2012年10月14日

ゼロの発見と三法印

坂本政道氏は「人類は輪廻から卒業する」と言っているが、
獣の予感では当分は「輪廻」という現象はなくならないだろう。

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それでは引き続き、阿含宗の桐山氏の話を紹介するが、
桐山氏は密教の修行で霊能力を得た行者でもあるが、
昨日たまたま耳にした話によると高野山と親交が深いそうだ。

先日、テレビでインドの特集をやっていた。
日本のアナウンサーが、マイクを片手に、山道を象の背中に揺られながら、
滝のような汗をぬぐいつつ、しきりに、暑い、暑い、と連発していた。

「この暑さというものはどうでしょうか。
このテレビを見ている日本の皆さまにはとうてい想像もつかない暑さです。
もう欲も得もない、このまま消えてなくなってしまいたいという感じです。
ゼロという概念はインドで初めて発見されたということですが、
それはこの暑さと無関係ではないと思われます。
まさに、この暑さから逃れてゼロになりたいという感じです」

と、そういう意味のことを語っていた。
私はこのナレーションを聞きながら、惜しいなと思った。
もう一歩進んで、ゼロから「涅槃寂静」まで説明したら、
もっと深みのあるものになったのに、残念だなと思った。
「涅槃寂静」とはゼロの発見なのである。

日本の仏教では、「涅槃」とは死ぬこと、あるいは何か
一種の悟りのようなものを得ることのように思われているが、
一切休止の状態に入ることをいうのである。
善根功徳を積んで最高の天国に生まれ、あらゆる歓楽を享受することも、
彼らにとってはわずらわしいやり切れないことに思われたのだ。

なぜならば、そういう天国に生まれ、そこに生活していても、
少しでもミスを犯すならば、次の生においてどのような不幸な
生命状態に落ちるかわからぬのであるから、彼らとしては、
もう一切やめてくれと叫びたくなるわけである。
極楽浄土に生まれることさえ、彼らは拒否したい心境なのだ。

すべてを打ち切り、一切無に帰して永遠の眠りにつきたい、
それがひたすらなる彼らの願望だったのである。
そういう状態を「涅槃に入る」といって、彼らの最大の願いだったのである。
菊池寛の短編小説に、極楽浄土宗に生まれた男が、すっかり退屈して、
いっそ地獄に生まれた方が活気があって面白かったのではないかと
密かに考える諷刺(アイロニー)も、これに通ずるものといえるだろう。

いま、私は、彼らの願望が、ひたすら「涅槃に入ること」だと言ったが、
この涅槃ということを明確に打ち出したのが仏陀だったのである。
仏陀が現れるまで、古代インド人たちは、ひたすら死の休息を願いつつ、
休息を得ることができず、輪廻転生の思想に悩まされてきたのである。

バラモンの教義では、善根功徳を積むことにより、よりよい生命に向上し、
これを無数に繰り返すことによって究極には最高の世界に生まれてそこに定住し、
輪廻が止む(極楽浄土の発想がここにある)と教えているが、
その輪廻が止むまでの過程を考えると、一体どれだけの生死の繰り返しがあるのか、
ほとんど気の遠くなるような話で、しかし、けなげなインド人たちは気を取り直し、
せっせと善根功徳の積み重ねにとりかかっていたわけである。

だが、しかし、さすがの彼らもいい加減絶望しかかっている時に
仏陀が現れて、この一生の修行、善根功徳だけで
涅槃に入ることが可能であるという革新思想を打ち出したわけである。
これが、仏陀の有名な「三法印」である。
三法印とは、ご存知の通り「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の
3つの理論から成り立つもので、この三法印こそ、それまでのバラモン教や、
その他の外道の教えと根本的に違うことを示したものなのである。

無数ともいえる生死の繰り返しによって初めて輪廻をとどめることができる
というバラモンの教えに対して、この現在の生命の終わりがただちに涅槃に入り、
成仏して輪廻が終止すると説く仏陀の教説は、まさに革命的な教えであったが、
三法印の理論は、理論的にも明確にそれは可能であると論証しているので、
インドの民衆から強い喜びをもって迎えられた。

