登半島には宝達山が二箇所あります。モーゼが最後に本地を定めたのは、羽咋(はぐい)の宝達山でした。現在でも宝達山の麓の村に、モーゼオミラスとその妻及び子の三人の墓だと伝えている所があります。
勿論契約のヒツギを作ったモーゼが来たとは断定できませんが、その子孫が来た事は考えられます。彼と同行したイスラエルの民は、石動(イスルギ)に住む事になりました。現在でも石動山には寺を表に作って、その裏に神社を祀っていますし、その神社の裏には洞窟もあります。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 08:59
ひきつづきhttp://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugi.htmlより

 『モーゼは十戒を二枚の石版に彫刻したと伝えていますから、この石を持って来た事を黙示しているとも言えます。
 北陸の神通川の傍らで赤池明神を祀り、宝物を納めた所を白龍満堂といって、竹内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が明治時代まで守り通して来て、神通川が洪水で河川敷が変った時、現在の関東の磯原に移した竹内家の宝物の中には、モーゼの表十戒と裏十戒の石があると言われています。
 モーゼが日本に来てからの名はハグイと言いました。
今日これを羽咋といっています。
 モーゼは自分の魂の本地である日本に来て、近江方面のエサウの子孫とも交流し、また大和のニギハヤヒの命の子孫とも交流し、越後の高倉下命(たかくらじのみこと別名天香具山命・アメノカグヤマノミコト)の子孫とも交流して、北陸方面を治めることになりました。』

『イスラエルではエサウをエドム或はエドモともいっていましたから、北陸からエサウやその魂を持ったモーゼ一族が入って来て、北陸から山陰に至る間を治め、クマノ大神の子孫とも交流したので、日本海側を昔はエドム、イヅモと言ったと考えても無理ではありません。』


◆ 契約のヒツギ(二) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugini.html

エルサレムを脱出する
『エルサレムに斎祀された契約のヒツギは、その後ダビデの時代に、天幕から建造物に変える事になりました。モーゼが残した規定通りにする為には、莫大な費用が要ります。遂にダビデの時代には、完成する事が出来ませんでしたが、父の志を継いだのはソロモンでした。』

『然し血の濁りは許されません。ソロモン没後その子孫は急に勢力を衰えさせてしまったのです。
そして遂には南北に分裂して同族合い争う羽目になってしまいました。
一方をイスラエルといい、十二支族のうちの十支族が集まっていました。
一方をユダヤといい、二支族が集まっていたのです。
そしてイスラエルは遂にユダヤに破れ、十支族の行方は今日でも判っていません。今日ユダヤといわれているのは、ユダヤの二支族だけのようです。

 それでは十支族はどこへ行ったのでしょう。どうやらそれが日本に来て、先に渡来したイスラエル民族と交流して、今日の日本民族の基本民族になっているようです。
イスラエル民族はユダヤに攻められ、アッシリヤ、バビロンに攻められ、アハズは遂に不治の病に臥せたのです。
この時バビロンから見舞いの使者が来たのですが、苦しい時の神頼みで、アハズは嬉しさの余り、代々伝承されていた契約のヒツギの宝をバビロンの使者に見せたのです。
それはアハズに至る迄に、アッシリヤに攻められエルサレムの宮殿は戦の為に破壊され、荒廃していたので、アハズは自分の宮殿に安置していたのです。
バビロンの使者はこの宝を見て帰って行きました。

 それを知ったイザヤは、アハズに
「必ず宝を奪いに、バビロンが攻めて来る。あなたの生命は幾許もないが、神に願って、十五年寿命を延ばして頂くから、速やかに誰も知らない所に隠しなさい」といって、直に隠匿させたのでした。』

『バビロンは必死に宝の隠匿場所を求め、アハズを攻めたり、和睦したりして、在り場所を求めたけれど、遂に探し出す事が出来なかったのです。
そして十五年経った時、バビロンは業を煮やして大攻勢をかけて来ました。
イスラエルの民は遂にこれを防ぐ事が出来ず、契約のヒツギを持って、中央アジアを捨てて東に走ったのでした。
それは西暦前六〇七年前の事でありました。ユダヤが祖国を失ったのは、それから数百年後の事で、ローマに亡ぼされた時ですから、イスラエルの方が先に国を失っているのです。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 09:12
◆ 契約のヒツギ(三) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugisann.html

契約のヒツギと釈迦
『この事件より先に、支那に渡っていたニニギの命の子孫(ノアの子孫)の玄奘三蔵法師は、アフガニスタンに、ムウ大陸からレムリヤ大陸を経て伝えられていた般若心経の事を知って、ムウ大陸当時の悟りの教書と伝えられていたので、これを探しにはるばる中国からアフガニスタンに旅立ったのであります。
 これが支那の西遊記の物語です。艱難辛苦の末、漸く般若心経の原文を手に入れた玄奘三蔵は印度で月氏国の釈迦族に伝えました。釈迦族は月読尊の子孫ですから、般若心経を家訓として信奉していたのです。』


(ここの文脈がよくわかりません・・・釈迦と玄奘三蔵が年代的に逆になっているように読めるのですが・・・)


『やがて釈迦が生まれ、般若心経に刺激されて、王位も妻子も親も捨てて、悟りの道に身を投じ、遂に成道(じょうどう)を得たので、人類救済の聖典として、衆生済度に専念したのであります。
 釈迦が出家したのは三十歳の時でしたから、それから四十余年経って、彼が円熟し切った七十二歳の時、イスラエルの民が契約のヒツギを持って印度に逃れて来たのです。
 釈迦はそれを見て驚きました。般若心経はこの契約のヒツギをあらしめ、この宝を持つべき世界唯一身の王の出現を祈る呪文(じゅもん)であった事を知ったのです。
 そしてこの唯一身の御尊体は日本から二千数百年後でないと御出現遊ばさない事を悟ったのです。
それまではどんな事をしてもこの宝を護り通す方法を考えなければならないと、イスラエルの民とも相談して、契約のヒツギを多宝如来と名付けました。』

 『五舎山の一つに洞窟を作り、そこに契約のヒツギを安置して、弟子をして風による修行と言って、洞窟の前や五舎山の各窪みを修行場として、弟子達に不退転の決意を持たせて守らせたのであります。
 「サッタマフンダリカヤ」は後世竜樹菩薩によって妙法蓮華経と支那語化されて今日に至っている・・・』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 10:07
◆ 契約にヒツギ(五) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugigo.html

秦の始皇帝
 『釈迦没後二百年ばかりの間は、契約のヒツギは釈迦の弟子によって護られて来ました。
丁度その頃支那に秦の始皇帝が現れて王になったのです。
彼はイスラエルの十二支族の流れであり、彼の重臣達もイスラエルの十二支族の流れの者達でした。
 そこへ印度まで東進して来たイスラエルの民が入国して来て、始皇帝に仕えました。
彼らは始皇帝が同族である事を確めて、契約のヒツギを印度の五舎山に斎祀して、釈迦の子孫や弟子達が守っている事を伝えたのです。
 始皇帝にとっては、契約のヒツギは神気の種です。
早速 阿呆宮をエルサレムの宮殿と同じ様式で造り、使者を遣わして多宝山から契約のヒツギを受け取って来て、阿呆宮に安置し、異民族の眼を誤魔化す為に三千人の美女を以って守らせたのです。
然しそれでも安心出来ず、北狄を防ぐ為に万里の長城を造りました。

 契約のヒツギと共に多くの印度僧が支那に入国して来て、仏教を弘めたので、支那では次第に仏教が栄えて来て、仏教の本地である印度では仏教が衰え始めたのです。
そして残ったのは個人利益の小乗仏教でありました。
支那に入国した仏教僧の中には、ユダヤ教に仏教を混入した景教の徒も居たので、支那で景教が栄えたのです。
 そしてそれと同時に、妙法を主体にした法華経や、空の原理を解いた般若心経が栄えました。
その上イスラエルの現実主義を基本にして、天地の運行による人生観を形成していた道教や易経の教えと雑然と同居する事になったので、支那は宗教と教義の国になったのです。

 従って般若心経を除いた他の教義は、全てイスラエルの古代思想を根幹にして栄えた枝葉の教義でありました。法華経と雖もユダヤ教の変形であり、契約のヒツギを守る根本思想をうたったに過ぎません。』

『始皇帝は契約のヒツギを手に入れる事が出来たけれども、世界の王の印である勾玉はありません。
これを持った者が万世一系の世界の王になれるのですから、始皇帝の子孫を永遠の王にする為には、どうしてもミクラタナの神といわれた勾玉を手に入れなければならないのです。
この勾玉はインドか日本に隠されているに違いないと推測して、イスラエルの民で重臣になっていた者を印度と日本に派遣しました。この事が始皇帝が不老不死の薬を求めさせたという説話になっているのです。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 10:34
ここまで見てきて、契約の柩は・・・

@モーゼがエルサレムの宮殿を造って、契約のヒツギを祀った・・・モーゼはエルサレムの宮殿を祀ってから、イスラエルの十二支族に宮殿の斎祀を託して、中央アジアから姿を消して

Aエルサレムに斎祀された契約のヒツギは、その後ダビデの時代に、天幕から建造物に変える事になり・・・父の志を継いだのはソロモンでした

Bアハズに至る迄に、アッシリヤに攻められエルサレムの宮殿は戦の為に破壊され、荒廃していたので、アハズは自分の宮殿に安置

Cバビロンは必死に宝の隠匿場所を求め、・・・そして十五年経った時、バビロンは業を煮やして大攻勢をかけて来ました。
イスラエルの民は遂にこれを防ぐ事が出来ず、契約のヒツギを持って、中央アジアを捨てて東に走ったのでした。それは西暦前六〇七年前の事

D釈迦が七十二歳の時、イスラエルの民が契約のヒツギを持って印度に逃れて来た
五舎山の一つに洞窟を作り、そこに契約のヒツギを安置して、弟子をして風による修行と言って、洞窟の前や五舎山の各窪みを修行場として、弟子達に不退転の決意を持たせて守らせた

E印度まで東進して来たイスラエルの民が入国して来て、始皇帝に仕え・・・阿呆宮をエルサレムの宮殿と同じ様式で造り、使者を遣わして多宝山から契約のヒツギを受け取って来て、阿呆宮に安置


 ここで始皇帝は、『ミクラタナの神といわれた(世界の王の印である)勾玉を手に入れるために、イスラエルの民で重臣になっていた者を印度と日本に派遣』することになる・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 10:56
◆ 契約のヒツギ(六) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugiroku.html

秦の徐福の日本渡来
『日本に派遣された徐福は、イスラエルの王統の血の濃い者でした。彼は紀州の新宮に上陸し、玉置山に登り、高倉下命の子孫に、事の次第を語りました。

「その勾玉は世界の王の魂の印としてニギハヤヒの命に授けられ、代々本家に当るニギハヤヒの命の子孫に伝えられて来たが、ウマシマデの命の時代、三百年ほど前に九州から来たウガヤフキアエズの命の系統のカムヤマトイワレビコの命(神武天皇)に護られ、今日では神武天皇の子孫が代々持っているもので・・・神武天皇の血統の方以外に持つ事は許されない」と聞かされて、・・・・・・・始皇帝に勾玉は日本に無いと報告をし、徐福の一族を集めて数百人の大世帯を船に乗せ、再び日本のクマノ地方に来たのであります。

 そして新宮を本地にして日本の歴史を調べる事になり、一族の者を各地に派遣して、伝説や伝承の事実を集め、日本の歴史を作る事になったのです。この歴史書は漢字で書くのが本来ですが、漢字では日本の言葉や伝説を正確に書き表す事が出来ないので、当時九州地方で使われていた古代文字で書く事にしました。これが今日残っている富士古文書ともいわれているものです。

 世界の王の神霊及び唯一神を祀った所をタカヒの峯といい、今日では玉置、タマキ、タマオキといっていますが、神武天皇時代はタマチといっていました。そして大峯山、弥山、玉置山一円を高天原と言い、不二と言い、後に霊山、霊鷲山とも言ったのであります。
岡本天明師のヒツギ神示の「フジは晴れたり日本晴れ」とか、大本神諭の「フジとナルトの謎を解け」等のフジは、大峯、弥山、玉置山等一連の吉野熊野連峰の事をいっているのであります。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 11:06
◆ 契約のヒツギ(七) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohituginana.html

