2012年11月08日

宮沢賢治のベジタリアニズムB

ベジタリアニズムの思想について、もう少し知って頂きたい。

植物は、人間や動物の食べ物として、地球が与えたものである。
やがて人間は、与えられた物から再び同じものを作り出す
植物の栽培を食物調達の方法として知った。
それは命を奪うのではなく、命を生み出すことである。
動物は植物の命を、食べるという行為によって体の中に入れ、
新しい命として再生するのである。

一方の動物は、人間に食べられる為に存在しているのではない。
彼ら自身の生を生きるためである。
動物を食べることは、生きている命を暴力的に奪う事から始まる。
動物が肉にされた時、それはすでに死している。
それは「命を与える」に反して、命をとられたものである。
それを食しても命の再生にはならない。

家畜が飼われ、農耕社会が出来ると、家畜と土地、
生産物と労働力の“所有”が起こり、私有財産制が発生する。
すると所有物の奪い合いが起こるだろう。それは戦争を起こす。
古代ギリシア・ローマの文人が、肉食以前の菜食の黄金時代は、
戦いのない平和な穏やかな時代であったが、
肉食が始まったことによって戦争も起こった、としている。

ディオゲネスは「戦争と略奪を生むのは穀物食をする人々ではなく、
肉食をする人々が暴君と支配者を生み出すからである」と言っている。
だから理想的な社会では、戦争の起因となる肉食は避けられるだろう。
肉食と戦争の相似あるいは繋がりについて考察する人々は多い。
肉食は動物の死であり、戦争は人の死である。
どちらも理不尽に殺される。賢治もそれを直感していた。

戦争に行きて人を殺すと云う事も殺される者も皆等しく
法性に御座候、牛が頭を割られ咽喉を切られて苦しみ候へと、
戦争について語っていた場面から突然何の脈略もなく、
屠畜場と解体される牛のイメージと感情を転化させている。
これは人が殺される戦場と、牛が殺される屠畜場とが
ピッタリ重なり合っていることである。
動物を殺す事は人を殺す事に繋がっていると暗示されているのだ。


自分が直接的に動物を殺していなくても、それを食べれば同罪である。
一般的に、多くの人は、自分で育てた牛や豚を殺して食べれないはずだ。
人の手によって家畜が食肉にされ、
皆が普通に食べている為に感覚が麻痺しているのである。

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理想的な国家、社会とは、そこに生きる人々と動物が、
自由をもち、平等であり、幸せになる権利を有していて、
それがきちんと順守されている平和な世界だろう。
フランスの作家ジャン・ジャック・ルソーも、
人間の自由と平等とベジタリアニズムを連携させて考えた。

ルソーが理想として想像する人間の自然状態では、
生存に第一に必要な食物は、樫の木が落とす実と水でよい。
自然人は動物の同胞であるから、動物の肉は食べず、
森の中の動物が分け合って食べる果実の食物を、
自分たちもそのまま食べていた。

もともと人間は果実食をする動物の食物と類似しているので、
彼ら動物の食物を人間が食べることは可能なのだ。
肉食動物は獲物を争って闘争を起こすけれど、
果実食をする動物はそれを分け合い、平和に暮らしている。
だから、自然な生活状態の中では不平等は起こらない。

改革された人間、すなわち肉食を棄てた人間が世界を作ると、
そこでは自然も変えられ、動物にとって人間にとっても、
殺戮のない平和な社会になるのだ。
シェリーは「人間の肉体的道徳的堕落は、
その生活の不自然な習慣に基づいている」と考える。

肉食という不自然な食生活は、個人の肉体ばかりでなく、
社会的な害毒をももたらすから、様々な悪の根を断ち切るには、
その根となっている食事を変えることが必要である。
食生活を非肉食のシンプルなものに改革すると、
その変化は政治や経済に顕著に及ぶから、
「食生活の改革の利点は、明らかに他の改革も大きい」。
肉食から採食への転換は社会を改革すると力説している。