この教えによる涅槃成仏の思想がさらに進展して、
法による即身成仏の密教思想になるわけだが、以上述べた通り、
仏陀の教説は率直明快、決してわかりにくいものではないのである。
要するに、諸行無常、諸法無我という仏陀の教えを信じ、
修行することにより、業の束縛を脱し、業の顕れの一つである
因縁を改変して、涅槃に入り、成仏することができる。
成仏した結果、一切の輪廻が止み、寂静となるということである。

それまでのバラモン教、あるいは仏教と同期に出てきたジャイナ教などと、
仏教とどこが違うかというと、要するに解脱の方法が違うだけで、根本的には
業、輪廻、因縁、というものに対する考え方は全く異なるところはない。
バラモン教もジャイナ教も仏教も、また後に起きたヒンドゥー教も、
業、輪廻、因縁、という考え方はほとんど同一で、
ただ違うのはそれらの束縛から解脱する方法のみが異なるのだ。


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普通のテレビ番組で、インドでゼロの概念が発見されたという話から、
普通は「涅槃寂静」に発展しないだろう。
獣的には、惜しくもなければ残念でもない(笑)

そもそも、いつの番組なのか……本の最後を見ると1980年初版だった(笑)
そんな事はどうでも良いが、「涅槃寂静=ゼロ」は間違いではないと思う。
獣の認識では、5次元の入口も「ゼロ・ポイント」である。

「涅槃」とは悟りを得ることのように思われているが、
一切休止の状態に入ることをいう……
とのことだが、何と言えば良いのだろうか……。
「涅槃=悟り」ではないが、悟り(真我覚醒)を得た時、
もしくはその後に到達する境地が「涅槃」である。

真我覚醒とは、5次元の魂の意識に目覚めることである。
吾の心と書く通り、それを「悟り」という。
悟りを開くというのは、心の扉(天の岩戸)を開いて
魂(天照大神)の意識と融合することなのだ。

「融合」というと理解しづらいかも知れないが、
通常、自分の心(自分という意識)は肉体意識の自我であり、
魂は全く別の存在(意識体)である。
魂の意識に目覚めるというのは、
「自分」という意識が魂と合一することなのだ。

自我(肉体意識や頭脳の働き)は消滅するわけではないが、
それは偽我(本当の自分ではない仮の姿)に
過ぎないということが分かるようになる。

魂の意識に目覚めるまでは人間の意識だけで生きているが、
魂の意識に目覚めると、自我とは別に魂の意識(真我)が覚醒し、
自我(肉体意識)を第三者的に観るようになってくるのである。
魂は宇宙意識と直結している為、
様々な宇宙の真理・法則が認識できるようになる。

一般的に、悟りの意味合いとしては
こちらの方が強いかも知れないが、結局は同じことである。
真我の覚醒度(宇宙意識との融合度)によって、
5次元の叡智と共鳴すると言えばイメージしやすいだろうか。

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そして、「涅槃寂静」とは、
輪廻を解脱した5次元で体験可能な意識状態の1つである。
従って、涅槃と悟りは無関係ではないのである。

「善根功徳を積んで最高の天国に生まれ……」という部分について、
やはり「行為」が主体で「心」の問題は度外視されているように感じる。
しかも、善行による善因で、ご褒美で天国に行けるような印象を受ける。

天国に行くのは、あくまでも意識進化の結果であり、
善行を積むのは意識進化の1つの手段に過ぎない。
だが、善行を積んで意識進化に繋がる人は滅多にいないと思われる。
何故なら、見返りを求めれば偽善となり、自己満足によって徳は消える。

更に、得意な気になって優越感に浸ったり、
善行を行わない者を非難したり見下したりすようになると、
意識進化から脱線することになる。
獣は善行によって真我に目覚めたわけではない。
釈迦やイエスも同様で、内観によって悟りを開いたのである。

善行をたくさん積んできた鈴木一生氏はヴィパッサナー瞑想で解脱したが、
その過程で自分の醜悪な心が見えてきて一時は発狂しそうになったという。

決して真心の善行を否定しているのではない。
真我に目覚めれば、自他の分別なく、善行という意識のない無私の状態で、
必要な時に普通の行いとして自然に善行を行うようになるので、
それが最上級だと思っている。

