2012年08月01日

出雲大社と大国主命の謎

出雲の記事を読む前に、ぜひ目を通しておいて頂きたい。

アリオンが明かす古代史を基に、中矢伸一氏が書いた
『神々が明かす日本古代史の秘密』から少し紹介したい。

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国主の器ではなかった“虚飾の大王”オオクニヌシ

スサノオは、ニギハヤヒを大和へ送り込んだ数年後、
出雲の八雲村熊野で亡くなった。
そのあとを継いだのが、末娘のスセリヒメである。
オオクニヌシは、相続人であるこのスセリヒメの夫であった。
したがって、スサノオが没すると、
自動的に出雲から九州にかけての広大な国の長となった。
「大国主」と呼ばれたのはそのためである。

つまり、オオクニヌシは、養子として迎えられたのであって、
スサノオ家とは血縁関係はない。
この為、のちに日向系によって出雲の国魂神に祀り上げられた。
養子に来る前のオオクニヌシの素性については、
不明な点が多く、父母が誰であったかもよくわかっていない。

生まれたのは、西暦160年頃で、
出生地は現在の島根県飯石郡三刀屋街あたりであり、
180年代の頃にスセリヒメの婿になっている。
スサノオが死亡した時、彼は24〜25歳になっていたようだ。
性格は、名前とは反対に、国主としての器ではなかったらしい。
武人というよりは学者肌であり、そのことは大国主を祀る神社に、
薬の神や医学の神として伝えられている場合が多いことからもわかる。

オオクニヌシとスセリヒメの間には、3人の子が生まれた。
その末子が、国譲りで有名になる武御名方(タケミナカタ)であった。
タケミナカタは末子であるから、正統な相続権があった。
しかし、困ったことに、オオクニヌシは日向でも妻をもち、
ここでも子をもつため、相続権をもつ者が2人現れてしまうのである。
これが、のちに日向と出雲の相続権争いに発展する原因となる。

スサノオが亡くなったとき、オオクニヌシもまだ若かったために、
実質的な国の運営は出雲の然るべき人材が行なっていた。
九州にも役人が置かれ、アマテラスの住む日向には、
ときどき顔を見せる程度であったようだ。
後年、日向の都である西都に滞在する期間が長くなるにしたがい、
アマテラスは、大人しくて気立ての優しいオオクニヌシのことを
すっかり気に入ってしまったらしい。

そして、自分がスサノオの日向における現地妻になったように、
愛娘の多紀理姫(タギリヒメ)を妻として与えた。
アマテラスにはスサノオとの間に3人の娘がいたが、
そのうちの長女がタギリヒメである。
このタギリヒメは出雲名を三穂津姫(ミホツヒメ)といった。
また、大変に美しい娘であったとみえて、
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)とも呼ばれた。
木花咲耶姫といえば、ニニギノミコトの妻神とされているが、
実際は、このタギリヒメだったようである。

タギリヒメとの間にも、3人の子が生まれた。
高日子根(タカヒコネ)、高姫(タカヒメ)、
事代主(コトシロヌシ)である。
出雲名を、それぞれ武角身(タケツノミ)、
下照姫(シモテルヒメ)、伊毘志都幣(イビシツヌ)といった。
この末子のコトシロヌシを擁した日向族が、
相続権を主張して出雲に乗り込んで来ることになる。
なお、タカヒコネは、神武天皇の東遷の際に同行し、
その功績はヤタガラスとして『記紀』にも出てくる人物である。

オオクニヌシにとって、出雲は居心地のよい場所ではなかったようだ。
自分は養子で、義兄たちにいじめられていたという伝承が残っている。
また、正妻であるスセリヒメは、
父スサノオの相続人としての気位を持っていたらしく、
またスサノオ譲りの血は、末子のタケミナカタに受け継がれ、
オオクニヌシはどちらかというと、
彼ら母子に圧倒されてしまいがちであったようだ。