食事改革が大きな社会変革の柱になる事は間違いない。
それを実現するのは、自分の決断と行動から始まるということだ。

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社会的な見地からベジタリアニズムを採用する者は、
他者の飢餓に対して強い関心をもつ。
自分一人だけが満腹でいても他の人々が空腹で飢えているなら、
決して自分は幸福には思われないからである。
世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福は有り得ないと考えるのは、
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化するからである。

飢餓に対する一つの解決策が、肉食をせずに菜食をすることなのである。
第一に、人間の生存のため、体の栄養として動物性食品は必要ではない。
第二に、1人分の肉を生産するためには、
十人分の穀物を飼料として肉とする家畜に与えなければならない。
肉食をしなければ、肉になる一人分の穀物の食糧は十人に行き渡る。

現代でも、地球のあちこちで飢餓飢饉は発生し、
世界中で多数の子どもたちが死んでいる。
人為的な戦争、温暖化による天候不順、冷害と早魃、地震、洪水、
火山の爆発――私たちこそ、一人のブドリを求めなければならないのだ。

だがその前に各人一人一人に出来ることがある。
それは肉食の放棄であり、菜食である。
十人分の穀物を食肉にして一人占めするのではなく、
もてる社会からもてざる社会へ循環させるようにしなければ、
豊かな理想的な世界、イーハトーブは存在しえないだろう。

弱いものが肉という食べ物になり、
強いもの――物理的な力と権力、そして経済力のあるもの――
の食糧として食べられてしまう。
文字通り弱肉強食のシステムは、黄金時代でない限り、
いつの時代でも消費しないで存在する。
理想的な社会を考える人々や賢治がなくそうとしたのも、
そのようなシステムである。

人類の楽園は、動物の楽園なしには築くことはできない。
人も飢えず、動物も飢えず、菜食でもってみんなの心を
平和にして正しく愛し合うことのできる個人と社会、
そして戦争のない世界を創出して永遠の平和をもたらすことは、
人類の永久不変の理想であり、課題であるだろう。


肉食をしながら「ポジティブな世界」に行けるとしたら、
それは肉食と云うものに対してあまりにも無知だと言える。
畜産が社会に与えている影響や、自分が何を食べているのか、
という根本的なことを真剣に見つめ直して考える時期である。

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私はベジタリアンをその精神(テーゼ)から二つに分けた。
一つは「同情派」で、あらゆる生命を惜しむことから動物の肉を食べない。
もう一つは「予防派」で、病気を予防するために肉食をしないとする。
次に私は、ベジタリアンを実行の方法から分ける。
動物質のものは一切いけないと考える「絶対派」。
乳製品や卵は、動物の命そのものを奪わなくても得られるから、
それは認めるという、穏健な考え方をする「折衷派」。

自分の主張を通して他人に迷惑をかけるのではなく、
仕方のない事情の場合には動物質を食べる。
あるいは天敵となる動物だけを食べるが、
必要な時には自分の命も差し出すという考え方をする「大乗派」。

重要な点は、ベジタリアンの中でも病気の「予防派」ではなく、
「同情派」の主張に論点を置くことである。
人間個人の肉体、人間の生命だけを重視する菜食ではなく、
他の全ての生き物の生命を重視したベジタリアニズムで、
肉食か菜食かの議論は、倫理や道徳観に基づいたもので終始する。

次は比較解剖学からの反論である。
人間が雑食である証拠は歯の形状にあり、
菜食のための臼歯と肉食のための犬歯の両方があるからだ。
人間の三十二個の歯のうち四個が犬歯、二個が臼歯、
残りが門歯と智歯(生えない場合もある)。
それに、犬歯のことを糸切り歯という。
それはもはや肉を切るのではなく、木綿の糸を切る為の歯なのだ。

これに加えて良く論争されるのは腸の長さである。
人間の腸は長いから菜食に適している。
この説を強調するのがルソーとシェリーである。

ルソーは、乳房の数に対して特異な見解をもっている。
菜食の雌は自分を養うのに時間が掛かるので乳は少しずつしか出ず、
多くの子を育てられないので乳房は二つしかない。
肉食の雌は短時間で食べ多量の乳を出すので、多数の子を養える。
だから乳房は六つ以上ある。
人間は乳房が二つしかないので菜食である、というものだ。


