2012年10月15日

解脱とは何か

解脱とは一言で言えば、5次元の魂の意識(真我)に目覚め、
3次元と4次元の輪廻を解脱すること……
つまり、魂が天の岩戸から解放された状態のことで、
潜在意識が浄化されてカルマを解消している状態なので、
自由自在の状態ということになる。

Wikipediaで調べた「解脱」について、簡略して紹介しよう。

「仏教では、煩悩による繋縛から解放され、全ての執着を離れることで、
迷いの苦悩の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指す」


今まで繰り返し書いてきた通り、
六道の天上道であるフォーカス27(輪廻転生地点)を超えて、
魂の意識に目覚めて5次元の世界に入ることが「解脱」なのだ。

精霊界や幽界からも人間界に転生が起きているのに、
なぜ天上道(フォーカス27)が「輪廻転生地点」と呼ばれているのか……。
いま分かったのだが、これは単純な話で、
天上道(フォーカス27)を超えると輪廻を解脱できるということなのだ。

「ヒンドゥー教では、サマディ(三昧)に到達し、
輪廻の迷いの境界から脱することを指す」


「ジャイナ教では、モクシャと言い、
解脱を果たしたものを解脱者と呼ぶことがある」


解脱を果たした者を解脱者と呼ぶのは当たり前だと思うのだが、
「モクシャ」とは何か……だから「解脱」だっちゅうの!

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一応、「モクシャ」についても調べてたで、引き続き、簡略化して転載する。

「これは魂にとって至福の状態で、カルマの呪縛や輪廻からの完全なる解放である。
解放された魂は無限の至福・知識・知覚を伴った真の不垢なる本性に到達する。
このような状態にある魂はシッダあるいはパラアートマンと呼ばれ、
至高の魂つまり神であるとされる」


「ジャイナ教では、これは魂が到達しようとするべき最高の、
最も気高い目標地点であり、人間が目指すべき唯一の目標地点である。
他の目標地点は魂の真の本性に反している。
正しい信念、知識、努力に基づけば魂はこの状態に至れる。
このためにジャイナ教は『解放への道』としても知られている」


獣も全く同感で、異論はない。

「モクシャという概念は、それ自体が主体的に自身の行動を行い、
その結果を享受し、責任を持っている無限にして永遠の魂の存在を前提とする。
その上で、全ての魂は世界の物質的な活動に絡め取られ、
永遠に過去からカルマに束縛され、ある存在から別の存在へと転生を繰り返している」

「ジャイナ教によれば、全ての魂はこの繰り返される
生と死のサイクルを終わらせて解脱に到達できるという」


現象面、つまり一面的な視点で見れば、これも間違いではない。

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ニルヴァーナに関する記述

「苦痛も快楽もなく、苦しみも生涯もなく、生も死もない場所、それが解放。
感覚器官も、驚きも、眠りも、渇きも、飢えもない場所、それが解放。
カルマもなく、心配事もなく、いかなる種類の思考もない場所が涅槃」

「あらゆる観点から見て安全だが到達しがたい場所があり、
そこでは年を取ることも死ぬこともなく、苦しみも病気もない」

「涅槃、あるいは苦痛からの解放、完全性と呼ばれている場所こそが
あらゆる観点から見て幸福で、静寂な場所であり、偉大な賢者が到達できる。
そこはあらゆる観点から見て永遠の場所であるが到達しがたい。
そこへ到達した賢者は悲しみから解放され、存在の流れを終わらせた」


「ジャイナ経典は魂をバーヴヤとアバーブヤの二つに分ける。
バーヴヤは解脱を信じており、そのため解放へ至ろうと努力している魂である。
しかし、バーヴヤ自体は解脱を保証するものではない。
魂が解放される為には必要な努力を尽くす必要があるからである。
一方、アバーヴヤとは、解脱を信じておらず解脱に至ろうと
努力することがない為に解放へ至ることができない魂である」


これらのことも、そのままの意味なので誰にでも理解できるだろう。

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「ジャイナ教は解放の後にも個別性の概念が存続することを支持する。
解脱に至った魂もまだ解脱に至っていない魂も無数に存在する。
解脱に至った後にも魂は互いに区別できる個別性を保つ。
その為、永遠の至福の中にシッダ(解放された存在)が無数に存在する」


これは、5次元でも霊体を持っていることを意味し、
6次元=完全なる宇宙即我(天人合一)に至っていない事を意味する。

「ジャイナ宇宙論によれば、シッダシーラとは
解放された存在が居住する場所で、宇宙の頂に存する」


「解脱は人間の誕生においてのみ到達できる」

これも以前から獣が書いてきた通り、輪廻を解脱する為には、
天上道の霊人も人間界に転生する必要があるということである。

「半神半人や天上の存在であっても人間同様に転生し、
解放される為には正しい信念、正しい知識、正しい行為を行う必要がある」


獣は信念や知識を否定してきたが、理性的な正しい信念や知識は必要であり、
その為に獣はこのブログを書き続けているのだが、
それを鵜呑みにするのではなく、理解に繋げて自分で認識する必要がある。