朝鮮に渡る
『始皇帝没後、秦は滅んでその子孫は契約のヒツギを護り、天台山に難を避けたのであります。
 その後最澄が支那に留学し、天台に学んで世界の仕組みの本義を知ったので、比叡山を開き、法華経を以って今日迄世界の王の御出現を祈願し続けているのであります。
一方空海は、恵果上人から景教を通じて神の仕組みを知り、玄奘三蔵の衣鉢を継いでいた名僧から、般若心経の真意を伝えられ、イスラエルから渡来していた皇后の立場の女性を丹生津比売(にうつひめ)神社として、イサクのみたまと共に斎祀してある。
天野神社の社領であった高野山を下げ渡して貰って、そこに金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立し、般若心経を以って世界の王の出現を願って来たのであります。』(一部略)


『天台山から北京の天檀に移されました。
支那では天檀に祀った神を、至聖先天老祖(しせいせんてんろうそ=国常立神)と言っています。
やがて天檀から北朝鮮に移されました。
天白山がその本拠です。

 これを守って来たのはイスラエルの十二支族の流れで、辰韓というのは秦の子孫が来て秦韓といったと考えても良いでしょう。・・・朝鮮に渡って来たのは、約二千年足らず前の事です。』


各国民族日本に集まる
 『契約のヒツギが朝鮮に運ばれる迄の間に、日本では九州方面はニニギの命系、ヒコホホデミの命系、ウガヤフキアエズの命系の子孫が混然一体になって、一族の様になっていたのですが、王を立てて統一する為に、女王を立ててその女に神位を伺わせ、その啓示によって国を治めるようにしていました。
 この女王をヒミコといい、ヒミコの居る宮居のある所は高台を選んだのでそこをヤマタイ国、或はヤマイ国と伝えているのです。支那や朝鮮から来る使者は、多くはヒミコに合わせ、貢物はヒミコに捧げさせたのです。ヤマタイ国の勢力は朝鮮の南端にまで及び、そこをミマナといって、日本の出先機関にしていました。
 ヒミコは何代もあり結婚すると退位したのです。退位したヒミコは四国にも渡り、京都、近江、伊勢、大和方面にも行きました。ヒミコは代が替わると、宮居を変える事があったのです。』


『今日学者によって、ヤマタイ国の所在は一定せず、大和説までもあるのは、ヤマタイ国が一定の場所ではなかったからであり、ヒミコが大和方面にも行ったからです。
出雲方面には何万年も前からクマノ大神と言われるムウ大陸から直接渡来したものの子孫が古い文化を持って、安芸、吉備、因幡、伯伎(ほうき・鳥取県西部)但馬等まで勢力を張っていました。
そして一隊は紀州南端にまで勢力を張って、そこをクマノと言ったのですがクマノ地方に来た時にはイスラエルの民もかなり多く交流していましたから、ユタとも呼んだのです。・・・

 この様に日本の国土は大和のニギハヤヒの命系を中核にして、イスラエルの十支族、エサウ、モーゼの子孫、クマノ一族の子孫、ムウ大陸から直接渡来したものの子孫、南方から北上して来た民族等によって混然一体となり、原日本民族を形成し、一番初めに日本に渡来していたアイヌ民族を異民族扱いにするようになっていたのです。』

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 12:25
F始皇帝没後、秦は滅んでその子孫は契約のヒツギを護り、天台山に難を避けた

G天台山から北京の天檀に移されました。支那では天檀に祀った神を、至聖先天老祖(しせいせんてんろうそ=国常立神)と言っています。

Hやがて天檀から北朝鮮に移されました。天白山がその本拠です。


このあと、日本に運ばれてくるというストーリーですが、受け入れ側の準備が大変というか、大きな視点で見ないと、年代的に合わないところが出てくるような感覚に襲われます。

そのあたりは、考察の内容と深く関わってくるところもあるので、後ほどひとつひとつ検証していくとして、契約の柩が日本へ来るところから・・・

◆ 契約のヒツギ(九) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugikyuu.html

神功皇后
 『神功皇后は感応するままの事を、素直に言って朝鮮に渡り、シラギの王に使を出すと、シラギの王は畏んで全ての宝を渡したのであります。
この時契約のヒツギと各民族の面は、神功皇后がヤマタイ国で保管する事にし、副奏品は全て竹内宿弥が保管する事になりました。
やがて応神天皇が御生誕遊ばしたので、大和の王位に就くべく宇佐に下り、そこから船で東進する事になったのです。
 十六の面と黒い隕石様の石と、ヒサゴ型の石等の宝を幣立宮に残し、契約のヒツギを一時妻垣神社のあるウサツヒコ、ウサツヒメの子孫の所に安置して、態勢を整え、瀬戸内海を東進して呉れの港に着いたのです。
その時 香坂王と忍熊王の兄弟が、応神天皇が王位に就く事を食い止める為に、反乱軍を用意して待ち受けているという情報が入って来ました。
呉まで持って来た契約のヒツギを奪われては一大事なので、呉の現在亀山神社のある所に安置して一族の者に守らせ、応神天皇を死んだと見せかける船を仕立てて東進し、宇治川で作戦して香坂王、忍熊王を滅して、近江に皇居を造り、そこで皇位に就かれたのであります。

 後 東大阪に皇居を移され、やがて落着いてから、呉からの契約のヒツギを運び寄せ未だ安定していない時なので、この宝を奪われる事があっては世界の王位の証が無くなるのを恐れ、末の世に世界の王が現れるまで、これを隠匿して守り続ける為に、高倉下の子孫に託する事を決意され、紀ノ川から遡って吉野に入り、玉置山にこれを運んだのであります。』


 『武内宿弥は契約のヒツギの副奏品を北陸に運び、神通川のほとりに赤池明神を建立し、白龍満堂を造って、そこに神宝を祀って、末の世に契約のヒツギが世に出た時、その証の為に、代々死を賭してこの宝を守らせて来たのであります。近世に至ってこの宝と竹内真鳥が君命を受けて書き綴った古文書は、磯原に移されて、今尚守り続けられているのであります。』



・・・以上、昭和20年代時点での話しのようですので、今現在の状態とは一致しないでしょう。
すべては伊勢神宮にあると、きっぱり言われる方にもお会いしたことがあります。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月18日 13:17
契約の棺が日本に渡ってくるまでの日本の様子ですが、前出より、

・大和のニギハヤヒの命系を中核にして、
・イスラエルの十支族、
・エサウ、モーゼの子孫、
・クマノ一族の子孫、
・ムウ大陸から直接渡来したものの子孫、
・南方から北上して来た民族
等によって混然一体となり、原日本民族を形成し、

一番初めに日本に渡来していたアイヌ民族を異民族扱いにするようになっていた

http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohituginana.htmlより

キツネの嫁入り
 『ウガヤフキアエズの命のウガというのは、世界の王を生むみたまの。ことです。日本でイナリと言うのは,トヨウケの神、倉稲魂、オホゲツヒメの神、ウガのみたまのことです。
 従って ウガヤフキアエズとは、世界の王を生む皇后の立場の女性のみたまが未だ完成していないという意味と、皇后のみたまを持ったお方の御座所が未だ完成していないという意味の言葉で、長い歴史の全てはウガのみたまの完成の為の歴史であったという事が出来るのであります』

神武天皇の東遷
 『ウガヤフキアエズの命の王子であった神武天皇は、兄五瀬の命、稲永命、御毛沼命と共に九州では自分達が王子として小さな国でも持つ事が出来なくなったので、新天地を求める事を相談しました。
 ヒミコを退位した者や、同族の先神達が大和地方に行って帰って来ての話によると、東に行けば青山の茂った広い豊かな国があり、そこには遠い先祖を同じくするニギハヤヒの命の子孫が王となって治めていると聞かされていたので、その王を頼りに船出する事になりました。
 船団を造って瀬戸の油津から出発して北進し、九州東北端の国東半島に立ち寄った時、三族の流れで小国の王になっていたウサツヒコとウサツヒメが同族の壮挙を祝って、自分の家に招待したのです。そこが今日の妻垣神社になっている所です。
 神武天皇の一行はウサツヒコの協力で、彼の臣下と船の応援を受ける事になりました。これを聞いた近隣の王達も人間と船を調達してくれたので、かなり大きな船団になって来ました。これに力を得た兄弟四人は、広島県まで進み、そこでも舟と船団人の応援を受け、東に進んで岡山県に入り、そこでまた船団と人々の援助を得て、一大船団に発達したのであります。この噂が忽ち生駒に居るウマシマデの命の耳に入ったのは当然です。
 ウマシマデの命は、自分の遠い先祖の流れである河内の長曽根村の長髄彦(ながすねひこ)の妹を妻に迎えていましたので、長髄彦を宰相に取り立てていました。
 
 長髄彦は強大な兵力と軍力を持っていましたから、生駒山の難関に拠って、神武天皇の軍勢を待ち受けたのであります。
誰が見ても神武天皇の大船団と軍勢を見れば、大和国を攻めに来たとしか考えられません。
然し神武天皇の方はニギハヤヒの命にお願いして、一隊に安住の地を与えて貰いたいだけだったので、激しい戦意は持っていませんでした。
現在の佐野の辺りから上陸して東進した時、地の理に詳しい長髄彦の軍勢は、強烈に反撃して来たのであります。
 一時は適しかねた神武天皇の一隊は、一旦吉備に引き返し、軍の用意を整えたのであります。二回目も亦敗れました。・・・』


神武天皇玉置山より東征
 『神武天皇はウマシマデの命が、世界の王の魂の本体である事は伝え聞いていたのに、このみたまに向って戦を挑む事は反逆に値すると気付いて、自分も同じ先祖から出ている者であるから、その先祖の霊にお願いして、許しを得なければならないと悟ったのであります。』


 『自分達の先祖は熊野、吉野の山奥に遠い昔、祀られている。
そこは高矛峯で、その一連の山々は遠いムウ大陸時代の神霊におわします所である。
そこへ許しを乞いに行くには和歌山から舟で南に廻るか、紀ノ川沿いに東に進むか二つの道があるが、紀ノ川沿いにはカツラギ族が勢力を張っています。大峯、弥山、玉置に行くにはこれを突破しなければならない。
南は自分達の先祖がムウ大陸から上陸した所であり、、そして新宮川から遡ったと伝え聞いていますから、この先祖の通った路を選ぶ事が最も正しいと考えたのです。
 ・・・神武天皇は、新宮に高倉下命が居る事を九州出発以前から聞いていましたから、使者を走らせたのです。
この時高倉下命は、夢で先祖の霊に「神武天皇が苦しんでいるから、先祖から伝わる剣を持って行って助けよ」と命令されていましたので、使いの報せを受けると直に一族を従えて、那智の浜に走ったのです。
高倉下命は太古から代々この地方を治めていましたから、少数のニシキトベ一族は戦わずして帰順してしまいました。・・・高倉下命は事情を聞いて、玉置山に案内する事になり、輩下と共に新宮川を遡り、途中川が浅くなって舟が進めなくなってから、三重県側に上陸し、山また山を越えて北山川に出て、対岸の竹筒から玉置山に登って行きました。』

http://messiah666.seesaa.net/article/197815889.html




Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 03:08
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohituginana.html

神武天皇玉置山より東征

 『重大な神業の時には、今でも先祖の通った竹筒から玉置山に登るのが順序になっています。・・・因みに大峰山とは、山上山、弥山(新山・深山)、玉置山に取り巻かれた吉野、熊野一円の山々の総称です。
 古書に依れば・・・「山中嶮絶にして行くべき道なし戦人どもしじまいてその踏み行かん所を知らず」等とあります。
現在の大峰山には神話の月読命を祀り、弥山にはイザナミの命を八大龍王として祀ったのであります。
玉置山に登った神武天皇は、かってニギハヤヒの命達が担ぎ上げて、堅く据えて置いた船玉石の上にヒモロギを樹て、神武天皇が斎主となり、高倉下命が神主となって、大峯一帯の神々を招霊して、神武天皇の大和入りのお許しを祈願したのであります。
 「今はニギハヤヒの子は長髄彦の横暴に堪えかねている。これから三千年の間は女のみたまを完成する時代であるから、この者を王位に立てもっぱら魂を成就せしめるようにせよ、ニギハヤヒの子は暫し身を潜めこの者を助けさせるようにするが良い」と神主である高倉下命が感応したのであります。高倉下命はニギハヤヒの命の子孫で、ウマシマデの命に対しては分家筋のお方です。先祖の許しを得た神武天皇は、高倉下命の一族に助けられて、折立に下り吉野に入って宇陀に出て三輪山に来ました。』

http://messiah666.seesaa.net/article/197994373.html

 『三輪にはニギハヤヒの命の子孫の大物主櫛甕魂命が三輪山の神主として仕えていましたから、この方に事情を告げたので、クシミカタマの命は、丹波市に居たウマシマデの命に事の次第を告げたのであります。

