2012年11月08日

宮沢賢治のベジタリアニズムA

宮沢賢治の話の続きだが、「不食」のメカニズムについての話や
「今ここ」についての話が登場するので貴重な記事である。

元来人類は雑食である。
けれども日本人は、菜食人種とみなされてきた。
日本には大乗仏教が伝来したが、
その戒律書である『梵網書』には一切の肉食が禁止されている。
仏教の伝来以前の神代の時代にも、
肉は穢れているものとして忌避されてきた。

宗教的でなければ肉食忌避の理由は何だろうか。
その最も根本とするのは“命”である。
命を奪わない、生き物を殺さない、
という普遍的な原初の心の在り方を非肉食の実践で表現するのである。

生き物には、人間と動物その他たくさんの種がいる。
そのすべての命を尊重することにある。
ことに、人間の肉食は動物の肉を食べる事だから、
人間が動物に同情や憐れみを持つことが肉食をしない動機になる。
宗教という大義名分は必要ない。個人の心と感情の問題なのである。

賢治の場合もそうだった。
幼い頃から、虐待される動物、解体される牛や豚や馬、
狩猟されとらえられる兎や鳥、それらに同情する動物愛護の精神を、
心の奥深く源泉として持っていた。

その上、殺される動物の命を失う瞬間の悲鳴と呻きをその耳で聞き、
肉体の壊滅とそこからほとばしる血の色をその目で見、
さらけ出された内臓と、屎尿の混ざり合った屍の匂いを、
その鼻で嗅ぐ実体験がある。

それらを通して彼の心の中に、自分の命を繋ぐ食の為に動物の命を奪い、
犠牲にしてはならない、肉食をしないという意志が存在したのである。
自分の園心の存在をはっきりと自覚した時、
21歳の賢治は“ビジテリアン宣言”をしたのだった。
内的に潜在する心を、外的な形にして顕現させる為である。

人間は本来、道を行くものすなわち真理の実行者であって、
「食の器」ではない。
現代文明に欠陥があるのは、道と食とを本末転倒したがためである。
食を元とする為に、人は血を見る戦争をしている。
食より道を貴ぶこと、食から離れて道を行けば道は食と共に栄えるのだ、
と道を極めるにはまず食を捨てることが奨励されている。

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「道」を本位とすると、
消極的な「禽獣生活」と消極的な「人間生活」とは別なものになる。
人間の積極的生活は、あることの為に意義ある生き方をする事である。
そして食物を「方便」とすると、それは「人生の方便」となり、
道は人生の中に置かれ、食はその人生に必要なものとなる。
食を求めるの自己保存の為だから、「食本位」は自我本位となり、
権利意識が発生して争いのもとになる。

人は生存競争を真理とするが、これを延長して弱肉強食とするのはよくない。
「食」はその時や配分の仕方や力の強弱によって常に不平等がともなう。
すると「食」のために「人を殺す仕事」戦争が起こる。
「争い」をなくすには「食本位」の観念を捨てて、
「道本位」の観念に改めるほかはない。

人は「道」の人であるが故に、何でも道のために生きねばならぬ、
その生のために食は必要となる。
自ら求めずとも、天地の自然もつつしんで、これに食を献ぜねばならぬ、
「人が養わねば天が養う」とはこれだ。
「食」を振り出しにして又「上り」にしている「食本位」の成れの果ては、
生くべき食の為に、遂に死んだり殺したりする迄の滅亡性を持っている。

このパラグラフだけを独立させて取り上げてみると、
これはそれほど特異でも奇態でもない考え方である。
むしろ、ベジタリアニズムの根源的な思想である。
人はだべる為に生きるのではなく、生きる為に食べるのだ、
という一般的な言い方にも当てはまる。
そしてここには、古代ギリシア・ローマ時代のベジタリアンたちが夢見、
そして後世の西洋のベジタリアンたちが希求した、
“黄金時代”がおぼろげながら浮かんでくるのである。


自然がもたらす穀物や木の実などの、菜食中心だった黄金時代では、
生き物の生命を奪い取り、それを食べることは大きな穢れだったから、
空飛ぶ鳥も地に這う動物も水の中の魚も命を奪われることはなかった。
だから、生き物はなにも恐れることはなかったのだ。
善と正義が自ら守られ、人を縛る規則も押しつけの講釈もなく、
食物や奪いあう争いは起こらないので、安全で平和が満ちていた。

国柱会は田中智学という日蓮宗の在家仏教者が設立した仏教団体である。
田中の言説に賢治が出会ったのは、法華経信仰と菜食主義の、
高揚した状態のときだったのだろう。
そして田中が創刊した『天業民法』を購読したが、
その同年11月号から、賢治の食の考え方の手がかりが得られるのである。

