2012年11月04日

アセンションを迎える心構えC

「フォース」から「パワー」までの意識レベルと、
そのブレイクポイントとされる「勇気」までの解説と、
意識進化の秘密と注意点について述べておきたい。

まず、「恥」の続きから見ていくことにしよう。

[ 30 ] 罪悪感

「罪」の意識に囚われてしまうと、誰に対しても
「許さない」という態度を引き起 こす。
この感情は宗教煽動者によって強制や支配に利用される。


以前、「人が許せないのは自分が許せないからだ」
という事を書いたが、それと同じことが書かれている。

罪悪感を感じないのが正しいと言うと大きな語弊があるが、
感情を入れずにデジタル思考で日々常々の反省をする必要があり、
罪の意識に苛まされるようなことがあってはならない。

本質論から言うと、例えば、殺人事件を起こしてしまったとしても、
それも因果律で最初から決まっていたことなのである。
そのように言うと、「殺人を肯定している」と思う人もいるかも知れない。

誤解を招くような話になるが、単刀直入にいうとそういう事である。
人間界はあくまでもスクリーンに映し出された「結果の世界」であり、
「必要・必然・ベスト」で「万事好都合」であることを知るべきである。

もちろん、反省は必要だが、全ての出来事を理解に繋げ、
「肯定」することが内観なのだ。
逆の立場でも同じで、殺されたことも因果律であり、
それを理解して反省して「肯定」することが大切である。

「難が有ったら有り難う」という教えがあるが、
まず反省と謝罪をすることが物事の順序である。
それを暴論だと思うのは、自我(分離観念)であり、
他者が自分の投影であることを忘れているからだ。

つまり、殺した相手は自分自身であり、殺人は自殺なのだ。
もっと言えば、全ては自分が映し出している投影であり、
世界中の悪い出来事は全て自分自身に責任があるのだ。

一人ひとりが自分のスクリーン(世界)に投影している為、
自分の世界には自分しか存在せず、他者が存在しないことが分かるはずだ。
正確に言えば、この世の自分も実体ではなく、存在しないのだが、
スクリーン上の主人公である自分の更なる投影が「他者」なのだ。

この図が分かりやすい。
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「六道輪廻説」によると、罪を犯した者が地獄に堕ちるという。
だが、『日月神示』やスウェデンボルグによると、
罰として堕とされるような世界(地獄)はないという。

それは真理に目覚めてくると直観的に分かってくることだが、
5大方便(罪と罰・カルマ・輪廻・地獄・プラス思考)を提唱している通り、
裁きというのは自分が投影して縛られている因果律の比喩に過ぎないのだ。

従って、「地獄」と呼ばれている世界は、
「罪の意識」を持つ者が、それに囚われて苦しむ世界だと言える。
罪悪感のない罪人が行く世界も「地獄」と定義するなら、
それは前者の地獄とは全く波長の異なる世界であり、
死後も罪を犯すことを喜びとする悪霊の世界だと言えるだろう。

話を戻すが、例えば、殺人事件のニュースを見たら犯人は自分である。
フィクションのサスペンスでも同じことであり、
すべては自分が投影していることなのである。

日常会話でも悪い話を聞いたり、悪い感情が湧いたりしても、
それは自分の潜在意識から出ているものなので、
その都度、クリーニングする習慣をつける必要があるのだ。

つまり、四六時中、謝罪し続ける必要があるのだが、
それは罪悪感を持つということではない。
「罪悪感」は恥の次に最低な地獄想念だからである。

ひたすら謝罪することが「集合的無意識の浄化」であり、
人々が「ポジティブな世界」に行く為に必要な今年の課題である。

バシャールによると、2012年にはポジティブな集合的エネルギーが、
地球の歴史上、ついに初めてネガティブな集合的エネルギーを上回るという。
今年の獣の抱負は「ポジティブ」という啓示を受けているが、
それには以下の記事のような意味があったのだ。

汝、ひたすら謝罪せよ!
http://kemono666.seesaa.net/article/244691671.html

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[ 50 ] 無感動

このレベルは貧困、絶望、希望を失うということが特徴として挙げられる。
無関心は希望を失った状態で、生きるエネルギーにも欠けており、
最悪の場合は自殺による死を招くこともある。
これはホームレスなど、社会から見捨てられた人のレベルで、
多くの高齢者や、慢性の病気によって隔離された多くの人の運命である。
無感動は依存的で、周囲は重荷として感じる。
無感動は希望を放棄したレベルで、それと実際に直面する勇気があるのは、
僅かな者に限られる。