 ウマシマデの命は、先祖の神意を了解して、長髄彦に戦をやめる事を命じたのですが、彼は「我国に王はあなたお一人しかありません。何故に王位を譲らなければならないのですか。私はあくまで戦い抜きます」といって、どうしても聞き入れないので、ウマシマデの命は、止むを得ず腹臣の者に命じて、長髄彦を誅戮させたのであります。
 そして代々継承して来たミクラタナの神の勾玉を神武天皇に譲って、御自分は一族と共に大和を退き、近江のエサウ、モーゼの子孫の許に行ったのです。

 そして神武天皇が即位をされるのをお助けした後、尾張の東谷山に本居を構え、そこで代々尾張地方を治めたのであります。』


神武天皇近江で即位
 『神武天皇が玉置山から大和に下られた事は、玉置神社の古文書の中にもあります。
またニギハヤヒの命が東谷山に行かれた事は、東谷山の地方の伝説や、地名や神社のあり方にも覗い知る事が出来ます。
 
神武天皇が大和国の土着の方でなかった事はカムヤマトイワレヒコの御名でも明白でしょう。
一説には神武天皇は紀ノ川を遡って大和征討をされたという学者もありますが、それは古事記記載の九代の天皇の墓は、カツラギ族の主長の陵墓を当てているからです。
 神武天皇は一旦、三輪地方に落ち着いたのですが、カツラギ族の勢力が強かったので、戦う事を避けて近江に行き、三上山の辺りを本拠にして、そこで即位式を挙げる事になりました。
 
 即位式を挙げるにはクマノ一族、大国主一族、北陸路に居る一族にも了解を得なければなりませんし、九州の同族にも伝えなければなりません。
直ちに八方に使を走らせ、今日迄の次第を伝えて了解を求めたのであります。

 即位は正月元日と定め、場所は野洲川の流域と定めました。
即位式には九州の同族を初め、山陽道の王や山陰道の王はもとより、北陸、関東、東海、伊勢方面からも集まって、厳粛に行われたのであります。
 そして人皇第一代の天皇として「ハツクニシラススメラミコト」と崇められたのでありました。
各地の王は王として認めながら、御自分もまた近江地方の王として立たれたのです。』

 
 『皇太子は三輪のクシミカマタマの娘のイスケヨリヒメを娶って生れた神沼河耳命で、共に力を合わせて治めたのであります。
 神武天皇の御陵は三上山麓の山中にありますが、古事記がカシワラになっているので、忘れられているようです。
 神武天皇が近江で御即位式を挙げられた事は、富士古文書に見えています。前にも述べた通り、富士古文書は徐福が書いたものですから、神武天皇の件だけは信憑性があると思います。』

 『 第二代目の綏靖(すいぜい)天皇からは、次々に皇居も変わり、御子孫は各地の小国の王になって、段々その勢力は大きくなってゆきましたが、まだ日本統一とまではゆかなかったのです。
九代の開花天皇迄の間には、イスラエルから渡って来た人達が皇室に仕え、その娘が皇后になったりして、イスラエルの民の流れは皇室の中に定着するようになって来たのであります』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 03:20
◆ 契約のヒツギ(八) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugihati.html

崇神天皇二人説
 『十代の天皇は崇神天皇であります。此の天皇の御名はミマキイリヒコイニエと伝えられていますが、ヒコの次にまた名をつける慣わしは日本にはありません。
 ヒコ・ヒメで名を区切るのが普通になっています。これは二人の人を一人にした名であると考えなければなりません。
 ミマキイリヒコは朝鮮南端のミマナから入って来た彦という意味の名です。(考えるに・ミマナ来入彦)』


『この方はミマナから、イスラエルの王が代々伝えていた剣と鏡と壷を持って、日本に来たイスラエルの王家の子孫であったのです。
神武天皇から開化天皇迄は三種の神器は継承されていません。
勾玉だけが王の証として譲られていたのです。』


『ミマキイリヒコは紀ノ川を遡って行き、笠田で船を捨てました。そして彼と同行して助けたのは、神武天皇、モーゼ、ニギハヤヒの命の血が混じった王で、野に下っていた人だったのです。この人がイニエ「印恵」というお方です。
 ミマキイリヒコは紀ノ川を遡り笠田から陸路を大和に向う途中、御所のカツラギ族と和解してカツラギの娘を后にしたのであります。カツラギ族と和解し、姻戚関係まで出来たので、その勢力を借りて大和一円を制覇したのですが、若くして世を去ることになり、イニエに壷と剣と鏡を託して、大和一円を治める事を頼んだのです。』

『イニエは神武天皇等の血統であったから、近江、山背(山背),但馬、吉備等の同族に、事の次第を告げて、カシワラで即位する事になり、開化天皇迄の神武天皇の子孫の一族とも手を握り、大和朝廷を一つにして、日本全国を治める事になったのであります。イニエ天皇のみたまが、世界の王の本質のみたまであったので、神話では此の天皇をミマキイリヒコと結んで同一人にしてしまったのです。』
 

『イニエ天皇は同族である、
・大毘古の命を越後の国主とし、
・健沼河別命を東海一円の国主にし、
・日子坐王を丹波一円の国主にし、
・吉備津彦命を山陽道の国主にして国を治めたのです。
これを歴史では四道将軍と伝えています。
ミマキイリヒコの御陵は桜井の辺りにあり、纏向(まきむく)の崇神天皇陵はイニエ天皇の御陵です。
ミマキイリヒコから譲られた壷と鏡と剣はイスラエルから日本まで来る間のイスラエルの王の証でありました。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 03:30
『日本の天皇が持つべき三種の神器は契約のヒツギでなければなりません。

イニエ天皇はミマキイリヒコから、壷と鏡と剣を代々の天皇が継承する事になると、契約のヒツギが日本に来るか、どこかで誰かがこれを持って天皇を名乗った時、二人の王が現れる事になるので、鏡と剣を皇女豊鉅入日売(トヨスキイリヒメ)命に託して、これを祀る宮井を探させたのであります。

 そして勾玉は壷に入れて皇室に置いたのであります。トヨスキイリヒメは或る時は丹波にまた或る時は丹波に宮井を作って祀りましたが、何処へ持って行っても落ち着く事が出来ませんでした。』


 『垂仁天皇の皇女倭比売(やまとひめ)命は、トヨスキイリヒメの命の意志を継承して、一度は纏向の笠縫に安置しましたが、伊勢にイスラエルの民が渡来して、伊雑宮を作った事を聞かれ、イスラエルから渡って来た神宝であるから、イスラエルの民に斎祀させるのが最も相応しいと考えられ、伊勢に行ってイスラエルの子孫に神宝奉安の宮井を造る事を依頼したのであります。
 イスラエルの民は喜んで、伊雑宮の奥宮として、現在の内宮を造営し、ここに神宝を祀ったのですが、倭比売命の甥の小碓命(おうすの命・ヤマトタケル)に剣を渡したので、内宮は鏡だけになったのです。』


大和健命と伊勢内宮
『大和健命は九州南部の王の重臣の反逆を制圧する為に、九州に下り反逆者を征討しました。その時、当時のヒミコと結んで王子が生れたのです。
 
 大和健命はモーゼの魂を持って生れたお方でした。即ち、世界の王の父の魂を持ったお方だったのです。この方とニニギの命の血統のヒミコと結んで生れた王子は世界の王の魂を持ったお方です。』


 『九州を去った大和健命は、東国の反乱を鎮める為に征討の旅に出る前、伊勢内宮の伯母倭比売命にお別れに行ったのですが、その時弟橘比売と結ばれたのです。そして伯母倭比売命から、妖気を祓う神剣を貰って東国に旅立たれました。

 弟橘比売命は懐妊されていたので、王子をお生みになった後、御子を倭比売命に託して、大和健命の後を追ったのです。

 大和健命は東国に行く途中、尾張のミヤズヒメと結ばれました。東国に来た大和健命が走水から向こうの陸に渡ろうとした時、大嵐が起って渡れません。困っていた時、後を追うて来た弟橘比売命が海中に身を投じて波を静めたのであります。
 この物語は弟橘比売命が八大龍王のみたまを持っていた事を黙示したものであります。

東国を征討して大和に帰る途中、ミヤズヒメの所に立ち寄り、草薙の剣を預けて置いて伊吹山に登った尊は、山の妖気に取り巻かれて病となり、遂に大和に帰る道で、三重県のノボノで崩御されたのであります。』

『伝説ではみたまが白鳥になって飛んだので、白鳥の止まった所に宮を建てて、大和健命を祀ったと伝えています。白鳥の止まった所は一ヶ所ではなかったので、各地に大和健命の神社はあります。この白鳥を鳳とも言います。鳳は世界の王のみたまの象徴をいったものです。。

 モーゼをハクイと言い、大和健命をハクチョウといっているのは、大和健命がモーゼのみたまを持ったお方であった事を黙示する為です。』

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 03:47
では、ふたたび・・・

◆ 契約のヒツギ(九) ◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugikyuu.html

神功皇后
『神功皇后はヒミコの九代目の女王で、当時のヤマタイ国は阿蘇山の南の高台の現在の蘇陽町の幣立宮の所でありました。』

『神功皇后は大和健命(日本武尊)が先代ヒミコと結んで生れた皇子と結ばれたのであります。

そして懐妊されたのが応神天皇だったのです。
従って応神天皇は世界の王のみたまを持った父と世界の皇后のみたまを持った母との間にお生まれになったお方で、天の父と地の母との間にお生まれになった、唯一身の世界の王のみたまの御現身だったのです。』

 『神功皇后はオキナガタラシヒメといわれたお方で、この名は息が長く神霊の波動を受ける事の出来るお方であるという意味の御名です。

 神霊の波動を受ける原理を、神話では底筒男命・中筒男命・上筒男命といって、大阪の住吉に祀ってあります。

神功皇后はこの秘法を会得されていた第一人者であらせられたので、住吉神社に合祀されているのです。
大元の神霊の波動を受けられるみたまであった神功皇后は
「そなたの懐胎している皇子は生まれ乍らに世界の王であるぞ」
と感応されたので、応神天皇の事を胎中天皇とも申上げるのです。』
 
『世界の唯一身の王であれば三種の神器を持たなければなりません。
神功皇后は
「西の国の黄金、金銀を初めとして目の輝く珍しい種々の宝が北の国にある、行って受け取って来るが良い、これぞ腹の御子の王の証であるぞ」
と感応したのであります。
 皇后は筑紫で感応したのですから、朝鮮は西ではなく北になります。即ち西の国イスラエルの宝が来ているから、それを受け取って応神天皇の証にせよという事になります。

神功皇后は感応するままの事を、素直に言って朝鮮に渡り、シラギの王に使を出すと、シラギの王は畏んで全ての宝を渡したのであります。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 03:59
これらの伝承を信じるとして、しかし、契約の櫃と、勾玉(ミクラタナの神)と三種の神器の違いがよくわからない。

とりあえず契約の櫃に関しては、新羅王から神功皇后に渡されたとして、ミクラタナの神=勾玉について、抜き出してみます。

『その勾玉は世界の王の魂の印としてニギハヤヒの命に授けられ、代々本家に当るニギハヤヒの命の子孫に伝えられて来たが、ウマシマデの命の時代、三百年ほど前に九州から来たウガヤフキアエズの命の系統のカムヤマトイワレビコの命(神武天皇)に護られ、今日では神武天皇の子孫が代々持っているもので、この事は玉置の神霊の指図によった事であるから、神武天皇の血統の方以外に持つ事は許されない』


始皇帝より勾玉を探してくるよう命を受けた徐福は、高倉下の子孫からこう聞かされます。

徐福について・・・
・イスラエルの王統の血の濃い者
・神武天皇と遠い昔は同じ系統であった
・代々日本の天皇に仕える事を子孫に伝え
・新宮を本地にして日本の歴史を調べる事になり、一族の者を各地に派遣して、伝説や伝承の事実を集め、日本の歴史を作った(富士古文書)