獣は「予防派」を否定するつもりはない。
自分の心身の健康を追求することは重要であり、
それが社会変革の基礎でもあるからである。

一方の「同情派」については、ある意味で反論がある。
可哀想だから肉を食べないという理由は理解できるが、
肉料理を出されて食べなければ捨てられるとなるとどうなのか。
無駄に捨てられるのが可哀想だから食べるという理屈も成り立つ。

畜産は非人道的で残酷である為、それに対抗する為に食べない。
そして、自分の心身の健康のためにも食べるべきではない。
そのような思考でなければ偽善的なフレーズになってしまうだろう。

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紀元一世紀の文人プルタルコスは、
人間の身体の構造は肉食動物と同じでないのだから、
肉食に適していないとしている。
唇は曲がっていない、歯はギザギザしていない、爪は長く尖っていない、
腸は張りがなく、重たい肉を消化吸収する力がないからである。

雑食である人間は、肉食放棄することは可能だろう。
雑食と言っても、その割合は植物の方が格段に多い。
原始時代の人間は、人類の祖先である類人猿同様、
森の中で食料を探し求めて食べていたが、
それにはまず、目につきやすい明るい色の甘い果実だった。

ことに東洋人は現代人でも、五十年前までは、
食物カロリーのうちの70%以上は植物性からとっていた。
栄養的にも、動物性の栄養素は植物性のみでもまかなえる。
すると雑食のうち、少なくとも肉食をやめても問題ないだろう。

和辻哲郎著『風土』によれば、
海に四方を囲まれた日本に適しているのは漁業である。
だから日本人は魚食をする。
人間は風土が産する物を食べるのが最も適しているので、
食を決定するのはイデオロギーではなく風土である、と。

だがベジタリアンはイデオロギーだから魚を食べないのだ。
魚も動物と同様に考え、その命を奪わないためである。
ベジタリアニズムの命の観点からすれば、魚を食べないのが正当である。
賢治は肉ばかりでなく、魚も食べないようにしていた。


『大本神諭』が降ろされた時代は、魚は認められていたが、
『日月神示』では魚も臣民の食べ物の対象外となっている。
海洋汚染による魚の毒性の問題も大きいが、生命の尊厳の立場から
とくに中魚や大魚を食べることは控えるべきだろうと思う。

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私たちが生きられるのは酸素を吸うことによるが、
同時に空気中にある様々なバクテリアも一緒に吸いこんでいる。
それを避けるために口を布で覆うのが、
厳しい菜食を教義とするインドのジャイナ教徒だ。
彼らは水野中の微生物を救うために水を濾して飲む。

私は「バクテリアを殺すことは馬を殺すのとは非常な違いだ。
仕方ないのだ。だから私たちに備わった感覚器官と知覚作用の状態や、
私達にもたらされた条件の中で菜食をしたいのだ」と言う。

トルストイは、しばしば起こるこのような問題について、
「人間は全く他の動物に死を与えずに生きてはいけない。
だがこれを憐れむことはできる。
人間の努めは出来るだけ完全無欠に接近する事だ」と答えている。
他の生命を無駄にしないために私たちができるのは、
最低、肉食をしないことなのである。

リシャールの菜食主義の理屈その一は精神主義的なものである。
「生命は即ち神です。生命は全て神に似せられて創られたものです。
文明人がなぜ動物を食う事を許されるのです、少しも正当の理由がない。
もし理由があるとすれば、それは摂りや魚や獣は言語をもって
人類の無道を責めないからという理由の外にない」。
「人間間においてのみの道徳を重んじて神の王国たる生命の世界に
許すべからず不道徳を行なうことが文明でしょうか」