無関心・無感動が、怒りや深い悲しみよりレベルが低いのも意外だが、
獣は無関心で無感動な人間である(笑)
涅槃寂静は、「無関心・無感動」の状態だからだ。
だが、何事にも関心を示し、何事にも感動するので、
一般的に言う「無関心」「無感動」とは全く異なる。

何事にも動じず、いちいち関心を寄せるということはないが、
希望と生きるエネルギーは常に獣の内外を循環している。
感動についても、人間界で大きな歓喜や感動は得られないが、
日常の些細な事にも小さな感動をし、何もせずとも幸福感がある。

マザー・テレサは、「あなた方の最大の罪は無関心であることです」
と喝破したが、無関心な人々もマザー・テレサの投影である(笑)
獣の世界では、そのマザー・テレサも獣の投影である(苦笑)

それはそうとして、無関心な人間を批判して罪人扱いするのは、
マザー・テレサが真の意味で「愛の人」ではなかったということだ。
愛を説く者が、その反対のことも訴えるようになる原因は、
中心(真の愛)ではないからである。

いつもマザー・テレサを引き合いに出しているが、
別にマザー・テレサに恨みがあるのではなく、
一例として分かりやすい人物像だからである。

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[ 75 ] 深い悲しみ

このレベルは悲しさ、損失、依存に関係する。
人は誰でも一時期このレベルを経験するが、このレベルに固定されると、
人は絶えず続く後悔の中でうつ病のような生活を送ってしまう。
これは、過去に対する悲しみや死別、後悔のレベルである。
人生の早い時期に大きな悲しみを経験すると、
「人生とは悲しみだ」という境地にとらわれてしまう。
「深い悲しみシンドローム」になると、たとえば愛する人を失うことが、
愛そのものを失う事と同一視され、深刻な鬱病や、死の引き金となる事もある。
しかし、「深い悲しみ」は無感動よりエネルギーがあり、
無感動の患者が急に泣き始めると、それは回復に向かっているサインである。


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[ 100 ] 恐怖

「恐怖」は全体主義国家が市民をコントロールするため、好んで用いる制度である。
人間が一旦「恐怖」にとりつかれると、世の中の限りない事象が恐怖の餌食になる。
例えば、関係を失う事への恐怖は嫉妬となり、慢性的な高いストレスを引き起こす。
「恐怖」より高いフィールドに上昇するためにはエネルギーが必要で、
抑圧されている人は助力なしには高いレベルに達することができない。
そこで、恐怖にとりつかれている人は、そこから解放されるため、
自分の恐怖を征服したかに見える強いリーダーを求めやすい。


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[ 125 ] 欲望

「欲望」は、経済も含め人間の高い活動の領域を動機づける。
広告会社は、「欲望」をニーズに結びつけるようにする。
お金や名声、パワーを得る「欲望」が、
恐怖のレベルを抜け出した多くの人の人生の動機となる。
性的アピールの欲望は、化粧品やファッション業界を生み出した。
「欲望」はたえず何か目的に向かうので、飽きることをしらない。
一つの満足を得ても、他の満たされない渇望に取り替えられてしまう。


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[ 150 ] 怒り

「怒り」は、創造または破壊のどちらにも通ずる。
「無感動」と「深い悲しみ」から抜け出して
「恐怖」を乗り越えると「欲望」という意識が出る。
「欲望」はフラストレーションに通じていて、「怒り」に通ずる。
だから、怒りは圧迫から自由へ向かうテコともなる。
社会的な不公平感や処罰などに対する怒りは、
社会構造に変化をもたらす社会運動を生んできた。
しかし「怒り」は恨みや復讐心を表し、爆発しやすく危険でもある。
怒りが習慣化すると、わずかなことにも過敏となり、
喧嘩ばやかったりもめごとを起こす。