高倉下について・・・
・神武天皇は、新宮に高倉下命が居る事を九州出発以前から聞いていた
・夢で先祖の霊に「神武天皇が苦しんでいるから、先祖から伝わる剣を持って行って助けよ」と命令されていた
・高倉下命は太古から代々この地方(新宮・那智・・・?)を治めていた
・少数のニシキトベ一族は戦わずして帰順した

あと、『玉置山に登った神武天皇は、かってニギハヤヒの命達が担ぎ上げて、堅く据えて置いた船玉石の上にヒモロギを樹て、神武天皇が斎主となり、高倉下命が神主となって、大峯一帯の神々を招霊して、神武天皇の大和入りのお許しを祈願した』

・・・これは道臣命が斎主となり、神武天皇がみずから高皇産霊神を顕斎するの逸話に似ています。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 05:09
契約の櫃が始皇帝の阿呆宮→天台山→天白山(北朝鮮)へと渡り、その天白山を守ってきたのは、イスラエルの十二支族の流れで、秦の子孫(秦韓=辰韓)。
これが秦氏の流れなんだろうか?朝鮮に来たのは2千年足らず前ということです。

『そしてイスラエルの王の証としては、三種の神器の替わりにこの剣は妖気を祓う為のものでありますから、昔は剣でケモノの妖気を祓ったのです。を作って、代々伝えて来ていたのです。』

■鏡は裏にヘブライ語で「われはありてあるものなり」或は「われは全ての全てなり」という意味のイスラエルの古代文字を刻んでいました。
■壷は白銀で作って、ミクラタナの勾玉が入る位の口の大きさを持ったものでした。多分(図略・円錐のとんがりを取った丸みのある台形)な形の壷だったと思います。
■剣は戈(ほこ・イグルミ)といって,枝のある剣でありました。上図(略)の様な形のもので鹿の角に似たものも多かったのでしょう。神器に直刀は無かったので、直刀は武器を目的に作ったと考えられます。
 支那の青竜刀や、日本の刀は戈を簡素化したもので、本来は武器にしたものではなく、祭器として作ったものであります。
この剣は妖気を祓う為のものでありますから、昔は剣でケモノの妖気を祓ったのです。


・・・・契約の櫃・ミクラタナの神(勾玉)・・・イスラエルの王の証の鏡と壷と剣・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 05:30
「イスラエルの王の証の鏡と壷と剣」ですが、

『十代の天皇は崇神天皇であります。・・・ミマキイリヒコは朝鮮南端のミマナから入って来た彦という意味の名です。(考えるに・ミマナ来入彦)
この方はミマナから、イスラエルの王が代々伝えていた剣と鏡と壷を持って、日本に来たイスラエルの王家の子孫であったのです。
神武天皇から開化天皇迄は三種の神器は継承されていません。勾玉だけが王の証として譲られていたのです。』
 
ミマキイリヒコから、イニエ(印恵)に壷と剣と鏡を託されたとなってます。
(ミマキイリヒコ+イニエ=ミマキイリヒコイニエ(十代崇神天皇)

その「ミマキイリヒコから譲られた壷と鏡と剣はイスラエルから日本まで来る間のイスラエルの王の証でありました。」

日本の天皇が持つべき三種の神器は契約のヒツギであり、イニエ天皇はミマキイリヒコから、壷と鏡と剣を代々の天皇が継承する事になると、契約のヒツギが日本に来るか、どこかで誰かがこれを持って天皇を名乗った時、二人の王が現れる事になるので・・・・

鏡と剣を皇女豊鉅入日売(トヨスキイリヒメ)命に託して、これを祀る宮井を探させたのであります。・・・・

そして勾玉は壷に入れて皇室に置いたのであります。


・・・・なんとなくわかったような・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 05:46
『そして勾玉は壷に入れて皇室に置いたのであります』

その勾玉ですが、後日・・・

安徳天皇と勾玉:http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugijyuu.html

『源氏の台頭によって、平氏は都を捨てなければならなくなり、兵庫の須磨を追われて四国の屋島に逃れる途中、既に勝ち目が無いと知った平資盛は、一族の平有盛、平行盛等に命じて安徳天皇を阿波国から土佐を経て、九州南端を目指して落ち延びさせたのであります。

 そして安徳天皇の身替りを立てて、健礼門院に守らせ、最後の決戦を屋島、壇ノ浦で戦う事にし、資盛自身は安徳天皇に阿波までお供をして、三種の神器の勾玉と壷は安徳天皇にお持せし、鏡と剣は自分が持って、淡路から和歌山方面に逃れ、紀ノ川を遡って吉野から玉置山に辿り着いたのでした。

 そこで名を玉置庄司直虎と改めて、玉置神社の社家となり、鏡と剣は秘かに玉置の山奥の宝冠の森に隠したのであります。資盛は歴史では戦死している事になっていますが、身替りを立てて源氏の眼を眩ましたのです。』

『この隠された鏡と剣は明治の廃仏毀釈の時、玉置の社家が持ち出し・・・
(鏡は?)現在関東方面の豪士の子孫の家で保管されているといわれています。
 剣は ・・・・南米に渡ったと伝えられています。』


『安徳天皇は激しい源氏の追及を逃れる為に、薩摩半島の西南の硫黄ヶ島(昔の鬼界ヶ島)に逃れたのあります。
 有盛、行盛等は狭い硫黄ヶ島では生活も出来ない為、奄美本島に渡って、安徳天皇に貢物をし続けていたのです。』


やがて・・・http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/keiyakunohitugijyuuni.html
三十二のみたま

 『幸い王の中核生命の証である勾玉は、昭和28年12月28日に沖縄の真人達の手で無事此の世に出る事が出来ました。そしてこの真人達は、世界平和の為に、日本皇室の弥栄えの為に、僅かの報酬も求めず、名誉も求めず、死を賭して自費を以って皇室にお納めしたのでありますが、科学的にこれがミクラタナの勾玉という証拠が無い為、先年崩御遊ばした久邇朝融殿下を通して、皇后陛下まで献上したのであります。
 従って中核生命の証の勾玉は既に皇室に入って誰も手をつけることが出来ませんから安心です。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月19日 10:04
歴史の目的は弥勒下生とか救世主降臨だと思っているので、もう2012年の今年に来臨の素地は整わなければと、個人的には感じています。

来るか来ないかは別問題であり、来るのを確認してから始めるというのも不信仰であるし、来ないからしないというのもまた不信仰です。
これも個人的な内面的な受け留め方の違いと思っています。


 これまでの考察で、三角形の3::4:5の封印とは、天の星座に関連していると感じているので、やはり地上の歴史考察の目的も、天体観測と連動していきます。


では、先の歳とより占星術に関連している部分ですが、

◆ 話の種(三)◆
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/hanasinotanesann.html

『塵を以って作ったアダムと、その肋骨で作ったエバと、六日目に作られた人とは違ったもので、アダム、エバには全地を統治する権能は与えられていません。この全地の王が初めに五人生んでその中の一人を王にし、他の四人を副王にしたのですが、四人は何時でも王の座に座る事が出来る方でした。
 主魂のAの人が世界の王になり、主魂のBCDEの人がこれを助けて、一体不離になっていました。Aの人は他の四人の魂と一体にならなければ働けなかったし、四人の人も他の四人と一体にならなければ自分の主魂を十分に働かせる事は出来ませんでした。』


『魂は固体ではないので、幾つにでも分ける事が出来るし、分けても働きが減少する事はありません。却って思えば思う程強くなってゆくのが魂の世界です。
 このようにしておかないと、Aの人に万一の事があった時には、地球の人類は滅亡してしまいます。
 やがてこの五人の人は地球を修理固成する法則を作りました。そしてこの法則は今日迄使われて、地球の完成を見るに至ったのであります。
 この法則が今日迄の九星十干十二支の輪廻で波動の変化の事です。』


『この法則が今日迄の九星十干十二支の輪廻で波動の変化の事です。
然し地球が完成して、九星十干十二支の変化を持った輪廻の必要がなくなると、輪廻をしても変化のないように調和を取った法則になるのが末法の世の仕組みであります。』


『今度の新しい世界の輪廻は次のようになります。』


50  5  68
59 41 23
14 77 32


・何れもタテヨコの数の和は三六九、五(真ん中の41は5)霊界の数の和(上表全数を足す)は三六九となります。
・さらにまた各霊界の中央(表が9つあり1から81までの数を入れてある、その真ん中の数)の和は三六九で中心は変わらずに輪廻します。

『即ち五霊界を中軸にして輪廻しても、三六九の数の和は狂わず、各霊界の中軸の和も狂わないから安定した世界の輪廻となります。
そして最も中心は四一で、これを玉四一(タマシヒ)と言いますから、次の世界は生命を核にした魂が軸になって、個人も世界も輪廻してゆく事になります。
これを気の世界と言うのです。
これをミロクの世とも言い、吹く風、枝を鳴らさず、雨、土くれを砕かぬ平安な世となるのであります。』


・・・有名な河図洛書の図は省いています。
それが『この法則が今日迄の九星十干十二支の輪廻で波動の変化の事』であり、今までの世であるようです。

弥勒の世になるまでに、

『・・・「八三四・ヤミヨ」「一五九・イゴク」「六七二・ミロク完成に」と読んで“夜の世界は動いて昼のミロク世界の完成に”ということになるのである。
 次にミロク世界が完成される為には仏説で唱えられる「弥勒三会」が先行しなければならないようである。つまり法身弥勒、報身弥勒、応身弥勒の三位一体化が条件である。火水土の各弥勒が勢揃いする必要がある。』


・・・法身弥勒、報身弥勒、応身弥勒の三位一体化・・・・これに関連しているような話しを、以前、おりおんさんから聞いたことがあるような気がします。

Posted by 葛篠宮 at 2012年06月21日 11:55
今朝から、気になっていることは、新羅についてなのですが、これはこれからの考察と同時に考えていきたいです。

新羅とは、日本国にとってなんなのか?
いや、唐にとっても、高句麗にとっても、なんなのか?

神功皇后はシラギ王から、契約の櫃を譲り受けた・・・・
その新羅・・・


http://mimizun.com/log/2ch/history/997471414/より(再掲)
解決黒頭巾さんの書き込み(抜粋)

・継体天皇は邪馬壱国の本国、日向(宮崎県)の安羅国の天皇。
 卑弥呼→壱与→・・・継体→安閑→宣化→・・・アマタラシヒコ・・
 と安羅国の歴史が続く。

 日本書紀の目的のひとつに、安羅国の歴史を隠すことがある。

・磐井は安羅王家の一員。
 日向の安羅国は、金官加羅なきあと、その旧地であった豊国を支配した。
 したがって、筑紫の磐井は安羅王家の一員と考えられる。

 大伴金村が安閑天皇のことであるから、金村の子の「磐」が筑紫の磐井君とわ かる。

・越前は豊前の書き換え。

・継体は卑弥呼家の末裔。

・>邪馬台国と天皇家って関係あるんですか?

 文武以降はまったく関係ない。
 邪馬壱国は九州日向の安羅国を中心にした多婆羅国(熊本)、伊都国(福岡) との連合国家。

 「大和地方」という地名は新羅の文武王の年号「大和」から来ている。
 白村江の海戦で勝利した新羅は日本を占領して、九州の邪馬壱国と大和の秦王 国を併せて「日本」とした。

 日本書紀の目的は、新羅が日本を占領したことを隠すことと、(九州の)邪馬 壱国の存在を隠すことにあった
              (引用おわり)


『新羅が日本を占領したことを隠すこと』・・・・唐ではなかったのか・・・?

日本書紀の目的は・・・・新羅が日本を占領したことを隠すことと・・・・(九州の)邪馬壱国の存在を隠すことにあった・・・・

隠さなければならないほどの重要なこと・・・・これについて考えてみたいと思います。
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月21日 12:52
閣下の落雷事件についての情報が間違っていました。
落雷は脳ではなく、心臓からだったようです。
心臓から四肢に拡がっていった・・・
10分ほど、電気椅子ショック状態に置かれていたそうで、それが終わると隣の大須観音の節分の豆まきをしている子供たちの掛け声が聞こえていたそうです。

福も鬼もうち・・・という・・・


わたしのように突き抜けていったわけではなかったそうですが、それはどういうことなのだろうと思うのです。
どこからやってきてどこへ行ったのか、わからない神の力のようなカメハメ波・・・わたしは1992年2月14日。
閣下は名古屋時代のことなので、まだ5年ほどまえか・・・・しかし・・・わたしは29歳のときだった。
あるいは閣下も29歳だろうか?