『天業民法』の読者が、宗教の枠組みのなかった黄金時代の理想のように、
大らかで自由さをもってこれを読んだとは思えない。
特に、誠の道を行こうとしている感受性の強い若者が読んだなら、
食することは恥か罪であると思ってしまうだろう。
そして賢治も、そのように感じたのではないだろうか。


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食を霊化する

「食物本位の見解」の節で田中は、「道」は人生の中心を成し、
その道のための人生に必要なのが「食」であるから、
勿論、「食」を無視するのではない、「食」を霊化するのである。

「道本位の生活は食を無視すに非ずして食を霊化するなり」
食を否定する田中だが、食を霊化すれば「道本位」に抵触しないという。
そして「食を霊化せずして食に汚された累された祟り故」に、
殺し合いによる流血があり、人は眞智の獲得も安住も得られないという。

「道」を行く者は食を霊化して食しなければならないのだ。
ここが肝心なところだが、他中の著書にはその答えはない。
そこで考えると、霊化の前にまず成さなければならないのは浄化だろう。
動物の肉には一般的にも霊的にも、穢れの観念が持たれる。

宗教的にはキリスト教や仏教や神道でも、
人間の肉体を神の宿る神殿と考え、
その神殿には穢れたものを入れてはならないとする。
穢れた食物とは、動物の肉であり、酒や珈琲、
ニンニク、ニラ、ネギなどの刺激物である。
清い食べ物は刺激物以外の植物性食品である。
穢れた食物をとらないことによって肉体は浄化するのだ。

錬金術、心霊術、神智学といったオカルティズムは菜食を採用するが、
それは動物の肉を体内に入れる(食べる)と、
動物の邪悪な霊が体内で再生するからだと考えられるからだ。
また、ヨガなどの健康法からも、“穢れた肉”は避けられる事が多い。


ニンニク、ニラ、ネギ、タマネギなどは、精神にも有害なので控えた方が良い。

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食を霊化するには菜食をすることがその第一歩と言えるだろう。
だが、菜食をしただけで、食が霊化すると言えるのだろうか。
もともと霊は、言い換えれば魂や精神という不可視の実体である。
食を精神的な実体に変えるとは、どういうことなのだろう。

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、聖書の
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただの一粒のままである。
もし死んだなら豊かに実を結ぶ」
を引用し、収穫を、“霊的な死”に喩える。

麦の種はいったん大地に埋葬され、それから実り、脱穀されて製粉され、
パンに作られて食べる人にエネルギーを与える。
このエネルギーをヴェイユは、“植物エネルギー”と呼んでいる。
食がエネルギーに変わること、それを霊化すると言えなくはない。

仏教では断食はもちろん、修行僧が五穀を断ち、次に野菜を断ち、
果実だけで修行する行がある。
この植物エネルギーによって僧が悟りや仏性を得たりするのなら、
これもまた食が霊化したことになるだろう。

宗教的でない一人のベジタリアンとして私見を述べるなら、
食物は人間の体の一部となり、肉体生命が維持され、
運動をし、思考をし、感情を持ち、
活動をするそのエネルギーのもとであるから、
その人から放たれる“気”となるのだと思う。


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科学的に言えば、太陽から発せられるエネルギーは植物に降り注ぎ、
葉緑素によって穀粒や果実、すなわち植物の中に集められ、
それを食べる人間の体内に入る。
そしてエネルギーすなわち“気”として排出される。
これを「太陽エネルギーの循環」と名付けたのはヴェイユである。

したがって、浄化という概念を離れても、エネルギーすなわち
“気”に変えられるのは植物であり、動物の肉ではない。
しかしエネルギーは植物や食物からのみ得るのではない。
呼吸に必要な酸素は大気から得る
(その酸素を合成するのは緑の葉をもつ植物であるが)。

水もまた、人間の生存のために必須のものである。
水は雨から得られ、雨を降らせるのは雲である。
人間は、太陽を始めとして、宇宙の生成物から食を得て、
それを気に変えているのだ。
それが体内で気となる時、それは霊化されたと言えるだろう。

『注文の多い料理店』の序にあるように、
きれいに透き通った風を食べ、美しい朝の日光を飲むことは、
先に述べたように抽象的なことではなく、酸素を吸収し、
太陽エネルギーを体に取り込むことである。