一方、日向の方には、
スセリヒメよりおそらく15歳ほどは若く、美しい妻がいた。
可愛い子供たちもいた。
そして、賢くて慈愛に満ちた母・アマテラスがいた。
オオクニヌシの気持ちは次第に出雲から離れ、
日向に滞在する期間が長くなっていく。
アマテラスが、政略的なことを考えて、
自分の娘とオオクニヌシを結婚させたのかどうかはわからない。
しかし結果的に、オオクニヌシは日向と結び就くようになった。
オオクニヌシの時代は、約30年の長きにわたったといわれる。
アマテラスにとっても、この時期は孫たちにも恵まれ、
最高に幸せな時期であったことだろう。

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オオクニヌシの死と九州の女王・アマテラスの誕生

西暦210年の半ば頃、オオクニヌシは日向の西都原で亡くなった。
五十五歳前後であったようである。
タギリヒメとアマテラスの悲しみようは、大変なものであった。
そのため彼らは西都原の地に、日向では異例の
「方墳」の墓陵を彼のために造り、そこに埋葬した。
方型の墓陵を造るのは、出雲式であった。
日向式は、円形の墓陵である。
西都原には、全体で千数百個を超えるおびただしい数の古墳があるが、
これらはすべて日向式の「円墳」か「前方後円墳」である。

しかし、この中にたった一つだけ、四角形の古墳がある。
なぜ出雲式の方墳がここに一つだけ存在するのか謎とされてきたが、
これこそオオクニヌシの墓だったのである。
オオクニヌシは出雲で死んだのではなく、西都原で死んでいたのだ。
出雲に彼の墓陵を探しても全く見つからないのは、そのためである。

なお、神武天皇が皇位を継承してからは、
出雲と日向が連合した血縁関係を象徴する意味で、
円墳と方墳とを合わせた「前方後円墳」が出現することになる。
宮崎県の都農町には、かつて「日向一の宮」と称した都農神社がある。
ここには、大国主(大己貴)一柱だけが祀られているが、
大国主だけが祀られている神社は、全国で出雲大社とここしかない。
しかも出雲大社の方は、大国主が死んでから五百年以上も経った
奈良時代に建てられたもので、それ以前にはここ一社しかなかった。
彼を可愛がっていたアマテラスの命により創祀されたのであろう。
神武天皇も、東遷にあたり、
この神社に立ち寄って祈願したと社記に記されてある。

オオクニヌシの死をきっかけに、
出雲と日向との間に深刻な軋轢が生じ始めた。
あるいは、それより以前から雲行きは怪しかったのかも知れない。
出雲の正妻の子が相続すべきか。
あるいは日向の現地妻の子が相続すべきか。
末子相続の習慣からいったら、
一番最後に生まれたコトシロヌシが継ぐのが正統である。

つまり、日向の方に権利がある。
しかもオオクニヌシは、
晩年は日向と繋がりが深く、死んだのも日向である。
しかし、だからといって、
出雲が素直に相続権を放棄するということは考えられなかった。
スセリヒメは自分がスサノオの相続人という気位があるし、
日向へ行ったきり帰って来ないオオクニヌシに対する嫉妬もある。

また、タケミナカタは剛毅な性格で、
跡継ぎにふさわしい人物と周囲からも思われていた。
本人とて、この話にはとうてい承服できなかったに違いない。
第一、日向などスサノオの時代に、出雲の属国となった国ではないか。
しかも、オオクニヌシは養子で、スサノオ家とは血の繋がりもない。
こう考えると、出雲の立場としては、
日向にこのまま相続を許してしまうというのは、
断じて受け入れられないことだったと思われる。

日向と出雲とが一緒にやっていけないのなら、
日向としては独自の道を進むしかない。
こうして九州は、独立の気運を見せ始めるのである。
しかし、日向側にも問題がないわけではなかった。
それは、コトシロヌシがまだ幼すぎるという点だ。
おそらく、5歳か6歳くらいであったはずだ。
相続しても、彼に統治は無理である。
そうすると、暫定的な解決策としては、
コトシロヌシを正統相続人として立て、
実力・経験ともに申し分のないアマテラスが代行政治を行うしかない。
ここに九州の女王・アマテラスが誕生することになる。