現実にはなんの接点もない閣下と、運命的に出逢って、御用と呼ばれるものに携わっている・・・
わたしを救えるのは閣下しかいないし、閣下を離れては無事ではいられないというのも感じている。
7千人のうち3人目だなんて・・・・わたしには世界にただひとりの人だと信じています。

http://www.youtube.com/watch?v=DhfcNOfSVJs
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月21日 13:20
チベットは、ソンツェンガンポ王以前のことが分からなく、唐の公女が降嫁したようになっているけれども、記録がないことには・・・

新羅史も、初心者には難解です。

武蔵国新羅郡から入ろうとしたのですが、『刀伊の入寇』というのが出てきて、元寇より以前、いろんな襲撃に日本はさらされていたのだ・・・と知りました。

刀伊の入寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

wikiの記事は無難ですが、これらの襲来について、記事作成に取り組まれる方は、民族感情を入れずに淡々と史実のみを列挙していただきたいです。
日本人主義って大和魂とは次元が違うように感じる。

武蔵国の先祖を遡っている今の御用、新羅の日本征服説にまじめに取り組まないと頓挫してしまいます。

◆ 新羅 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

『新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。
「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。
新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。
 7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。』

『新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、
・始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、
・第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、
・第37代宣徳王から滅亡までを下代   と分類する。』


始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代

『真徳女王』(ちんどくじょおう、生年不詳 - 654年)(在位:647年 - 654年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B
先代の善徳女王の妹
『647年1月に、善徳女王を廃して唐との和親を図ろうとした上大等の&#27607;曇らの内乱の最中に女王が陣没し、善徳女王派の金&#24254;信らによって勝曼が擁立された。長身で美人だったと言われている。』


以前、皇極・斉明天皇でると考察した善徳女王・・・

善徳女王(そんどくじょおう、? - 647年)は、新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)
新羅初の女王
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月22日 12:48
◆ 善徳女王 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B

『百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際的に孤立した状況にあり、それを打開しようとして唐に積極的に近づき、朝貢を重ねて、
635年には父の真平王に与えられていた〈柱国・楽浪郡公・新羅王〉の爵号を継承することができた。』

『642年7月には百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取し、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまった。
同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられている。
その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(キム・チュンチュ。後の武烈王)が高句麗に赴いたが、一時、人質にされた上、高句麗からの援軍は得られなかった。』

『643年9月には唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。
こうした唐の姿勢に対して新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、女王自らが任命した上大等の&#27607;曇らが647年正月に女王の廃位を求めて内乱を起こした。
上大等に代表される中央貴族に対抗して金&#24254;信ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月8日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られた。在位16年。
その後直ちに金&#24254;信らは真徳女王を立て、正月17日になって乱を鎮圧し、&#27607;曇ら20余名を誅殺した。
死後、唐からは〈光禄大夫〉号を追贈された。』



『善徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。
帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九層塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。
霊廟寺の建立と同時に、瞻星台(天文台)を築いたとも伝えられている。
 また640年には王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけとなったように、新羅の文化発展への貢献が知られている。』


・・・瞻星台(天文台)・・・慶州瞻星台(けいしゅうせんせんだい)・・・韓国では東洋最古の天文台と主張されている・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月22日 13:22
◆ 慶州瞻星台 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%B7%9E%E7%9E%BB%E6%98%9F%E5%8F%B0
『建材には、花崗岩が使われており、円筒状に建造されている。
地上部分の直径は5.17メ &#8203;&#8203;ートル、上層部の直径は2.5メートルである。
花崗岩は厚さ30センチに加工されており、27段積み上げられている。
地上部分に入口はなく、中腹部分にあたる13段から15段の部分に四角い窓が一つあり、中への出入りはハシゴを使い、ここから行われたようである。
内部は地上部分から花崗岩の12段部分まで土で埋められている。
19段と20段の部分と25段と26段の部分に床がある。』


こちらの記事も非常に参考になります。
http://dora-love-b.blog.so-net.ne.jp/2010-04-20
◆ 自由気ままな韓国一人旅 ◆
『材料は花崗岩です、そしてレンガ状のひとつの高さは30cm、数は361.5個、何かの数に似てますよね、そう、一年間の日数です、末尾の数字が逆になったら、現在と同じ計算になりますが、陰暦の一年間の日数なんだそうです。これだけで凄いと自分なんかは思います、1,300年以上前のことなんですから。

 画像を見て数えてみてください、窓の上下が各12段ずつで積み上げられています、言わずと知れた一年12ヶ月を現しています。

 頂上の井戸のへりのような形の岩は、新羅の「子午線」で、四角の面は其々がきちんと東西南北を示しているそうです。

 そして窓ですが、きちんと真南にあり、春分と秋分の時には窓からの光が塔の底までを照らし、夏至と冬至には塔の下の部分から日の光が完全に消える、という計算の元に作られていて、それによって春夏秋冬を分けていたということです。

 一番底で支えている岩、これも12個の長方形の岩なんだそうです。』


北斗七星の観測も?

◆ 慶州(キョンジュ)観光→瞻星台 ◆
http://www.busantabi.com/gyeongju/basic.html?m_idx=12&s_idx=118

『実際に一番下の南側面は北斗七星を眺める方向と一致していて、この近所の町の名前が ‘飛頭の道’であるのも北斗七星と他の星を比べて国家の吉凶禍福を占ったという意味だ。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月22日 14:02
そもそも契約の櫃なんて、本当に存在するのか?
したとしても、現代において神の効力があるのか?
それが伝承とおり、エルサレム→インド→秦→天台山→北京天壇→新羅天白山→日本とやってきたのか?

・・・わかりません。
しかし、信じたい。

3年前だったでしょうか。
定例の玉置神社への参拝時、玉石社に登っていったときのことです。
境内からずっと同じ流れで移動する韓国人らしきグループに遭遇しました。
他に参拝客もなく、このまま玉石社でぶつかるかもしれないな・・・とゆっくり移動するようにしたのですが、彼らは玉石社の前で蝋燭をつけ、儀式の準備を開始したので、玉石社への参拝を諦め、玉置山の頂上に向かったのです。
しばらくして、背後、下の方から、ベルの音が聞えてきて、玉置の森に拡がっていきました。

そのこころまで染み透っていくような音色を聞いた途端、わたしは言い知れぬ恐怖を感じて森の中を一心不乱に駐車場に向かって歩いていきました。

指導者のような40代くらいの男性と、あとは5,6人の女性で、少女もひとりいました。
白の変わった服装で、宗教団体なんだろうと感じました。
社務所でその男性が、いろいろな質問をしようとしていたのですが、神社の方ははっきりした返事をしていないようでした。
その中で一言「白頭山に行ってきたのです」と言っているのだけ聞えてきました。
そのときは、狂信的なグループなんだと感じました。
意味を理解できる情報を得ていなかったので。
ただ、早くしないと日本の御霊が取られてしまう・・・と感じて怯えていました。
彼らの信仰の深さが、行動の大きさが、日本人が失ったものだからです。
伝承とおり、天白山から玉置まで運ばれていたなら、彼らの奇妙な行動の意味が理解できます。


G天台山から北京の天檀に移されました。支那では天檀に祀った神を、至聖先天老祖(しせいせんてんろうそ=国常立神)と言っています。

「至聖先天老祖(しせいせんてんろうそ=国常立神)」
玉置の主神は国常立之尊・・・それが力が強すぎるので、抑えているのが卷族である倉稲之御魂・・・・そう玉置で聞きました。


天白山・・・おそらく白頭山
新羅と高句麗の国境

秦澄=三神秦澄=秦泰澄・・・らしい・・・
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/kouryuuji.html
『星、蛇、土は道教最高のもの。
三つ星は蛇であり、オリオン座。一つ
星は北極星、7つは北斗、5つは蠍座
あるいは南十字?1,3,5,7の聖数
を足すと16になる。天皇家の御紋16
菊花紋。空想ですよ。』
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月22日 20:56
新羅を理解するためにも、大陸・半島・日本の関係性を理解するためにも、朝貢と冊封の根拠となっている『華夷思想・王化思想』を受け入れる必要があります。

◆ 中華思想(華夷思想) ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%B7%E6%80%9D%E6%83%B3

『中華思想(ちゅうかしそう)とは、中国大陸を制した朝廷が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、朝廷に帰順しない異民族の独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化・征伐の対象とみなす、中国大陸に存在する伝統的な思考法。「華夷思想」「華夷秩序」などともいう。』

◆ 冊封 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

『冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。

 華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。
中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。
 これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。
 つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。』


・・・・・なんか日米関係ってこれとおなじじゃないか・・・
ロックフェラーが世界のリーダーを中国に決めたのが本当なら、これは流れですね・・・逆らえない・・・
新世界秩序の中で、日本が生きていく道を模索するしかないですね・・・

職場には中国人の女性も数名いるけど・・・・彼女たちの方が日本人より、なんか好き・・・「日本人の漢字、変ですよね」って・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月22日 22:01
『羅』つながりというよりは、『白』つながりへ流れていってますが・・・

“夜の世界は動いて昼のミロク世界の完成に”
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/hanasinotanesann.html

・・・夜とくれば月読尊です。

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/kouryuuji.html
『月読命の荒御霊はスサノウである。彼はオリオンの三つ星で現さ
れるから荒ぶる神である。
「参は猛悪にして血を好む」宿曜教
の一節である。参は「しん」と読む。オリオン三つ星で蛇。
スサノオと月読命はいつも表裏一体。
片方は荒魂、片方は奇魂。』


園の鎮守(ちんじゅ)の宮
http://www.rakuami.com/rakuami/hakuraku/hiwa.html
『伯楽園は常世国の姿を獅オ取った庭園ですから、常世の離宮(とこよのりきゅう)とも呼ばれます。伯楽園の奥庭には、瓢の杜(ひさごのもり)というところがあり、そこには白翁之宮(しらきねのみや)という常世尊が降ろし敷き建てた白庭山王宮があります。 伯楽園はまた月の離宮とも呼ばれています。なぜなら、白翁之宮の中庭には月弓尊が降ろし敷き建てた月の山宮というものがあるからで、その名を天白宮といいます。 このことから白翁之宮は天白山王宮とも呼ばれたりしています。天白山王宮こと白翁之宮は、全世界の白き山々の夜天に輝く月天、その赴{としての役割をも担っているということになります。 壽伯仙は伯楽園の庭守になる使命だけでなく、月弓尊の魂である天楽の心と癒楽の業を伝えるために人間界に使わされた、天白の使者でもあったのです。』


月弓尊(つきゆみのみこと)(同上)
『なぜなら月弓尊は弥勒菩薩の化身だったからです。月と救世主との関係は、数々の記録が世界に残されています。 これまでの話しを要点にまとめますと、常世尊が人々の魂を開花させる器を用意し、続いて月弓尊はその種を入れ、壽伯はその道を説き育む役目をするということです。  因に、常世尊の化身は福禄寿であるとされるのに対し、月弓尊の化身は布袋尊でもあったのです。』


暗示なる秘紋(同上)
『白翁之宮の扉には神紋がついています。その形は亀甲をしており、その中には二枚の柊の葉が抱き合うように交差した図になっています。柊は矛の代用とされており、矛は龍蛇の象徴でもあることから、柊の裏には龍王の存在が暗示されています。このことから、この宮は月の離宮であると同時に、龍宮であるのかも知れません。 それを示すものに、この宮の神軸には「正中に北斗太極を戴き、矛に姿を変えた龍神を脇に抱え、腰には瓢箪をぶら下げ、麒麟に跨って天空を駆け巡っては月に眠り、神亀に跨って海中を往来しては龍宮に遊ぶ」という白翁神仙の姿が描かれています。』


太白山
http://mutsusousya.web.fc2.com/taihakusan/taihakusan.html
『・太白山の名前の由来は、北朝鮮と中国の国境に位置する民族の山の白頭山(ペクトウサン) を基点とし、韓国南部の智異山までの分水嶺をなす骨格の白頭大幹(ペクトウデガン)から続いている太白山脈の、民族の霊山・太白山(テベグサン)からと伝えられます。』


・・・「正中に北斗太極を戴き、矛に姿を変えた龍神を脇に抱え、腰には瓢箪をぶら下げ、麒麟に跨って天空を駆け巡っては月に眠り、神亀に跨って海中を往来しては龍宮に遊ぶ」・・・・白翁神仙・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月22日 23:27
第37代宣徳王から滅亡までを新羅下代・・・つまり780年〜935年ですか。

(果たして宣徳王=桓武天皇?:http://toshihak.lolipop.jp/sohgen/s1270.html

◆ 唐 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
唐(618年 - 690年,705年 - 907年)

『894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。唐の都は長安にあった。

 705年(神龍元年)武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は1代15年で滅亡した。
 712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。
翌年、太平公主を処刑した。
 玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。
この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだ』


新羅滅亡・・・935年
唐 滅亡・・・907年
遣唐使廃止・・・894年


・・・華夷思想の衰退が神仙思想を成熟させたのか?