けれどもこの理由だけでは平凡だとして、次の理由を加えた。
「理由なしに軽微な自分勝手な理屈によって他の生命を奪うことが
一番いけないというのです。
もし正常な必要があれば、一向差し支えないのです」
人類は万物の霊長であるから、人の命は何を犠牲にしても
保護されなければならないと、リシャールは考える。

だから「もし他に食物がなくて、やむを得ない場合は、
人は何を食べたって……人間を殺して食っても差支えないと思います」。
それほどの自由のある人間が、理由なしには虫一匹の命も蹂躙しない事が、
「本当の人間の生命の道徳」だと彼は考える。


飢餓で生命の危機に瀕している時は、人間の死体を食べることもあるだろう。
それを異常だと感じるなら、動物の死骸を当たり前のように食べていること、
それに対する罪の意識がないことの方が異常だと言えるのではないだろうか。

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利己的な理由で生物を殺すこと、
食物にするのが目的で生物の命を奪うことは、
生命道徳の最も著しい「反逆」である。
神である生命を人体の中に消化するのは、
「神と神との闘争を人体の中に惹起すことである」。

このような恐ろしい呪われたことを習慣的に行なうのは、
人類の堕落であり退廃である。
だが、強大な理由から絶対に必要な時のみ肉食は許される。
「豊富な栄養分をもった食物があるにもかかわらず、
数多くの不便と不経済と、不自然とに対抗して
強いて生命の罪を犯し神の反逆者となって動物を食物と
しなければならない人類は憎むべきではないでしょうか」

生物学的研究では、科学的にも人類を菜食主義者にする。
動物性植物から得られる要素は、
全て植物性食物からも豊富に得られるからだ。
肉食偏重は必ず病気を引き起こす。
「意識感覚をもって神の形に造られた動物の生命は、
食物として見るべきではない」。
肉食をやめることは「単なる形式でもない、因習的制裁でもない、
精神的にも物質的にも重大な改造を行う力強い文化人の主張です」。

ベジタリアニズムの古い思想とは、
菜食の発想と実践が、伝統的な宗教の戒律に基づく生命観、
そして人間の自己の身体の健康と長寿への願望からである。
そこでは、肉食の不利または菜食の利点が、
一個の人間の内側の範囲にしか及んでいない。

だが賢治の、そして今から未来に続く新しいベジタリアニズムの思想は、
菜食を一人の人間の利点ではなく、この地球に存するすべての人類、
すべての動植物、全ての自然――
つまり全地球、全世界の平安と幸福に機能させることなのである。

この半分の飽食と半分の飢餓の地球、病床にある地球、
戦争と殺し合いで愛する人々を失っている人類、
肉食と虐待によって生命と種を奪われている動物の、
この崩壊しつつある世界を再生する一つの手段とする事である。

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個人の肉体のためだけの利己的な菜食ではなく、
その肉体を成り立たせている様々な要素を社会的な観点から考え、
それを推進する“他者的な”菜食に重点を置いたものである。

「菜食はみんなの心を平和にし互いに正しく愛し合う事が出来るのです。
戦争どころじゃない菜食はあなた方にも永遠の平和をもたらして……
人類の仲間からと哺乳動物組合、鳥類連合、魚類事務所などからまで
勲章や感謝状をたくさん贈られるわけです。
お分かりになりましたらあなたもビヂテリアンにおなりなさい」


「ミロクの世」で畜産や肉食が行なわれているとは考えられない。
新しい世界を創るなら、従来の食体系の改革は原点となるものである。
世界平和の実現も環境問題の解決も、根本的には自分の内面の問題だが、
それを形に現した第一歩が「肉食の放棄」という行為となる。

精神と食の関係を考えると、意識の浄化の為にも肉食は避けるべきである。
つまり、食事改革のためには意識改革が必要だが、
意識改革の為にも食事改革は必要で、内観と食事改革は切り離せないのだ。
その原点を無視して、動物愛護や環境問題、反戦などを謳ってみても、
何の改革にもならないことは火を見るよりも明らかなことである。

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posted by ZERO at 20:00| Comment(0) | 食育革命と超人進化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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