2012年09月25日

汝、5次元にアセンションせよD

今日で秋の彼岸は終わりだが、
獣ハウスでは彼岸になると比叡山の掛け軸が掛けられる。

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彼岸とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、
煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸
「此岸」と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。
(Wikipedia)

つまり、彼岸は「涅槃」と同義語で、輪廻を解脱した5次元の世界なのだ。

「般若心経」は次のように締め括る。

ギャーティ ギャーティ(往ける者よ 往ける者よ)
ハラ ギャーティ(彼岸に往ける者よ)
ハラ ソウギャーティ(彼岸に全く往ける者よ)
ボウジ ソワカ(悟れよ 幸あれ)


「色即是空」を真に悟れば、彼岸に往けるということだ。

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仏教の定義では、輪廻を解脱して彼岸、
つまり5次元の涅槃(仏の世界)に入った者を仏(仏陀)と呼ぶ。
ところが、『日月神示』には次のように示されている。

「仏には仏の世界はあれど、三千年でチョンぞと申してあろう」

これは一体どういうことなのか(笑)
ここで言う「仏」は仏教徒を指し、
「仏の世界」とは大乗仏教のことを指しているのだろう。

仏教の使命期間は世界的にも日本的にも終わっているらしい。
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本当は、大乗仏教の使命はまた別の意味でこれからが本番なのだが……。
それはともかく、釈迦の教えは時代関係なく不変的な真理である。

その教えとは、輪廻を解脱して涅槃に入ることである。
その為に、釈迦はヴィパッサナー瞑想を教えたと同時に、
言葉では説明できない真理の断片を、方便を用いて説いたのだ。

では、釈迦が説く輪廻解脱(5次元アセンション)の方法を見てみよう。
この記事のカテゴリーは「超科学と意識進化」だが、
釈迦は古代の超科学者なので矛盾はしていない。
「自叙伝『破滅に向かって』」を挟んだところで、
「汝、5次元へアセンションせよ」の続きを再開したい。

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獣はこの人間界を観る時、あらゆる現象や物質、人や人の話など、
総てを自分の「投影」であり「空」であると認識している。

日常内観や種観霊をして生きている人は、そのような認識ができなくても、
常にそのことを意識した上でネオデジタル思考をする必要があるが、
それを仏教では「諸法皆空」というらしい。

それでは、獣が小学生の頃に読んでいた
桐山靖雄氏の『守護霊を持て』の中から一部抜粋する。

仏教では、ものの存在について考えるとき、「諸法皆空」という。
諸法とは、すべての存在、人間をも含めて万物をいう。
その万物が、ことごとく「空」だというのである。
しかし、物質の空観は理解できても、人間まで「空」とは納得できにくい。

ここに、阿含経典の「那先比丘経」(ミリンダ王の問い)が、
巧みな比喩をもって、人間にも自性のないことを説き明かすところを見てみよう。


詳細は、画像を拡大してお読み頂きたい左斜め下
(読まなくても良いが、出来れば読んで頂きたい)

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業が人間を生ずる
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人間を生ずる核は何か?
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引き続き、一部を抜粋する。

タンハーは「のどの渇き」という意味で、ブッダはこの言葉によって、
のどの渇いた者が水を求めてやまないような、激しい欲望を表現したのである。
それは、概念を表すための術語というより、
むしろ比喩的な表現といったほうがよいであろう。
それを、シナの経典翻訳者たちは、漢訳して「渇愛」とし、
さらに、のちゎ「愛」としてしまった。

これについて、増谷文雄氏は、

『ブッダ・ゴータマは、同じ欲望の激しい営みを
〈ラーガ〉という語を以て表現した。
最初の説法での用語は〈渇愛〉であったが、
やがて彼はこの〈ラーガ〉をより多く用いるようになる。
その原意は「赤」もしくは「炎」で、それによってブッダ・ゴータマは、
赤き炎にも比すべき欲望の燃え上がる姿を語ったのである。
シナの経典翻訳者たちがそれを「貪」と訳したときには、
その言葉の原意は全く失われてしまった』
(『仏教の思想1』角川書店)

と述べておられるが、タンハーも「渇愛」と訳され、「愛」とされた時点で、
ブッダが表現しようとしたものは失われてしまったのである。
これは、愛(着)とか貪りという、人間の日常生活における
感情のいとなみといったようなものではないのである。
それは、生命における原初的根元的なものである。

生命が生じ、それが継続・展開してゆくためには、
根元的な何かの力がなければならない。
それは、燃え上がるように強烈で、灼けつく喉の渇きが
必死に水を求めるような、激しい「求める力」である。
それは周辺に向かって激しく求める。

その力があって初めてそこに生命が生じ、生命は継続発展してゆくのである。
いうならば、生命が自己表現したいと「渇望」する力である。
それを、ブッダは、タンハーと呼び、ラーガと表現したのだ。