◆ 仙人としての聖徳太子? ◆
http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/dc5fd34ec952897631b35762738f0d32

『つまり、馬氏は、匡房当時は『本朝神仙伝』という題名が示すように、中国の中華主義に対抗する「本朝」意識が強くなっていたため、匡房はそれまでの太子伝に記されている太子葬送の場面を「尸解」と認定して改変したのではないか』


平安時代の文学興隆は、新羅・唐の滅亡から来る日本の本朝意識の高まりと関連しているのですね・・・おそらく・・・でも、それだけなんだろうか・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月23日 01:14
冒頭に紹介した瑞草会様の記事ですが、考察を導いてくれるにも関わらず、よくわからない・・・
理解するだけの知識がないからなのですが・・・

◆ 烏・燕・鳩を象徴する民族 ◆
http://www.geocities.jp/zuisoukai/kouzuiden5.htm

『・禹王の一族の契丹族は、後章で説明する『契丹古伝』を残している。

・さらに契丹族が遼国を建てて『遼史』を編纂して残しているが、契丹族の祖王のことを葛禹図可汗(遼史では葛烏兎可汗)と記していて、禹王=烏王であることがわかる

・契は帝舜の時代に治水を命じられた夏の禹王を助けて、黄河の修理に成功した人物であり、契も洪水伝説に関係している。

・契丹や殷の祖の契の名の「契」は契約の櫃の契であり、この漢字は神々の主のマルドゥークの魔力ある怪剣(大刀)を示すものであり、契丹族の祖王の名の葛禹図可汗の「可汗」は鏡の意味であると同時に、契約の櫃を担ぐ資格のあるアロンの直系のレビの尊称だった。

・契を祖とする殷族は周王朝に取って代わられるが、殷族は烏を象徴する契丹族や烏桓族や扶余族などに逃込んで、烏を象徴する部族に吸収されてしまう』


・・・・誰がどの国のどの族か、さっぱりわからないけど、非常に重要な原型を示しているように感じる・・・


@契(セツ)=契丹や殷の祖=契約の櫃の契=神々の主のマルドゥークの魔力ある怪剣(大刀)を示す漢字

A契丹族の祖王=葛禹図可汗・・・可汗=鏡=契約の櫃を担ぐ資格のあるアロンの直系のレビの尊称


・・・葛禹図可汗=葛烏兎可汗・・・葛烏・・・クズ・・・国栖・・・九頭龍・・・・?

◆九頭の大蛇(中国と日本の神話と文明 黒羽 寧著:西田書店)から◆
http://kamnavi.jp/jm/kuzukami.htm

『・・・この共工には相柳という家来がいた。相柳は九頭の大蛇で、いつも河の水源近くに棲み、九山に頭を差し 入れて絶えず悪水を吐き出していたという。この相柳は後に禹に斬られたが、おびただしい血が流れ、血腥く、 その地には五穀を植えることもできず、鳥獣も棲むことはできなかったという。
またこの共工には、修という子があって、父の支配している全国の河川を渡りあるき、あまねく天下を旅 して、全国津々浦々まで知りつくしていたので、旅の神、道祖神として祀られるようになったことが伝えら れている。』

 
なぜか検索して出てきた・・・気になって・・・
◆ 三星堆遺跡 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%9F%E5%A0%86%E9%81%BA%E8%B7%A1
『紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである』

・・・古蜀文化・・・殷とする記事も・・・

◆ 三星堆 ◆
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/china/sanseitai.htm

『三星堆(さんせいたい)は中国四川省成都盆地にある。
三星堆の名前は、土盛りが3つ星のように並んでいたから付けられた。』

『従来の中国の正史では、四川省の蜀が中原とかかわった記載が出るのは
春秋から戦国時代にかけてである。つまり、夏・殷・西周時代の蜀の歴史資料は何も知られていなかった。
夏・殷時代に相当する三星堆の青銅文明の発見は、古代蜀文明と四川省の歴史の空白を埋めるものであった。

蜀王本紀(前漢時代)と華陽国志(東晋時代)という四川省の古代歴史の文献によれば、蚕叢(さんそう)、柏灌(はっかん)、魚鳧(ぎょふ)、杜宇(とう)、鼈霊(べつれい)が、秦による征服まで蜀国の王として交替していたとされる。』

・・・・・・いろいろなキーワードが出てきますが、ひとつひとつが難解で・・・三星がそのままオリオン信仰に読み替えれればいいのですが・・・

しかし、オリオンと契約の櫃はどういう関係にあるのだろうか?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月23日 22:01
中原は数カ月前から続くシンクロのひとつですが、ここが発信源なのだろうか。

年代的に前後の感覚が未熟なので、まとまっているのから拝借。

◆ 西方雑纂 ◆
http://www18.atwiki.jp/kword/pages/82.html

『5000年前 エーゲ文明/■長江の中流域の屈家嶺文化(〜BC2600):大渓文化を継承、職集団分業化、城壁都市、黒陶、城内には運河。貧富の差。中流域では黄河の二里頭文化がのちに移植→黄河文明(竜山:父系制:夏につながる遊牧系)による征服か→黄帝による三苗征服伝説(三苗はミャオ族の祖:母系制):以後、500年間、緊張状態? 』

『4800年前■四川省で三星堆文化(〜BC1000):青銅器の仮面、仮面王国。城壁都市。金器・青銅器・玉器・象牙・子安貝、「立人像」「神樹」「縦目仮面」。
 史書によると古代四川省では蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が出現、太陽神信仰。
 天府の国と呼ばれ、長江上流域の中心地。
 内部抗争で紀元前850年ごろに滅び、新たにこの地方に拠点を作った勢力が「蜀」、「巴」という氏族国家。「巴蜀文字」はインダス系か。
■石家(せきか)河(が)文化【湖北省】(紀元前2800?〜紀元前1500?)長江中流域最大級の都城遺跡。屈家嶺文化を継承し、灰陶器、銅器。城壁、運河。石家河の住民は三苗民族とされ、堯・舜・禹に代表される黄河流域の勢力と死闘を繰り返した。
■日本:木製太刀、夜臼式土器。人口7万5800人/チベット高原でカロ文化』



どうしても苗族が出てきますね・・・
4大文明もあやふやなのに、屈家嶺文化?・・・屈原じゃないのか?・・・チベット カロ文化?・・・新石器時代か・・・


こちら地図があり、参考度良好・・・

◆ 日本を守るのに右も左もない ◆
1万年前〜3500年前の中国の歴史年表
http://www.nihon-syakai.net/blog/2010/12/001837.html

「三星堆」より
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/china/sanseitai.htm
『従来の中国の正史では、四川省の蜀が中原とかかわった記載が出るのは
春秋から戦国時代にかけてである。つまり、夏・殷・西周時代の蜀の歴史資料は何も知られていなかった。
夏・殷時代に相当する三星堆の青銅文明の発見は、古代蜀文明と四川省の歴史の空白を埋めるものであった。

蜀王本紀(前漢時代)と華陽国志(東晋時代)という四川省の古代歴史の文献によれば、蚕叢(さんそう)、柏灌(はっかん)、魚鳧(ぎょふ)、杜宇(とう)、鼈霊(べつれい)が、秦による征服まで蜀国の王として交替していたとされる。

三星堆の遺物は「縦目」をもつとされる「蚕叢」にあたる青銅の「縦目仮面」、河鵜を指すとみられる「柏灌」、「魚鳧」を表す青銅鳥頭などがある。
そして文献を分析した結果、魚鳧王と次の杜宇王の関係は、魚鳧王が土着で、外来の杜宇王が魚鳧王を倒して政権についたことを示している。』



『すなわち三星堆蜀を侵略した杜宇一族が 魚鳧王とその一族を処刑して
黄金の王杖などとともに「一号坑」に埋め、さらにその精神的よりどころであった巨大神殿を破壊し、そこに飾られた青銅製の神樹や仮面や人物像などを潰し焼いて「二号坑」に埋めたと考えられる。
それ以降、蜀の中心地は成都に移ったのであろう。』



Posted by 葛篠宮 at 2012年06月23日 23:47
オリオンと契約の櫃
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1040.html

オリオン座の真ん中にある3つの星が、古代地中海文明では三博士とも呼ばれ、この3つの星と、明るく輝くシリウスが直線状に並び、その線を延長すると地平線と交わる場所から12月25日に太陽は昇ります。  また、この明るく輝くシリウスが、イエスキリスト伝説のベツレヘムの星であります:明るく輝くベツレヘムの星に導かれ東方の三博士が太陽神イエスキリスト誕生を祝福にいくのです。  これが、太陽神の誕生日が12月25日であり、一度死んでから3日後に復活するという神話になってゆくわけです。

幕屋は 「契約の箱」 と呼ばれる、神の神聖なる箱を安置するための宮で、約束の地カナンに入ってからも、契約の箱は移動しました。 そして、契約の箱が一ケ所にとどまる最大期間は20年であったのです。  これは、旧約聖書の記録にあり、20年の後に契約の箱は移されてゆきます。
Posted by 霧島五郎 at 2012年06月24日 00:06
古代チベットに関する情報が少ないのは、中国の政策のためなのでしょうか・・・

なにかと登場する苗族。
三苗族・・・苗族・・・羌族・・・どう違うのかもわからないのです。
この羌族はチベット系らしいですが、吐蕃国とは戦ったそうです。

『『古代で遊ぼ』「中国と半島の始祖伝承」によると、中国最初の夏王朝の始祖である炎帝神農は羌姓(キョウ)、つまりチベット系であったという。』
http://www.nihon-syakai.net/blog/2010/12/001837.html


「チャン(羌)族の運命」
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/article/080525qiang.html
『周の歴代国王は羌族の娘を后としていることから、周族と羌族とは同盟関係にあったようです。』

ややこしいですが、神農との関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2
『漢代に五行説が流行するとともに炎帝と一体視されるようになり、西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。
国語に、炎帝は少典氏が娶った有&#34780;氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとあり、炎帝は紀元前2740年ころの古代中国の王で120歳まで生きたといわれている。炎帝は神農氏の部落連盟の跡に古代中国を治めた部落の名前ともなり、その首領は“炎帝”と呼ばれた。最後の炎帝は黄帝と連合して華夏族を成した。』


神農と羌族の関係をふまえて、

<日本と東アジア・年表>先史〜紀元千年
http://www18.atwiki.jp/kword/pages/82.html

・4070年前 禹、夏を興す。
・3600年前(BC1600) 殷(商)、夏を滅ぼし、興る:黄河の二里岡文化:甲骨文字(亀甲獣骨文字)と青銅器。殷は「夷」で北方民族か。王家の姓は「子」ないし「好」。祖先は契。河北省南部のショウ水から山東省にかけて活動。遊牧民族。鳥トーテム。ツバメ(玄鳥)を祖。/北方に鬼方:姓はキ(&#23231;:女偏に鬼)
・3046年前 周、殷(商)を滅ぼす。周の国姓は姫(キ)で漢民族。/殷の箕子、周を逃れ北方へ亡命。朝鮮に建国。
・BC1122 周の武王、殷の箕子を朝鮮王
・BC1100 晋、建国(国姓は姫)。このころ宋も建国(殷の末裔、国姓は  燕も建国(国姓は姫)
・BC1046  太公望により斉が建国(国姓は姜-BC386)
・BC949 九州北部で弥生時代早期(-BC915)。
・BC810 弥生時代前期(-BC350)
・BC806 鄭が建国(国姓は姫)。