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それが『魏志倭人伝』の「卑弥呼」なのだが、
マクモニーグルが透視した卑弥呼は、
アマテラスではなく「下照姫」である。

それはともかくとして、日本神話によると、
大国主が天津神に国譲りを行う際、その代償として、
天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、
創建されたのが出雲大社だという。
だが、それは史実とは異なるようだ。

話をまとめると、「大国主」はスサノオと血縁関係はないが、
スサノオとクシナダヒメとの間に生まれた末娘(後継者)である
「スセリヒメ」と結婚したことで、出雲と日向を統治する王となった。
だが、晩年は日向との繋がりが深くなり、死んだのも日向だった。

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つまり、大国主は日向系の王だったわけだが、
日向族によって出雲の国魂神に祀り上げられ、
日本建国の父であるスサノオを差し置いて、
大国主の為に出雲大社が建設されたのだ。
別に、大国主が国譲りをしたわけではなく、
大国主が出雲大社の造営を求めたわけでもなかったのである。

それは良いとして、大国主とスセリヒメの間に生まれた末子が
「タケミナカタ」である。
騎馬民族は末子継承の慣わしがある為、
当然ながらタケミナカタには正統な継承権があった。
だが、大国主は日向でも、アマテラスとスサノオの
間に生まれた3人娘の長女「タギリヒメ」を娶った。
そして、タギリヒメとの間にも3人の子が生まれ、
末子の「コトシロヌシ」にも継承権が発生したのだった。

出雲の正妻の子「タケミナカタ」が継承すべきか、
日向の現地妻の子「コトシロヌシ」が継承すべきか……。
タケミナカタの方が相応しい気もするが、末子継承の掟からすると、
一番最後に生まれたコトシロヌシが王位を継ぐのが正統で、
日向の方に権利があるという。
これはなかなか厄介な問題である(笑)

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いずれにしても、出雲大社は日向系の神社なのだ。
出雲大社は千家と北島家が神職を司っているが、
南北朝時代に出雲国造家が二家に分かれたのが、この両家である。
兄弟での争いの結果、兄の系統が千家国造、
弟の血統が北島国造として両者ともに国造を名乗り、
祭祀は半分ずつ受け持つということで和解になった。

その出雲国造の祖は、天照大御神の第二子である
天穂日命(アメノホヒノミコト)である。
厳密に言えば、アマテラスがスサノオと結婚する前に生んだ子で、
スサノオの血は入っておらず、完全なる日向族の人物なのだ。

結論として、出雲大社は日向族の神社なのだが、
以上の話を基に考えると、もっと複雑な話になってくる。
まず、スサノオには、出雲の本妻「クシナダヒメ」と、
日向の地方妻の「アマテラス」がいた。
出雲・日向関係なく、一番最後に生まれた末子が継承者となる。
出雲の末子は「スセリヒメ」で、日向の末子は「キヨリヒメ」である。

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スセリヒメとキヨリヒメは、どちらが後に生まれたのか……。
それがハッキリしていないので何とも言えないのだが、
出雲に於けるスサノオの末子は「スセリヒメ」である。
そして、日向国は出雲国の属国だったので、
正統継承者は「スセリヒメ」ということになる。

だが、いくら末子継承が掟でも、女が王として君臨するわけもいかない。
それは一種の固定観念だが、古代から王は男が基本だったようだ。
故に、スセリヒメと結婚した日向族の人物が、
出雲国と日向国を統治する大王(大国主)となったのである。
尚、女王となったアマテラス(卑弥呼)を操っていたのは、
日向族の実権を握っていたアマテラスの義弟たちである。