哲学者ショペンハウエルは、
『生きとし生ける者の内には、生命そのものの源泉から
力を汲み取っている隠れた盲目的な意志がある』
と言っているが、同じものを指して言っているのだと考えてよいだろう。
それは生命そのものなのである。

生命とは何かというと、
自己表現しようとしてやまない「盲目的意志」そのものではないか。
自己表現しようとして渇望してやまない力そのものではないか。
それをブッダはタンハーと表現したのである。
これを漢訳アビダルマは、「思と思の所作」としてしまったのである。
タンハーを「愛」とし、ラーガを「貪」としてしまった誤りと
同じ誤りをおかしたものといってよいであろう。
おわかりであろう。これが業の本体なのである。

だが――ここでまたあなたはいうかも知れない。

「生命を発現させ伸展させてゆく、生命自体が持っているところの
強い欲望そのものを、“業”と呼ぶのはわかったけれども、
それは、単に生物すべてが持つ生命力ともいうべきものであって、
それをどうして“業”と呼ばなければならぬのか。
それにまた、さきに“自業自得”といわれたが、
それはやはり“自業自得”ということはできない。
生命の根元といおうが、盲目的意志といおうが、
タンハーと呼ぼうが、ラーガと呼ぼうが、それはやはり
両親から受け継いだものであるから、自業自得とはいえない」

そう、あなたはいうかも知れない。
そうではないのである。
タンハーは、肉体が消滅しても、決して消滅することはないのである。
タンハーは依然として存在する。
そうして、次のあなたを生ずる核となるのである。
だからこそそれを「業」と呼ぶのだ。


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●あなたは来世にどこへ生まれてゆくか

ブッダの説くところは全てそれを立証しているのである。
ここに代表的な阿含経典をいくつか挙げよう。

要約すれば、つぎのようになる。

ある日、婆蹉がブッダのところへ来て、死後の問題について論じた。

婆蹉 「霊魂(我・命)と肉体とは同じものでしょうか」
釈尊 「かような問題には答えない」

婆蹉 「霊魂と肉体とは別なものでしょうか」
釈尊 「かような問題にも答えない」

婆蹉 「すると、あなたはいかなる根拠に立って、
    だれは彼処に生まれ、だれは此処に生まれると解説されるのですか。
肉体は煙となってしまうから、もし未来の生処を定めようとするには、
ぜひとも霊魂によらなくてはならない。
すなわち、肉体と霊魂とは別だということになりましょう」
釈尊 「いや、必ずしもそうはならない。
    自分は、依るところがあるものは五道のいずれかへ生まれ、
依るところがないものは、五道のいずれにも生まれないと説くのである」

婆蹉 「それはどういう意味ですか」
釈尊 「たとえば、火は依る所があるから(薪があるから)燃えるので、
依る所がなければ燃えないであろう」

婆蹉 「いやそうばかりもいえませぬ。
私は依る所がなくて燃える火を見たことがあります」
釈尊 「それはどういう火か」

婆蹉 「大火が炎々と燃えているときに、風が吹いて火が空中に飛ぶことがある。
あの飛火は依る所のない火です」
釈尊 「いやそうではない、飛火は風に依って燃えるのである」

婆蹉 「さらば火の場合は別として、人間は死後、何を依って生まれるのでしょうか」
釈尊 「それは渇愛に依るのである。
渇愛に依って、五道のいずれかへ生まれるのである」

婆蹉出家は深く感じて、
「世間の者はみな渇愛を起こし、渇愛を滅することができないために、
死後もまたこの迷いの世界に生まれて輪廻する。
ひとり世尊(ブッダ)は渇愛を滅して依る所がなく、涅槃を成じました」
と、こう申し上げて、よろこびよろこび、家へ帰った。
(安井広度『阿含経講義』)

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要するに、生命現象を火にたとえて、婆蹉に教えたのである。
火は薪という依る所があるゆえに燃えるので、
薪が尽きれば、もはや依る所がないから消えてしまう。
生命も同じことで、肉体がなくなっても、
業(という依る所)が残っている限り、また再生してくる。

その業とは、渇愛である。
ブッダは、渇愛を完全に滅してしまっているので
(これを、正覚を成ずるという)涅槃に入り、
もはや再び生を得ることがないのである、という意味である。

つまり、空なる五蘊を、渇愛が結合して生命が生ずるので、
その五蘊が不調となって(調和を失って)、もとの空に戻っても、
渇愛が残っている限り、また再び五蘊を結集して、
生命(肉体)を生ずるのである、ということである。

五蘊(五つの組成要因)とは、
般若心経などでお馴染みの、色・受・想・行・識である。
すなわち、肉体である受蘊、感覚器官である受蘊、知覚作用たる想蘊、
意志を決定する行蘊、意識である識蘊の五つをいう。
この五蘊が、縁うごいて、ひとりの人間が生ずるのであるとする。