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「ジャイナ教によれば、人間の誕生は非常に珍しい、貴重なことであり、
そのため人間は賢い選択をするべきだという」


或る意味に於いては、そのような捉え方もできる。

「シッダ(解放された魂)は形がなく、肉体を持たない」

これは霊体を脱ぎ去った6次元の魂(意識体)のことである。

「魂は永遠の過去からカルマに束縛されている。
解脱へ至る第一のステップは理性的な信念と知覚を教え込むことである」


実は「未来からのカルマ」にも束縛されており、
釈迦が説いた三印法を前提として認識(理性的な信念と知覚)する必要があるが、
それを即座に信じ込むのではなく、獣が今まで理論的に解説してきたことを、
「理解」に繋げることがそれと同じことである。

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「理性的な知覚、理性的な知識、理性的な行為が真の法を構成している。
理性的知覚は宇宙の全ての実体の真の本性に関する理性的な信念である」

「理性的知識は真実に関する真の知識を正しく知っていることである。
これは反絶対主義と真理の相対性との二つの原理と一体となる」

「正しい知識は、疑い、欺き、不確定性から免れていないといけない。
理性的な行為は生きている存在(魂)の本来の行為である。
これは正しい行為、戒律の順守、気遣いや自己制御を厳粛に行うことに存する」

「魂が理性的な信念を獲得すると、解脱が短期間で得られることが保証される。
超越的な知識の最高の形式は、究極的な知識・悟り・全知とも呼ばれる」

「カルマの残余を焼き払い、生と死のサイクルから解放する
禁欲的な実践を通じて獲得される解放された状態のことである」

「カルマを完全に消滅させた後の魂によって得られる、
自己あるいは非自己に関する無限の知識を意味する。
この段階に至った魂はカルマを消し去った後、生涯の最後に解脱に至る」


生涯の最後に解脱に至るのではなく、真我に目覚めた時が解脱であり、
涅槃の世界に入ることができるのだが、それを保たないと再び堕落して
天の岩戸が閉じて悟りが閉じてしまうので、その意味では、
死ぬ瞬間に涅槃の境地でなければ輪廻を繰り返すことになるだろう。

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「解脱はカルマの呪縛からの究極的な開放を意味する。
悟りを開いた人間はカルマを消去し、
物質的世界における自身の存在に終わりを告げる。これが涅槃である」

「解脱は涅槃に伴うものである。
しかし、ジャイナ経典において
解脱と涅槃はしばしば同じ意味のものとして使われる。
涅槃に至ったのちにシッダ、つまり解放された存在になる」

「モクシャ(解脱)とは、『開放する』『放棄する』などの意味である。
両者とも、全ての束縛から離れることであり、
繋縛を離れて自在を得るという意味である」

「その意味で、古来『自在』と解釈されてきた。
それは、外からの束縛の解放や自由より、
内から自らを解放することや自由を獲得することを重要視する」

「仏教では、この解脱に慧解脱と倶解脱の別を説く。
慧解脱 - 智慧の障りを離れていることで、正しい智慧を得ていることをいう。
倶解脱 - 慧の障りを離れ、定の障りをも脱していることをいう」

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「また、心解脱と慧解脱を説く。
心解脱 - 心に貪著を離れること。
慧解脱 - 無明を離れていること」

「あるいは心解脱と身解脱という心解脱 - 精神的には既に解脱していても、
肉体的にはどうにもならない束縛を持っている場合をいう。
例えば釈尊の成道後の伝道生活の如きである。
身解脱 - 完全に肉体的な束縛を離れているのをいう」

「自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、
自分自身で制御することは難しい。
これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。
このような根本的な束縛を解き放した状態、それを『解脱』という」


涅槃に入れば輪廻を解脱し、5次元のトータルセルフと合体する……
つまり、肉体人間としての使命を全うしたことになるので、
「物質的世界における自身の存在に終わりを告げる」のは事実だが、
真理を説いたり、世界改造などの個人的使命がある場合は別である。

ヒマラヤ聖者でも、真我に目覚めてこの世を去る者もいれば、
何百年も何千年も生き続ける人物も存在し、
釈迦も35歳で悟りを開いて涅槃の境地に達したが、
80歳まで生きて真理や解脱の方法(ヴィパッサナー瞑想)を説いた。

全体として、獣が認識している「解脱」の状態とほぼ同じ説明で、
獣も解脱していることを自称しているが、
「心解脱」と「身解脱」があり、解脱(心解脱)後の釈迦も、
肉体的にはどうにもならない束縛を持っていたという。
posted by ZERO at 04:11| Comment(0) | 精神世界・心理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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