中・韓・日を繋ぐ、なんらかの系が浮かび上がってくればいいな・・・と思ってます。


そして先ほどから登場の『蜀』ですが、

◆ 蜀の財源、もう1つの絹の道 ◆
http://voyage.s33.xrea.com/silkload.html

『アジア世界では蜀は絹の一大生産地であり、インドや西方に伝わった養蚕技術の発祥の地でもあった。「蜀」という漢字はそもそも養蚕の蚕を形で表したものであり、漢字の上部が頭を表し下部が蚕の胴体を表している。蜀は「養蚕の地」なのである。
 蜀が中国世界に飲み込まれたのは秦帝国の統一事業の時であり、この時に四川盆地に秦の城がいくつか建てられた。』

『養蚕の技術が生まれたのはかなり古く、紀元前三〇〇〇年頃、すでに蜀の地には独特の文化を備えた強力な国家が存在していた。四川省の三星堆遺跡から発掘された大量の遺物を見る限り、古代から蜀の王は巨大な財力を持っていただろう。そしてその財源は蜀の絹とそれを輸出していた絹の道「西南シルクロード」の存在にあると思う。今回は蜀の地と、そこから延びる南への交易路について調べてみた。

 古代からの中国世界の交易路は主に西域貿易と南海貿易の2つが存在した。「西南シルクロード」は南海貿易と同じ東南アジア・インドと中国を結びつける交易路である。この交易路は現在の雲南省を横断し、現在のミャンマー北部へと通じている。地図を見てもらえばおわかりかと思うが、現在でもこのルート上に都市が点在していることがその存在を示している。あのような山岳地帯に大理のような都市があるということは、「西南シルクロード」がけっして一部の冒険的商人が通るだけの例外なルートなどではなかったということを示すものだからだ。現在でもこの交易路上に住む人々の中にはこの交易路が機能していた頃の商人が昔を懐かしんでいるらしい。また、一説によると「西南シルクロード」は西北のシルクロードより二〇〇年ほど早く開通していたとも言われており、交易路の整備も遅くとも前漢の武帝の時代には行われていた。「西南シルクロード」は史書でもその存在を確認することができるが、前漢の武帝の頃、月氏の国に派遣された張騫はインドで蜀の物品を見て驚いた。彼は帰国後、蜀からインドへ至るルートがあることを武帝に報告し、それを聞いた武帝は家臣を派遣して交易路の修築を行わせたとある。この記述から、武帝以前からこのルートは四川土着の交易路として機能していたこと、武帝以後このルートは中国の中原においても認識されるようになったことなどがわかる。当時インドはローマ帝国と盛んに交易を行っていたのはギリシャ・ローマの資料や遺物などからもよく知られており、蜀→インド→ローマという具合に「西南シルクロード」は東西交流の大動脈を形成していたのだ。
 三国志の時代の蜀の地でこの交易路が活用されていなかったとは考えがたく、当然ながら蜀に興った2つの劉氏政権は「西南シルクロード」をフルに活用していただろう。』


長い引用になりましたが・・・(謝)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月24日 02:30
霧島五郎さま、コメントありがとうございます。
オリオンと契約の櫃の関係、今後の考察の参考にさせていただきます(礼)
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月24日 02:38
現在考察中の事象は長江文明に属するもののようです。
黄河文明とは別のようです。

苗族について、中国の民族問題が絡んでいるようで、定義が相違するようです。
長江文明を知るにつれ、懐かしく感じます。

苗族のルーツは三苗であり、三苗のルーツは九黎族らしいのですが、中国人学者・王勇氏は、長江文明の先住民ではないとしているそうです。
しかし・・・


◆ 民族の指紋 ◆
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/8e1a9c83c19ba1af6d2870c4c59905b2
第5章 長江文明

『王勇氏のいう越人・呉人とは、漢族から南蛮や荊蛮と呼ばれた苗系民族である。(九黎、三苗、南蛮、荊蛮は、漢族が各時代に用いた苗族の呼称である)。』


蚩尤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%A9%E5%B0%A4
『楚は三苗の貴族階級が建国した国と言われている』


苗族にこだわるのは、始皇帝が封禅の儀を行おうとしたとき、その祭祀をできるのは苗族だけだが、戦乱で離散して行方がつかめず、仕方なく道家(?)にその役をさせたので、真の儀式ではなかった・・・というような記事をどこかで読んだことがあり、それ以来、地上の統治を神に認められる儀式を行えるほどの苗族とは?・・・と気になっていました。


三皇五帝は、誰の信仰なのか?・・・苗族?・・・ならば日本は・・・

わたしはどうしても、ヤジローが実在していたと感じるのです。
彼らが苗族とどう関係するのかはつかめていませんが、ズバリそのものでは?という気もしています。

◆ むろまっち ◆
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=712

石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師
-日本国家の形成 -
『日本の国家としての形成は、鹿児島島津斉彬公の時代に国旗と国歌が作られた事に由来します。

鹿児島の島津家の当主の帝王学は、代々菩提寺がその任にあたって来ました。
菩提寺の開山石屋禅師は、1379年頃にインドネシアからアラブ人の高僧マホラムを連れて沖縄に戻り、その後、石屋禅師の娘とマホラムが結婚し、その子孫に琉球王や天皇が誕生する事となります。

石屋禅師の子孫の岩屋禅師ヤジロウは、天文学を始めとした天才といわれ、東南アジアから西アジアに至る広い範囲で貿易を手掛けていました。
1549年8月15日印度のゴアからフランシスコザビエルを連れて鹿児島に帰ったヤジロウは、山口でザビエルと地動説と天動説で論争となり、地動説でザビエルを負かしました。その20年後にガリレオが地動説を唱え、教皇がそれを認める事となります。

二人の出会いは、東洋と西洋を代表する神仕組み上の大切な出会いだったに違いありません。

鹿児島には、東西両文化をつなぐ天の秘密が隠されています。』


◆ 妙円寺 (日置市) ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%86%86%E5%AF%BA_(%E6%97%A5%E7%BD%AE%E5%B8%82)

『薩摩の戦国大名、島津義弘(戒名「妙円寺殿松齢自貞庵主」)の菩提寺である。禅寺であるため妙円禅寺、また妙圓寺とも記す。
1390年(元中7年)、当時この地の支配者であった伊集院忠国の11男である石屋真梁によって、長州の守護大名であった大内義弘の息女の供養の為建立された。』


・・・大内氏・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月24日 08:18
共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を 姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗った・・・・


◆ 三皇−神農(じんのう) ◆
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/sinwa/sinwa-2-7jinnou.htm
『正義』帝王世紀
『神農氏は姜姓。母は任ジといい、有キョウ氏の娘で、少典(諸侯)の妃に登り、華陽で遊覧しているとき、神龍の首と出会い、感精して炎帝を生む。姿は人身牛首、姜水で育った。聖コがあり、火コの王として炎帝を号した。初めの都城は陳、また魯に移った。魁隗氏、連山氏、列山氏ともいう。』

『國語』
 『昔、有熊氏の少典(諸侯)の長が有キョウ氏の娘を妻とした。妻は黄帝と炎帝を生んだ。
 黄帝は姫水の畔で育ち、炎帝は姜水の畔で育った。両者が成長すると、二人の徳が違っていた。そのため、黄帝を姫姓、炎帝を姜姓とした。この両者は徳の相違のため、軍隊を率いてタク鹿で戦った。』


・・・黄帝は姫水の畔で育ち、炎帝は姜水の畔で育った・・・

http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu911.html
・女登(?〜?)
  任ジともいう。有キョウ氏の娘。少典の妃となった。華陽で遊んでいたところ、神龍に感応して、神農(のちの炎帝)を産んだという。
・附宝(?〜?)
  有キョウ氏の娘。また地祇の子ともいう。少典にとついだ。北斗枢星をめぐる巨大な虹の光(オーロラ?)を見て、妊娠すること二十五カ月、軒轅(黄帝)を寿丘で産んだ。任ジと同一人物ともいう。』


・・・神龍に感応して炎帝(神農)を産み、虹の光を見て・・・軒轅(黄帝)・・・
・・・しかし、虹は龍におなじでは・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年06月24日 08:52
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/sinwa/sinwa-2-7jinnou.htm
『聖王同士の戦いを兄弟喧嘩にして和らげるための表現で、黄帝と炎帝では数百歳は年齢が離れているはず。結果は炎帝が敗北。炎帝部落の一部は華夏族と融合し、一部は強制的に転居させられ、長江中流と洞庭湖南北に移り住んだ。
 炎帝部落の幾多の支族が南下し、洞庭湖の平野から九疑蒼梧まで、湖南省の各地に移住した。この辺りに最初の炎帝陵の遺跡があった』


・・・この洞庭湖ですが、屈原のときもチョロチョロ出てきて気になっています・・・

先に・・・『北斗枢星』って、北斗七星とどう違うのかわからないですが、北斗七星にまつわる出生譚が黄帝の勝因なのかも・・・

では、何度も出てきているのに、よく知らない北斗七星とは?

◆ 北斗七星 ◆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%97%E4%B8%83%E6%98%9F

『北斗七星(ほくとしちせい Big Dipper)は、おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星で象られる星列のこと。
 北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれる。
柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられている。
日本では四三の星、七剣星とも呼ばれた。
δ星メグレズ(3.3等)を除く6星は全て2等星であり、全天で60個しかない2等星の10分の1がここに集中していることになる。』


『中国では柄杓の器の部分を作る、天枢、天&#29831;、天&#29859;、天権の4つを魁(かい)』
『柄の部分を作る、玉衝、開陽、揺光の3つを標または杓(ひょう)』

『あわせて斗と一字でよぶこともある。』

『北斗九星
宋の時代の道教の書『雲笈七籤』24巻「日月星辰部」では北斗七星と輔星、弼星と併せ北斗九星とされた。
 この九星には『雲笈七籤』24巻「北斗九星職位総主」によると別名あり、
天枢は第1 陽明星とし以下、
第2 陰精星 
第3 真人星 
第4 玄冥星 
第5 丹元星 
第6 北極星 
第7 天関星 
第8 洞明星(輔星) 
第9 隠元星(弼星)の魂神であるとする。』

・・・・ややこしいけど、こっちが意味ありそうな・・・


Posted by 葛篠宮 at 2012年06月24日 09:17
「マルドゥークは神々の支配のシンボルのシムトゥと魔力ある怪剣を持っていた。
そして日本神道の最高の祭主である天皇家では、
支配のシンボルの八咫の鏡と草薙の剣を三種の神器の二種としているし、
日本神道の大元である物部氏の祀る石上神宮には天下万物聚類化生大元乃神宝があり、霊力ある神剣フツの御魂があった。
シムトゥと神道は同じであり、シムトゥが八咫鏡(天下万物聚類化生大元乃神宝)であり、魔力ある怪剣が草薙の剣や神剣フツに相当することになる」
http://www.geocities.jp/zuisoukai/


◇ 麻賀多神社(台方)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E8%B3%80%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 『景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、
杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、
伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。

 応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。

 また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。
この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。
推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。」


 麻賀多神社(船方・台方)の伝承は、瑞草会さまの記事と照合するととても意味が深いと感じます。

◇ 麻賀多神社
http://www.genbu.net/data/simofusa/makata2_title.htm

『その古墳の前の案内板に、気になる記述があった。
「伊都許利神社社務所」と記されているのだ。
つまり、この古墳の直接の管理者は、麻賀多神社ではなく、伊都許利神社。
では、伊都許利神社とは。

問題は、古墳の東にある神社。
ある地図には、幼稚園の隣にある、この神社が伊都許利神社となっており、
別の地図では、金毘羅神社となっている。』


・・・神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命・・・
この『伊都許利命』の響きが、どうしても『伊斯許理度売命』をシンクロさせます。
鏡つながりではある・・・・

成田に答えはあるような気がしています。
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月10日 10:46
・・・神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命・・・ですが、阿蘇考察以来、重要な神である『神八井耳命』・・・

八で韻を踏むのが霊統のあかしなのか・・・

多氏の祖らしいですが、子孫とされているこの方の記事が興味深いです。

http://www.tukinohikari.jp/jinja-nara/ka-yawata-yai/


 また、神八井耳命系の国造の地も重要拠点です。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou4.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月10日 12:01
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/49937364.html
私が発見した稲敷郡(茨城県)から殷墟までの霊域ラインは、
 彼等が実測したことを立証している貴重な有形文化財である。
 彼等は夏の時代に、すでに九州はおろか東日本でも活躍して、
 水郷茨城を開拓しつつ中国に大帝国を作るほどの交易と往来をしていた。
 それは彼等が「商」を国名にした程、大規模だったのである。