そこで問題である。
スセリヒメは末子だが、男に王位継承権があるとなれば、だ。
確かに、スセリヒメは出雲国に於いてはスサノオの継承者だった。
だが、スサノオとクシナダヒメの子の中で、
男子の末子(第七子)は磐坂彦命(イワサカヒコ)だった。
スセリヒメはニギハヤヒやイワサカヒコのの妹に当たるが、
男に王位継承権を持たすなら、
イワサカヒコがスサノオの真の後継者ということになる。

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だが、スサノオは第五子のニゴハヤヒに王位継承の証「十種神宝」を授け、
大和国に派遣して、事実上の初代天皇として即位させたのだった。
そこから、また複雑な問題が生まれるのだ。

ニギハヤヒは長髄彦の妹「ミカシギヒメ」を娶り、
「ウマシマジ」「タカクラジ」「イスケヨリヒメ」をもうけた。
末子はイスケヨリヒメであり、イスケヨリヒメに皇位が継承されたが、
結局は女帝というわけにいかないため、
日向国から「イワレヒコ」という人物を養子として迎えた。

スサノオの出雲の末子「スセリヒメ」が大国主を養子に迎え、
大国主が大王になったのと全く同じ構図である。
そして、イワレヒコが第二代天皇に即位し、
天皇家は日向系で固められていったのだ。

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「神武天皇の東征神話」は、スサの王となった
アレクサンドロス大王の東征伝説の投影で、
「神武天皇」という称号は本来、
その肩書きを継承する出雲族のスサノオの系統で、
初代天皇を意味する称号でもある。

即ち、「真の神武天皇」はニギハヤヒなのだが、
後世に於いてニギハヤヒの存在は抹消され、
イワレヒコが初代天皇「神武天皇」というように記録され、
イワレヒコの畿内入りの逸話もアレクサンドロスの東征伝説に
重ねるようにアレンジして記録されたのだ。
そして、イワレヒコを初代とする日向系天皇の歴史が始まった。

誤解のないように言っておくと、
イワレヒコがニギハヤヒの大和国を征服したのではなく、
出雲族と日向族の話し合いのもとでイワレヒコが養子に入ったという。
従って、それ自体は問題ないのだが、その時の条約で、
天皇は日向族、皇后は出雲族(物部系)から選ぶという誓約があったが、
次第にその条約は放棄されていったという。

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それで天皇家は日向族で塗り固められていったのだが、
その天皇家にも、「スサノオ―ニギハヤヒ―イスケヨリヒメ」
という出雲族の王位継承者の血が流れていることは確かなので、
現天皇家は事実上 由緒正しい血統であることは否定できない。
実際問題、現在の天皇家が解体されて、
新たな天皇家が誕生して世界を統治するとは考えられない。

だが、そこでよく考えてみて頂きたい。
出雲国に於いて、スサノオの末子のスセリヒメが継承者となった。
しかし、本当の王位継承者は、スセリヒメの兄で、
男子での末子だったニギハヤヒだったことを忘れてはならない。

つまり、ニギハヤヒの真の後継者はイスケヨリヒメではなく、
次男の「タカクラジ」だということになるのだ。
長男のウマシマジの系統は「物部氏」だが、
次男のタカクラジの系統を「尾張氏」という。
結論から言うと、尾張氏が真の王位継承権を持つ天皇家なのだ。

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尾張国総鎮守「尾張大國霊神社」の祭神の正体は、
「天津甕星」だという説がある。
天津甕星は『日本書紀』で唯一、悪神として登場し、
東へ東へと追いやられて封印された。

「悪神」というのは、ニギハヤヒ亡き後の大和朝廷(日向族)
に抵抗し続けた、まつろわぬ者(鬼)を意味する。

スサノオは出雲で崩御し、ニギハヤヒは大和で防御し、
偉大な王として手厚く葬られている。
ということは、人間界に於ける「艮の金神」は、天津甕星なのだ。

新説「艮の金神=天津甕星」と獣
http://messiah666.seesaa.net/article/218033222.html

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『日本書紀』曰く、経津主神(フツヌシ)と武甕槌命(タケミカヅチ)が
天津甕星を誅し、葦原中国平定を行なったとされているが、大嘘である。