要は、善行を積んで意識進化をするのは難しく、
何よりも内観で真我覚醒に近づくことが重要で先決なのだ。

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「極楽浄土に生まれることさえ、彼らは拒否したい心境なのだ」
という部分についてだが、
極楽浄土は輪廻を解脱した世界なので、涅槃と同じである。
極楽浄土は「歓喜」、涅槃は「寂静」という大きな違いはあるが、
どちらも5次元の世界であり、どちらも体験可能となる。

「一切無に帰して永遠の眠りにつく状態に入るのを涅槃に入る」
というのも間違いで、意識進化の結果がそれなら、
まさに宇宙は刹那であり、大神も存在し得ない。

それが「彼らの最大の願いだった」とというのが事実だとしたら、
それは彼らの最大の思い違いである。
それに近い意識状態ではあるが、一切無に帰した永遠の眠りではない。
そのような意識状態も体験可能ということであり、
基本的には大歓喜の世界なのである。

そもそも、オコツトによれば釈迦やイエスの意識はψ8という意識状態で、
まだ本当の覚醒には至っておらず、ψ13に向けてまだまだ進化途中なのだ。

そこで1つ思い出したことがある。
隈本確はある時、釈迦が霊界でどのように暮らしているのか興味を持ち、
釈迦に意識を向けて霊界探訪をしたという。
すると、宇宙の果てで球体に閉じ込められ、
永遠の眠りについている釈迦の姿を発見したという。
それは恐らく事実だと思うが、それを見た隈本確の解釈は間違っている。

曰わく、釈迦は悟りを開いて死後、高次元に直行したが、
無神論だった為に魂が目覚めておらず、
球体に閉じ込められて永遠の眠りについている……。
獣が思うには、釈迦は涅槃寂静の状態を希望し、
高次元の世界でも自らの意志で深い瞑想に耽っているだけである。

その涅槃寂静の状態から覚めて、大歓喜の極楽浄土も体験可能なのだ。
従って、無に帰することなく、永遠に生き続ける(終わりのない)恐怖なく、
「あるがまま」の大歓喜と「ないがまま」の涅槃寂静で、
宇宙意識と一体となって更なる意識進化を遂げていくのである。

それは究極の安心立命と大歓喜であり、人間界の言葉では表現できない。
獣は人間界にありながら、どちらの世界も繰り返し体験しているので、
決して適当なことを言っているのではない。
信じる必要はないが、何の心配も恐怖もないので安心してもらいたいのだ。

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桐山氏が解釈する涅槃の定義では、
人類が涅槃に入ったら宇宙進化はストップしてしまうだろう。
涅槃とは、天人合一(宇宙即我)にも似た、
5次元の寂静な意識状態の体験であり、
一切無に帰して永遠の眠りにつくというものではないのである。

「現在の生命の終わりがただちに涅槃に入り、成仏して
輪廻が終止すると説く仏陀の教説は、まさに革命的な教えであった」
とのことだが、人間界に生きながら輪廻を解脱して成仏し、
涅槃に入れることを説く獣の教説はもっと革命的だということになる。

だが、実際には釈迦もそのことを説いたのである。
死んでから悟りを開いて輪廻を解脱し、涅槃の世界に入るのではない。
人間界にいる間に悟りを開いて輪廻を解脱し涅槃の世界に入らなければ、
死後もそのような状態にはならないのである。

難しい話をしているようだが、要するに魂の意識に目覚めた状態である。
今の時代にそこに到達すれば、死を克服して本当の意味で「生死解決」し、
生きながらにして死後の世界に入っていくことができるだろう。
それが「アセンション」と呼ばれるものである。

「成仏した結果、一切の輪廻が止み、寂静となる」
というのは5次元での1つの意識状態であり、
大歓喜の世界を享受することもできるのである。

「バラモン教もジャイナ教も仏教も、ヒンドゥー教も、業、輪廻、
因縁という考え方は同じで、解脱する方法のみが異なるのだ」
というのは獣の21世紀型成功哲学も同じであり、
宗教破壊団体「神泉組2」が説くハイパーネオデジタル内観は、
解脱の王道だと言っておこう。

「三法印とは、ご存知の通り……」とのことだが、獣は存じていなかった。
小学校の頃に読んでいるので初めて聞いたとは言えないのだが、
「諸行無常」と「涅槃寂静」は分かるとして、
「諸法無我」は聞き覚えのない言葉である。