・・・水郷茨城を見ているとそういう感じがするのはします。
この加治木説と、「神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命」と辻褄があえばいいのだけど・・・


神八井耳命系の国造の地図を見ていると、中央構造線に一致してるから、検索すると、以前引用の記事が出てきました。

http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/9e5017554ee50f926a438709f71c06d4『蘇我氏は武内宿禰と神功皇后に繋がる初期の妙見信仰を
持っていたと仮定したい。
そして三光の紋は蘇我氏が旗印として使っていたのではないかと考える。』

『千葉の地に妙見信仰を持ち込んだのは
蘇我氏であるのは間違いなかろうと思える。』

『宮城県仙台市にある青麻神社の神紋も気になっている。
この神社は西暦852年に山城国より移り住んだ海神族末裔の穂積保昌という人物が
日月星の三光を祀ったのが最初という。
この神社の神紋は麻の葉で六芒星を形作っている。
日月星の三光は武内宿禰⇒蘇我氏と引き継がれ
六芒星はユダヤ系民族(もしかすると伝説の徐福とか秦氏)に繋がる。
この二つを合わせた紋章は民族の和を表しているように思える。

岡本天明氏は麻賀多神社の摂社の天之日津久神社で啓示をうけたそうだが
この麻賀多神社はもともと麻賀多真大神=マガタマ大神を祀っている。
由緒としては応神天皇の御宇に神八井耳命八代孫の
印波国造となった伊都許利命=イツコリミコトが
奉斎したのが始まりらしい。
ところでこの成田市台方と船形は『 和名抄 』でいうところの
印旛郡八代郷に比定されているそうである。
今まで筆者は熊本の八代と繋がる武内宿禰−波多八代宿禰と
武内宿禰−蘇我石川宿禰を追っかけてきたが、
神武天皇─神八井耳命─多氏─健磐龍命⇒阿蘇氏系統と
神武天皇─神八井耳命⇒蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の系統を
筆者ホームページの「蘇我氏考察」で考察している。 』


三光紋は三つ穴灯篭と関係あるのだろうか・・・

しかし、『印旛郡八代郷』とは!!
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月11日 13:03
蘇我氏と物部氏の関係ですが、上記のHP[蘇我氏考察」では、スサノオが蘇我に婿入りしているのでは?という指摘もされておられます。

『これらを元に考察すると建速須佐之男命は物部系の布都斯という人物であったが、蘇我氏に婿入りし「須佐の王」となったというように読み取れる。
そして蘇我の系統としては八島野命に繋がっていき、
物部氏の系統は布都斯の息子の布都=大歳=天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊=大物主(大いなる物部の主)として
繋がっていったのではないかという気がする?』
http://reyline.web.fc2.com/soga/soga.html


熊本を検索していて、八代郡氷川町が出てきました。
氷川については、目下、考察真っ最中なので、氷川信仰の氷川なのか、氷川神社と阿蘇神社の関係を探っています。
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/nozuko.html


しかし、熊本城といえば、加藤清正なのですが、謎の人物です。
父、加藤清忠は武士業を廃止し、刀鍛冶だったそうですが、これも興味深いです。
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/higokatou.html

そして熊本城築城に用いた穴太衆・・・

『藤堂高虎と並ぶ築城の名手として知られ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。
また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。
この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。
その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用として使われている遺構も少なくない』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3


穴太衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。
現在の滋賀県大津市坂本穴太。
延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。
寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。
それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。
彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E8%A1%86


この穴太衆と王仁三郎の関係ですが・・・

「「王仁三郎の出自の穴太村という所は、穴太衆という海人の石工集団がいたところである。その土着の名家である上田家は生粋の海人族〔朝廷に漁業をもってつかえる1族。漁業のみならず石工、製鉄、木師などの職人集団を形成した〕であった」
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-566.html
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月11日 21:29
穴太衆・・・「それでも腕は認められ江戸時代になるとやっと「穴太六家」として各地に散らばり、石垣師として諸大名に仕えました。」
http://okwave.jp/qa/q3780915.html

穴太六家・・・検索してもよくわかりません。

「 穴太出雲 (?〜?)
 豊臣秀次に仕えた穴太衆。文禄二年、伏見城普請をめぐり穴太駿河、穴太三河と対立。後に協力して普請をするよう命じられた」
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/yamatotoyotomi.html


穴太出雲・穴太駿河・穴太三河・・・個人で衆ではないようです。

穴太とは?

「穴太衆(あのうしゅう)
戦国時代に大活躍した近江近郊の石積み職人の集団で、起源は穴、阿那(阿羅)から連想されるように朝鮮系の渡来人。」
http://shamada.net/weblog/ago/archives/2007/11/post-10.html


・・・穴・・・阿那・・・阿羅・・・

安羅神社
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/kusatsu/yasurat02/anamura.html
「御祭神を新羅国王子天日槍命なり」


白井神社
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/siraki.htm
『日本の神々3』に「穴太」という所を五箇所あげてある。
 京都府南桑田郡亀岡町穴太(亀岡市)
 奈良県吉野郡賀名生(吉野村)
 三重県員弁郡東員町穴太
 大阪府若江郡穴太村
 尼崎市穴太村(東園田町)

「尼崎市の旧穴太村付近を中心に4社の白井神社が鎮座。これらを紹介する。
 いずれも祭神は天手力男命である。日抱神である。
 『日本の神々3』によると、近江国志賀郡の穴太氏は古代朝鮮の伽耶地方の安羅の人々の末とされる。 地名の「穴」では大和の穴師兵主神社が思い浮かぶが、天日槍が入ったと伝わる栗太郡穴村には安羅神社が鎮座(現在の祭神は速佐須良比に素盞嗚尊が配されている)、元々は天日槍を祖神とする一族であったものと思われる。秦氏にかかわる神社と見ていい。」


新婚時代、一時住居した町が、「穴太村」と呼ばれていたとは・・・
しかし、「天手力男命である。日抱神である」・・・とは?

「東園田町4の白井神社の御神体は丸石だと言う。もちろん確認出来ていない。 近江国栗太郡穴村の安羅神社の御神体も丸石だそうだ。偶然かも知れないが、天日槍が追いかけた女神は赤い玉(一説には白い玉)の変貌したものであり、もちろん太陽の象徴でもあると思われ、日を動かす神の性格は残っているようだ。 日抱尊でもある天手力男命が祭神でも不思議ではない。」


「日抱尊」といえば、以前考察した飛騨か?

日抱神社
http://www.gifu-hemp.net/hidakison.html
「日抱神社祭神
五十猛神は
樹木の神
渡しの神
浮宝(船)の神
軍神の頭領神とされる」


日抱の神事は、日奉氏の「火炊き」の神事と関係あるのだろうか?
新羅との関係は・・・?


穴太衆と伊那衆の関係はどうなんだろう・・・
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月11日 23:31
「マルドゥークは神々の支配のシンボルのシムトゥと魔力ある怪剣を持っていた。
そして日本神道の最高の祭主である天皇家では、
支配のシンボルの八咫の鏡と草薙の剣を三種の神器の二種としているし、
日本神道の大元である物部氏の祀る石上神宮には天下万物聚類化生大元乃神宝があり、霊力ある神剣フツの御魂があった。
シムトゥと神道は同じであり、シムトゥが八咫鏡(天下万物聚類化生大元乃神宝)であり、魔力ある怪剣が草薙の剣や神剣フツに相当することになる」
http://www.geocities.jp/zuisoukai/


石上神宮の天下万物聚類化生大元乃神宝
http://www.geocities.jp/zuisoukai/isigami4.htm
『マルドゥークは魔力ある怪剣で海神ティアマトを切って、天地を分けた。
さらにシムトゥを授かったことで、宇宙万物を創造している。
 
万物の創造は、中国の磐古神話・古代インドのプルシャ神話・北欧のユミル神話などにもあるが、これは巨人解体神話であり・・・

象徴物から万物が創造されるのは・・・
石上神宮のフルの御魂の別名の天下万物聚類化生大元乃神宝と、
ユダヤ伝承のエベェン・シティア(世界の礎石)によって、全世界が創造されたという聖なる岩の信仰の 二つである。

 エベェン・シティアはエルサレムのモリヤ山の地下にあり、アブラハムが子のイサクを神の生贄として捧げた時に祭壇として用いた岩で、イスラム教の開祖マホメッドが、この岩から昇天したともされている。
この聖なる岩の上には、かってソロモン神殿があった至聖所で、現在はイスラムの岩のドームがそびえ立っていて、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にとっての絶対的な最高聖地となっている。

石上神宮の由緒書きによると、
フルの御魂は、「天璽瑞宝十種(アマツ シルシ ミズノ カンダカラ トクサ)に籠もる霊妙な御霊威とされ、
十種神宝(トクサノカンダカラ)と通称されているが、
「天璽(アマツシルシ)」は、マルドゥークが天にシルシを現したり、消したりした、天の璽(シルシ)のことになる。

不思議なことに、十種祓いの呪言では、「天下万物聚類化生大元乃神宝」という言葉が唱えられる。
これはエルサレムの地下にあるとされている万物が発生したという聖なる岩と共通した思想体系になる。』


・・・ティアマト・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88

「さて、孫の世代に当たる神々に、マルドゥク(エアの息子)という勇猛な神がいた。最強の武神たるマルドゥクは、ティアマトへ宣戦布告する。ティアマトのほうも、権威の象徴たる「天の石版」をキングーという神に授け、マルドゥクを迎え撃った。しかし、マルドゥクの力の前にキングーはあっさりと敗れてしまう。ティアマトはその巨体で戦いに臨み、マルドゥクを飲み込もうと襲い掛かったが、マルドゥクには秘策があった。ティアマトが彼を飲み込もうと口をあけた瞬間、暴風を叩きつけて口が閉じられないようにし、ティアマトの体の中へ剣を突き通した。さしものティアマトも、これには耐え切れず死んだ。

マルドゥクは彼女の体を二つに引き裂き、一方を天に、一方を地に変えた。彼女の乳房は山になり、そのそばに泉が作られ、その眼からはチグリスとユーフラテスの二大河川が生じたとされる。こうして、母なる神ティアマトは、世界の基となった。」


・・・マルドゥクは彼女の体を二つに引き裂き、一方を天に、一方を地に変えた・・・

これが、上昇△と下降▼であろうか・・・?


『日本神道はシュメール・アッカド・バビロニア・イスラエル・インドと明らかにつながっている。またシュメールの神々がインドに渡ってヒンドゥ教の神々になり、仏教に導入されて、須弥山思想(シュメールの生命の木が生えていた原始の崇高な山)となって、シュメールの宇宙観が引き継がれた。『旧約聖書』のエデンの園も生命の木の生えていた所であり、仏教もユダヤ教も元来はシュメール教だったと言えるのだ。』
http://www.geocities.jp/zuisoukai/isigami4.htm
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月12日 10:21
『マルドゥークはヒンドゥ教のミトラ・ヴァルナになり、弥勒と水天になった。
マルドゥークの持っていた神々の支配のシンボルはシンドゥ(ヒンドゥ)になり、インドラ神となり、帝釈天になった。』
http://www.geocities.jp/zuisoukai/isigami4.htm


帝釈天
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9

『帝釈天(たいしゃくてん)は、密教の守護神である天部の一つ。
バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイト条文にも見られるインドラ(梵: &#2311;&#2306;&#2342;&#2381;&#2352;、&#2311;&#2344;&#2381;&#2342;&#2381;&#2352;)と同一の神。
妻は阿修羅の娘である舎脂。梵天と一対の像として表されることが多い。
釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載される。
釋は字(あざな)、提桓因は天主のこと。

帝釈天の名はインドラの名前の梵: &#2311;&#2306;&#2342;&#2381;&#2352;、&#2311;&#2344;&#2381;&#2342;&#2381;&#2352; &#347;akro dev&#257;n&#257;m indra&#7717;のうち、&#347;akraを釈と音訳したものに、devaを天と意訳して後部に付け足し、indraを帝と意訳して冠したもの。』

http://kemono666.seesaa.net/article/267274541.html

&#347;akraを釈と音訳・・・釈・・・sakra・・・サクラ・・・佐倉・・・?
Posted by 葛篠宮 at 2012年07月12日 11:00
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