タケミカヅチの別名は建布都神(タケフツ)で、
フツヌシと同一神(同一人物)である。
しかも、フツはスサノオの父であり、天津甕星の先祖に当たる。

つまり、フツヌシとタケミカヅチが天津甕星を征討したというのは、
例えて言えば、明治天皇と睦仁(明治天皇の名前)が
平成天皇を征討したというのと同様で、有り得ない話なのだ。

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それはさて置き、天津甕星は、葦原中国平定に最後まで抵抗した神
ということで、建御名方(タケミナカタ)と同一視されることもある。
どちらも出雲族ではあるが、両者が別人であることは確かである。

タケミナカタは前述の通り、出雲に於ける
スサノオの後継者であるスセリヒメと、大国主の末子である。
つまり、本来は「タケミナカタ」に王位継承権があったのだ。

だが、大国主は日向のタギリヒメとの間にも3人の子を設け、
一番最後に生まれた「コトシロヌシ」が、
真の王位継承者であるべきだったとも言える。

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さて、タケミナカタは長野県の諏訪大社に祀られている。
実際にタケミナカタが諏訪まで来たかどうかは分からないが、
諏訪湖周辺は出雲族の亡命地として知られており、
天皇に成り損ねたタケミナカタを族長とする出雲族一派が、
日向族との抗争で諏訪まで逃げてきたのだろう。

いずれにしても、スサノオが末子ではないニギハヤヒに
王位を継承したことは、掟に反することだったことになる。

だが、掟に反したとしても、
王として相応しい人物でなければ国を治めることはできない。
故に、ニギハヤヒに「十種神宝」が与えられたのである。

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ニギハヤヒが末子のイスケヨリヒメを相続人としたのは掟通りだが、
もし「カタクラジ」に王位を継承していれば、
タカクラジが第二代天皇となり、天皇家は尾張氏の家系となっていた。
天津甕星は物部系だと言われているが、どうも尾張系だったようだ。

天津甕星は最後まで朝廷に服従しなかった出雲族一派の族長で、
「金星」「蛇」を意味する名前であることから、
スサノオ―ニギハヤヒ―タカクラジ……という
「艮の金神」の系譜であることを物語っている。

ニギハヤヒを祖神とする籠神社の海部氏も尾張氏の系統だが、
尾張氏の偉大な王はやはり「天津甕星」であろう。
そして、尾張大國霊神社の神職を代々務めている久田氏が、
天津甕星を祖神としているのだ。

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獣の御父は長崎出身で、尾張久田氏とは無関係だが、
久田姓のルーツを検証していくと尾張に行き着くのだ。

「自分は偽物だった。本物は美濃尾張から現れる」

という王仁三郎の反キリスト予言とも関係している。

結局、久田姓の発祥は尾張氏ということになるのだが、
最初に久田姓を名乗ったのが、鴨神社から派遣された中島連なのだ。
また、籠神社の海部氏も「鴨一族」を名乗っている。
これは一体どういうことなのか……。

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久田姓は、諏訪大社の御佐久田(ミシャグチ)明神に由来するが、
久田氏や海部氏に賀茂氏が養子に入り、調和的に乗っ取ったと考えられる。

乗っ取られた(乗っ取った)というと言葉は悪いが、
賀茂氏は天皇の祭祀集団で、不可欠な存在であり、
封印された側と封印した側の融合が実現しているのが獣なのだ。

故に、△(出雲族)と日向族(▼)を統合した中心なのである。

筑波王国再建プロジェクト
http://messiah666.seesaa.net/article/216472112.html
諏訪大社(上社 本宮) in 長野(2011.10.12)
http://messiah666.seesaa.net/article/231928214.html
美濃尾張(身の終わり)の御用
http://messiah666.seesaa.net/article/219733817.html


posted by ZERO at 19:40| Comment(8) | 歴史・アカシック修復 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
スサノオは1〜2世紀の人物ですか、金首露は生年42年〜没年199年という超人ですがやっぱ気になるなぁ(笑)