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これは強烈なインパクトのある話である。
普通は理解できずに読み流すところだが、
獣が漠然と感じていたことが明確に説かれている。

「渇愛が残っている限り、再び五蘊を結集して、生命(肉体)を生ずる」

「この五蘊が、縁うごいて、ひとりの人間が生ずる」


著者の桐山氏も理解していないと思うが、
人間は物質化現象によって人間界に出現するのだ。
人間が両親によって生まれるというのは、
人間界的な一面的事実だが、本質的にはそうではないようだ。

故に、この世界も、先祖も両親も人類も、
自分の誕生と同時に誕生し、自分の死と共に消滅するのである。
自分が1つの大宇宙で、3次元が投影の世界であることの認識が深まると、
そのように感じざるを得ないのだ。

知花敏彦氏や内海康満氏などの覚者もそのようなことは説いていないが、
獣と同じく漠然と感じているはずだと思われる。
バシャールやオコツトなどもそのようなことは説いていないが、
彼らの教える世界観を理論的に追究すると、
やはり獣説は本質的事実だという結論に到達する。

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では、続きを紹介しよう。

有=生存の場所という意味。
  仏教では、われわれの住む迷いの世界をいい、
  善悪の因(業)によって生死輪廻が続いて因果の尽きないこと。

有余=余というのは、残り、という意味で、業が残っていることをいう。
   有余は、心は解脱して業を消滅させているが、
   まだ、肉体のけがれ(業)が残っている状態をいう。
   有余涅槃などと用いる。
   肉体の業も残っていない状態を無余涅槃といい、これが完全な涅槃である。

涅槃(ニルヴァーナ)=静寂、あるいは寂滅と漢訳し、
   業滅して一切の生死輪廻から離れた世界。
   しばしば、暗黒の闇の中に燃え続けていたロウソクの火が燃え尽きて消え、
   再び暗黒の闇に戻った状態に喩えられる。
   仏教が目指す究極の世界である。

五道=われわれのこの世界における五つの生存の在り方。
   地獄・餓鬼・畜生・人・天の境界、これを五道という。


釈迦も「霊体一致」の真理を仄めかしているが、
肉体の穢れ(業)を浄化しないと完全な涅槃には至らないという。

無余涅槃が仏教が目指す究極の世界ということだが、
これは信念体系領域の「なることを目指す世界」ではなく、
「元に戻ることを目指す世界」である。
目指すと言っても「欲望」ではなく、無我の帰巣本能であり、
無我ゆえに宇宙進化の意識に同調した結果である。

元に戻るとは、5次元のトータルセルフの元に還るということである。
キリスト教には輪廻思想はないが、それは聖書が改竄された結果で、
本来は輪廻のことが説かれていたという説がある。

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それを前提に考えると、イエスの次の言葉も理解できる。

「再び生まれてはならない。天の住者になりなさい」

もちろん、全人類が輪廻を解脱すると3次元の人間界の
存在理由がなくなり、宇宙進化がストップすることになる。
だが、そうなった場合、5次元に移行した我々は、
再び分魂を地上に送り出すだろうから問題はない。

また、シルバー・バーチによると、人間の魂に最も近い動物が犬や猫らしい。
なぜ猿ではなく犬や猫かというと、
ペットとして人間の愛情を受けて育っているからだという。
そして進化した犬猫の霊は魂を形成し、人間に転生するそうだ。

その真偽の確認はできないが、シルバー・バーチの話は嘘ではないと思う。
いずれにしても、人間の霊魂はトータルセルフの分魂(分霊)であり、
輪廻を解脱して涅槃に還るという使命があるのだ。

生きている間に涅槃に入らないと、死んでから涅槃にことはできない。
また、生きながらにして肉体のまま涅槃に入ることを「アセンション」という。
イエスはアセンションしたが、釈迦はアセンションしなかった。

だが、釈迦もアセンションできるレベルだったことは想像に難しくない。
釈迦のレベルであれば、アセンションした聖者と同じく、必要があれば
自らの霊体を物質化し、肉体として出現することも可能だと思われる。

いずれにしても、肉体の浄化も不可欠であり、
それも宇宙の浄化に直結しているのであり、
食事改革は避けて通れない関門であることが分かる。
そして、欲望の原点が「食」であり、
摂食や断食なくて欲望のコントロールは不可能に近いだろう。
posted by ZERO at 21:01| Comment(2) | 超科学と意識進化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最近、どこかの動物園の鹿が、檻の中からこつ然と消えた、ってニュースでやってましたが、あの鹿はアセンションしたんですよね、きっと♪もう始まってますよ〜

欲望の原点=食・・・耳(目)が痛い★
Posted by oriel at 2012年09月25日 22:30
不食が正しいと言っているわけではありません^^;
食事による歓喜、食を通じての意識進化が大切なので、食べることに罪悪感を持たないで下さいね。。。
Posted by 獣 at 2012年09月26日 02:18
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