2012年11月03日

アセンションを迎える心構えB

今回は、意識レベルというものを検証してみたい。

友人のエササニ王子は昔、部屋の中で白く光る人影を目撃し、
その後、UFOを目撃したという。
信頼の於けるチャネラーに視てもらうとエササニ星人で、
今回はそれがバシャールだったことが分かり、
UFOは宇宙連合のものだったそうである。

で、「新しい世界を創る使命がある」と伝えられたらしく、
怪しさ極まりない「ナイトルシファー」のブログに出会い、
獣(チェンリー)にコンタクトをとってくれたのだった。

大将軍(真薩供氏)作成画像
KNIGHTS LUCIFER.jpg

ちなみに、先日、エササニ王子が目撃したUFOは、
この動画の2つのUFOの上の方の小さいものと同じだったという。
http://www.youtube.com/watch?v=nm4ZR4C8mEk

そして少し前にエササニ王子から、なぜか突然、
「羞恥心は人にどう思われているかというエゴなので良くないらしい」
というメールが届いたのだが、
ちょうどその事について書こうと思っていたのでシンクロである。

「汝、朝食を抜くべからず!」
http://kemono666.seesaa.net/article/272902079.html
の冒頭にも、次のように書いていた。

西医学では、朝は水だけで過ごすのが正式な朝食廃止法だが、
急に朝食を廃止すると良くない結果を招くこともある。
それは、反動で昼食を過食してしまうことである。
また、空腹の為、午前中イライラしたり、
人前で胃が鳴るのが恥ずかしいという人がいるだろう。

「パワーかフォースか」によると、「恥」は最低の意識レベルであり、
怒りや悲しみよりも魂を曇らせる悪想念である。
恥ずかしいという気持ちは、そもそも自我の強さの顕れである。


獣の恥ずかしい姿
PF_26122010115859244.jpg

精神科医デビッド・ホーキンス博士の著書『パワーVSフォース』に、
新しいパラダイムにシフトする時代において、
権力から自由へと変化することが述べられている。

筋肉の性質を利用して物のレベルを測定するキネシオロジー・テストで、
数百万人の測定が行われ、人に活力を与える「パワー」と、
人から活力を奪う「フォース」があることが発見された。
このデータを基に、20〜1000までの指数で表される
「意識のマップ」というグラフが作成されている。

[ 20 ] 恥
[ 30 ] 罪悪感
[ 50 ] 無感動
[ 75 ] 深い悲しみ
[ 100 ] 恐怖
[ 125 ] 欲望
[ 150 ] 怒り
[ 170 ] プライド
[ 200 ] 勇気
[ 250 ] 中立
[ 310 ] 意欲
[ 350 ] 受容
[ 400 ] 理性
[ 500 ] 愛
[ 540 ] 喜び
[ 600 ] 平和
[ 700〜1000 ] 悟り


パワーの領域に入るブレイクポイントが[ 200 ]の「勇気」で、
この勇気がなければ人間は行き詰まり、
エントロピーの法則で破滅に向かうとされている。

勇気と好奇心だけは旺盛な獣は冒険家が向いている気がするが、
実際に幼少の頃から冒険や探検にワクワクしていた。
51VRNFAEJ8L.jpg

成人してからも変わらず、以前、京都時代の元カノの
銀座ジュエリー(あだ名)から次のようなメールが送って来た。

100602_0545_02-8a928-thumbnail2.jpg

無謀と言えば、今は涅槃の境地で沈黙を守っているが、
時期が来たら「反キリスト」としての活動が始まる……。

DSC_2818-b7dc3-thumbnail2.jpg

エハン・デラヴィ氏は、このように述べている。

「勇気が湧いてくると、アセンションのスパイラルに入ることができ、
人間はどんどん進化する可能性が高まっていく」


これらはフォースの領域に属しており、これらの感情が主に支配している人は、
どう頑張ってもフォースの世界に留まりがちで、権力や暴力に脅かされたり、
逆に他人に権力や暴力を及ぼしやすい性質を持っているという。

『日月神示』には次のように示されている。

「岩戸ひらきとはこのことであるぞ、
少し位は人民つらいであろうなれど、勇んでやりて下されよ」

「小さい事、大きい事、皆それぞれに御役勇んで仕へまつれよ」

「縁ある人は勇んで行けるのぢゃ」

「因縁のある身魂はこの神示みれば心勇んでくるぞ」


「勇気を持て」とか「恐れるな」と言われても、
実際のところ普通の人にはなかなか難しいと思う。
『日月神示』を読めば勇んでくるそうだが、
『獣神示(六六六神示)』や『神仙組1』でも、
今まで「勇気」や「大和魂」について度々言及してきた。

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橋本健氏は『科学か?宗教か?』の中で次のように述べている。

「もうどうなってもいい。
私は神の子なのですから結果は神様にお任せいたします」
このように一切の人間的執着を放し去って、
平安の境地に達するのも1つの方法と言える。

「でも、死ぬのは嫌だ、恐い」とあなたは言うかも知れない。
だが、私達のいるこの現象世界ではスクリーン上の別の世界であり、
この肉体は本当の自分ではない。
本当の自分は高次元にあり、高次元から現象世界を見ている
ということを悟るようにするのだ。
この肉体がたとえ病み、また死んだとしても、
これは病気や死の映画がつくられただけのことであって、
本当の自分は決して病気になっていないし、死んでもいない。