以下、妄想説コメ(スルーで!)
http://www.geocities.jp/taru638/page015.html

「[韓語でフツは、火、赫(かがやく)く物の意味があった。]
[「赤」といえば、紛れもない物部の皇軍だった。彼らの太刀の柄(つか)には赤い丹塗り(にぬり)を施し、刀尻には赤い布を裁って飾っていた。そこで、物部の宝剣は、「赤」というアイヌ語、「フレ」が語根であるとも考えられる。子音のr音は、t音に日本語化されるので、フレはフツにもフルにもなるのである。]
と言うのもあった。

これが真実ならば首露王伝承とも関連する可能性もある。

「首露王は赤い布に包まれた金の箱に入って亀旨峰に降臨した。」
「クジフル」は言い古されてるから置いとくとして 「フツ」「火」=赤い。
「金」=輝く。「フル」=「赤」、そして「降臨」など。
「布留御霊、布都御霊」は首露王伝説の投影ではないか。

首露王を包んだ「赤い布」と太刀(物部の象徴)を飾った「赤い布」だから。」



宇佐八幡宮(亀山)の八幡神降臨伝承と首露王の亀旨峰降臨の関連性。
日の出の赤い太陽を表す(日の丸説あり)、赤い瑪瑙の玉の化身とされる赤留姫の「赤」も何か関係が有りそうな無さそうな・・・
Posted by 破地獄の種子 at 2012年08月02日 03:19
首露王も、スサノオ・モデルの一人でしょうね!^^
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/833e2699643dd5f02573b3b4ddc8eeed

スサノオを祭った八坂神社を建てたのは高麗氏
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/25370895.html
屈強な高麗騎馬兵が、何故あまんじて日本の天皇の思惑に従い信濃国に扶植されたのか?次代の天武天皇にとっては、今後開拓していく東国の経営方針と、唐・新羅に滅ぼされ大挙押し寄せる亡国の渡来人難民の就職先の確保という部分において、利害が一致したようです。

高麗氏と天武も、スサノオモデルに取り込んでいるようです。^^
なんか高麗氏=物部氏?っぽい。(適当)


ミカボシの事も、ザックリ解明できかけてます。^^
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/bokei/bok-43.htm
星の神天香香背男(あまくがせお)、またの名を天津甕星(あまつみかぼし)という。甕星とは明けの 星、宵の明星すなわち赤い金星
天香香背男は天背男命だった。背男とは、山背国の男。
天背男は葛城国造からその系譜は引かれていた。しかも、役氏、あの役小角の一 族であった。
葛城直家の元系母族が出雲神系である
星神天香香男、その叛逆の心は、あの出雲族から葛城山へ流れこんだという

>尾張の星神系譜
尾張国大国霊神社神職家の系図の冒頭、したがって最初に先祖として選ばれたそ の名が天背男命だったのです。系譜はその後、何代かも分からぬ空白があって、 いきなり中島連から後代にながれています。
『賀茂神官賀茂氏系図』に「中島連祖、鴨県主、鴨為弖、中島 県主」とあった。尾張国大国霊神社神職家の中島連は鴨神社家から派遣されたの だ。中島県主とあるが、大国霊神社神の所在地それ自体が尾張国中島郡にあるか ら、地元の人なのではないか。
一説にとあつて<高魂命ー伊久魂命ー天押立命ー>とある。三代目の天押立命と は、先に「天壁立命子天背男」とあった天香香背男の父親にあたります。