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[ 170 ] プライド

プライドは現代人の大方が求めているレベルである。
このレベルに達すると、積極的になる。
自尊心が湧いてくると、意識の低いレベルで経験したすべての苦痛は和らぐ。
プライド意識は、自分の格好よさを、人生のステージで見せびらかそうとする。
一般的にプライドはプラスに評価されるが、意識レベルから見ると、
200の臨界点より低く、ネガティブな状態である。
プライドは優越感に浸っているに過ぎない。
プライドは、外部の状況に依存しているため、受身的で傷つきやすい。
条件次第で突然低いレベルに戻ってしまいがちだ。
プライドは自他を区別するため、派閥争いを招き、プライドのため死ぬこともある。
軍隊は「愛国心」と呼ばれるプライドのため、人を殺す。
プライドのマイナス面は「傲慢さ」と「否認」である。これは人間の成長を妨げる。
感情的な問題や性格の欠陥を認めず否認するからである。
この否認が本当のパワーを得るための大きな障害となっている。


以前から度々書いていることだが、
プライドが高いというのは自我が強いという事である。
獣も昔は強烈にプライドが高かったが、プライドが高いと、
怒りや悔しさに狂いながら生きることになる。

プライドが高いというのは、実際にはプライドが小さいのだ。
今の獣にはプライドがないので、
誰に何を言われても腹が立ったり嫌な想いをすることはない。
相手は自分の投影であり、「自我(感情)は自分ではない」
ということを明確に認識して生きているからである。

そして、自分(真我)が個ではなく、全体であることを知っているので、
プライドがないというより無限のプライド(宇宙意識)と直結している為、
プライドが傷つく(感情に左右される)ということは有り得ないのである。

それはまさに、釈迦が言った「天上天下唯我独尊」の体得である。
そもそも、プライドは分離観念による単なる自我の慢心に過ぎない。

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さて、この「フォース」の意識レベルを見て、
「プライド」→「怒り」→「欲望」→「恐怖」
→「深い悲しみ」→「無感動」→「罪悪感」→「恥」
と、下に行くほど人間性が低劣だということについて、
納得できない人も多いと思われる。

常識的に見ると、「羞恥心」の強い人が最も最低な人間とは思えないし、
むしろ、恥知らずな人間の方が低劣な人間だと言えるだろう。
また、「罪悪感」を持っている人は深く反省している証拠であり、
罪悪感のない人間こそ、人の皮を被った悪魔だと言えよう。

また、怒りや欲望、悲しみよりも「無感動」の方が最低とは信じ難い。
単純な話、プライドが高く傲慢で、怒り狂って、欲望に溺れている人は、
フォースの中でも意識レベルが高いということになる。

ルシファーの堕天神話によると、ルシファーは神の座を奪う計画を立て、
天界で反乱を起こして地上に落されて魔王となった。
これは逸話だが、この話が教えている事は、慢心が最大の罪だということである。
『日月神示』にはそのことがクドいほど繰り返し警告されている。

そう考えると確かに、意識レベルが低いほど悪いのではなく、
意識レベルが上がるほど「悪の力」が高まっていると言える。
これは一体どういうことなのだろうか……。

これはある意味、「マズローの五段階欲求説」と通底するが、
「悪極まって反転する」という理屈で説明することができる。
その反転ポイントが、プライドの次に来る「勇気」なのだ。

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[ 200 ] 勇気

この200のレベルで「フォース」が「パワー」へと展開する。
これは生きることに対してポジティブかネガティブか識別できる臨界点である。
「勇気」のレベルで「パワー」が到来する。
探求、達成、忍耐力、決断力のゾーンである。
これ以下のレベルでは人生は、絶望的だったり、悲しかったり、恐ろしかったり、
いらだたしく見えるのに対し、勇気のレベルでは、
人生は面白くチャレンジするに値し、刺激的であるように見える。
200では新しい仕事の技術を学ぶエネルギーを得ることができ、
成長し、学ぶことができる。
これより低いレベルでは、エネルギーを消耗させるだけだが、
勇気のレベルでは自分が受け取ったと同じくらいのエネルギーを社会に返す。


これは、バシャールが説く「輪ゴムのアナロジー」と同じ原理で、
輪ゴムを闇の方へ強く引っ張った分だけ、それをついに手放す決断をした時には、
それは遥か遠くへ、しかも素速く、反対の方向へと飛んで行くということである。