そこで、Wikipediaで調べてみると分かっている内容だった。
もちろん、知識で知っているという意味ではなく、
認識しているという意味で、若干表現は違えど、
今まで獣が繰り返し書いてきたことと内容は同じである。

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Wikipediaに載っているのを簡略化して転載しておこう。

釈迦の悟った項目の一つで、
全ての存在には主体と呼べる「我」がないことをいう。
諸行無常と言われるように、一切は刻々と変化しているが、
我々は変化を続ける中に、変化しない何かを捉えようとする。
その変化の主体を想定して「我」という。

我とは「常一主宰」のもので、常住の単独者として何かを支配するものを指す。
インド古来の考え方は、変化するものに主体としての変化しないものを想定した
「有我論」だった。
仏教は、存在とは現象として顕われるもので、変化そのものであり、
何者かという主体を捉えることは間違いだと指摘する。
そのような妄想の「我」の執着を破るために諸法無我が説かれた。
諸法無我は、実体的な「我」の存在を否定し、
あらゆる存在は実体ではないことを主張する。

人間は、幼い時から現在までの心身の成長や変化を認めつつ、
そこに「私」という実体的「我」を想定し、私は私であると考える。
諸法無我はそれこそ我執であるとし、変化そのものが私だと説く。
諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、常に一切の力の中に
「関係そのもの」として生かされていることを教えるものである。

一切のものには、我として捉えられるものはないという考え方を徹底して、
自己について深め、目に見えるもの見えないもの
一切の縁起によって生かされている現実を教えている。
このような共々に生かされているという自覚の中にこそ、
他者に対する慈悲の働きがありうるとする。

全ての存在に主体と呼べる我がないというのは、
「神」などの絶対者も無我であることを意味する。
これは絶対者の否定ではなく、
神も我々との関係の上にのみ存在することを意味している。


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アリオンも同じようなことを説いているので、一部紹介しておこう。

何もかも移り変わってゆく中で、「自分」と言う意識だけは
置き去りにされてゆくと思っている人は多いが、
この意識自体が本当は移り変わっている事に気付かない。
万物流転の法則に逆行するものは何一つ無い。

「私」という意識は本当に不変なのか?
5歳の「私」と20歳の「私」、30歳、40歳の「私」の共通項は何か?
人間の五感すら変化してゆく、育ってゆく。
そういった万物流転の法則の中で不変なものはあるのだろうか?

人は「私」という意識が不変であるという事を信じたいと思っている。
「私」すら変化しまうのであっては、
どこに基準をおいて良いか分からないと思っているからだ。
こうして人は自分自身の存在に思いを馳せ、
その思いの中の普遍的な部分を論理体系化し、
哲学、或いは宗教という名前で分類してきた。

こうした普遍化された「思い」の体系も、
この90年代にはいって見直しを迫られている。
それは、何故だろうか?
論理化、体系化されてきた「思い」の基盤となる人間の生活基盤自体が崩壊し、
普遍化という名前が陳腐なものになろうとしているからだ。

人はそろそろ気付かなければならないだろう。
人と呼ぶ自分達の仲間である生物自体の生活基盤というものが、
既に個化され共通基盤となりえる生活の「場」が崩壊してしまったことを。
特に日本という国の文化は、「場」と呼ばれる共通磁場形態を介しての
成立を持つ文化だっただけに、その「場」の崩壊は文化の崩壊を意味する。
特殊な「場」の文化形態が崩壊してしまった時に、人の取る行動は何か?
「群れる」という代替行為にも、文化の崩壊後の人の混乱が映し出される。
こういった生活基盤や文化の崩壊の中で、
「私」意識を保つ為に人が進んで行おうとすることは何だろうか?

「私」を構成する要因となる「自分」の特色を映し出すモノの認識、
そしてそれらのモノが確実に自分自身の存在理由を示すかどうかの確認、
その上、それらのモノに関連する者や物を探す。
探して仲間になり仲間同士で結束してゆこうとするのだろう。
何故、結束しようとするか?
それは、「自分」の存在理由を映し出すモノの正当性と確実性を高める為にだ。
不安や自己の脆弱性を「群れ」になることで補おうとするのは、
弱小生物の基本的な生活本能だからだ。イワシや蚊も群れになって行動する。



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