それにしても、葛城山とは不思議な山です。中世にいたって千早城から挙兵した 楠木正成もまた、自ら死ぬために歴史に現れたかの様な人でした。(総裁シンクロ)
葛城高尾張から一部が移住して尾張族が成立したそうです。
Posted by 総裁越楠 at 2012年08月02日 15:59
>天香語山命が饒速日命の子(高倉下?)として取り込まれた理由
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_tree_r_8492.html
天稚彦は天背男命・天津彦根命以外にも多くの別名を持っていた
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_tree_r_8461.html
山代)久我直は、山城国乙訓郡久我郷発祥で、天津彦根命を祖とする山背国造の一族。つまり、天背男命=天津彦根命ということです。
また、天神立命(天押立命とも)は、久我直が奉斎した、山城国乙訓郡式内社・久我神社の祭神・建角身命の父で、摂社・歯神社に祀られます。
建津身命の後裔といえば鴨県主・葛城国造一族ですが、天背男命を祖とすると記される「尾張中島海部直」も、鴨県主為弖から出た一族でした。
つまり、天背男命=天神立命(天押立命)=天津彦根命ということになります。
Posted by 総裁越楠 at 2012年08月02日 16:02
>ヤッズさんのミカボシ考察ともシンクロ率高そうです。^^
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2348.html
経津主(フツヌシ)の「フツ」は徐福(ジョフツ)の中国語読み「フツ」から来ていて、東三川の徐福国を討伐し管理者となった故に「フツ主」と称されたのでしょう。
熊野権現もそうですが「布都(フツ)」も徐福(あるいは広範囲に徐福国王)のこと。

問題は「ミカ」という言葉。この「ミカ」というのは非情になれる為政者向きの小乗仏教を信仰していたが、表向きは先住民恭順化をする為に景教信者を装っていた百済王家から婿入りしてきた倭武大王(百済昆支)の洗礼名だったと語り部はいう。(コイツがオオクニヌシなのか?マスオさん?婿養子)^^;

倭武大王(百済昆支)も、ミカボシ・モデルの一人っぽい。
日本武尊もこの倭武をモデル(一部は倭建=天武天皇がモデル)?
「豊葦原中国」に放逐されたのがスサノオは、蚩尤(しゆう)と天武天皇の逸話から作られた神だとか。
Posted by 総裁越楠 at 2012年08月02日 16:05

>「賀茂氏=秦氏」
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-1980.html
物部氏の中にも秦神道(八幡・稲荷)を受け入れて改名した者もいる筈ですし、語り部によると、機織・酒造・製鉄...等の大漢式技術と引換に八幡・稲荷信仰を勧める政策をした出雲王朝末裔系の邇波広高(景教徒)が後に「秦河勝」と改名したのが秦氏の始まりだといいます。

この邇波氏は後代には蘇我氏(葛城氏、後の鞍作氏)として知られていますが、ちなみに、蘇我の名は本来は「宗我」であり、聖書記述の「我れ蘇り」から名付けられた架空の名であるという。廃朝して国譲りした出雲王朝直系末裔が蘇我入鹿(鞍作毛人)ですが、この入鹿の孫に役小角モデルとなる「神(カムイ)虫麻呂」を祖として賀茂氏は興ったといいます。賀茂氏も秦氏も邇波系(出雲)だったのです。


>タタラの技術が、高倉下一族につながり神剣が出来て、神武天皇に献上された?
http://k-kumagoro.com/modules/tinyd4/index.php?id=8
天武天皇の草薙剣の呪いって、放射能被爆かもね。^^;
Posted by 総裁越楠 at 2012年08月02日 16:07

>(葛城毛人=蘇我入鹿)大和の葛城を領地としていた大国主(蝦夷)系の葛城氏(=蘇我氏)は、渡来系天皇である崇峻天皇によって葛城領を取り上げられ、名を「葛城」から「鞍作」に変えざるを得なくなった。
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-1738.html
どちらかといえば、蘇我氏(葛城氏)は聖徳太子(倭聖=高向王がモデル)が奉じた景教に近かったのではないでしょうか。ちなみに、語り部のよると、記紀記述の蘇我は「我は宗家」という意味の「宗我」を蔑字化、入鹿の名は「そんな者いるか!」から来ているそうですw このことから類推するに「蘇我」とは「我は蘇りである」というイエスの言葉をもじったのではないでしょうか。