その為には、今までの人生で形成してきた「自分(と思い込んでいる自分)」
というマイナスの仮面を捨て去り、価値観の大転換の決断と勇気が必要となる。

それは『日月神示』や『聖書』が説いている
ミロクの世(至福千年王国)に至るまでの時代の転換と一致する話である。
体主霊従(フォース)の時代を経て、霊主体従(パワー)が復活し、
その時の自我崩壊という耐え難い葛藤に打ち勝つ勇気と決断が必要なのだ。

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ここで1つ注意しなけれなならないことがある。
まず、「輪ゴムのアナロジー」で言うと、
輪ゴムを引っ張り過ぎて切れてしまったら話にならない。

ルシファーは傲慢で「プライド」が高く、
「勇気」のレベルに到達して革命を起こそうとしたが、
地の底まで転落してしまった。

これはあくまでも逸話だが、聖書がデタラメな神話を書くわけがない。
それについて説明しておくと、この逸話は事実だが、
悪意を持って悪い表現をされているだけである。

ルシファーは霊主体従主義の「国常立尊」である。
従って、天界の神は体主霊従主義の「盤古大神」ということになる。
ルシファーは天使の1/3を率いて戦いを挑んで敗北したが、
その事を『大本神諭』などは「悪神の多数決で隠退を余儀なくされた」
と示されている。

また、「この方、我が強くて失敗した」とも示されているが、
それは「霊主体従=善」の時代から「体主霊従=悪」の時代への転換を意味し、
あくまでも計画的失敗であって、実際に国常立尊が「我が強い」わけではない。

ただ、それを人間に当てはめると、この神話の比喩も無視できない。
「我が強い」というのは自我(体主霊従主義)であり、左脳の働きである。
霊主体従主義は右脳の働きなので「我が強い」などという事は有り得ない。

と思っていたのだが、ネオデジタル内観の山本健二氏は次のように指摘している。

「宗教や精神世界に凝り固まっている人、あるいは、従来の瞑想の達人といわれる人、
霊的とか超能力者といわれる方の脳波は、
たいていの場合エゴまるだしなので右脳ばかり異常なほど乱れた波形になり、
左脳だけがまた異常にリラックスしているというアンバランスな脳波になります」


つまり、「霊主体従」に偏っている人は、
「体主霊従」に偏っている人と同じく「我が強い」ということなのだ。
確かに、精神世界やスピリチュアルの指導者を見れば分からなくもない。
尚、獣の場合は、「反キリスト」というキャラ設定であると同時に、
人類の写し鏡として「人類の自我をポア」する役目なのでご理解願いたい。

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余談が永くなってしまったが、
ブレイクポイントである「勇気」に到達した時に、
自我を強く持っていると転落してしまう危険性があるということである。

自我を強く持ったまま勇気を持てば、
「ルシファーの堕天神話」と同じようになることは明白で、
それは「プライド」の説明に記されていることと一致する。

「プライドは自他を区別する為、派閥争いを招き、プライドのため死ぬこともある。
軍隊は『愛国心』と呼ばれるプライドのため、人を殺す」


これは単なるプライドではなく、捨て身の「勇気」と結びついた結果である。

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そこで最後に、重要かつ興味深い話をしておきたいと思う。

それは、神道教義で「一霊四魂」の荒魂(勇)に与えられている戒律である。

悪に勝つ「進展力」をもつ荒魂(勇)には、その行為が独りよがりにならないように、
常に「恥じる」という戒律が与えられている。
《恥づることを知らずば人は争ひて獣に近き挙動なすなり》


「独りよがり」というのは自我(エゴ)丸出しの状態を指すが、
意識進化のブレイクポイントである「勇気(荒魂の発動)」において、
最も意識レベルの低い「恥」をもって戒めなければならないのである。

但し、他人の目を気にした恥ではなく、正しい意味で恥を知るという事で、
常に内観をして自我を監視していなければならないということなのだ。


「一霊四魂」と愛と怒りの本質と一体性
http://mujaki666.seesaa.net/article/169448232.html
恐怖の消滅と勇気のパワー
http://mujaki666.seesaa.net/article/170414315.html
ラストサムライと大和魂の復活
http://mujaki666.seesaa.net/article/167850411.html



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posted by ZERO at 01:37| Comment(0) | 六六六神示 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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