私は毎朝、太陽に向かって瞑想しながらその光を口から吸い込んでいる。
すると体内にエネルギーが充満し、体内が温められてくることがわかる。
それは、今ここに生きていることを実感することでもあり、
その喜びにに何にともなく感謝をするのである。
風も日光も、浄化や霊化をされる以前に、既に清浄で霊的な食べ物である。


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「太陽エネルギーの循環」という言葉が出てきたが、
これはまさに獣が実感する「愛」そのものである。
万物に平等に光と熱を与えて育成している太陽は、
まさに「愛」としか表現できないであろう。

王仁三郎はこう言っている。

「神の実証は太陽である。太陽に神力を集中しておられるから」

神を「愛」と表現するならば、太陽はまさしく「神」である。
獣は霊体で、太陽としか思えない世界に行くことがあるが、
そこは大歓喜に満たされた光の世界である。
光の波動に包まれて歓喜を感じているのだが、
その歓喜を発することも歓喜なのである。

分かりにくいかもしれないが、光の波動は喩えようもない愛であり、
その愛に包まれて全身に満ち溢れて魂が打ち震え、
歓喜を発することは、受け取った愛を再び外に発することでもある。

ただ歓喜に浸っているだけなのだが、
それは「太陽エネルギーの循環」という言葉が相応しい。
それが獣が言う愛であり、真我が発しているエネルギーである。
人間は太陽によって生かされているが、厳密に言うと、
太陽エネルギーによって心臓が動かされているのだ。

心臓は心の臓と書くが、その心の奥に魂(真我)が宿っている。
正確に言うと、心臓は魂の中継地点であり、その投影が太陽である。
太陽と魂(内なる太陽)は合わせ鏡のように愛を反射し合っており、
それが認識できるようになってくると食事が不要になってくるのだ。

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聖なる食品の一つとして賢治が考えるのは、水と塩である。
水と塩は宇宙の中の元素としてあり、
一般的にも神聖視されるが、賢治は特にこの二つを重んじた。
水と塩こそ、生物の存在に最低限必要な要素である。

(塩をたくさん食べ/水をたくさん飲み/塩をたくさん食べ/水をたくさん飲み)

この塩と水も、人間が体内に入れる透き通ったきれいな食べ物である。
とくに塩は、古今東西の文化で清いものとされている。
ピタゴラスは、塩は太陽と水から作られた最も純粋なものであり、
塩を入れたものは腐らないからとして尊重したという。

『ビジテリアン大祭』の論争で肉食者は、
動物と同じように植物も生きているから、
動物を食べないなら植物も殺すな、食べるな、そうするにはまず
「水と塩だけ」をとれ、とベジタリアンにせまっている。

そして生存に不可欠な空気とともに、水や塩は動物でも植物でもなく、
分子の融合した化合物と鉱物だから、血を流して命を奪うことなく、
殺すことなく、それを食物とすることができるからである。

賢治が自然を食べ物に見るもう一つの場合は、幻視である。
彼は常にいつも空腹である。
いつも大して食べないから満腹感をもつことがない。
だが、空腹であってもどうということはない。むしろ気持ちがいい。

絶食や断食をしてみれば分かるが、
体に外部から余分な物が入らないということは、一種の快感である。
腹に残っていたものがすべて外に出されると、体には清浄感が残る。
常に自然や聖なる物と交歓している賢治であれば、
いっそうそれは喜びとさえなるだろう。


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水と塩は神棚に供えるもので、人間にとっても基本的な二大要素である。
医者から塩分や水分摂取を控えるように指示されている人は別として、
現代人は塩分と水分の不足で病気のオンパレードとなっている。

現代病の多くは、陰性でミネラル不足という特徴がある。
陽性でミネラルが多いものと言えば「塩」である。
ニガリの少ない塩を多量に摂取することで殆どの病気は消え、
高血圧も改善したという事例も無数にあるようである。

塩分は摂り過ぎると喉が渇いて水を飲むようになっているので、
多少摂り過ぎても問題ないのである。
また、多くの病気は便秘(腸内異常発酵)と血液循環障害が原因でもある。
それによって発生する活性酸素が遺伝子に傷をつけることで発病するのだが、
積極的に水分摂取をすることで便秘や血液循環障害を改善することができる。

代謝が悪くてむくんでいる人の場合は、
塩分と水分の摂取量を増やすとますますむくんでしまうが、
代謝機能を高めながら塩分と水分を徐々に増やしていけば問題ない。
水は活性酸素水が望ましいが、人間は水と塩で生きていける事を思えば、
食事をするにしてもそれだけ多くの水分と塩分が必要だと分かるだろう。

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posted by ZERO at 05:22| Comment(0) | 食育革命と超人進化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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