>天火明命=ニギハヤヒ 
尾張氏(尾張連)、海部氏など多くの氏族の祖神
>籠神社 天橋立
http://www.motoise.jp/main/saishin/kono/index.html
言わずもがな、総裁のルーツ!^^


とにかく、スサノオ=ルシファーで、ナイトルシファー!
いろんなシンクロ(難波・サミット・出雲)が起きている!
なんか、ワクワクします〜。^^
高倉下に、X(越楠)ライダーを奉納なんて素晴らし過ぎです。^^
ホアカリとミカボシの合神!?です。(笑)

Xライダー日本に上陸!?
http://www.xlider-japan.com/index2.html
ポアロといい、コレといい、天流れシンクロ連チャン大フィーバーです。^^
Posted by 総裁越楠 at 2012年08月02日 16:16
なななんと、これはドエライ事件じゃ〜!?

535年に大阪に隕石落下があり、日本の文明が大きく変わった!?
http://calseed.blog31.fc2.com/blog-entry-43.html
天体衝突:紀元5世紀?〜7世紀頃?、近畿地方に天体落下があり、当時の政治・文化中枢がほぼ絶滅するほどの被害があったらしい。人的物的被害が甚大で、それ以前の文化との断絶も起きた。あまりに悲惨な出来事であったため当時の人々はこの出来事を記憶から消してしまい、公的記録にも伝説にも残らなかった。。。

これを境に実質的に日本の文明が一旦リセット!?
現在の大阪府枚方市と交野市あたり一帯にすぐれた天文学を持つ文明があった?

>まさに、ミカボシって感じですね!^^;

他にも、資料コメ
http://blog.goo.ne.jp/hikozx33/e/bc1a7be705c946c686e3f7c7d3abaa06
田京が日本の歴史に大きな意味がある土地?

Posted by 総裁越楠 at 2012年08月02日 17:27
総裁、3Xです。

「灰色の脳細胞」使いすぎですよ〜(汗)
しかし興味深いです。

亡命してきた高句麗人が信濃国に扶植とは・・・高麗氏も物部氏と同化したと考えられます。
善行寺が百済寺というより、高麗寺とでも呼ぶほうが実質に見合っていたというのもナルホドです。

天背男は葛城国造の系で、役小角の一族・・・ド級な説ですね(汗)母系が尾張系か出雲系ということですか・・・

倭武が真の大国主を自称する為に作り上げた話が多いらしいです。
日本武尊は天武や倭武やスサノオの集合体らしい(笑)

「宗我」に関しては、閣下の出雲巡幸の須我神社の「須我」との関連を確かに感じますね。蘇我がスサノオの一人でもあるのかもです。
正直、蘇我という我蘇りなんていう表記は胡散臭いとずっと思っとりました。(いかにも創作した名前っぽい)


隕石の話はどこかで見たと思ったら、コレでした。

http://majinnnn.jugem.jp/?eid=973
「 大阪 枚方交野には 西暦535年の星空を模してある(空から見て正しくなるように左右逆転)。
微積分を使って地球の歳差運動を計算できた。
古代にピラミッド地域にいた人々が日本に至り、同じ計算式を使って大阪で作った。」

http://majinnnn.jugem.jp/?eid=972
「 西暦535年、直径5〜6mの隕石が落下して奈良を直撃。
半径100kmに被害をおよぼし 当時の都の文明人は消滅した。
生き残りから聖徳太子。」

枚方交野の神社群は、535年の星空を表現していて隕石落下以前に造られたとか・・・

「田京」伊豆の国・伊都国説が出てきましたね!!
伊都国は伊豆だと僕も密かに思ってます。(忍)
Posted by 破地獄の種子 at 2012年08月02日 18:54
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