霊魂は現世から霊界に行き、霊界で一定期間修行をして、
再び現世に生まれ変わっているのだ。
これはある映画館で1つの映画を観終わったら、
いったん家に帰って休息し、また別の映画館に行って
違った映画を観るのと同じことである。

映画が悲劇であったり主人公が死んだりしても、
これを観る人には関係がないのと同じである。
あまりにも映画がよくできていると、
観る人が劇中の主人公のような錯覚を起こし、
泣いたり喜んだりするが、それと同じ事である。

真理を悟れば、病気も、死も、失敗も、本当の自分、
つまり高次元の自分を傷つけるものではないと分かってくる。
死はおしまいではないのだ。
素晴らしき本当の自分がいる高次元世界への新たな旅立ちだと思え!
これがわかると恐怖心がなくなってしまう。
恐怖心がなくなると、同時に病気や不幸もなくなってしまうようになる。


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生まれ変わりの話が出てきたが、これはバシャールの説明と同じで、
本当の意味での「生まれ変わり」ではないことが分かる。

「映画が悲劇であったり主人公が死んだりしても、
これを観る人には関係がないのと同じである。
あまりにも映画がよくできていると、
観る人が劇中の主人公のような錯覚を起こし、
泣いたり喜んだりするが、それと同じ事である」


これは、真我(魂の意識)で生きていると、
人間界をそのように観るようになってくるが、
自分が「主人公」であることは確かであり、
ストーリーを「理解」しなければ観る意味がない。

つまり、内観する為に映画を観ているのであり、
それによってのみ「真我」に目覚めることができるのだ。
真我に目覚めていなくても勇気のある人は沢山いるが、
真我(大和魂)に目覚めると全く別の次元で「真の勇気」が発動する。

(大和とは、ヘブライ語の「ヤウマト」、もしくは、
アラム語の「ヤマトゥ」で、「神の民」を意味する)

いずれにせよ、恐怖の感情も潜在意識から出てくるものであり、
潜在意識の浄化に努めることが第一でなのだ。
また、橋本氏が説いていることは真実だが、
それを認識できるようになる為には真我の覚醒が必要である。

自分が認識できていないことを信じ込むと、
「信念体系領域」に入ってしまう恐れもあるが、
真我の覚醒を前提として理論的に納得すれば確信しても良いだろう。

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結論として、「勇気」を持つことも潜在意識の浄化が原点であり、
まずは幽界意識(フォースの領域)から脱却する必要があるのだ。

[ 20 ] 恥
[ 30 ] 罪悪感
[ 50 ] 無感動
[ 75 ] 深い悲しみ
[ 100 ] 恐怖
[ 125 ] 欲望
[ 150 ] 怒り
[ 170 ] プライド


これが幽界意識だが、「恥」が最も低い意識レベルだという。
これは獣も意外に思っているのだが、次のように説明されている。

「恥」のレベルは、死に最も近い。
このレベルでは、避けられたはずの事故死がよくある。
意識レベルが20しかない人の行動は危険である。
彼らは思い込みが激しく、幻覚をみたりする傾向があり、
精神病になったり、奇妙な犯罪を犯すこともいる。
「恥」は性格全体のレベルを引き下げることから、恥だけではなく、
ほかのネガティブな感情によって傷つけられやすい結果を招くので、
愚かな自負心や怒り、罪の意識をしばしば起こさせます。


獣は「自分は自分、他人がどう見ようと構わない」という性格なので、
自我や幽界意識の塊だった時代から恥知らずだった。

今でも普段、無精ヒゲを生やし、ボサボサ頭で、ボロボロの服を着て、
かかとに大きな穴の開いた靴下にスリッパを履き、
ホームレスと紙一重の格好で外出しようとすると、
聖母は近所の人々の目を気にして「恥ずかしい」と言う。

121007_0138~01.jpg

外見で人を評価するのも最低だが、
恥ずかしいという気持ちはもっと最低のようである。
そもそも、人を見て「汚らしい」と思うのも自分の投影であり、
自分自身であることが認識できていないからである。

獣はホームレスを見かけても汚らしいとは思わないし、
それも自分の姿なのだとしか思っていない。
それは、誰に対しても全く同じことである。

全裸で街中を歩けと言われたら、それは恥ずかしいが、
現在の日本では普通はそのようなことはない。
たとえその羞恥心が自我であったとしても、また別の話である。

インドの聖者スワミ・トライランガの領域に到達すれば別だが、
ヨグマタも丸裸で講演会はできないだろう。
見たいとも思わないが……(笑)

外見だけではなく、自分のミスや間違い、無知などについて、
さまざまな場面で人は羞恥心を感じたり、
あるいは「人に恥をかかされた」と思ったりするようだが、
それらは全て自我であり、根本的な世界認識の誤りから起きている。

いつもの如く、昨日たまたま開いた本にも「恥」について書かれていた。
度々紹介している桑田二郎氏の著書『神次元の書』だが、
少し別の観点から解説されている話である。

“羞恥心”の底にも邪の心が
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posted by ZERO at 18:25| Comment(0) | 六六六神示 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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